懐かしや、小泉内閣の時にそのブレーンだった伊藤滋さんが音頭を取って、構想を練っていたのを思い出す。
2017/07/22
1276【日本橋首都高撤去話】懐かしや、またぞろ登場、でもねえ、高度成長開始期日本記念碑としてここだけは保存してはいかが?
懐かしや、小泉内閣の時にそのブレーンだった伊藤滋さんが音頭を取って、構想を練っていたのを思い出す。
2017/07/17
1275【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド7】明治建築を再現したんだから次は丸の内に昔あって今は上野にある江戸大名屋敷黒門を連れ戻しましょうよ
●1丁倫敦メインストリート馬場先通りの景観
さて、三菱1号館美術館の南側の通りは、江戸城の馬場先門に続く通りなので、
馬場先通りと呼ばれています。実は丸ノ内でこの通りこそがメインストリートだったのです。三菱地所がロンドンの街を真似して作って、赤レンガ建物が軒を接して立ち並んだ景観は、「1丁倫敦」と20世紀の初めに謳われたのでした。
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馬場先通り一丁倫敦を西に見る景観 右手前が三菱一号館 |
2017/07/11
1274【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド6】丸の内に40年ぶりに浦島太郎が美術館になって戻ってきた理由はなんだろうか
【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド5】からのつづき
●三菱一号館再現登場の意義を考える
さらに三菱1号館独断偏見ガイドを続けます。
低層建築の「三菱一号館」を壊したのが1968年、その跡地に建てた高層建築をまたもや壊したのが2006年、そしてその跡地に登場したのが低層建築の「三菱1号館美術館」です。
19世紀末の建築である「三菱一号館」という浦島太郎は、あたりの風景を見てさぞや、ビックリしてるでしょうね。
どんな玉手箱を持って返ってきたのか気になって見れば、なんと乙姫様はものすごい箱をもたせてくれましたねえ、超高層の丸の内パークビルという巨大な箱ですよ、え、まさかあれを開けたら、白い煙が出てきてあたり一面を燃やす、つまり関東大震災再来ってんじゃないでしょうね。
この美術館を設計して建てたのは三菱地所ですが、昔のコンドル設計の三菱一号館とソックリに作ったのだそうです。単に見た目の姿だけじゃなくて、煉瓦造、木造屋根などの作り方も昔のままにしたとか、ご自慢です。
ご自慢の中でもその赤レンガ、その数なんと230万個、昔風の焼き方するには日本じゃ無理とて、中国で手づくり生産、そしてレンガ職人が一個づつ積んだそうです。
でもさすがに昔の設計のままのレンガ造では地震で倒れるので、地下に免震構造を設けて、建物をゴムの上に乗っけている。まあ、地面が揺れても関係ないように浮いているんでしょうか。
もちろん美術館として使うためるには、昔は無かった階段とか冷暖房設備とかが新たにくっついていますし、内装も2階はぜんぜん違うそうですから、完全に昔そっくりではありません。しかし、それにしてもよくやるもんです。
そんな努力して昔そっくり再現をしたのは、三菱地所にどんな意図があったのでしょうか。
三菱地所の再現担当のお方に、トップから昔の三菱一号館を再現建築しろとの命が下ったのだそうですが、じゃあ、なぜそのようなことをやろうとトップは思い付いたのでしょうか。
もちろん三菱一号館が、三菱地所の丸の内不動産事業の出発点の記念建築だったことがあるでしょう。かつてそれを保存して重要文化財にとの学会から声に反発?して、無理矢理取り壊した事件を知っているトップにとっては、もしかして罪滅ぼし感覚もおありだったのでしょうねえ、たぶん。
●不動産業としての意義はどうか
独断偏見ガイドはまだまだつづきます。三菱地所は丸の内の大地主、大家主として、19世紀末からの建築を1930年頃からドンドンと建て替えをしてきました。
ボロビルを保存なんてしない、効率よいビルを建てて、高い家賃を取る、これが不動産業としての使命ですから、当然のことでしょう。
そしてその建て直しビル群は、決して建築界とか不動産業界の先端を行くような現代先進的なデザインではなくて、四角な頑丈な箱で使いやすい管理しやすい、文字通り保守的な姿勢で、堅実そのもの建築でした。
でも、丸の内という立地が幸いし、それは大成功の不動産業でした。
そうやって来たのでしたが、はたと気が付けばありふれた事務所ばかり作って、休日はだれも通らない寂しい街になってしまった。
そう、昔の丸の内は、日曜日やお正月はほんとにゴーストタウンでしたね。わたしは人がいない丸おうちを歩いてみたくて、わざわざ正月にここに散歩に来たこともあります。
これではいけないと三菱は考えた、1990年代からでしょうか、仲通りを中心に高級ファッションブランド物販店中心の商店街つくりに力を入れて、休日の人寄せに成功しました。仲通りも樹木を植えて、歩行者優先にして、気持ちよいモールになりました。ビジネス街が商店街にもなったのです。もっとも、わたし縁のない店ばかりですが。
でも、10年ほどしてまた気が付けば、文化が無い街と気が付いたのでしょうねえ。美術館も博物館もない、三菱所有の歴史的な建物もひとつも残っていない。
丸の内にある重要文化財の建築は、明治生命ビルと東京駅、歴史的な姿の建築は日本工業倶楽部と銀行協会ですが、どれも三菱地所の建物ではありません。
たくさんあった赤レンガ建築をこわしては、四角な変哲もないビルに建てなおしてきたのでした。三菱所有の中では、丸ビルが比較的最近まで残っていた歴史的建築でしたが、これも学会の保存要請に眼もくれずに建てなおしましたね。
これはいかん、企業イメージで負けてしまう、なんとかしようと三菱地所のトップは思ったのでしょうね、たぶん。
で、昔壊した三菱1号館という重要文化財指定直前だった建築を、そのままそっくり再現すれば、もしかしたら重要文化財になるかもしれない、そして美術館にすれば三井本館に負けない文化イメージがつくぞ、重文指定になれば容積ボーナスがつくだろう、なんて思ったかも。あ、私ならこう思うってことですよ。
ついでに言えば、昔々、三菱が丸の内開発計画を描き始めた19世紀末の頃、コンドルが描いたが実現しなかった建築計画には、劇場とか美術館の文化施設もあったそうです。三菱の丸ノ内開発は、120年ほど後にようやくに文化に到達したのですね。
●三菱一号館美術館は歴史的文化財か
その作戦は成功したでしょうか。まず、重要文化財指定は無理でした。そっくりに作っても新築ですから、指定の基本にある築50年以上になりません。だからこれによる容積ボーナスは無かったのです。
でもねえ、どうも不思議なのは東京駅が重要文化財指定になっていますよね、あれって実は3階と屋根は新築再現建築だから、ざっと見て半分はここと同じでしょ。
それであちらは重文指定、こっちは100%新築再現だから重文指定はできないってことなら、じゃあ何%まで当初部分が残っていれば重文指定になるんでしょうか、気になります。
それでも美術館にしたので文化施設としての社会貢献評価で100%ボーナスが付きました。それと東京駅からの移転容積が130%、それに地域冷暖房施設で35%を足して計265%を、基準容積率1300%にして合計1565%としたのです。
美術館は昔の姿で3階建てですから、これらの容積のほとんどは同敷地内の丸の内パークビルに盛り上げたので、あの太くて高いビルになったというわけです。
いまの三菱一号館美術館界隈の賑わいを見れば、レンガの美術館と緑の中庭は大成功でしたね。これで休日も人々が遊びに来てとどまっていますからね。昔の寂しい休日とは比較になりません。
でも、建築専門家やマニアはともかくとして、普通の人がこの新美術館は昔そっくり再現建築だと分るのでしょうか。東京駅と合わせて見れば、ディズニーランドの日本版なんて思うでしょうね。
素人が分らなくても、こんなに力を入れて三菱地所草創期の記念建築を再現することに企業としての意義があるのだとすれば、それはまことにごもっともなことです。歴史を視覚的に伝え、近代日本における建築技術継承という、まさに文化的事業です。
