2011/11/17

533毎度おなじみ横浜都計審批評

本日は横浜市都市計画審議が開催されたので、恒例の傍聴に行ってきた。
 そして、わたしがかつて委員になる前も、委員になってからも、委員を辞めてからもここに掲載してきた恒例の批評を書く。

●いい加減な制度の生産緑地
前回は8月だったが、そのときは市街地再開発事業の都市計画案件が議題だったので、これをどう審議するのだろうかと興味があった。
 その結果はこちらを参照→大丈夫か横浜都計審 
 今回は、あのいい加減すぎる都市計画制度「生産緑地」が案件だったので、これをどう審議するか興味があった。
 結論を先に言えば、なんの審議もせずに原案とおりに可決した。委員の発言がなかったのではないが、要するに制度の解説を事務局の役人に教えてもらっただけであった。
 議案の中身の当該地へいって現状を見たきたものは、ひとりもいないようだ。
 そもそも生産緑地の都市計画ほど、都市計画を馬鹿にした都市計画はない。都市計画というごとくに計画的に指定したり解除したりしているのではなく、地主農民の申し出の成り行きまかせで、それをたんに手続的に追認するだけのことであるようだ。
 わたしが委員だったときの一番のイライラはそのことであり、毎回の審議会の前に現地を見てきては問題点を指摘して改善を訴えた。
 そこに審議会はなぜ切り込んで審議をしないのか。
 2番目の議題の、鶴見区馬場4丁目特別緑地保全地区の案件についても、委員の発言は制度の解説を求めるものばかりで、とても審議とは言えない。

●地元商店街発案の地区計画
 3番目の地区計画は、神奈川区の大口商店街の地元から要望があって定めるという、珍しいものであった。
 既存の商店街がその振興のために、自ら街づくりに地区計画を持ち込もうとする、その意気込みを高く評価する。
 その内容はいろいろと地元参加の調整のうえのことだろうから、わたしがあれこれ言うことはない。委員の発言もそのあたりを心得ていたようで、商店街振興への提案的な内容もあった。
 わたしが気になったのは審議内容よりも、今回の傍聴者はわたし一人だけであったことだ。
 この議題のような地元からの発意で作られた地区計画ならば、これを都市計画審議会がどう評価するだろうかと、地元の人は気にならないのだろうか。わたしなら気になる。
 商店街の人が誰も傍聴に来ないということは、都計審のことを知らないか、知っていてもどうせ原案通り可決だからとバカにしてるのか、どうなのだろうか。
 ところでこの地区計画に至る経緯は、会議資料には大口まちづくり委員会が「横浜市長あてに要望書提出」と書いてある。
 これは都市計画法第16条第3項の地区計画等の申出制度によるものだろうか。それとも単なる要望だろうか、そのあたりを委員は聞いてほしかった。

●せっかく本質的な発言なのに
 第4の議題は、泉区の泉新橋榎橋地区の地区計画である。これは大口とちがって、郊外の新開発住宅地である。
 ここはただいま土地区画整理事業による開発が進行しており、これに地区計画をかけて、詳細な土地利用や建物の制限をする。
 わたしとしては、土地区画整理事業が先にあるのだから、その経緯や内容、事業者などについて聞き、それを踏まえて審議してほしかった。
 この議題で、本日はじめてといってもよい内容にかかわる意見が、市民委員から出された。
 それは、建物の隣地境界線から離す距離を60センチとしているが、自宅での経験的にもそれは狭すぎる、せめて80センチ以上にするべき、との意見である。
 わたしはこの数字のよしあしをここでは論じないが、地区計画の内容にかかわる審議すべき事柄である。
 原案についての事務局の考えは、民法の寸法によっているとして、という趣旨であった。(民法では50センチだよなあ)
 ところが、この市民委員の発言のしかたが、「本質にかかわることでないので恐縮ですが…」という、実に遠慮深いものいいであった。
 せっかく地区計画の内容の本質にかかわることで、これこそ委員らしい意見であるのに、これでは何か勘違いをされているようである。
 結局、それ以上に押して発言されることなく、審議会もこの意見について何の審議もしないで、無視されてしまったかたちで、原案通りに可決した。
 わたしなら、原案に反対の手を上げただろう。

