2010/03/15

250【ふるさと高梁】大銀杏が死んだ日

 鎌倉の鶴岡八幡宮のシンボル的な大樹の大銀杏が倒れた。樹齢は800~1000年だそうだ。いくうもの気根が垂れ下がっていて、いかにも老木の感じであった。
 1219年に源実朝を暗殺した公暁は、このイチョウに身を隠していて躍り出て刺したという言い伝えがある。樹齢800年ならまだ幼木だから身を隠しようもないが、1000年なら可能だったろう。
 生き物だからいずれは死ぬ運命にある。いつ倒れてもおかしくない樹齢である。
 今の鶴岡八幡宮は大きな樹林に覆われていて、大昔からこのような姿だったと思いがちだが、実はそうではない。明治時代の写真を見ると、大銀杏はあるが裏山は貧相な松の疎林である。江戸時代もそうだったろうが、どこでも山は薪炭林として定期的に切りたおしたから、貧養立地で松林が多かった。
 生態景観は替わっていくものである。ただ、大銀杏のように特別に伝説もある樹木は、生態に文化が付与されるから無理矢理に生かされるのもやむをえないだろう。
 もっとも、銀杏は原始的な種だから移植はやりやすいし、 けっこうしぶとく生き残るものだ。この銀杏も根とヒコバエがすぐに生えて来るだろう。
   ◆◆
 大銀杏といえば、わたしの生家の神社境内の広場の端にも、大人3抱えほどもある大銀杏があった。気根はなかったから樹齢は八幡宮のそれほどではなかっただろう。
 毎年秋になるとたくさんの実を落とす。それを拾い集めて、臭い皮を落とし、種を干す。保存食みたいなものだった。戦争直後の食い物のない時代は、街の人たちも拾い来た。
 その大銀杏を、1950年ごろと思うが、どういうわけがあったのか知らないが切り倒した。多分、神社修復費用調達のために売ったのだろう。
 長方形の広場の角にある大木で、広場方向のほかは崖地だから、切り倒す方向は広場の対角線上の位置のみである。さすがにプロの技だったらしく、みごとにその方向に倒れた。地響きがした。
 誤算は、広場に埋設してあった湧水の排水管が破損したことであった。
 切り株からひこばえが何本も出ては消えていたが、結局は再生しなかった。

2010/03/13

249【父の十五年戦争】父と叔父の戦場

 十五年戦争中に、父親が3回延べ7年半の兵役についた記録をまとめた。
 満州事変での父の激戦地である中国河北省「界嶺口」、太平洋戦争で叔父が戦死したフィリピンマニラ東方の山地が、いったいどこであるのかインターネットのgoogle earthで探してみた。
 正確な地名が分からないし、山の中の辺境もいいところだから、探し当てるのはかなり苦労したが、あれこれやっているうちに両方とも見つけた。
 1933年、22歳の父が最前線に出て銃弾をかいくぐった「界嶺口」は、河北省北部の万里の長城の関所だったみたいな村であるらしい。
 なるほどよくみると万里の長城が、峰を伝ってえんえんと延びているのがgoogle earth画像に見える。それをどんどん伝っていくときりも無い。まったくもって人間がつくった最大のものといわれることが分かる。
 今の山村風景からは想像できない戦場であったのだ。
    ◆◆
 1945年、31歳の叔父の終焉の地は、「千秋山」と生き残った部隊長の戦記には書かれているのだが、これは日本軍が勝手につけた名だから検索しようがない。
 モンタルバン、ワワダム、マリキナという地名が出てくるので、これでまず検索したら日本からの観光旅行の記事が出てきた。
 戦場であったことを知らないでいた人もいれば、慰霊に訪問した遺族の記事もある。ただし、そのままではgoole earth検索のキイワードにならないので、適当にローマ字を当てて何度も検索をくり返し、地形をたどっていたら遂にあたった。
 ここはダムがあって、今はマニラ郊外の観光地だそうだ。
 現地に行かなくてもこんなことが分かるのだ。goole earthはほんとにすごい。こんなことができる時代にわが人生が間に合ってよかった。
 そうそう、グーグルストリートで、わたしの生家の神社が出てきたのには驚いた。

