2017/07/11

1274【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド6】丸の内に40年ぶりに浦島太郎が美術館になって戻ってきた理由はなんだろうか

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド5】からのつづき

●三菱一号館再現登場の意義を考える

 さらに三菱1号館独断偏見ガイドを続けます。
 低層建築の「三菱一号館」を壊したのが1968年、その跡地に建てた高層建築をまたもや壊したのが2006年、そしてその跡地に登場したのが低層建築の「三菱1号館美術館」です。
 19世紀末の建築である「三菱一号館」という浦島太郎は、あたりの風景を見てさぞや、ビックリしてるでしょうね。
 どんな玉手箱を持って返ってきたのか気になって見れば、なんと乙姫様はものすごい箱をもたせてくれましたねえ、超高層の丸の内パークビルという巨大な箱ですよ、え、まさかあれを開けたら、白い煙が出てきてあたり一面を燃やす、つまり関東大震災再来ってんじゃないでしょうね。

 この美術館を設計して建てたのは三菱地所ですが、昔のコンドル設計の三菱一号館とソックリに作ったのだそうです。単に見た目の姿だけじゃなくて、煉瓦造、木造屋根などの作り方も昔のままにしたとか、ご自慢です。
最初の設計者J.コンドルが描いた三菱一号館立面図

 ご自慢の中でもその赤レンガ、その数なんと230万個、昔風の焼き方するには日本じゃ無理とて、中国で手づくり生産、そしてレンガ職人が一個づつ積んだそうです。
 でもさすがに昔の設計のままのレンガ造では地震で倒れるので、地下に免震構造を設けて、建物をゴムの上に乗っけている。まあ、地面が揺れても関係ないように浮いているんでしょうか。
 もちろん美術館として使うためるには、昔は無かった階段とか冷暖房設備とかが新たにくっついていますし、内装も2階はぜんぜん違うそうですから、完全に昔そっくりではありません。しかし、それにしてもよくやるもんです。 

 そんな努力して昔そっくり再現をしたのは、三菱地所にどんな意図があったのでしょうか。
 三菱地所の再現担当のお方に、トップから昔の三菱一号館を再現建築しろとの命が下ったのだそうですが、じゃあ、なぜそのようなことをやろうとトップは思い付いたのでしょうか。
 もちろん三菱一号館が、三菱地所の丸の内不動産事業の出発点の記念建築だったことがあるでしょう。かつてそれを保存して重要文化財にとの学会から声に反発?して、無理矢理取り壊した事件を知っているトップにとっては、もしかして罪滅ぼし感覚もおありだったのでしょうねえ、たぶん。

●不動産業としての意義はどうか
 
 独断偏見ガイドはまだまだつづきます。三菱地所は丸の内の大地主、大家主として、19世紀末からの建築を1930年頃からドンドンと建て替えをしてきました。
 ボロビルを保存なんてしない、効率よいビルを建てて、高い家賃を取る、これが不動産業としての使命ですから、当然のことでしょう。
 そしてその建て直しビル群は、決して建築界とか不動産業界の先端を行くような現代先進的なデザインではなくて、四角な頑丈な箱で使いやすい管理しやすい、文字通り保守的な姿勢で、堅実そのもの建築でした。
 でも、丸の内という立地が幸いし、それは大成功の不動産業でした。

 そうやって来たのでしたが、はたと気が付けばありふれた事務所ばかり作って、休日はだれも通らない寂しい街になってしまった。
 そう、昔の丸の内は、日曜日やお正月はほんとにゴーストタウンでしたね。わたしは人がいない丸おうちを歩いてみたくて、わざわざ正月にここに散歩に来たこともあります。
 これではいけないと三菱は考えた、1990年代からでしょうか、仲通りを中心に高級ファッションブランド物販店中心の商店街つくりに力を入れて、休日の人寄せに成功しました。仲通りも樹木を植えて、歩行者優先にして、気持ちよいモールになりました。ビジネス街が商店街にもなったのです。もっとも、わたし縁のない店ばかりですが。
丸の内仲通り 2009.7.25