●相変わらずだんまり市議委員
 今回の出席委員は16、欠席は9名で内学識者は4、市議が4、市民ひとり。
 市議員は、ひとりが特別緑地保全の議案でこの制度を批判するちょっとピントはずれに聞こえた発言をされたほかは、いつものとおり全員だんまり並び大名。
 なんにしても、都市計画勉強会とか都市計画質疑会じゃなくて、都市計画審議会として実質的な審議をしてほしいものである。
 なお、前回の議事録は、3ヶ月も後の本日になって、ようやく横浜市都市計画サイトに公開された。情報公開がおそいよ~。
●関連→あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている

2011/11/16

532横浜ご近所再開発6題

横浜のご近所のあちこちで、町の姿が変わってくる。それを追いつつ徘徊するのだ。
●参照→347ご近所再開発 http://datey.blogspot.com/2010/11/347.html

 横浜の伊勢佐木モールにあった、ちょっとクラシックなビルの松坂屋百貨店が取り壊されたのは208年のことだった。
 閉店の前にそのアールヌーボー的な内部意匠を見学した。
 それから工事弁の中でトンカチ工事が進んでいた。今日みると、工事囲いの上に新ビルが顔を出している。
 おや、なんだか昔見たような姿だ。どうやら元の建物の表の姿の一部をコピーして再現したらしい。
 でも、ちょっと縮んだかな、なんだか物足りないような。
 写真を撮って以前おと比べたら、やっぱりかなり省略してコピーしているのであった。まあ、その努力だけは認めましょう。
 といいつつも、馬車道の日動火災ほどの断固たるデザイン意図を持ったハイブリッドデザインでもないのが、ものたりない。


 伊勢崎町2丁目の角に先月末に巨大なパチンコ屋が開店した。ここには3階建ての防火建築帯であったと思しいビルがあった。ながらく空き地のままだったが、2年ほど前に工事が始まった。
●参照→365横浜ご近所再開発2011正月 http://datey.blogspot.com/2011/01/3652011.html
 1年足らずで3階建てくらいの建物がほとんどできた頃、どういうわけか取り壊しが始まった。その囲いのままにまた工事をしていて、ビルとしてはたいしたことない規模なのに、ずいぶん時間がかかった。
 伊勢佐木モールもだんだんと高級老舗店舗はなくなっていって、チェーン店がはびこり、そしてパチンコやゲーム屋などの風俗営業店舗が多くなりつつある。街の雰囲気がだんだんと落ち着きがなくなって、ハデハデになってきてる。


 これだけ地震騒ぎで分譲共同住宅はあぶないものなに、その建設はとまらない。山吹町に共同住宅がまたひとつできた。


 長者町2丁目角にガソリンスタンドがあったのが壊されて、ここにも分譲共同住宅が建つに違いないと見ていたら、なんと高齢者専用の施設ができあがった。
 介護センターとか、介護老人ホームとか、わたしが今後の用がある施設である。
 なるほど、こういう時代に対応する再開発が成り立つ時代である。分譲共同住宅でないのが、なかなかよろしい。
 
 富士見町で4年ほど前から建設していた共同住宅ビルが、地上2階床までコンクリートをうったところで、デベロッパーが倒産だとかで工事がとまったままになっていた。
 1年ほどブランクの後に、新たなディベロッパーが買ったらしく工事が再会した。
 つい先月に一応出来上がったようだ。販売パンフレットを見ると、ほとんどが1寝室、少し2寝室がある程度だ。投資屋向けかもしれない。
 これはわたしの家のある貸借共同住宅ビルの道を隔てたすぐ北側にあるから、日当たりはあまりよくない。

 山田町に小さな敷地に精一杯建てたペンシルビルができた。これは1寝室の単身者用の賃貸住宅らしい。完成から3ヶ月くらいたつが、見たところ入っているのは2、3戸程度か。これも、わたしの家のあるビルが邪魔で日陰だもんなあ。
●参照→297共同住宅ペンシルビルhttp://datey.blogspot.com/2010/07/297_29.html