ところで、1968年の取り壊し事件への反省があると、更に歴史的深みが重なると思うのですがねえ、どこかにその経緯を書いた看板でも立ててありますか、三菱さん。
注:三菱1号館美術館については下記の「まちもり通信」(伊達美徳)記事に詳しく書いているので参照されたい。
●三菱一号館再現登場の意義を考える
さらに三菱1号館独断偏見ガイドを続けます。
低層建築の「三菱一号館」を壊したのが1968年、その跡地に建てた高層建築をまたもや壊したのが2006年、そしてその跡地に登場したのが低層建築の「三菱1号館美術館」です。
19世紀末の建築である「三菱一号館」という浦島太郎は、あたりの風景を見てさぞや、ビックリしてるでしょうね。
どんな玉手箱を持って返ってきたのか気になって見れば、なんと乙姫様はものすごい箱をもたせてくれましたねえ、超高層の丸の内パークビルという巨大な箱ですよ、え、まさかあれを開けたら、白い煙が出てきてあたり一面を燃やす、つまり関東大震災再来ってんじゃないでしょうね。
この美術館を設計して建てたのは三菱地所ですが、昔のコンドル設計の三菱一号館とソックリに作ったのだそうです。単に見た目の姿だけじゃなくて、煉瓦造、木造屋根などの作り方も昔のままにしたとか、ご自慢です。
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最初の設計者J.コンドルが描いた三菱一号館立面図 |
ご自慢の中でもその赤レンガ、その数なんと230万個、昔風の焼き方するには日本じゃ無理とて、中国で手づくり生産、そしてレンガ職人が一個づつ積んだそうです。
でもさすがに昔の設計のままのレンガ造では地震で倒れるので、地下に免震構造を設けて、建物をゴムの上に乗っけている。まあ、地面が揺れても関係ないように浮いているんでしょうか。
もちろん美術館として使うためるには、昔は無かった階段とか冷暖房設備とかが新たにくっついていますし、内装も2階はぜんぜん違うそうですから、完全に昔そっくりではありません。しかし、それにしてもよくやるもんです。
そんな努力して昔そっくり再現をしたのは、三菱地所にどんな意図があったのでしょうか。
三菱地所の再現担当のお方に、トップから昔の三菱一号館を再現建築しろとの命が下ったのだそうですが、じゃあ、なぜそのようなことをやろうとトップは思い付いたのでしょうか。
もちろん三菱一号館が、三菱地所の丸の内不動産事業の出発点の記念建築だったことがあるでしょう。かつてそれを保存して重要文化財にとの学会から声に反発?して、無理矢理取り壊した事件を知っているトップにとっては、もしかして罪滅ぼし感覚もおありだったのでしょうねえ、たぶん。
●不動産業としての意義はどうか
独断偏見ガイドはまだまだつづきます。三菱地所は丸の内の大地主、大家主として、19世紀末からの建築を1930年頃からドンドンと建て替えをしてきました。
ボロビルを保存なんてしない、効率よいビルを建てて、高い家賃を取る、これが不動産業としての使命ですから、当然のことでしょう。
そしてその建て直しビル群は、決して建築界とか不動産業界の先端を行くような現代先進的なデザインではなくて、四角な頑丈な箱で使いやすい管理しやすい、文字通り保守的な姿勢で、堅実そのもの建築でした。
でも、丸の内という立地が幸いし、それは大成功の不動産業でした。
そうやって来たのでしたが、はたと気が付けばありふれた事務所ばかり作って、休日はだれも通らない寂しい街になってしまった。
そう、昔の丸の内は、日曜日やお正月はほんとにゴーストタウンでしたね。わたしは人がいない丸おうちを歩いてみたくて、わざわざ正月にここに散歩に来たこともあります。
これではいけないと三菱は考えた、1990年代からでしょうか、仲通りを中心に高級ファッションブランド物販店中心の商店街つくりに力を入れて、休日の人寄せに成功しました。仲通りも樹木を植えて、歩行者優先にして、気持ちよいモールになりました。ビジネス街が商店街にもなったのです。もっとも、わたし縁のない店ばかりですが。
丸の内仲通り 2009.7.25 |
でも、10年ほどしてまた気が付けば、文化が無い街と気が付いたのでしょうねえ。美術館も博物館もない、三菱所有の歴史的な建物もひとつも残っていない。
丸の内にある重要文化財の建築は、明治生命ビルと東京駅、歴史的な姿の建築は日本工業倶楽部と銀行協会ですが、どれも三菱地所の建物ではありません。
たくさんあった赤レンガ建築をこわしては、四角な変哲もないビルに建てなおしてきたのでした。三菱所有の中では、丸ビルが比較的最近まで残っていた歴史的建築でしたが、これも学会の保存要請に眼もくれずに建てなおしましたね。
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東京駅の前から皇居方面を眺めて、左側にあった丸ビルが無くなった珍しい写真
右の新丸ビルはまだあるが、丸ビルを建替えのため壊した直後の1998年9月撮影
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ところが、ライバルの三井不動産が、すぐ近くの三井の本拠地とも言うべき日本橋地区では、大規模な再開発を進めて超高層ビルを次々と建てている。
そこには超高層ビルだけじゃなくて、保存した重要文化財の三井本館や美術館もあるのに、こちらにはそれらしいものがなにもない。これはいかん、企業イメージで負けてしまう、なんとかしようと三菱地所のトップは思ったのでしょうね、たぶん。
三井の本拠地日本橋にある重要文化財の三井本館 2005年10月撮影 |
ついでに言えば、昔々、三菱が丸の内開発計画を描き始めた19世紀末の頃、コンドルが描いたが実現しなかった建築計画には、劇場とか美術館の文化施設もあったそうです。三菱の丸ノ内開発は、120年ほど後にようやくに文化に到達したのですね。
●三菱一号館美術館は歴史的文化財か
その作戦は成功したでしょうか。まず、重要文化財指定は無理でした。そっくりに作っても新築ですから、指定の基本にある築50年以上になりません。だからこれによる容積ボーナスは無かったのです。
でもねえ、どうも不思議なのは東京駅が重要文化財指定になっていますよね、あれって実は3階と屋根は新築再現建築だから、ざっと見て半分はここと同じでしょ。
それであちらは重文指定、こっちは100%新築再現だから重文指定はできないってことなら、じゃあ何%まで当初部分が残っていれば重文指定になるんでしょうか、気になります。
それでも美術館にしたので文化施設としての社会貢献評価で100%ボーナスが付きました。それと東京駅からの移転容積が130%、それに地域冷暖房施設で35%を足して計265%を、基準容積率1300%にして合計1565%としたのです。
美術館は昔の姿で3階建てですから、これらの容積のほとんどは同敷地内の丸の内パークビルに盛り上げたので、あの太くて高いビルになったというわけです。
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盛り上がる丸の内パークビルと足元にうずくまる三菱一号館美術館 |
いまの三菱一号館美術館界隈の賑わいを見れば、レンガの美術館と緑の中庭は大成功でしたね。これで休日も人々が遊びに来てとどまっていますからね。昔の寂しい休日とは比較になりません。
でも、建築専門家やマニアはともかくとして、普通の人がこの新美術館は昔そっくり再現建築だと分るのでしょうか。東京駅と合わせて見れば、ディズニーランドの日本版なんて思うでしょうね。
素人が分らなくても、こんなに力を入れて三菱地所草創期の記念建築を再現することに企業としての意義があるのだとすれば、それはまことにごもっともなことです。歴史を視覚的に伝え、近代日本における建築技術継承という、まさに文化的事業です。
ところで、1968年の取り壊し事件への反省があると、更に歴史的深みが重なると思うのですがねえ、どこかにその経緯を書いた看板でも立ててありますか、三菱さん。
三菱一号館抜き打ち解体事件ニュース 1968年3月26日朝日新聞 |
(つづく)
注:三菱1号館美術館については下記の「まちもり通信」(伊達美徳)記事に詳しく書いているので参照されたい。
2017/07/07
1273【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド5】40年前に重要文化財指定を嫌って取り壊した三菱一号館が美術館になって出戻り