 でも、10年ほどしてまた気が付けば、文化が無い街と気が付いたのでしょうねえ。美術館も博物館もない、三菱所有の歴史的な建物もひとつも残っていない。
 丸の内にある重要文化財の建築は、明治生命ビルと東京駅、歴史的な姿の建築は日本工業倶楽部と銀行協会ですが、どれも三菱地所の建物ではありません。
 たくさんあった赤レンガ建築をこわしては、四角な変哲もないビルに建てなおしてきたのでした。三菱所有の中では、丸ビルが比較的最近まで残っていた歴史的建築でしたが、これも学会の保存要請に眼もくれずに建てなおしましたね。

東京駅の前から皇居方面を眺めて、左側にあった丸ビルが無くなった珍しい写真
右の新丸ビルはまだあるが、丸ビルを建替えのため壊した直後の1998年9月撮影

 ところが、ライバルの三井不動産が、すぐ近くの三井の本拠地とも言うべき日本橋地区では、大規模な再開発を進めて超高層ビルを次々と建てている。
そこには超高層ビルだけじゃなくて、保存した重要文化財の三井本館や美術館もあるのに、こちらにはそれらしいものがなにもない。
 これはいかん、企業イメージで負けてしまう、なんとかしようと三菱地所のトップは思ったのでしょうね、たぶん。
三井の本拠地日本橋にある重要文化財の三井本館 2005年10月撮影

 で、昔壊した三菱1号館という重要文化財指定直前だった建築を、そのままそっくり再現すれば、もしかしたら重要文化財になるかもしれない、そして美術館にすれば三井本館に負けない文化イメージがつくぞ、重文指定になれば容積ボーナスがつくだろう、なんて思ったかも。あ、私ならこう思うってことですよ。

 ついでに言えば、昔々、三菱が丸の内開発計画を描き始めた19世紀末の頃、コンドルが描いたが実現しなかった建築計画には、劇場とか美術館の文化施設もあったそうです。三菱の丸ノ内開発は、120年ほど後にようやくに文化に到達したのですね。

●三菱一号館美術館は歴史的文化財か

 その作戦は成功したでしょうか。まず、重要文化財指定は無理でした。そっくりに作っても新築ですから、指定の基本にある築50年以上になりません。だからこれによる容積ボーナスは無かったのです。
 でもねえ、どうも不思議なのは東京駅が重要文化財指定になっていますよね、あれって実は3階と屋根は新築再現建築だから、ざっと見て半分はここと同じでしょ。
 それであちらは重文指定、こっちは100%新築再現だから重文指定はできないってことなら、じゃあ何%まで当初部分が残っていれば重文指定になるんでしょうか、気になります。

 それでも美術館にしたので文化施設としての社会貢献評価で100%ボーナスが付きました。それと東京駅からの移転容積が130%、それに地域冷暖房施設で35%を足して計265%を、基準容積率1300%にして合計1565%としたのです。
 美術館は昔の姿で3階建てですから、これらの容積のほとんどは同敷地内の丸の内パークビルに盛り上げたので、あの太くて高いビルになったというわけです。
盛り上がる丸の内パークビルと足元にうずくまる三菱一号館美術館

 いまの三菱一号館美術館界隈の賑わいを見れば、レンガの美術館と緑の中庭は大成功でしたね。これで休日も人々が遊びに来てとどまっていますからね。昔の寂しい休日とは比較になりません。
 でも、建築専門家やマニアはともかくとして、普通の人がこの新美術館は昔そっくり再現建築だと分るのでしょうか。東京駅と合わせて見れば、ディズニーランドの日本版なんて思うでしょうね。

 素人が分らなくても、こんなに力を入れて三菱地所草創期の記念建築を再現することに企業としての意義があるのだとすれば、それはまことにごもっともなことです。歴史を視覚的に伝え、近代日本における建築技術継承という、まさに文化的事業です。

 ところで、1968年の取り壊し事件への反省があると、更に歴史的深みが重なると思うのですがねえ、どこかにその経緯を書いた看板でも立ててありますか、三菱さん。
三菱一号館抜き打ち解体事件ニュース 1968年3月26日朝日新聞
つづく

注:三菱1号館美術館については下記の「まちもり通信」(伊達美徳)記事に詳しく書いているので参照されたい。

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

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