2011/11/15

531地下便所の境界線

 地下鉄の便所で小便をしようとして気がついた。
 律儀にも道路と民地の境界線をタイルの壁に表示してある。
 この線の左だと道路で立小便、右でやるとどこかのお宅の庭で立小便。
 なぜここだけ表示してあるのだろうか。別々に管理しているのかしら。
 まあ、どうでもよろしいですが、書いてあると気になる。

 小便ついでに、もうひとつ。
 スイスのゴルナーグラードというマッタホルンが見える高原にある便所。
 小便しようと便器を見ると、蝿がとまっている。
 こんな高山でも蝿がいるのか、こいつをめがけて放水するのは、男の本能だ。でも一向に蝿のやつは気にしない。
 よく見れば絵である。
 ふむ、ひっかかったか、いや小便じゃなくて、わたしが。

2011/11/14

530酉の市とB級グルメクラシック

 横浜南区の真金町にある大鷲神社で、今日は今年の二の酉の市。
 この屋台がずらりと並ぶ祭りに風景を大好きである。これまでは夜に訪ねたが、今回は写真を撮りやすい昼に訪ねた。

 平日なのにもう混雑している。縁起物の熊手を売る露店では、手拍子の音が景気よく聞こえる。熊手が売れたらその場でシャンシャンと打つ。
 熊手は、小さなものはストラップの飾り物から、大きいのは両手を広げるくらいのものまである。値段が書いてないが、何十万円もするのだろう。縁起物だから、買う人は買う。

 熊での飾りをしげしげと見る。お多福の面、小判、米俵、鯛、宝船、末広がり扇、鶴亀などなど、日本の古典的な富の姿をモロに飾りつけているのが、欲望丸出しで面白い。
 サイケデリックデザインというかキッチュという他はない。現代アートかもしれないとさえ見えてくる。

 露店が並ぶ中を歩く。見ているだけだが楽しい、そのサイケデリックなようで、統一感がるようで、ばらばらなような露店デザインが面白い。これも現代アート並みに不思議な光景である。

 露店で売っているものは、縁起物のダルマや招き猫もあるし、射的、スマートボール、金魚すくいなどの古典的ゲーム、お子様向けのお面は時代のヒーローを現し、そして元祖B級グルメとでも言うべきさまざまな食べ物飲み物がならぶ。

 クラシックないか焼き、焼き鳥はもちろんだが、トルコ発祥のシュシカバブが露店の地位を占めたのが面白い。
 露店で売る食い物の時代的変化を追うと、なかなか面白そうだ。
 最近。B-1グランプリなんていうB級グルメの全国大会があるそうだが、この露店の繁盛の様子こそB級クラシックレースとでも言うべきか。ただしこれは全国区のB級グルメであるところがB-1とは違う。
 富士宮焼きそばとか白コロホルモンの露店が出ているのだが、これってB-1グランプリでまさにグランプリをとったB級グルメだったから、こうやって全国区になったのだろうか。

●関連→060横浜ご近所探検・酉の市

2011/11/13

529除染、滅染、移染

昨日と一昨日に「福島会議」が福島大学で開催、わたしは行けないがネット中継を少し見た。
 放射能に関して専門家がチェルノブイリの現状に関して調査したことを語っったあとで、質問や意見があったなかでの会場の女性からの発言。

 その人は地元の方らしいが、放射性物質の除去に熱心に取り組んで活動しているそうだ。
 その除染の方法は、汚染地にEM菌を撒くのだそうだ。
 そうすると放射能がぐんと下がるので、あちこちでやっているが、公的機関でも積極的にやれ、みたいなことをおっしゃった。

 え、そうなの、初めて聞いた。EM菌てのは多様な微生物によって土壌とか水質の浄化をするのに使うとかって、聞いたことはある。
 だが、微生物が放射線を浄化するというか、半減期を短縮するって、そういうことが本当にあるのかしら。
 ネットで調べると、賛否両論があてなんだか分からない。
 わたしは放射線物質のことはなんにも知らないが、なんだか信じがたい。
 
