2023/02/23

1673【未来へのバトン】熊本の歴史的都市生活空間を次世代へ継承するNPO活動がすごい

1993年撮影 旧第一銀校熊本支店

 上の写真は、わたしが1993年に熊本市内で撮った赤煉瓦ビルである。1919年に旧第一銀行熊本支店(設計者は西村好時)として建てられた。この時は「熊本中央信用金庫」の看板がかかっている。

2022年 PSオランジェリ (「未来へのバトン」よりコピー)

●NPO熊本まちなみトラストの活動記録が来た

 そして先日送られてきた熊本市のまちづくり活動団体のNPO「熊本まちなみトラスト」(KMT)による冊子「未来へのバトン」(2023年)に、上の写真のような現在の姿が載っている。「PSオランジェリ」の名で民間企業の施設として、立派に生きて使われている。

 その冊子には、この建物の二つの写真の間におきた社会変動や地震災害(2016年)による取り壊しの危機をくぐりぬけて、継承に成功した市民活動の歴史が語られる。
 そしてその保全と活用の活動は、ひとつの建物から複数へ、そして地域まちづくり活動へと、熊本市中心街全体にわたる歴史的な生活空間の保全と活用に展開する。これは日常生活空間の記憶を未来への継承である。

KMT活動年表の一部
 
 その多様な歩みの報告を見ることができるが、それらはこの建物の様に成功したものもあれば、あえなく消えたものもある。熊本市の中心部の歴史的な生い立ちと経緯を踏まえつつ、次の世代に街を継承していこうという、市民の自発的な活動である。

 NPO設立からちょうど四半世紀、そのまえの任意活動団体時代も入れると、37年も続いてきている。その25周年記念誌が、事務局長の冨士川一裕さんから送られてきた。A4判でカラー刷り、100ページ近い立派な書籍である。
 記念誌のタイトルは「未来へのバトン」とある。まさに記憶の継承」を基本コンセプトにする、このNPOの人たちが愛する歴史ある熊本の街を、豊かな形で次世代市民へ手渡していこうという、活動の心根がこもる言葉である。

 その活動について大勢の活動参加者たちが文を寄せている。城下町の生活と生業を支えてきた歴史ある都市空間を、時代に対応させつつ生かして、次の世代も使っていくことができるように伝えていこうと、その当事者として動いた市民たちの寄稿である。
 特に熊本市は2016年に巨大地震で、次世代に伝えるべき都市の歴史や生活資産の多くが被災したために、その継承に多大多様な活動をして困難を乗り越えた貴重な体験を持っているのが、大きな特徴である。そこにはそれまでの20年にわたる活動の蓄積があったからできたのであろう。

 都市の歴史的資産の継承に、いわゆる伝統文化保存の面からだけではなく、都市生活の継続という面からも評価して取り組む活動がすばらしい。都心市街地における保全と再開発の軋轢は、古くて新しい問題であり、このNPO熊本まちなみトラストの活動の動きが、全国各地の先導となるものであろう。

冨士川さんからの送り状と25年記念活動振り返り講演記録のページ

 この記録集が上梓された裏には、活動の資料をきちんと整理保全していた冨士川事務局長の努力とその能力がある。それこそが記憶の継承の基本である。

●冨士川一裕さんとわたし

 さてこの冊子を送って下さったのは、KMT事務局長の冨士川さんである。ここからはわたしと冨士川さんと熊本をめぐっての回顧譚である。わたしの覚書として記しておく。なお、わたしは富士川さんよりも一回り年上である。

 冨士川さんは都市計画家である。実質的にはこのNPOをとりしきって来られた大番頭さんらしい。修業時代の後は生まれ故郷の熊本に腰を据えて活動して来られている。わたしはその地域密着主義に大いに敬服している。
 同じ都市計画家として私は根無し草で、冨士川さんのように生まれ故郷の地域に足を付けて活動しては来なかったので、彼を畏敬し、引け目を感じている。

 実は冨士川さんとわたしとは、時期は違うが若い時の数年間を、藤田邦昭さんという同じ師匠のもとにいたことがある。日本の都市再開発の草分けであった藤田さんは、まさに地域に入りこみ、地域の人々とひざを交え語りこむ地域第一主義の人であった。弟子の端くれのわたしもそれを心がけたが、冨士川さんには及びもつかない。