父の15年戦争

2010/03/10

248【老い行く自分】わたしの傷病譚

 いま排水装置が故障している。前立腺が錆付き膨張しているとて、脱錆薬で修理中だが、順調に機能回復中である。
 実はこれと同じことを4年前にもやった。そのときは突然に39度の熱が出て、震えがすごくて立っていられなかった。このときも突発性の炎症で、1か月くらいかかって薬で治った。
 わたしは幸なことに大病をしたことがない。もの心ついて入院した経験は2回しかない。思い出して書いておく。

 最初は中学生1年生のときで、右腕骨折。校庭で走っていて、丸太で作った平行棒のような遊具に足をすくわれた。
 ちょうどその頃、母親もなんだか忘れたが接骨医院に入院していて、わたしもついでに入院した。いま考えると父親は大変だったろう。

 2回目は、40歳の頃、ある日駅の階段を登っていたら、突然に左の臀部が痛くなり、歩きにくくなった。
 大腿骨の頭と骨盤とのフリージョイント部には、潤滑油のようなものが入っていて円滑に動くようになっているのが、重い荷物をもって階段を駆け上がったので、その潤滑油が切れて骨と骨とが接触したのであった。
 実はこうわかるまで1ヶ月くらい、あちこちの医者で見てもらったが一向によくならなかった。鎌倉のS病院でそうとわかって、10日間くらい入院した。
 やった治療は、ベッドで寝ていて右足に紐をくくりつけ、その先に錘をつけてこれをベッドからぶら下げておくのである。要するに、骨と骨の間をひぱって開けておき、そこに切れた潤沢油を戻すのだ。分かりやすい治療である。
 そんなことは通院でもできそうなものだが、それでは行きかえりでまた元に戻ってしまうから、ベッドにくくりつけておくのだそうだ。

 入院配しているが気分のほうは全く問題ないのだから、ワードプロセッサーを持ち込んで仕事をしていた。
 大部屋だったので周りの入院患者たちの様子を観察してもいたが、これは面白かった。
 骨折して入ってきた80歳の老人は、完全介護の付き添いが何もかにも世話していた。そのうちにしだいに老人はボケが進んでいく様子で、これはちょっとこわかった。
 もう何回目かの入院ベテラン中年男がいて、看護婦をこき使っていたのも奇妙だった。次の入院も人生模様のある大部屋がよい。
 夕方になると近くの銭湯に行く。胃腸は健康そのものだから、病院の給食を食ってから後がこまる。幸にして銭湯のまん前が酒屋である。カーテンの中で本を読みつつ、ばれないように一人静かにカップ酒を飲むのは、なんとなく禁酒法時代もかくやと、悪くなかった。
 退院してからもしばらくは、わが家で足引張りをしていたら、そのうちにどちらの足か忘れるようになった。

 入院はその2回だけである。全くもって生命傷病医療保険の料金の払いすぎである。
 入院こそしなかったが、現代医学で社治療方法がない難病、奇病にかかったことがある。
 この大腿骨頭壊死症、萎縮症の件はすでに別のところに書いた。
 ●参照→にわかハンディキャッパーは「誤診」だった(2003~06)https://sites.google.com/site/machimorig0/handicapped
 
 奇病といえば、大学2年生のときにメニエル氏病になったことがある。
 三半規管が故障して、まっすぐに歩けないのである。例えば、歩道でふち石の上を歩いても、3歩も続かず足が外れる。
 原因は分からないままだったが、2、3ヶ月だったか通院を続けて栄養剤の投与をしばらく続けて治った。
 