 現地のその会議に出席している知人に、FACEBOOK経由で聞いてみた。
「EM菌で除染できるって、真剣に発言したおばさんがおられましたが、本当ですか? 核の毒を菌が食うんですか?不思議」

 知人の返事。
「その方、私の斜め前に座っていた女性ですね。真剣そうでしたよ。でも現場の住民はわらをつかむ思いなので、その後もみんなで話を聴いてあげました。
 本日(昨日)の高畑さんの放射能分科会の最大の話題でしたが、EMにせよなんにせよ放射性物質の「無害化」ではなく「移動」にしかすぎない、ということをなかなか理解してもらえず苦労していました。
 でも、各分野の専門家とよばれるような人たちでもわからないことだらけなので、ましてや被災した一般市民が、不正確な情報による俗説に振り回されるのは、やむをえないことと思います。
 正しい知識・情報を共有することは最重要課題なのですが、同時に現場(追い詰められた現地住民)の感情に配慮した情報の「伝え方」にも、もっと工夫が必要だと感じました」

 なるほど、現地に入った人だからこそ、実体験として現地の人たちの感情が身に染みて分かるからこそう、そう言えることですね
 おぼれるものの藁かもしれないが、つかむ藁がそこにあることで、次に流れてくる浮き輪をつかむ手だてになるってことを、支援なさる現場の人たちは知っているのですね。

 それにしても、除染は単に移染に過ぎなくて、決して減染でもまっしてや滅染でもないってことが、実に重要なポイントである。
 これまでは除染とは、物理的な汚染は水に流すし、生物的あるいは化学的な汚染は煮沸や薬によって完了するものだった。
 水俣病や四日市公害の除染も、時間はかかっても、基本的にはそうであった。
 ところが核毒はまったく次元が異なるものだから、なんとも理解するのが困難である。
 人間に「三尺流れて水清し」の時代があったことが、いまや夢みたいである。

2011/11/11

528わからんオリンポス事件

ギリシャ発祥の経済問題が日本のカメラ会社にも飛び火した(らしい)。だって会社名がオリンポスなんだから。
 損失隠しとか飛ばしとか投資家に迷惑かけるとか、その世界のことはぜんぜん、なにを言ってるのかサッパリ分からん。
 ひそか処理して、誰も損してなかったか、あるいは損しても誰も知らなかったとすれば、20年もナントカやってきたんだし、会社そのものは今も経営がうまく行ってるんだから、これはもう損はなかったことになるはずでしょ。
 それを今頃になってなに言ってんのよ!

 だって、その昔も損失を隠してたから配当があって、投資屋(なんで投資ってえらそうにいうんだろう)たちは、大もうけしたんでしょ。
 今になって、当時の損失をひそかに処理したってのがバレて、株価が下落して損したって騒ぐなら、その昔に損失がありながら配当を受けたお金を返すのかしら。
 もらうものはもらった、損失は損失ってけしからんて、それはリスクを負ってやる投資屋の言うべき言葉じゃないような気がする。

 ガイジン社長が暴露しなきゃ、そのままで平和だったんでしょ。
 と、株はしかしらないわたしは思うのである。

 オリンポスの株価は、ばれる前の5分の1になったそうだ。
 唯一知ってる株価がある。T&DHDという保険屋である。
 20年以上前だったかに、相互会社から株式会社に変更して、加入者だったわたしの会社が自動的に株券を受け取ったことがある。200株だったか。
 その頃のこの株価は8000円くらいだった。
 それが今はナンと今日見ると700円である。10分の1以下!
 なんでこんなになっているかサッパリ分からない。オリンポスよりもひどいが、似たような事件があったのかしら。

2011/11/10

527空に浮く生活・地に這う暮し

 晩秋の東京散歩である。東京駅から八重洲通りを歩き出して、中央大橋を渡った。
 この橋を渡ると20世紀末のバブル景気の産物「大川端リバーシティ」である。そのすぐ隣に細い運河を隔てて、佃煮の名前の発祥地・佃島である。
 前者が日本のバブル景気の超高層住宅群、後者が江戸から続く漁師町の密集木造住宅群である。
 どちらの土地も、隅田川の河口の島として江戸時代にあった。
 そのあまりに近くにありながら、あまりに異なる風景が対照的で面白い。
 それだけに、東京の都市問題を考えさせられる。