【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド4】からのつづき
さて、では大名小路を南に歩いて、「三菱一号館美術館」に行きましょう。
この通りは名前のごとくに、江戸時代は日本各地の大名の屋敷が並んでいました。德川将軍がいる江戸城周りをがっちり固めていたのです。
しかし実は今も、現代の大名である巨大企業が丸の内に居を構えて、天皇のいる皇居のまわりを昔と同じようにがっちりと固めていますね。歴史は続いています。
●大名小路の景観変化を観る
まずはJPタワー横あたりから南方向を眺めまししょう。
右手前は三菱重工ビルで、昔、この有名な軍需産業への極左の爆弾テロ事件が、ここであり死傷者が出ましたね。
その向こうの角に白い塔のようなものがある赤っぽいビルが「丸の内パークビル」、そのむこうに赤っぽい壁の低くて黒っぽい屋根の建物が「三菱一号館美術館」です。どちらも2009年完成です。
この二つのビルには、なかなか面白いいわれがあるのです。
ちょっと、この写真を見てください。2007年に撮影したのですが、同じ角度からですね。
右の三菱重工ビルは同じですが、その向こうにある白いビルのところに今の丸の内パークビルが建ち、さらにその向こう隣りの高層ビルのところが今の三菱1号館美術館になっています。景観の変化がよく分るでしょう。
角の白い塔のようなものはなんだか似ていますね。そう、新しい丸の内パークビルの角に、元あったビルの一部をコピーしたものらしいです。
この塔のようなものがある白いビルは、1928年に建った「丸の内八重洲ビル」でした。けっこう立派なデザインのビルで、重要文化財になってもおかしくない風格を持っていましたね。
丸の内地区では、どのビルも角地のところに塔のようなものを設けるのが、昔の街並み景観づくりの手法だったようですが、今ではこんな形でしか思い出せなくなりました。
その八重洲ビルの向こうに高いビルが見えていますね。これは三菱商事ビルで1971年に建ちました。これはいまの三菱一号館美術館になっています。
実を言えば、手前の丸の内パークビルとこの三菱一号館は、ひとつの敷地内に建っています。つまり八重洲ビルと三菱商事ビルの二つを壊してこれ等を建てたことになるのですが、もっと正確に言えば、ここからは見えない右の後ろになるのですが、そこにあった1968年にできた古河ビルもこわして一つの敷地にしました。つまり新ビル大小2つを建てるために、3つの巨大ビルをこわしたのでした。
思い出せば、丸の内八重洲ビルは歴史的建物と言ってもよいくらいだったし、他の二つのビルは完成後40年ほどでまだまだ使えるような立派な建物でしたが、それらを壊して建替えする巨額投資をしても、不動産として採算が合うんですねえ。
こちら丸の内パークビルは、ものすごく太くて高い超高層ですが、下層階の角には以前ここにあった八重洲ビルの塔を模してつくり、1,2階には腰巻の様に元の石を張り付けてあります。この街の歴史を記憶する仕掛けでしょうか。
このパークビルには、東京駅からの容積移転先6ビルのひとつで130%割増しになっています。
●三菱一号館と三菱一号館美術館
さてここが「三菱一号館美術」館です。ご存じでしょうが、これは「三菱一号館」と言って、19世紀末から76年間ここに建っていた建築を、再現したものです。
さて、では大名小路を南に歩いて、「三菱一号館美術館」に行きましょう。
この通りは名前のごとくに、江戸時代は日本各地の大名の屋敷が並んでいました。德川将軍がいる江戸城周りをがっちり固めていたのです。
しかし実は今も、現代の大名である巨大企業が丸の内に居を構えて、天皇のいる皇居のまわりを昔と同じようにがっちりと固めていますね。歴史は続いています。
●大名小路の景観変化を観る
まずはJPタワー横あたりから南方向を眺めまししょう。
右手前は三菱重工ビルで、昔、この有名な軍需産業への極左の爆弾テロ事件が、ここであり死傷者が出ましたね。
その向こうの角に白い塔のようなものがある赤っぽいビルが「丸の内パークビル」、そのむこうに赤っぽい壁の低くて黒っぽい屋根の建物が「三菱一号館美術館」です。どちらも2009年完成です。
この二つのビルには、なかなか面白いいわれがあるのです。
ちょっと、この写真を見てください。2007年に撮影したのですが、同じ角度からですね。
右の三菱重工ビルは同じですが、その向こうにある白いビルのところに今の丸の内パークビルが建ち、さらにその向こう隣りの高層ビルのところが今の三菱1号館美術館になっています。景観の変化がよく分るでしょう。
角の白い塔のようなものはなんだか似ていますね。そう、新しい丸の内パークビルの角に、元あったビルの一部をコピーしたものらしいです。
この塔のようなものがある白いビルは、1928年に建った「丸の内八重洲ビル」でした。けっこう立派なデザインのビルで、重要文化財になってもおかしくない風格を持っていましたね。
丸の内地区では、どのビルも角地のところに塔のようなものを設けるのが、昔の街並み景観づくりの手法だったようですが、今ではこんな形でしか思い出せなくなりました。
その八重洲ビルの向こうに高いビルが見えていますね。これは三菱商事ビルで1971年に建ちました。これはいまの三菱一号館美術館になっています。
実を言えば、手前の丸の内パークビルとこの三菱一号館は、ひとつの敷地内に建っています。つまり八重洲ビルと三菱商事ビルの二つを壊してこれ等を建てたことになるのですが、もっと正確に言えば、ここからは見えない右の後ろになるのですが、そこにあった1968年にできた古河ビルもこわして一つの敷地にしました。つまり新ビル大小2つを建てるために、3つの巨大ビルをこわしたのでした。
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2003年 丸の内八重洲ビル |
思い出せば、丸の内八重洲ビルは歴史的建物と言ってもよいくらいだったし、他の二つのビルは完成後40年ほどでまだまだ使えるような立派な建物でしたが、それらを壊して建替えする巨額投資をしても、不動産として採算が合うんですねえ。
こちら丸の内パークビルは、ものすごく太くて高い超高層ですが、下層階の角には以前ここにあった八重洲ビルの塔を模してつくり、1,2階には腰巻の様に元の石を張り付けてあります。この街の歴史を記憶する仕掛けでしょうか。
このパークビルには、東京駅からの容積移転先6ビルのひとつで130%割増しになっています。
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馬場先通りの三菱1号館あたりの景観変化 上から、20世紀初、1970年代、2009年 |
●三菱一号館と三菱一号館美術館
出現したばかりの三菱一号館美術館と丸の内パークビル |
たとえて言えば、小田原とか掛川とか城下町で城を再現しているようなもんですね。東京駅も3階と屋根は新築再現ですから、似たようなものです。
こんな超高層街の真ん中に、なんでまたこんな古臭い低層建築をわざわざ建てたのか、そこが面白いところです。
三菱地所はこんな金かけた超高層ならぬ超低層建築をつくっても不動産屋として儲かるのか、なんてお思いでしょうが、たぶん儲かるんでしょうね。それはこういう仕掛けです。
「三菱一号館美術館」は、法的にはもっと高く建てられるけど、同じ敷地に超高層「丸の内パークビル」を建てて、そちらにこちらの空中権を移動したのですね。東京駅の様に頭の上の空中権を他の敷地に売ったのじゃなくて、同じ敷地内で移動したってことです。二つの建物は互いに離れられないカップルなんですね。
更に美術館という公開する文化施設を作れば、都市計画の容積率割り増しのご褒美があり、それで100%乗せています。先ほど話した東京駅からの移転とこれと併せて230%割り増しですね、文化でちゃんと実利を取ってますね。
だから低層建築にしたからとて、法定容積率を消化できなくて損しているのってことは全くないのですね。三菱一号館だけでは採算が取れないけど、丸の内パークビルとの合わせ技で採算成立というわけです。
●昔の三菱一号館取り壊し事件のこと
それにしても美術館をつくりたいなら、こんな建物じゃなくて、超高層ビルの中にも植えていいだろうに、なにを考えたのでしょうね。