 これは奇病かどうか分からないが、帯状疱疹で寝込んだことがある。30台の終り頃だったろうか、勤め先の仲間と大勢で山陰の海に泳ぎに行った。
 どういうことだった忘れたが、かんかん照りの太陽の下を、裸で3時間ぐらい歩き続けた。そのときは特になんともなかたが、自宅に戻った次の日から、腹と胸を一周してたくさんの真っ赤な粒粒が出てきた。触ると痛くて痛くて肌着も着ることができない。
 真夏なのにふわふわ毛布を出してひろげ、その上のそ~っと寝転び、寝返りもうてずに安静にするしかない。あれは苦しかった。1週間ほど寝込んだ。
 後で知ったが、もともと体内にあるヘルペス菌が体調がわるいと出てきて発症するもので、帯状疱疹は命に関わることもあるとか。

 同年齢あたりの仲間が集まると、どうも病気の話になりやすい。あまり経験がないので話の仲間に入りにくいのが、残念なような、それでよいような。

2010/03/08

247【言葉の酔時記】建築家、建築士、設計士

 珍しくTV番組を見た。長周期振動の地震波による建築物の倒壊の話を、昨夜のNHKでやっていた。
  内容は高層ビルが長い波長の地震波で壊れるかもしれないが、対策はほとんどとられていないというのであった。そのことについてのコメントは「長周期地震波災害」を見ていただくとして、ここでは一般の建築を設計する専門家への見方のことである。
 芝居仕立ての番組構成は、超高層ビル45階にあるバーのバーテンダーが狂言回しとなる。カウンターで男女の客が地震を怖がる話をしていると、やおら別の男が割り込んでくる。
 何者かと聞くと「建設会社の建築設計士」と名乗るのであった。
 ここでわたしは引っかかった、オカシイ、。え、どうして、と、オカシイと思うほうを世間の方はオカシイと思うだろうか。
長周期地震波災害-明日来る大地震に備えて借家へ(2010.03)
   
 実はこれまで多くの建築の設計を専門とする人に出会ったが、誰一人として自分のことを「設計士」といった人に出合ったことがない。自分が建築設計をしていた30年以上前でも、そういう職業名を考えたこともなかった。
 でも、天下のNHKが設計士というのである。世間では建築士あるいは建築家のことをこう言っているのであろうか。
 そういえば先般、文筆家の方から私の文の引用依頼があり、その引用の外の文章に知人のことを「建築設計士」と書かれていたので、専門の世界では使わないことを申上げたら、全く他意なく使っていたとのご返事であった。
 そうか、世間では「建築設計士」というのか、。
   
 でも、本当は「士」がつくのは国家資格である。弁護士を筆頭に、公認会計士、司法書士、計理士、税理士、航空士、航海士などなど、はいて捨てるほどあるうちに、「建築士」もあるのだ。一級建築士資格はわたしも持っている。都市計画に関する資格の「技術士」ってのも持っている。どちらも持っているだけで何の役にもたっていないが、、。
 世間にはナントカ士って勝手に資格を考え出して、金を取って売る商売もあるらしいから、ナントカ士の全部が国家資格でもないようだ。逆に国家資格のナントカ士を資格も無いのに詐称すると罰せられる。
 とういうわけで、バーで自らを「建築の設計士」と名乗る人がいたら、これはほぼ間違いなく「建築士」と間違わせようって魂胆のある人、つまり偽専門家である。お気をつけ下さいませ。