「大川端リバーシティ21」のある土地は、江戸時代の人足寄場の「石川島」であり、19世紀半ばから石川島播磨重工業(現・IHI)の造船所となり、戦艦をたくさん製造した。
 造船所が景気が悪くなって土地を売り、1985年ごろから大川端リバーシティの名で再開発をはじめて、2000年までに8棟の超高層集合住宅ビルが建った。約3800戸が住んでいるらしい。

 大川端を広辞苑で見ると、「隅田川の吾妻橋(大川橋)より下流の右岸一帯、特に両国橋から新大橋辺までの称」とある。とすれば、大川端リバーシティは位置的に新大橋の下流の左岸にあるから、これは詐称である。時代が変われば、湘南みたいに拡大するのであろう。

 公開空地に入ってみれば、ここは日本かしらと思うような風景である。
 日本かしらと思うのもおかしいが、要するに街として造っているんだぞって、そういうデザイナーというか開発者の意気込みが、ここもかしこもみえみえで、新聞折込のマンション広告パンフの写真みたいな風景である。
 そう、きれいなんだが、なんだか押し付けがましさ感がうっとうしいのである。公開空地の庭のあちこちに、入るとか登るなとか注意書きがあるのも気に食わない。

 見上げる空に超高層住宅が夕日に輝いている。はて、天空のあそこに人の暮らしがあるんだろうか、どんな人が暮らすのかなあと思う。
 あんな高いところに住み着くと、地上に降りるのに一仕事と思うような気がする。
 7階に住んでいる私でさえもそう思うのだから、まして30階もの超高層建築の上のほうでは、いくら超スピードエレベータがあっても、心理的な隔絶感があるにちがいない。

 リバーシティと隣の佃島との間には細い運河があって、昔からの形で隔てられている。
 島の西の隅田川から運河は入り込んで、住吉神社を角にして南に曲がると舟溜まりである。島の南にあった運河は佃大橋がかかって埋め立てになったから、佃島は今は3方が水である。

 佃島からリバーシティを眺めると、どこでも写真になる。その対比が「いかにも」の風景になるのである。わたしは15年ぶりくらいにきたのだが、その風景はほとんど変化がなかったのは、佃島は再開発されていないのである。

 佃島は昔の漁師町の町割りを今も継続して使っているから、大川端の大ブロック・超高層建築・広場のある西欧型近代都市計画とはまったく逆の、零細敷地・木造2階建て・路地という構成である。
 しかし、公共施設の道路や公園あるいは運河については、それなりにこざっぱりときれいに修景をしているから、清潔である。
 そして路地には生活観があふれている。リバーシティは開放的な都会の生活があるとすれば、ここには息ぐるしいほどの緊密な暮らしがある。
 小公園で大勢の子どもが声高に遊んでいるのが、下町らしい。リバーシティでは池の中(入ってはいけないと注意書き)で魚取りしていた子ども二人を見ただけだった。

 リバーシティではちょっと歩くと、まあこんなもんだろうと、見て歩く興味を失ったが、佃島ではあちこちの路地を抜け、神社境内に入り、運河を渡り、舟溜まりを覗き込み、川向こうの超高層建築群を見上げ、まことに興味がつきないのであった。
 ここには地に付いた暮らしがある。
 地についた仕事としての佃煮は、いまはどうなのか知らないが、「竹安」なる店で昆布・貝ひも・浅利の3種類各100グラム、金1820円を買い求めた。

 佃島からはずれて、夕暮れの月島商店街へと入れば、もんじゃ焼き観光街の様相はますます著しい。下町の近隣商店街の変貌は驚くばかりである。
 表通りは集合住宅ビルもいくつも建っていて佃島とはちがうが、裏に入ると佃島と同じような姿の路地の町である。

 商店街を通して勝どき方面を見れば、大きな超高層建築群が見える。
 20年ほど前に、東京都から依頼で、勝どき交差点角の再開発構想計画をしたときにはじめてきて、それからもういちど10年ほど前にきたことがあるが、こんなに超高層建築はなかった。
 ずいぶん変わったものだ。(2011.11.01)