そこで思い出すのは1968年のこと、ここにあった三菱一号館という赤レンガ建築を、三菱地所はあっと言う間に壊した事件です。
そのころ建築学会と文部省の文化財保護委員会は、明治期の建築を重要文化財にしようとして日本銀行、赤坂離宮そしてこの三菱一号館を重要文化財指定しようとして、三菱地所にも打診していました。そのさい中の出来事です。ことの意外ななりゆきに関係者は唖然としたのでした。
では三菱地所はどうして壊したのでしょうか。公式な回答は、前の道の大名小路地下に作られるJR横須賀線の工事に構造的に耐えられないから、ということでした。
でも、おなじレンガ造の東京駅は横須賀線が地下に入っても、ちゃんと建っていますから、それは杞憂でしたね。というより、こじつけ詭弁だったかも。
たぶん、本当の理由がこううだろうとわたしは推測します。そのころ日本の高度成長時代が来ていました。このあたりの大不動産屋の三菱地所は、目地以後の低層赤レンガ建築を、近代的高層ビルに建替えてきていました。
1966年、丸の内で初めての超高層ビルである東京海上ビルの計画が出されて、皇居を見下ろす超高層反対、いや日本も超高層時代だなどなど、世間にいわゆる美観論争が起きていました。その後のことは今見る通りに超高層時代の勝利です。
その頃の三菱地所としては、その所有する高層ビルの多くは高さ31mのビル群でした。これは私の推測ですが、せっかくここまで営々として建てて来たのに、超高層が流行したら不動産価値が下がると思ったのでしょうねえ。三菱は超高層反対派にまわりましたね。
でも今は全く逆で、三菱地所は超高層をどんどん建てていますから、時代は変わった。
でも、とにかく不動産競争に負けていられないとて、会社としては記念的な三菱一号館も高層ビル化して行こうと考えていたところに、重要文化財指定でビジネスチャンスをつぶされてはたまらない、はやく壊してしまえってことだったのでしょうねえ、たぶん。
壊した跡に建てたのが三菱商事ビルでした。それは超高層ではなかったけれど、それまでの三菱地所が建てて来た31m8階建てを超えて、45m15階建の巨大ビルでしたね。
1960年代の丸の内のあたりは、高層ビルが建ってたのは東京駅のあたりだけで、南半分から有楽町にかけての三菱村には、赤レンガ建築が建ち並んでいました。
わたしは若いころに、その赤レンガの建物で仕事していたことがあるのです。有楽町からここまでの中間あたりに、仲4号館という2階建ての赤レンガ建築の中に勤め先があました。外はレンガでも内部は床も階段も木造でしたから、歩くとガタガタ音がしてうるさかったな。
その仲4号館の写真がこれで、子どもがいるのは三菱地所の社宅ががあったからでしょうね。フラフープなんて懐かしい遊びしていますねえ。仲4号館の中にも管理人の住宅があり、こちらが仕事で徹夜していると、うるさいと叱られたものです。
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今の「三菱一号館美術館」の場所にかつて建っていた「三菱一号館」 |
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かつて「三菱一号館」の場所に現在建つ「三菱一号館美術館」 |
昔の「三菱一号館」の設計をした人は、東京駅を設計した辰野金吾の師匠のジョサイア。コンドルです。東京駅もこれも赤レンガ造りってのが時代を感じさせますが、この三菱地所設計「三菱一号館美術館」は2009年に昔の姿で再登場したのです。これから20年も経つと19世紀からここに建っていたと思う人が多くなるでしょうね。
こんな超高層街の真ん中に、なんでまたこんな古臭い低層建築をわざわざ建てたのか、そこが面白いところです。
三菱地所はこんな金かけた超高層ならぬ超低層建築をつくっても不動産屋として儲かるのか、なんてお思いでしょうが、たぶん儲かるんでしょうね。それはこういう仕掛けです。
「三菱一号館美術館」は、法的にはもっと高く建てられるけど、同じ敷地に超高層「丸の内パークビル」を建てて、そちらにこちらの空中権を移動したのですね。東京駅の様に頭の上の空中権を他の敷地に売ったのじゃなくて、同じ敷地内で移動したってことです。二つの建物は互いに離れられないカップルなんですね。
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三菱1号館美術館と丸の内パークビルの超低層超高層カップル空中風景 |
だから低層建築にしたからとて、法定容積率を消化できなくて損しているのってことは全くないのですね。三菱一号館だけでは採算が取れないけど、丸の内パークビルとの合わせ技で採算成立というわけです。
●昔の三菱一号館取り壊し事件のこと
それにしても美術館をつくりたいなら、こんな建物じゃなくて、超高層ビルの中にも植えていいだろうに、なにを考えたのでしょうね。
そこで思い出すのは1968年のこと、ここにあった三菱一号館という赤レンガ建築を、三菱地所はあっと言う間に壊した事件です。
1968年取り壊し直前の三菱1号館の姿(撮影:平井聖) |
そのころ建築学会と文部省の文化財保護委員会は、明治期の建築を重要文化財にしようとして日本銀行、赤坂離宮そしてこの三菱一号館を重要文化財指定しようとして、三菱地所にも打診していました。そのさい中の出来事です。ことの意外ななりゆきに関係者は唖然としたのでした。
では三菱地所はどうして壊したのでしょうか。公式な回答は、前の道の大名小路地下に作られるJR横須賀線の工事に構造的に耐えられないから、ということでした。
でも、おなじレンガ造の東京駅は横須賀線が地下に入っても、ちゃんと建っていますから、それは杞憂でしたね。というより、こじつけ詭弁だったかも。
たぶん、本当の理由がこううだろうとわたしは推測します。そのころ日本の高度成長時代が来ていました。このあたりの大不動産屋の三菱地所は、目地以後の低層赤レンガ建築を、近代的高層ビルに建替えてきていました。
1966年、丸の内で初めての超高層ビルである東京海上ビルの計画が出されて、皇居を見下ろす超高層反対、いや日本も超高層時代だなどなど、世間にいわゆる美観論争が起きていました。その後のことは今見る通りに超高層時代の勝利です。
その頃の三菱地所としては、その所有する高層ビルの多くは高さ31mのビル群でした。これは私の推測ですが、せっかくここまで営々として建てて来たのに、超高層が流行したら不動産価値が下がると思ったのでしょうねえ。三菱は超高層反対派にまわりましたね。
でも今は全く逆で、三菱地所は超高層をどんどん建てていますから、時代は変わった。
でも、とにかく不動産競争に負けていられないとて、会社としては記念的な三菱一号館も高層ビル化して行こうと考えていたところに、重要文化財指定でビジネスチャンスをつぶされてはたまらない、はやく壊してしまえってことだったのでしょうねえ、たぶん。
壊した跡に建てたのが三菱商事ビルでした。それは超高層ではなかったけれど、それまでの三菱地所が建てて来た31m8階建てを超えて、45m15階建の巨大ビルでしたね。
1960年代の丸の内のあたりは、高層ビルが建ってたのは東京駅のあたりだけで、南半分から有楽町にかけての三菱村には、赤レンガ建築が建ち並んでいました。
1950年年代初の丸の内赤煉瓦街 左上の堀端の高層建築は明治生命館(撮影:平井聖) |
その仲4号館の写真がこれで、子どもがいるのは三菱地所の社宅ががあったからでしょうね。フラフープなんて懐かしい遊びしていますねえ。仲4号館の中にも管理人の住宅があり、こちらが仕事で徹夜していると、うるさいと叱られたものです。
三菱仲4号館(『丸の内百年の歩み』(三菱地所)より引用) |
(この項つづく)
注:三菱1号館美術館については下記の「まちもり通信」(伊達美徳)記事に詳しく書いているので参照されたい。
2017/06/29
1272【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド4】東京駅を近代日本戦争時代の開幕記念碑とするならばJPタワーは現代世界戦争時代の開幕記念碑かもしれない
【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド3】からのつづき