くたばれマンション
https://sites.google.com/site/machimorig0/datemegane-index#mancion

2010/03/07

246【くたばれ乗用車】轢き殺される側

 世界一に成り上がった自動車メーカーのトヨタが、なんだか知らないが欠陥車を売ったとて、アメリカから叱られているらしい記事が新聞に載っている。
 運転していると突然スピードが出るとか、ブレーキが利かなくて暴走するとからしい。それで欠陥商品だ、いや運転が悪い、とか言い争っていて、アメリカの国会からお呼びだし食らった社長が、とうとう「謝罪」したとある。
 謝「罪」だから犯「罪」行為だったということなんだろうなあ。なんでもアメリカあたりじゃあ、謝ったほうが悪いって習慣らしいよ。
 あれ?、日本の国会はどうして呼ばないのかしら。
    ◆◆◆
 で、気に入らないのが、車を買った客に謝っただけらしいってことだ。新聞論調も、消費者の立場で作ってるのかって口調であるのも気にくわない。あまりに一面的だぞ、その暴走車に轢き殺される側の身にもなってみろってんだ。
 何の関係も無い歩行者が、道端で突然に襲ってくる車に殺されることは、日常茶飯事で起きている。それが運転過誤で起きている現状に加えて、運転者も知らない原因での襲撃も加わってきたとなると、そんな通り魔型大量殺人機械に進化されては、こちとらはどうしようもないぞ。
 ついでに言えば、排気ガスによる長期的殺人装置でもあるし、騒音による慢性痴呆化促進装置でもあるぞ。 
 こんな殺人機が、日常的にそこいらじゅうを走り回っているのが不思議である。
    ◆◆◆
 もしもこれまでに世の中に自動車がなかったとする。そこに突然、こんなものを発明しました、超便利だがこんな害毒もあるってわかって売り出すとなると、はたして世のに受け入れられるだろうか。
 自動車は長い年月をかけて徐々に既成事実を積み上げ、素人も使うことができる殺人機であることをデファクトスタンダードとして世に公認させた稀有な商品である。
 それには戦争という天下公認の殺人ごっこが、大きなドライブとなったことを忘れてはならない。特に第1次世界大戦(1914~18)では、自動車が兵器として大きな役割を果たし、その後の普及を促進した。
 殺人機であるからこそ、厳重な法的規制がかかっている。運転免許という国家が運転を許す仕組みがその最たるものである。
 とにかく、わたしもあなたも、この殺人機に、今日か明日には轢き殺されるか、廃ガスで喘息窒息死するかもしれない運命にあるのだ。
 メーカーもマスメディアも、轢き殺される側の視点が欠けている。
    ◆◆◆
 とりあえずやるべきことは、法律を変えて運転免許を厳格なる審査を経たプロフェショナルにしか交付しないこととせよ。ド素人でも殺人機を運転できる今の制度は間違っている。これじゃピストル売買自由と同じだ。
 2つ目は、自動車は何か異常があると、とにかく停止するフェイルセイフ設計とすること。例えば50キロ以上の速度が出たら自動的に停まるのだ。
 3つ目は運転者が最も衝突リスクを負う設計にせよ。運転者がまず安全とする設計にするからスピード出すのだ。ぶつかって一番先に死ぬのは運転者にせよ。ぶつかられたこちらが安全な設計にせよ。
 