2011/11/09

526【ふるさと高梁盆地】昔よりも短くなった方谷橋

 高梁盆地の高梁川には、現在は2本の橋が架かって、東西の町を結んでいる。
 下流側の「高梁大橋」は1972年に架けた、現代のありふれた鋼製の桁橋である。
上流側の「方谷橋」は、上に鉄骨アーチをもっていて特徴ある形態だ。これは1934年の水害の後、1937年に架けている。
 上のアーチから、下の路盤面を支える直線の鉄骨主桁を吊っている形式である。
 でもよく見ると、路盤側の主桁もかなり立派なものだから、アーチと直線の桁とでつくる半月形の構造体で、これをランガー形式というらしい。



 土木学会のサイトで図面を見ると、半月の弦の長さは56メートルである。
 アーチの両端部を、それぞれ橋脚が支えている。それに加えて路盤を支える主桁が、アーチの両端から4.4メートルはねだし形式(カンチレバー)でもちだして、それは皿という字の上を丸く描いた形である。土木の専門語で「下路カンチレバー状ランガー」形式というそうだ。
 その皿の下の一文字の先に別の桁が架かっていて、両岸と結んでいる。橋の総長さは99.9メートルだが、竣工時の図面では110.7メートルとなっている。


 
 方谷橋が竣工したときの1937年に写した記念写真がある。今の方谷橋と比べて見る。
 大きな違いはふたつある。ひとつはアーチの先の東側の桁が西側のそれと比べて、10メートルほど短くなっていることだ。
 橋の主桁についている工事銘盤に1972年3月とあるから、このときに東側の桁を短縮左右のバランスが崩れた。

 ということは、その年に川の東岸にある国道を10mほど拡幅したことになる。その拡幅分の川幅が狭くなるから、それまでどおりに流水量を確保するためには堤防を高くする必要があったのだろう。
 いまでは堤防の道からの立ち上がりが2メートルくらいは高くなって、 街から川は見えなくなってしまっている。昔はそれが1メートルくらいだった。
 川岸の国道は広く、堤防は高く、川と街は切り離されたようだ。

 もうひとつの違いは、かつてあったおしゃれな高欄親柱が、今はなくなっていることである。橋には欄干などで構成する高欄がどこでもある。その一番端っこには大きな柱を立てるが、これ親柱という。親柱は橋の玄関の門のような役割をする。
  関東大震災の後で多くの鉄の橋がかけられ、そこには都市の風景としてのデザインが加えられるようになってきた。
 方谷橋ができるころは、日本の橋のデザインもセンスがよくなってきたが、その片鱗を方谷橋でも見ることができる。

 ここでは当時の流行のひとつである表現派風の曲線が見えていて、アーチの曲線と共におしゃれなモダン風景である。
 それは両岸側共にあったのだが、今はどちらにもない。いつ頃なくなったのであろうか。無愛想なコンクリの塊に橋名板があるだけだ。
 高いコンクリ塀となった堤防を土塀コピーするのも、まあ、よろしいが、国道拡幅でなくした親柱を復元してはいかがか。

●全文は→ふるさとの川と橋
●関連→高梁の風景論集

2011/11/08

525新聞の話題ふたつ

 プロ野球に何の興味もないが、モガベーとかモベガーとかDeDTとか言う会社が、横浜のプロ野球を買収すると、新聞の社会面にあるのを読んだ。
 どうぞご勝手に。でもモゲバー・ベイズダーズなんて、語感が悪いよなあ。
 ネットでモガベーを検索すると、結構たくさん出てくる。
     ◆
 オリンポスなる会社が、なんだか変なことしたって、投資屋に申し訳ないとか言ってる。
 ガイジン社長が社内告発したら、逆にクビになっちゃって、イギリスに逃げて遠吠えしたら、マスメディアが喜んで食らいついたらしい。
 まあ、こちとらは投資なんて関係ないから、どうぞご勝手に。
 でも、外人が騒がなきゃそのまま臭いものにふたして、会社も社員も無事だったのになあ、余計なことしてくれたよなあ、って、そう思います。
 日本では納豆やなれ寿司のように、臭いものにふたをしておくとそのうちに発酵して美味になるってことを、ガイジンは知らないからなあ。
 で、これもオリンポスだから、ギリシャ発祥の騒ぎのひとつなんだろうなあ。