次は東京駅から右に頭を回して、駅前広場の南側に建つビルをご覧ください。下半身は白いタイル張り、上半身は黒いガラス張りの超高層ビルです。
この「JPタワー」は、先ほどの東京駅から容積移転した6件のビルのひとつです。だから容積移転がないなら容積率1300%が上限なのに、これは移ってきた容積を加えて容積率1520%で建っています。容積をくれた東京駅を見下していますね。
下半身の白ビルに見覚えある方もおいででしょう。そう、1931年にできた東京中央郵便局、あの白ビルがここに建っていたのです。
それに上半身の黒ビルをつけ加えたってわけですね。つまり、東京駅が上につけ加えるはずだったビルの一部を、ここに持ってきて乗せたってことです。
さて、あの上半身の黒いガラス面の折れ具合をよくご覧ください。なにかを連想するでしょ、そう、折り紙ヒコーキですよ、あれは。ね、そう見えるでしょ。
空から飛行機が降ってきて、超高層ビルにグサッと突き刺さるって、ほれ、何か思い出すでしょ、そう、2001年ニューヨークで起きた9・11テロ事件ですよ。
これって9・11の暗喩なんですよね、いや、パロディデザインかな、そう見えるでしょ、つまり、建築デザインで文明批評をやってるんです、すごいですねえ。
このデザインはアメリカの建築家ヘルムート・ヤーンだそうです。なんでアメリカでやらないで、遠い日本でやるのでしょうかねえ。
まあ、アメリカ人は折り紙ヒコーキって何のことか分らないし、わかってもこんなパロディを絶対に受け入れないでしょうから、日本でやったのでしょうか。
でも、日本でもパロディって分らないらしいけどね、まあ、わたしが勝手にそう思ってるだけなんでしょう。
東京駅が20世紀の敗戦記念碑としての姿を消したと思ったら、JPタワーが21世紀の戦争記念碑として姿を現すとはねえ、いやまあ、感慨を催しますねえ。
と、まあ、独断偏見的建築文明批評妄語です。
思い出せば、あの白い下半身を保存するか、壊して新しくするかって、いっとき論争がありましたよ。東京駅と東京中央郵便局、どちらの騒ぎも国営組織の民営化に伴う開発か保存かって、まったくおなじ構図でしたね。
時の総務大臣の鳩山邦夫さんが保存せよって直接に口を出して乗りこんできて、世間の話題になりましたね。鳩山さんは切手マニアで、少年時にこの中央郵便局に新発売切手を買いによく来たとかって聞いたことありますが、懐かしい建築なのでしょうね。
建築保存とは、そのような市民としての建築への愛着が大切な動機になるんですね。一般には郵便局よりも鉄道駅の東京駅の方が、市民的愛着が大きかったでしょう。
でも東京駅の時と比べて、市民的保存運動の盛り上がりが低調だったのは、東京駅がキンキラ装飾建築であるの比べて、こちらは豆腐に眼鼻の白い箱デザインで、素人受けしなかったからでしょう。建築の専門家では大きな騒ぎでしたが。
結局は、今見えている表側だけを残し、裏の方を切って壊して超高層を建てたのでした。でも外装タイルは新品に貼り換えたらしく、せっかく現物一部保存したのに、同じものをコピーしたレプリカに見えますねえ。
ところで、その保存問題が起きたのはなぜでしょうか。キンキラ東京駅と比べると、なんと味もそっけもないこの建築に、専門的にはどんな価値があるというのでしょうか。
これらは日本の建築デザイン史では、有名な建築なのです。たまたま隣合せになっているのも珍しい貴重な都市景観です。
19世紀後半から西欧的文化を取り入れて近代日本を築いていく中で、西欧クラシック様式建築のほぼ直輸入時代の最後のあたりが、1914年の東京駅のデザインでした。
そして1931年にできた白ビルの中央郵便局は、そのクラシック輸入時代が終わって、こんどは西欧モダン様式建築輸入時代となり、その先端を行くものでした。
東京駅のクラシック、中央郵便局のモダン、どちらも西欧文化輸入の典型だったのですね。そしてどちらの様式建築も日本に残っているのは希少になってしまっていた、そこに保存問題が起きる専門的な由縁があったのです。
なんにしても、東京駅と東京中央郵便局がならんで、日本近代化時代の西欧文化移入の典型的な景観が、ここに存在することに意義を見出しましょう。
それと共に、東京駅が近代日本戦争史の記念碑であり、JPタワーが現代世界の戦争史開始の記念碑(?)であり、二つの歴史的建築が作り出す特異な都市景観であることも、忘れないようにしましょう。
では、次に参りましょう。(つづく)
●中央郵便局に関しての詳しいことは下記を参照のこと
「東京中央郵便局舎の改築と建築保存の諸問題(2008)」
次は東京駅から右に頭を回して、駅前広場の南側に建つビルをご覧ください。下半身は白いタイル張り、上半身は黒いガラス張りの超高層ビルです。
この「JPタワー」は、先ほどの東京駅から容積移転した6件のビルのひとつです。だから容積移転がないなら容積率1300%が上限なのに、これは移ってきた容積を加えて容積率1520%で建っています。容積をくれた東京駅を見下していますね。
下半身の白ビルに見覚えある方もおいででしょう。そう、1931年にできた東京中央郵便局、あの白ビルがここに建っていたのです。
それに上半身の黒ビルをつけ加えたってわけですね。つまり、東京駅が上につけ加えるはずだったビルの一部を、ここに持ってきて乗せたってことです。
JPタワーになる前の東京中央郵便局 2007年撮影 |
さて、あの上半身の黒いガラス面の折れ具合をよくご覧ください。なにかを連想するでしょ、そう、折り紙ヒコーキですよ、あれは。ね、そう見えるでしょ。
空から飛行機が降ってきて、超高層ビルにグサッと突き刺さるって、ほれ、何か思い出すでしょ、そう、2001年ニューヨークで起きた9・11テロ事件ですよ。
![]() |
折り紙ヒコーキJPタワー 左は計画時の絵、右は完成時の写真 (どちらも日本郵便サイトから引用) |
これって9・11の暗喩なんですよね、いや、パロディデザインかな、そう見えるでしょ、つまり、建築デザインで文明批評をやってるんです、すごいですねえ。
このデザインはアメリカの建築家ヘルムート・ヤーンだそうです。なんでアメリカでやらないで、遠い日本でやるのでしょうかねえ。
まあ、アメリカ人は折り紙ヒコーキって何のことか分らないし、わかってもこんなパロディを絶対に受け入れないでしょうから、日本でやったのでしょうか。
天から降ってきて突き刺さる黒い紙ヒコーキ |
よく見ると折り紙が張り付いているようなカーテンウォール |
でも、日本でもパロディって分らないらしいけどね、まあ、わたしが勝手にそう思ってるだけなんでしょう。
東京駅が20世紀の敗戦記念碑としての姿を消したと思ったら、JPタワーが21世紀の戦争記念碑として姿を現すとはねえ、いやまあ、感慨を催しますねえ。
と、まあ、独断偏見的建築文明批評妄語です。
思い出せば、あの白い下半身を保存するか、壊して新しくするかって、いっとき論争がありましたよ。東京駅と東京中央郵便局、どちらの騒ぎも国営組織の民営化に伴う開発か保存かって、まったくおなじ構図でしたね。
時の総務大臣の鳩山邦夫さんが保存せよって直接に口を出して乗りこんできて、世間の話題になりましたね。鳩山さんは切手マニアで、少年時にこの中央郵便局に新発売切手を買いによく来たとかって聞いたことありますが、懐かしい建築なのでしょうね。
建築保存とは、そのような市民としての建築への愛着が大切な動機になるんですね。一般には郵便局よりも鉄道駅の東京駅の方が、市民的愛着が大きかったでしょう。
でも東京駅の時と比べて、市民的保存運動の盛り上がりが低調だったのは、東京駅がキンキラ装飾建築であるの比べて、こちらは豆腐に眼鼻の白い箱デザインで、素人受けしなかったからでしょう。建築の専門家では大きな騒ぎでしたが。
結局は、今見えている表側だけを残し、裏の方を切って壊して超高層を建てたのでした。でも外装タイルは新品に貼り換えたらしく、せっかく現物一部保存したのに、同じものをコピーしたレプリカに見えますねえ。
工事中のJPタワーを東京駅前から見る 2009年撮影 下半身となる中央郵便局者が表側2スパンだけ残して裏側を撤去したことが分る |
ところで、その保存問題が起きたのはなぜでしょうか。キンキラ東京駅と比べると、なんと味もそっけもないこの建築に、専門的にはどんな価値があるというのでしょうか。
これらは日本の建築デザイン史では、有名な建築なのです。たまたま隣合せになっているのも珍しい貴重な都市景観です。