●参照→くたばれ自動車

2010/03/06

245【世相戯評】優勝は銀メダルらしい

 まったくもう、新聞の社会面にも第1面にもづかづかと土足で、毎日毎日入り込んできて、本当にジャマであった。スポーツ欄に引っ込んでろよ、オリンピックめ!
 TVは見ないから言いようがないいが、あちらはモットすごかったのだろう。
 なんでこんなに大ニュースなのか。社会面にはなんだか美談調のお話らしい見出しである。中味はもちろん読まない。
 この紙面の感じは、どこかで見たなあ、そうだ、この1年ほど父の戦争史を調べているので、図書館で1931年からの戦中の新聞を見出し読みしてきたのだが、その激戦の報道とソックリである。
 負けているのに勝ったかのような報道は、スケートで韓国と日本の女の子が競った記事である。いや、読んではいないのだが、見出しだけ眺めていると分かるのだ。
 第1面にどかどかと瓜実顔の女の子が出ていて、「銀」、と大見出しである。ふ~ん、この報道量の大きさからしてオリンピックってのは昔は金が優勝だったけど、いまは一等賞が銀で、2等賞が西瓜顔の女の子の金なんだ、、。
 この書きっぷりは、日本軍の大本営発表(戦後になって嘘発表の代名詞になった)鵜呑み記事に、雰囲気がなんだか似ている。 ボロ負けしてもボロ勝ちしたように書かされるのだった。
    ◆◆
 1933年3月3日に、日本の東北の三陸地方で大津波が発生して、1500人以上も死者が出る大災害が起きた。新聞はそれまでは毎日毎日、満州事変が拡大して日本軍が万里の長城を越えて侵攻した熱河作戦記事でいっぱいだった。その日から毎日がこの昭和三陸地震記事(死者1522名、行方不明者1542名)で埋めつくしている。かなりの期間、中国での戦争は脇に追いやられた。
 後の太平洋戦争末期の1944年12月7日に、東海地方で1200人以上の死者が出た東南海地震について、当局は「戦局苛烈な折、国民の士気を阻喪してはならない」と実情報道を禁じた。翌12月8日の朝日新聞は「一部に倒半壊の建物と死傷者を出したのみで大した被害もなく、郷土防衛に挺身する必勝魂は、はからずもここに逞しい空襲と戦う片鱗を示し復旧に凱歌を上げた」とある。
 満州事変時代はまだ少しは健全であったとも言える。
 今はどうか。オリンピックの前に起きたハイチ大地震の記事は、オリンピックになってからぱっと消えさった。
 と思ったら、オリンピック終了直前にチリ大地震である。さすがに1面に載ったが、社会面はオリンピックお涙頂戴記事、次の日からオリンピックがすぐに押し戻した。遊びが災害に勝った。いま、時代は健全か?

033オリンピックが終ったらしい

2010/03/05

244【怪しいハイテク】ローテク掃除

 3月になった朝から体調が悪い。排水装置のあたりに故障があるらしい。2日に専門医に診てもらうと雑菌で錆付いているとて、薬を貰って飲んだら少しは排水機能回復したが、まだ錆排水で不調である。
 微熱があるらしく、コンピューターいじりも気分が乗らない。毎日かわいがっているうちのPCに触らないのもかわいそうである。
 そうだ、まわらぬ微熱頭を使わないいじり方がある。キーボードの掃除をすることにした。これまでやったことが無い。刷毛でささっとそよがせるくらいだ。
 この刷毛は製図用刷毛である。製図版で設計製図をやったことある人は、アレだっ、そんなものまだ持ってるのかって懐かしがるだろう。消しゴムかすを掃き落とすヤツで、KENTのブランド品である。製図版は7年前の引越しで捨てたけどこれはもっている。そういえば製図版を蕎麦打ち板にして再利用している知人がいる。ちょうどよいとか。
 あ、製図の話じゃなくてキイボードである。もう7年も使っている。
 しげしげと見ると、茶色のものがあちこちについてる。たぶん蜜柑の汁が飛んだのだな。
 キイの間には綿埃がたまっている。ためしに中央あたりのキイを3つはずす。ありゃ、埃モワモワの中にクッキーのかけらがある。
 3つ分くらいの大きさのENTERキイをとる。ウワッ、ゴキブリの巣か、埃の山に煎餅のかけらもある。
 こうなったらしょうがない、徹底的にやるぞ、気分はすぐれないが、なんだかファイトが沸いてきた。どうもお安いファイトである。
 かたはしからはずしていく。問題はそれらがどこにあったのか分からなくなることだ。慎重にもとの配置のように別のところにおいていく。
 綿ぼこり、煎餅かけら、クッキーかけら、ステップラー針、そして茶色のこびりつき、まったくもう机上の魔窟である。
 ミニ掃除機、刷毛、濡れ布巾、爪楊枝、塵取りをもって、ボードとキイとを徹底的にほじくり、吸い、吹き、掃き、拭う。
 さて、キイを戻していく。これって、ジグソウパズルか、いや、なんだか少年時のラジオキットの組立みたい。
 あれ、こんなキイあったのか、一度もたたいたことないぞてのがいくつもある。だいたい辺境の地にいる奴らである。
 北極のあたりにいるF1からF12の流氷キイ群に触ったことあるかしら。PCのやつからなにかで押せと命令されたことがあった様な気がするだけだ。
 アラスカのもっと北東カナダ奥地にいるエスキモーキイ群のなかではDeleteはよく使う。Insertはまれに使うが、それはDeleteと間違えて押したときに元に戻すために過ぎない。PrtSc--SysRqなるわけの分からんキイは、画面コピーでたまに使う。ダウンロード禁止措置をしているページの盗撮である。これを知らないころは、カメラで写すとモワレがでて困っていたが、このキイではそんなことはない。Pause--Breakってなんのことだか。
 辺境にありながらよく使うのは、Enter、BackSpace、半角/全角‐漢字である。これらやDeleteが、有用なる能力を持ちながら、なぜ辺境配流の気の毒な境遇にあるのだろうか。
 未利用キイはほかにもあるけど、使ってないってことはいらないってことだろう。そのうちに何かで使うようになるかもしれない。
 そうやってPCのほうの魔窟はローテクノロジーでもって撲滅したのだが、体内の魔窟はどうなるのか。いや、医者は魔窟ってほどじゃなくてすぐ治るといっている。そうだ、ちょうど「父の十五年戦争」を1年ほどかかって書き上げたので、気と体が緩んだのであろう、、なんて、いかにも作家みたいで格好よろしい、はは。