2011/11/07

524老婆の橋、少年の橋梁

 東京駅前から八重洲通りを八丁堀まで歩いて隅田川に出ようとしたら、その前の支流の亀島川に、なにやら鉄骨トラスの橋が見える。いまどき珍しい。
 近寄ってみると橋の入り口に門型が組んであって、「南高橋」なる銘盤が掲げてある。これはまあ、明治の頃にはやった形である。

 橋詰広場に案内板があり、隅田川に架かっていた両国橋(1904年竣工)の一部を、1931年にもってきて再利用して架けたとある。つまり震災復興の橋である
 震災復興で両国橋は新品に架け替えたが、ここには新規架橋なのにお下がりを頂戴して架けたというのである。おかげで、今も珍しい形を見ることができる。

 両国橋は最初は1660年に木橋が架かり、その後なんども流れたり焼けたりして架け替えがあった。1897年の川開き花火の見物客が大勢乗りすぎて崩落して死傷者を出したので1904年に鉄橋に架け替えた。

 橋に入る門型のデザインが、なんだか古写真で見た懐かしいというか珍しく眺めたのであった。
 亀島川よりも隅田川の方が広いから、3つあったトラスのうちの中央の一つを持ってきたとあるから、それに両端の門型装飾ををくっつけたけたのであろう。トラスにつける門型は、昔の吾妻橋の絵にもある。

 現代の鉄の橋はたいていは道の下に単純な梁が架かっていて、単なる道路の一部に過ぎないが、こういうトラス橋だと、さあ、向こう岸の別世界に潜り抜けて渡るぞって、そんな特別の気分になる。
 橋とは元来そういう役割を持っていたのだ。橋は民俗学的に面白いのだが、その話をするときりがない
 それにしても100歳を超える橋とは、品のよい銀髪の老婆に出会ったようだ。

 横浜にもこのような古いトラス橋がある。中村川にかかる「浦舟水道橋」で、水道管と歩行者を渡らせている。
 この橋も南高橋のように、他にあったものを持ってきたと銘盤に書いてある。それがなんとここに来る前にも一度引越しをしていて、最初の創建時は1893年とあるから、両国橋よりも古い。

 この橋の上には高速道路の高架橋があり、橋の下の橋となっていて、ちょっと気の毒な風景である。昔から橋の下は家なし乞食がいて、今はホームレスがいるところ、この橋もさまよってここに居を見つけたか。
 それでも真っ赤になって気張っているのが、老婆というよりもこちらは少女のようで、可愛らしい。


 横浜には桜木町に「汽車道」という歩行者専用の道が海のなかを通っているが、ここにトラス橋がある。1907年に臨港鉄道の橋として架かったものだそうだ。
 今はレクリエーションの道として、人だけが通るのだが、歩行面にしいた板の間にレールを見えるように残している。

 トラス橋は古いものばかりではなくて、東京品川区の天王洲には1996年に架かった、新しいトラス橋もある。これも人道橋である。
 これは天王洲再開発における新規プロジェクトのひとつであり、運河沿いの散歩道で島をつなげるのに、ちょっと面白くしようと、わざわざレトロデザインをしたのだと、ここの開発コンサルタントから聞いた。
 遊び心のレトロデザインはよいとしても、その名が「天王洲ふれあい橋」とは、味気ない。
 
 話を戻して、南高橋を渡って川沿いに歩き、隅田川にかかる「中央大橋」を大川端リバーシティへと渡る。
 こちらも1993年にできた新しい橋のごとく、名前は味気ない。
 超モダンな斜張橋の中央大橋は、主塔がたくさんのロープを引っ張って、そばの超高層ビルに負けないようにピンと突っ立っている。
 おしゃれを気取る不良少年のようで、先ほど渡った銀髪老婆の南高橋とは対照的である。(2011.11.01)