19世紀後半から西欧的文化を取り入れて近代日本を築いていく中で、西欧クラシック様式建築のほぼ直輸入時代の最後のあたりが、1914年の東京駅のデザインでした。
そして1931年にできた白ビルの中央郵便局は、そのクラシック輸入時代が終わって、こんどは西欧モダン様式建築輸入時代となり、その先端を行くものでした。
東京駅のクラシック、中央郵便局のモダン、どちらも西欧文化輸入の典型だったのですね。そしてどちらの様式建築も日本に残っているのは希少になってしまっていた、そこに保存問題が起きる専門的な由縁があったのです。
なんにしても、東京駅と東京中央郵便局がならんで、日本近代化時代の西欧文化移入の典型的な景観が、ここに存在することに意義を見出しましょう。
それと共に、東京駅が近代日本戦争史の記念碑であり、JPタワーが現代世界の戦争史開始の記念碑(?)であり、二つの歴史的建築が作り出す特異な都市景観であることも、忘れないようにしましょう。
では、次に参りましょう。(つづく)
●中央郵便局に関しての詳しいことは下記を参照のこと
「東京中央郵便局舎の改築と建築保存の諸問題(2008)」
2017/06/20
1271【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド3】頭の上の空気をあちこちに販売して保全修復費用を捻出した「2012東京駅」
【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド2】からつづく
では、東京駅を丸の内の側から眺めて考えましょう。
まわりが超高層ビルなのに、なぜ、ここだけが3階建てなのでしょうか。JR東日本はよほどお金があるので、超高層に建て替えて不動産で儲けようという気がないのでしょうか。それともおカネがないので、昔の姿に改修するだけにしたのでしょうか。
でも、聞くところによれば、この改修するだけでも500億円もかかったとのことです。文化財保全のためとは言いながら、その衣装代というかお化粧代というか、その巨額事業費を運賃だけでまかなうことが可能なほど、JR東日本は儲けている企業なのでしょうか。それならば、貧乏人としては運賃を下げってもらいたい。
●赤レンガ東京駅は身売りして500億円稼いだ
実は、低層3階建てにしても超高層にしたのと同じ不動産活用の方法を、ここで発明したのです。
それは超高層のにするところを3階までにして、そこから上空の空気を周りのビルに売って金にしたのです。空気を売るって、なんともすごいですねえ、キツネもタヌキもビックリの換金術です。
500億円かどうか知りませんが、とにかく超高層を立てたと同じになる仕組み発明して、JR東は稼いだのです。発明とは言いすぎですが、そう言う法制度が新たにこのために作られたのでした。
まあ、考えようによっては、もとは国鉄の土地、つまり国民の財産でしたから、それを有効に活用したのはよかったと思いましょう。貧乏人のわたしとしては、運賃に還元してほしいけどなあ。
具体的に言うと、このあたりの土地の上にはその土地を敷地にして建物を建てると、敷地の13倍の床面積まで建てることができるように、都市計画で決めています。この13倍のことを専門用語で「容積率」と言います。
つまり、敷地いっぱいの建物だと地上13階建てのビルになるのです。それをまわりを空けて広場にしたり、文化施設を作ったり、駐車場をつくると、実際には15倍以上建てられますから、20階建てや30階建ての超高層ビルになるのです。
この東京駅は3階建てですから、13倍のところを2倍くらいしか使っていないので、残りの11倍くらいに相当する床面積を、近くの他所の敷地に売ったのです。つまり、身売りですね。これで事実上は13倍建てたと同じことになるわけです。
●3階建て東京駅でも超高層なみ不動産経営できるカラクリ
上手い仕組みですね、これを専門用語で「容積移転」と言います。どこの土地でもできるのではなくて、東京駅から丸の内や有楽町あたりだけに、特例的に許可されている制度です。
いまのところ日本中で、このあたりにしか許可されていません。この特例制度は、東京駅の低層保全のために作られたと言ってもよいでしょう。
その身売り先は6か所に切り売りしています。これからもっと増えるかもしれませんが、 その容積率を買った6本のビルは、自分のところの13倍の上に買った容積率を載せて建てるので、大きく高くなります。東京駅の周りが特に超高層群なのはそのせいもあるのです。
たとえて言うと、6人のでっぷり太った大柄の旦那衆に身を売って得たカネで、衣装を買いお化粧直ししたのですね。そうしたら、それらの間に埋もれて文字通り日陰者になった東京駅姐さん、あ、こりゃ譬えがちょっとゲスかもなあ。
●後藤新平と辰野金吾、マッカーサとレーモンド、二人の伊藤滋
さて、振り返れば、この赤レンガ駅舎の現地保全を決定した1988年の八十島委員会の報告書(東京駅周辺地区総合整備基礎調査報告)には、こう書いています。
では、東京駅を丸の内の側から眺めて考えましょう。
まわりが超高層ビルなのに、なぜ、ここだけが3階建てなのでしょうか。JR東日本はよほどお金があるので、超高層に建て替えて不動産で儲けようという気がないのでしょうか。それともおカネがないので、昔の姿に改修するだけにしたのでしょうか。
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中央に見える東京駅赤レンガ駅舎だけが低層3階建ての建築なのは何故か |
でも、聞くところによれば、この改修するだけでも500億円もかかったとのことです。文化財保全のためとは言いながら、その衣装代というかお化粧代というか、その巨額事業費を運賃だけでまかなうことが可能なほど、JR東日本は儲けている企業なのでしょうか。それならば、貧乏人としては運賃を下げってもらいたい。
●赤レンガ東京駅は身売りして500億円稼いだ
実は、低層3階建てにしても超高層にしたのと同じ不動産活用の方法を、ここで発明したのです。
それは超高層のにするところを3階までにして、そこから上空の空気を周りのビルに売って金にしたのです。空気を売るって、なんともすごいですねえ、キツネもタヌキもビックリの換金術です。
500億円かどうか知りませんが、とにかく超高層を立てたと同じになる仕組み発明して、JR東は稼いだのです。発明とは言いすぎですが、そう言う法制度が新たにこのために作られたのでした。
まあ、考えようによっては、もとは国鉄の土地、つまり国民の財産でしたから、それを有効に活用したのはよかったと思いましょう。貧乏人のわたしとしては、運賃に還元してほしいけどなあ。
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東京駅赤レンガ駅舎はその上の空気をこの6か所のビルに売ったので 周りを超高層ビルで囲まれて谷底になってしまった |
具体的に言うと、このあたりの土地の上にはその土地を敷地にして建物を建てると、敷地の13倍の床面積まで建てることができるように、都市計画で決めています。この13倍のことを専門用語で「容積率」と言います。
つまり、敷地いっぱいの建物だと地上13階建てのビルになるのです。それをまわりを空けて広場にしたり、文化施設を作ったり、駐車場をつくると、実際には15倍以上建てられますから、20階建てや30階建ての超高層ビルになるのです。
この東京駅は3階建てですから、13倍のところを2倍くらいしか使っていないので、残りの11倍くらいに相当する床面積を、近くの他所の敷地に売ったのです。つまり、身売りですね。これで事実上は13倍建てたと同じことになるわけです。
●3階建て東京駅でも超高層なみ不動産経営できるカラクリ
上手い仕組みですね、これを専門用語で「容積移転」と言います。どこの土地でもできるのではなくて、東京駅から丸の内や有楽町あたりだけに、特例的に許可されている制度です。
いまのところ日本中で、このあたりにしか許可されていません。この特例制度は、東京駅の低層保全のために作られたと言ってもよいでしょう。
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JR東日本は東京駅丸の内駅舎敷地の未利用容積率を分割して 赤い矢印の先の各ビル敷地に移転して売却あるいは床取得した |