2010/03/01

243【くたばれマンション】片想いの賃貸住宅政策

 住宅供給公社よ、もっとがんばってくれ
  わたしが住んでいる賃借住宅の家主である県住宅供給公社から、「家賃改定に関するお知らせ」なるものがポストに入っていた。
 おお、値上げか、また文句をつけるかと読んでみると、こうである。
「皆さんの現在お支払いただいている家賃につきましては、平成22年度4月に改定することを予定しておりましたが、昨今の社会・経済情勢を踏まえ熟慮の結果、平成22年4月の家賃改定は見送ることといたしましたので、お知らせいたします」
 ありゃ、値上げしないのか、でもデフレ時代だから値下げするのが本当かもよ。
 文面で気になるのは「昨今の社会・経済情勢を踏まえ熟慮の結果」のところである。つまり公社が考えに考えた末ってことらしい。この賃貸住宅ビルだって空き家がたくさんあるしなあ。
 でも、値下げするのが嫌だから、「熟慮」して「見送」ったのだろうと、意地悪く読めるのである。
 これでよいのだろうか。というのは、公社家賃は市場価格と連動すると制度上の決まりがあるからだ。
 実は2002年入居からこれまでに2回の家賃改訂があった。2回とも値上げである。その最初の家賃改定のとき、わたしと家主の公社の間でトラブルが起きた。

●以下全文は→片想いの賃貸住宅政策

2010/02/25

242【横浜ご近所探検】街なか高齢者施設

 近くの表通りの角地にあるガソリンスタンドが突然閉店したと思ったら、どんどん建物の取り壊しをはじめた。
 巨大なキャタピラーつきの自動車が、巨大な蟹のハサミのような手先を持った腕を振り回している。コンクリートの壁でも床でも、ガブリと噛み付いてギリギリギリと齧り取る。
いつまでも道端に立って見ていると、怪獣で興奮しているガキの気分になってくる。10日ほどでペチャンコになった。
 後に何が来るのか、どうせ名ばかりマンションなる共同住宅なんだろうと思って工事看板をみたら、なんと高齢者介護施設を建設すると書いてある。ほう、こんな街のど真ん中に、こんな高層建築で介護施設とはねえ、。

