高梁盆地の高梁川には、現在は2本の橋が架かって、東西の町を結んでいる。
下流側の「高梁大橋」は1972年に架けた、現代のありふれた鋼製の桁橋である。
上流側の「方谷橋」は、上に鉄骨アーチをもっていて特徴ある形態だ。これは1934年の水害の後、1937年に架けている。
上のアーチから、下の路盤面を支える直線の鉄骨主桁を吊っている形式である。
でもよく見ると、路盤側の主桁もかなり立派なものだから、アーチと直線の桁とでつくる半月形の構造体で、これをランガー形式というらしい。
土木学会のサイトで図面を見ると、半月の弦の長さは56メートルである。
アーチの両端部を、それぞれ橋脚が支えている。それに加えて路盤を支える主桁が、アーチの両端から4.4メートルはねだし形式(カンチレバー)でもちだして、それは皿という字の上を丸く描いた形である。土木の専門語で「下路カンチレバー状ランガー」形式というそうだ。
その皿の下の一文字の先に別の桁が架かっていて、両岸と結んでいる。橋の総長さは99.9メートルだが、竣工時の図面では110.7メートルとなっている。
方谷橋が竣工したときの1937年に写した記念写真がある。今の方谷橋と比べて見る。
大きな違いはふたつある。ひとつはアーチの先の東側の桁が西側のそれと比べて、10メートルほど短くなっていることだ。
橋の主桁についている工事銘盤に1972年3月とあるから、このときに東側の桁を短縮左右のバランスが崩れた。
ということは、その年に川の東岸にある国道を10mほど拡幅したことになる。その拡幅分の川幅が狭くなるから、それまでどおりに流水量を確保するためには堤防を高くする必要があったのだろう。
いまでは堤防の道からの立ち上がりが2メートルくらいは高くなって、 街から川は見えなくなってしまっている。昔はそれが1メートルくらいだった。
川岸の国道は広く、堤防は高く、川と街は切り離されたようだ。
もうひとつの違いは、かつてあったおしゃれな高欄親柱が、今はなくなっていることである。橋には欄干などで構成する高欄がどこでもある。その一番端っこには大きな柱を立てるが、これ親柱という。親柱は橋の玄関の門のような役割をする。
関東大震災の後で多くの鉄の橋がかけられ、そこには都市の風景としてのデザインが加えられるようになってきた。
方谷橋ができるころは、日本の橋のデザインもセンスがよくなってきたが、その片鱗を方谷橋でも見ることができる。
ここでは当時の流行のひとつである表現派風の曲線が見えていて、アーチの曲線と共におしゃれなモダン風景である。
それは両岸側共にあったのだが、今はどちらにもない。いつ頃なくなったのであろうか。無愛想なコンクリの塊に橋名板があるだけだ。
高いコンクリ塀となった堤防を土塀コピーするのも、まあ、よろしいが、国道拡幅でなくした親柱を復元してはいかがか。
●全文は→ふるさとの川と橋
●関連→高梁の風景論集
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