その身売り先は6か所に切り売りしています。これからもっと増えるかもしれませんが、 その容積率を買った6本のビルは、自分のところの13倍の上に買った容積率を載せて建てるので、大きく高くなります。東京駅の周りが特に超高層群なのはそのせいもあるのです。
たとえて言うと、6人のでっぷり太った大柄の旦那衆に身を売って得たカネで、衣装を買いお化粧直ししたのですね。そうしたら、それらの間に埋もれて文字通り日陰者になった東京駅姐さん、あ、こりゃ譬えがちょっとゲスかもなあ。
●後藤新平と辰野金吾、マッカーサとレーモンド、二人の伊藤滋
さて、振り返れば、この赤レンガ駅舎の現地保全を決定した1988年の八十島委員会の報告書(東京駅周辺地区総合整備基礎調査報告)には、こう書いています。
「丸の内駅舎は、長きにわたり国民に愛着のもたれる記念碑的建造物であり、また、本地区の都市景観を構成するランドマークとして評価されるため、現在地において形態保全を図る方針とし、今後、具体化に当たっては次のような点について検討するものとする.イ 建物自体の耐力診断を踏まえ、形態保全の具体的な方法を検討するものとする.ロ 土地の高度利用との調和については、駅舎の背後に駅舎の形態保全に十分配慮しながら新たな建物を建築する方法、駅舎の上空の容墳率を本地区内の他の敷地に移転する方法等により実施する.」
この最後のくだりの容積率移転が、特例制度をつくることによって実現したわけです。この「本地区内」とは東京駅と隣接街区だけの範囲を意味していましたが、今の実際の範囲は丸の内、大手町、有楽町までの広い範囲で移転が可能になっています。
この東京駅のための特例の新制度(特例容積率適用地区)を生み出す指導をしたお方が、都市計画家の伊藤滋さんです。ここにもまた伊藤滋さんの登場です。
これって、建築家の辰野金吾さんが設計した「1914東京駅」を、マッカーサーが戦争で焼いて「1945東京駅」にしたのを、建築家の伊藤滋さんが「1947東京駅」に修復し、更にそれを都市計画家の伊藤滋さんが「2012東京駅」に作り替えた、こういうことになるのでしょうね。
というわけで東京駅見物の最後に、独断偏見一覧表にしておきましょう。
これって、建築家の辰野金吾さんが設計した「1914東京駅」を、マッカーサーが戦争で焼いて「1945東京駅」にしたのを、建築家の伊藤滋さんが「1947東京駅」に修復し、更にそれを都市計画家の伊藤滋さんが「2012東京駅」に作り替えた、こういうことになるのでしょうね。
というわけで東京駅見物の最後に、独断偏見一覧表にしておきましょう。
では、そろそろ東京駅を後にして次に進みましょう。
◆当日のまち歩き資料は:東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版
◆関連記事
●空気を金に化けさせる術ー東京駅の復原について長屋談義(2007)
●空気を金に化けさせる術ー東京駅の復原について長屋談義(2007)
2017/06/13
1270【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド2】空爆廃墟「1945東京駅」を不必要に華麗に復興した「1947東京駅」は米軍への復讐戦か
東京駅の南口ドーム内から外に出て、正面に来ました。
幅が300mもあるこの赤レンガ3階建ての建築は、今日おいでのみなさまはご存じでしょうが、実は4代目でなんですよ。世の中には、これが戦前からこの姿のままずっと建っていて、数年前にきれいに化粧直ししたのだろうと思ってる人たちが多くいるような気がするし、これからどんどん増えてきそうに思うのです。
でも違うんです、この建物はいったんは廃墟になったのです、しかもそれは不幸な大事件で人為的に燃やされたのでした。そう、太平洋戦争下の空襲、いまは空爆と言いますが、1945年5月25日の深夜に、燃え上がりました。皇居も燃えました、八重洲の街も燃えました。3月10日に次ぐ大空襲でした。大勢の人が死にました。1945年5月25日深夜の空襲で銀座、東京駅、丸の内、皇居炎上 |
●空爆廃墟「1945東京駅」の登場
わたしがこのガイドとして伝えたいのは、この赤レンガ駅舎は日本の歴史を背負っているということです。20世紀初めに華麗な姿で初登場したこの建築が、20世紀半ばに戦争によって燃やされ無残な廃墟にされたのを、敗戦直後に焼け残った躯体を再利用して修復復興して20世紀を生き延び、21世紀の初めに再度の修復で今の姿になった、この建築の変転の裏にあるのは近代から現代日本の歴史そのものです。
初代「1914東京駅」は3階建てでしたが、焼け焦げた2代「1945東京駅」を修復するときに被害甚大の3階を取り除いて2階建ての3代「1947東京駅」にしました。それが戦後わたしたちの世代がながく親しんだ東京駅の姿でした。
東京駅と言えば、全国から修学旅行でやって来たものだし、旅の登りはここが終点でこの先は下りばかりです。だれもが知っている、日本人の駅でした。
「1914東京駅」は今見る「2012東京駅」と同じ姿ですが、その間に「1945東京駅」と「1947東京駅」があります。
「1945東京駅」壁と床の躯体は燃え残ったが屋根や内装は焼失 |
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「1945東京駅」の屋上の焼け落ちた屋根![]() 「1945東京駅」北口ドームの被災状況 |
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「1945東京駅」中央の天皇専用玄関の様子 台形ドームは焼失 |
「1945東京駅」全体像 手前の水面は工事中の新丸ビルの地下にたまった雨水 (1945年 米軍写真家G Faillaces撮影) |
●廃墟を復興して「1947東京駅」の登場
東京駅を特徴づける南、中央、北の3つのドームは、鉄骨がぐにゃぐにゃになって燃え落ちました。長い間の戦争の末に敗戦して疲弊し切った日本に鉄骨はありませんでしたから、今度は木骨トラスでドームをかけました。木造大架構は戦争中の飛行機格納庫の技術の応用でした。
この台形ドームの中に、先ほど見たアルミ製半球天井が架かっていました。北口ドームも同じですね。中央ドームの形は、もとの形のように木骨で再現しました。
なお、ドームの屋根葺き材は、1914東京駅では石綿スレートだったが、1947東京駅では亜鉛メッキ鉄板ペンキ塗りだったのです。それを石綿スレートにふき替えたのは1952年だそうです。つまり応急トタン葺だったのが、元の材料で再現されたわけです。
下のドームは「2012東京駅」、つまり「1914東京駅」を再現した姿です。上の写真と比較してみてください。
ところで、「1914東京駅」の南北ドームは、八角形で立ち上がって、その上に丸いキャップをかぶせたようなデザインです。「1947東京駅」のドームをつくる時に、何故同じ形にしなかったのでしょうか。技術的には木造でも作れるはずです。
そうしなかったのは、技術問題ではなくて、その時の担当建築家たちのデザインによる選択だったのでした。内部のあのアルミ半球天井は、鉄道省建築家たちのコンペで決めたそうです。そしてこの正八角形から正方形に絞る台形ドームは、そのインハウス建築家たちの元締めの建築課長・伊藤滋による案だったそうです。
どちらも「1914東京駅」のそれらと比べて、明らかにモダンの味を持っているのは、辰野金吾とは違う空気を吸った建築家世代の現れでしょうね。
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鉄骨ドームの代わりに木造のドームをかける 南戯地ドームは底面八角形、頂面正方形 |
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手前から工事中の中央ドーム、北口ドーム |
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「1947東京駅」の各ドーム形状(2004撮影) |
この台形ドームの中に、先ほど見たアルミ製半球天井が架かっていました。北口ドームも同じですね。中央ドームの形は、もとの形のように木骨で再現しました。