 そこから50mほどの次の角には、2階床までコンクリートが立ちあがったところで、もう1年以上も工事が止まったままのビルがある。
 わたしの住む賃借共同住宅の隣である。それは分譲共同住宅の予定であったが、あれも高齢者施設に設計し直して工事続行したらどうか。

 いいねえ、こんなところに高齢者介護施設とは、遊びにも買い物にも便利だもんなあ、、あ、いや、そんな人じゃなくて寝たきりを入れるのかなあ、まあいいや、わたしもそのうち入れてもらいたいが、場所が場所だから高額だろうなあ、。

2010/02/19

241【父の十五年戦争】1945年の血なまぐさいオリンピック

 バンクーバーでオリンピックをやっているらしい。日本選手が勝たないことを願っている。
 だって、勝ったら新聞の読むところがぐ~んと減ってしまうんだもの、新聞代を負けろ!。

 ところで2008年8月にもオリンピックをどこかでやっていた。そのとき、このブログで「オリンピック作戦 operation olympic」なるコラムを書いた。
 1945年はじめ、日本はアジア太平洋戦争の敗北が続いて末期的症状にあり、4月には沖縄本島にアメリカ軍が上陸して、次は本土に上陸して戦闘になることを避けられないとして、本土決戦の準備に入る。

 一方アメリカ軍は、「ダウンフォール作戦」と名づけた日本本土上陸作戦を立案していた。
 それは二つの作戦からなり、九州上陸が「オリンピック作戦」で、関東上陸が「コロネット作戦」であった。
 実際は原爆によって、この作戦計画実行よりも早く日本が降伏したので、作戦は日の目を見なかった。

 時は移り2008年10月、わたしの母親が死んで、遺品から父親の戦争日誌が出てきて、それを解読していたら、父は「コロネット作戦」と危ない関係にあったことがわかったのだ。
 このブログに2008年8月「オリンピック作戦 operation olympic」を書いた時は、そのことをまだ知らなかった。
   ◆◆
 1945年1月、大本営は現実味を帯びてきたアメリカ軍の本土上陸に備える、最後の決戦に臨むことにした。4月には沖縄本島にアメリカ軍は上陸した。
 わたし父は、1944年はじめから姫路にある第84師団にいて、南方戦線のラバウル島に行く船を待機して通信隊の教育に携わっていた。
 しかし戦況は不利になるばかりで、制海権制空権は徐々にアメリカ軍に奪われてゆき、輸送船の調達も郵送そのものも難しくなる。

 では台湾へとか沖縄へとか朝令暮改するうちに、幸なことに父の師団は国内にとどまり、神奈川県松田町に移駐することになる。
 この松田町が「コロネット作戦」の中心地にあったのである。関東上陸作戦の中心地が相模湾沿岸であり、松田町は上陸後に東京に侵攻するルート上にある。

 わたしが鎌倉に住んでいた頃、海岸部の崖にたくさんの穴があり、それは戦争末期に掘ったもので、そこに砲をすえつけて連合軍上陸に備えていたのだと聞いてはいた。
 それがわたしの父親にも関連しているとは、思いもつかなかった。
   ◆◆
 1945年1月、大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」で本土決戦の方針を出し、軍組織を改め、大動員をかけた。しかし、これには訓練を受けていない兵や老年兵が多く含まれ、武器もそろわず、かなり無理な計画であった。
 3月には大本営は「国土築城実施要綱」で各地に陣地を造って戦場とする準備を命令、3月には「国民義勇隊」の結成を閣議決定し、これは国民全体を本土決戦の要員としようとするものであった。

 4月に「決号作戦準備要綱」を大本営は発表して本土決戦部隊を日本各地に派遣、上陸が予想される関東や九州の海岸で重点的に、アメリカ軍上陸を迎え撃つ陣地構築が始まった。
 そして第53軍(司令官赤柴八重蔵)が本土決戦作戦の神奈川担当となり、第84師団はその編成下に入り、5月に相模湾上陸の敵に備えるために小田原に配備されて司令部を置いた。7月には松田町に司令部は移動した。