 わたしは冨士川さんとはいつから知己となったか、覚えていないほど老いてしまった。そこでPCの中の写真ファイルを探したら、1993年6月が熊本で最初の撮影で、冒頭はその1枚である。それが初めて熊本訪問であったようだ。
 その後にも96年と98年に訪ねているので、3回とも冨士川さんに世話になっているはずだ。どんな用事だったか当時のメモ手帳を繰ってみた。

 93年は熊本には九州の他の地から(臼杵、久木野など)の寄り道であって半日いただけだから、冨士川さんには会っていないかもしれない。会っていれば初対面である。
 だがこの時に、この冒頭に載せた赤煉瓦建物の写真を撮っている。記念誌の冊子によれば、この保存問題に取り組み始めたのは97年からとあるが、それは冨士川さんの案内であったからだろうか。当時は単に美しい赤煉瓦建築だから撮ったのだろうか。

 メモ手帳によると1996年5月と6月に熊本訪問しており、どちらも1泊して冨士川さんと会っている。
 6月には熊本ファッションタウン協議会の講演会に、冨士川さんと一緒に参加している。「ファッションタウン」とは、そのころ経産省と国土庁の政策の中に、産業振興計画(ものづくり)と都市計画(まちづくり)を融合して地域振興を行おうとするもので、「ものまちづくり」とも言った。全国のいろいろな都市を対象に調査計画を策定していた。熊本市もその一つであり、冨士川さんもわたしも関係する委員だった。

1996年5月23日撮影 住友銀行 現在は民間企業施設として保全再生

 この時は打ち刃物職人の街・川尻にも案内してもらった。伝統的な職人町は伝統的な町家の連なる景観で、これは熊本ファッションタウンそのものだと思った。今も川尻はその伝統が続いているのだろうか。
 ファッションタウン計画を策定して進めようとした都市は、熊本、今治、倉敷(児島)鯖江桐生、墨田区など多くあったが、多くは目に見える成果は少なかった。むしろ各界の市民参加の計画策定の過程そのものが地域振興活動であった。産業政策と都市政策の融合はむつかしい。熊本はどうなったのだろうか。

 98年1月の熊本訪問は、「まちなみ・建築フォーラム」という雑誌の編集者として、冨士川さんに取材したのだった。古町の街づくりについて記事を書いてもらった記憶があるが、手元にその雑誌が見つからない。
 その雑誌は、創刊から5号まで発行して休刊した。建築とまちづくりを融合した専門誌と一般誌の中間雑誌にしたかったのだが、失敗した。その原因は、専門家船頭が多すぎたことで内容が専門的な方向になりがちで、一般読者を得られなったことだと私は思う。

1998年1月17日撮影 清永産業 地震被災後に修復保全再生

1998年1月17日撮影 富重寫眞所 現在もあるのか

 その後はわたしは熊本に一度も行っていないが、冨士川さんとは日本都市計画家協会の共に理事としての付き合いは続いた。その2021年の協会主催の全国まちづくり会議を、冨士川さんは熊本に誘致して開催したが、その手腕と意気込みに驚嘆した。

 冨士川さんは最近はカフェ「雁木坂」のマスターになり、ますます地域との密接な関係を築くべく空間を創出して、日常としてのまちづくりへの歩みを進めているようだ。
 実は、私と彼とはもう10年以上も会っていないが、フェイスブックを通じて氏の日常をなんだか知っている感がある。同様に氏もわたしを知るに違いない。
 私は横浜都心隠居して約10年、足腰維持のために街を徘徊して眺めるだけの日々である。冨士川さんの活動を自分のものとして勝手に置き換えてみる楽しみがあり、フェイスブックを今日も開く。

 ところで、ここまで書いて気がついたのだが、冨士川さんは霞を食ってNPO活動に身を捧げてこられたのではあるまい。あ、もしかしたら大富豪だろうか。
 冨士川さんは熊本に根差す都市計画家として建築家として、人間都市研究所主宰者としては、どんな仕事をなさってきているのだろうか。それをほとんど知らないし、ネットにも情報がない。それを知りたい、そうだ、熊本に生きる都市計画家として本を書いてもらいたいものだ。

(20230223記)
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