なお、ドームの屋根葺き材は、1914東京駅では石綿スレートだったが、1947東京駅では亜鉛メッキ鉄板ペンキ塗りだったのです。それを石綿スレートにふき替えたのは1952年だそうです。つまり応急トタン葺だったのが、元の材料で再現されたわけです。
下のドームは「2012東京駅」、つまり「1914東京駅」を再現した姿です。上の写真と比較してみてください。
「2012東京駅」は「1914東京駅」の姿を再現 |
そうしなかったのは、技術問題ではなくて、その時の担当建築家たちのデザインによる選択だったのでした。内部のあのアルミ半球天井は、鉄道省建築家たちのコンペで決めたそうです。そしてこの正八角形から正方形に絞る台形ドームは、そのインハウス建築家たちの元締めの建築課長・伊藤滋による案だったそうです。
どちらも「1914東京駅」のそれらと比べて、明らかにモダンの味を持っているのは、辰野金吾とは違う空気を吸った建築家世代の現れでしょうね。
「1947東京駅」デザインスケッチ(鉄道省建築課制作)に見るモダンさよ |
外壁を見ましょう。こちらは今見る2012東京駅ですから、燃える前の1914東京駅と同じ姿です。3階建てです。
2012東京駅(2013撮影) |
下の写真は、1947東京駅の壁面です。ご覧のように2階建てでした。
空襲で3階が特によく燃えたので、レンガ強度が劣化しているとして取り壊し、2階建てにしました。ですから、上の写真の2階の窓の上で水平に切りとったのです。
ピラスター(付け柱)の上部た切りとられましたが、下に見るように、また改めて左官工事で柱冠飾りをつくりました。もちろん窓枠も硝子もなくなっていたので作りました。軒のコーニスを少し深く出して、パラペットも立ち上げ、形を整えています。
まったくもってよくやりましたね。そのほかにも、余りにもきれいに整えたので、知らぬ人はこれが1914東京駅と思っていたことでしょう。
1947東京駅(2006撮影) |
ところで、この1947年の修復工事は、占領軍の命令でもあったのでした。道路が壊されてしまった日本で、鉄道は日本統治のための重要なインフラでした。東京駅内にRTOと呼ばれる占領軍用のオフィスの設置も命令されました。
今の東京駅の京葉線コンコースの一角に、大きな壁面レリーフが展示されていますが、これはそのRTOの内装として「1947東京駅」に設置されたものでした。建築家中村順平の下に本郷新などの当時の新進美術家たちが集まって制作した一大美術作品でした。
今の東京駅の京葉線コンコースの一角に、大きな壁面レリーフが展示されていますが、これはそのRTOの内装として「1947東京駅」に設置されたものでした。建築家中村順平の下に本郷新などの当時の新進美術家たちが集まって制作した一大美術作品でした。
RTOにあったレリーフ(東京駅京葉線コンコースに移設保存) |
復興時のこれらの件は、その当時を回想する本『東京駅戦災復興工事の想い出』(松本延太郎著 1991年)によって、わたしは話しています。
●華麗な復興「1947東京駅」は空爆軍への復讐戦か
外観や内装など、特に占領軍の命令でもないのに、頑張ってしまったのは、鉄道省建築家たちの本能的な頑張りだったのでしょうか。伝えられるところでは、3~4年間をもてばよい、直ぐに建替えるから、とのことだったそうです。
保存建替え論争の時にも、そのような仮設だから建てなおすべきとか、あるいはまた、仮設だからこそ復元すべきとか、言われたものでした。だが、その仮設建築が1947年から60年間も使われたのですから、これはいったいどうしたことか。
考えてみれば、本当に仮設建築ならば、屋根はドームじゃなくてトタンぶきの切妻でよいだろうし、ドーム天井だってアルミ半球でなくて平らなベニヤ板でよいだろうに、外装だって燃えて痛んだレンガ壁の修復じゃなくてモルタルを塗っておけばよかったろうに、などなど、どう見ても仮設建築ではありませんでしたね。
ところが、そんな「1947東京駅」にも、どう見ても応急仮設にしか思えないデザインのところがありました。それは線路のあるホーム側に面した壁です。こちら側の壁は、ホームの木造屋根の火災によって特に損傷が大きかったのでした。
その大きな壁は、レンガ色でしたがよく見るとレンガは見えなくて一面の塗り壁でした。窓周りも柱型も、一切の装飾はありません。色つきモルタルだったのです。
その大きな壁は、レンガ色でしたがよく見るとレンガは見えなくて一面の塗り壁でした。窓周りも柱型も、一切の装飾はありません。色つきモルタルだったのです。
さすがに駅前広場から見えない側は、応急的な仕事だったのです。まさにこれこそが仮設であったのです。でも、この姿でも60年間をしっかりと務めを果たしたのです。表側をなぜにあれほども力を入れたのでしょうか。
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1947東京駅のホーム側の姿(1987年中央線ホームから撮影) |
この赤レンガならぬ赤モルタル東京駅を眺めていると、いくらレンガの代わりとはいえ、あまりの悪趣味なその色に辟易してしまいます。もしかして空爆下の東京都民が流した血の色か。
ふと、もしも赤じゃなくて白色だったらだったらどうなんだろうと思い付いて、やってみました。ヤヤッ、これって表現派というか、けっこうモダンに見えますねえ、表は擬古典様式、裏はモダニズム、スゴイスゴイ、辰野さんも伊藤さんもビックリのイタズラ。
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イタズラで北口ドーム壁を白塗りにしてみた |
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1947東京駅のホーム側の姿(1987撮影) |
もちろん1914東京駅は、線路側も表側と同様にしっかりとデザインをしてあったことは、今に見る2012東京駅がそれを示してくれています。
2012東京駅の1914東京駅を再現するホーム側(2017中央線高架ホームから撮影) |
全部が色モルタル塗壁、トタン屋根、ベニヤ板天井でもよかったのに、この「1947東京駅」の頑張り様はどこから出て来たでしょうか。建築家の性でしょうか。
考えていて思い付いたのは、これは大事な東京駅を空爆で焼いた占領軍への、鉄道省建築家たちの復讐戦だったのだろうということです。
考えていて思い付いたのは、これは大事な東京駅を空爆で焼いた占領軍への、鉄道省建築家たちの復讐戦だったのだろうということです。
ドームやらレリーフやらの飾りで、占領軍に迎合したのではなくて、単なる修復以上の新デザインもして見せることで、彼らに復讐戦を挑んだのでしょう。わたしにはそう思えるのです。しかも表は復興した姿なのに、裏は焼けた壁にモルタル塗の被災の姿のまま、その余りの落差を表現することで、戦争の文化財破壊を目に見える形で訴えたつもりだったのかもしれません。
敗戦直後の人も金も物もない疲弊しきった日本で、よくまあ頑張ってやったものです。鉄道省だから資材の調達ができたのでしょう。それにしても、その後の60年もこの姿が生きたのですから、復讐戦は成功したということでしょう。
敗戦直後の人も金も物もない疲弊しきった日本で、よくまあ頑張ってやったものです。鉄道省だから資材の調達ができたのでしょう。それにしても、その後の60年もこの姿が生きたのですから、復讐戦は成功したということでしょう。
あれまあ、1945年までタイムマシンで遡上してお見せするガイドをやってましたので、ずいぶん長口上になりました。次を見ましょう。(つづく)
註:掲載した1945年空爆被災写真のうち、モノクロ写真は『鉄道と街・東京駅』(永田博、三島富士夫 1984大正出版社)、カラ―写真は『マッカーサーの見た焼跡 東京・横浜1945年』(ジェターノ・フェーレイス 1983年文芸春秋)から、それぞれ引用しました。
註:掲載した1945年空爆被災写真のうち、モノクロ写真は『鉄道と街・東京駅』(永田博、三島富士夫 1984大正出版社)、カラ―写真は『マッカーサーの見た焼跡 東京・横浜1945年』(ジェターノ・フェーレイス 1983年文芸春秋)から、それぞれ引用しました。
◆東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
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