 この部隊は相模川以西の沿岸地域の担当で、海岸と後背地に陣地を構築して、ノルマンジーのように上陸してくるかもしれない連合軍と刺し違えて、止めようもない侵攻を遅延させる作戦であった。
   ◆◆
 第84師団に属する父の岡山201聯隊は、5月から移動して当初は沼津で陣地の構築作業をおこない、6月には松田町の松田国民学校に駐留した。
 町民や中学生も動員して陣地構築など行なった。松田山に穴を掘って司令部を移転する陣地の構築を進めた。あちこちに穴を掘って上陸軍を撃つ陣地構築も進めた。
 海岸では砂浜に兵士1人づつが入る穴をたくさん掘って、上陸してくるアメリカ軍の戦車の下に爆弾を抱えて飛び込む自爆作戦であった。

 おそらく父もそれらのどこかで穴掘りをやっていたらしく、「松田の山中で穴掘り中に終戦」と手記に書いている。
 このころは通信隊であろうが工兵隊であろうが隊の任務に関わらず、あらゆる仕事に携わっていたようである。
 部隊の食糧は自給自足であったので、田畑を作っており、これに住民たちもかりだされた。
   ◆◆
 コロネット作戦は、千葉県の九十九里浜と神奈川県の相模湾湘南海岸に上陸して、双方から東京に侵攻するもので、太平洋方面のアメリカ軍の総力を結集して、日本に対するとどめの攻撃となるはずであった。
 重点は相模湾側にあり、ここから北に攻め上って東京へと進むのであるから、小田原平野の北端部にある松田町はその進路のひとつにあたることになる。

 もしも本当にここで本土決戦の戦いがあったら、質量共に豊富なアメリカ軍に竹やり肉弾戦法の日本軍が勝てたはずはないから、わたしの父もここで果てたにちがいない。
 実際には、1945年6月に原子爆弾の開発が成功したことにより、コロネット作戦は保留となり、原爆の投下によって必要がなくなったのであった。
 その意味では、原爆が多くのアメリカ軍兵士の命を救ったというアメリカ流の原爆の意義解釈を、父にも適用できるかもしれない。

 それにしてもアメリカ軍上陸作戦地を日本軍がよく知っていたものであるが、諜報活動の結果か、それとも誰が考えてもそうなるのだろうか。
 8月15日敗戦、8月25日には部隊は引き上、父は郷里に8月31日に戻った。
   ◆◆
 ゆるゆると1年ほどかけて資料を調べながら解読した父の戦争の手記を、「父の十五年戦争」として、わたし足の解説をつけて一応のまとめを一段落した。
 1931年から1945年までの十五年戦争の、最初の年から断続して3回の召集を受けて、兵役で7年半を過ごした記録である。
 副産物として、フィリピンで戦死した叔父の戦場、悪名高いインパール作戦の生き残りの中越山村の長老の戦場のことも知ることができた。

 おかげであの戦争をはじめから最後まで、父が行かなかった南方戦線までも追うことができた。上の文は、その最後の兵役時代の要約を載せたのである。
 父の十五年戦争記録は弟たち息子たちには見せるが、ほかにどうするわけでもない。わたしの人生の宿題のひとつが、ボケないうちにできたと言うことである。次は残りの宿題にかかろう。

◎参照→父の十五年戦争

参考文献
・「相模湾上陸作戦―第2次大戦終結への道」大西比呂志ほか 有隣新書 1995
・「小田原地方の本土決戦」香川芳文 小田原ライブラリー 2008
・「茅ヶ崎市史 現代2 茅ヶ崎のアメリカ軍」茅ヶ崎市 1995
・「松田百年」松田町 2009
・「戦史叢書 本土決戦準備(1)関東の防衛」防衛庁防衛研究所 朝雲新聞社