2014/01/15

885越後の豪雪山村の小正月行事「賽の神」と「初釜茶会」に行き雪道で転んで捻挫

 

 毎年恒例の越後の山村・法末集落での「賽の神」と「初釜お茶会」行事に参加してきた。
 仲間でチャーターした小型バスは、雪の谷道をさかのぼっていく。今年は去年の今頃よりも積雪は少なかったが、それでも2mくらいは積もっているだろう。今日は雪が降り続いている。
 わたしたちの活動拠点の民家に入るには、道路から玄関まで深い雪をかき分けて通路をつくることから始まる。このあたりでは雪かきとは言わずに、雪掘りと言う。それくらい深い雪ということだ。
 この地に住む人たちの冬の毎朝は、玄関から道まで出るための雪掘りである。

 
2004年の中越震災の翌年から復興支援でここに来るようになって、今年で足掛け10年、いまでは震災復興は終わったが、集落の存続が懸念されている。
 わたしたちの仲間で、せめて村の行事に景気をつけてあげたいとて、小正月の「賽の神」行事に参加し、これにくっつけて「初釜お茶会」をはじめたのであった。
 春か秋には花づくり見学にやってきて、夏には盆踊に参加している。そして、棚田でコシヒカリ栽培の米つくり体験を毎年重ねてきている。

 着いてまずは仲間と一緒に、昨暮れに亡くなられた方の家に、弔問にいく。この方には、米つくりの世話と指導をしてもらって、お世話になった。のこされた奥方は、来年は村を離れざるを得ないだろうと言う。耕していた棚田は休耕の手続き済みだそうだ。
 毎年、こうして休耕や耕作放棄の棚田が増えていく。棚田は人間のための米つくり工場だから、経営者が亡くなり後継者がいないと、それは仕方のないことだ。
 去年の法末人口移動は、自然減3人、社会増1人であったようだ。
 今、この集落の定着人口は何人だろうか。震災前は約110人、震災で全村避難して戻ってきた人は約90人、今は60人もいるだろうか。最も人口が多かったのは、1960年の577人だった。19世紀末でさえ360人ほどがいたのに、今や限界を超えた集落となった。

 久しぶりに囲炉裏を囲んで鍋料理を食べようとなった。鍋は「ピエンロー」、白菜鍋である。
 囲炉裏には炭火である。昔のように薪を燃すわけにはいかないのは、煙出しをふさいでしまったからである。
 この囲炉裏だって、わたしたちがこの家を使うようになった時は、床の下にふさがれていた。その長く使っていなかった囲炉裏を復活して、はじめは物珍しく使ったが、そのうちに面倒になって飽きてしまった。今夜は久しぶりに囲炉裏を囲んだ。
 この家の名称を「へんなかフェ」と言う。「へんなか」とは、このあたりのいい方での囲炉裏のことで、そのうしろに「フェ」とくっつけた洒落である。

 寒い夜を炬燵に足を突っ込んで寝た。わたしがこのまえに炬燵で寝たのは、もういつのことだったか忘れたくらい昔のような気がする。炬燵そのものが、うちにはない。
 このあたりの民家はどこも古い茅葺民家を改造してきているものだから、主な部屋は天井が高い。だからストーブを焚いても、寒い。
 実は、考えるとゾッとするのだが、外部の窓やガラス戸は、雪囲いのために頑丈な板で外から囲ってある。積もる深雪に外から押されても、壊れないようにするためだ。
 だが、もしも中から燃え出したら、逃げ出せるところは玄関入口しかない。そこも、夜中に積もった雪で簡単には開かないかもしれない。ようするに監獄の中に寝ているようなものだ。

 次の朝、雪はやんで、今の時期には珍しい晴れ間も時々見える。集落内徘徊に出かけた。靴には滑り止めの簡易アイゼンをつけた。
 まったくもって、色の白いは七難隠すで、どこもかしこも真っ白で、なだらかな曲線を描いていて、美しい景色だ。
 夏は目につく赤いトタン屋根も、いまは真っ白な布団をかけている。道の両側には、除雪車が盛り上げた背丈よりも高い雪の壁がどこまでも続く。


 まずは今日午後の行事「賽の神」会場の、夏のキャンプ場に登る。もう藁の塔の賽の神本体はできがっている。今年のそれは姿はよいが、ちょっと小ぶりである。
 降りてきて、集落最長老に道でであって新年挨拶、今年92歳とて元気なものである。この方には、戦争中の話を聞いてオーラルヒストリーとして記録した。

 村境の峠まで登って引き返した。その下り坂道で、ア~ッ、左の靴が路面の氷に滑って転倒、後ろに残った右足の上にドンと正座した。
 イテテテ、しばらく道に腰を下ろしたまま唸る。ひねった右足首が痛む、果たして歩けるか、人も車も通らない。
 そろそろと四つん這いになり、ストックを支えにヨロヨロと立ちあがる。こわごわ、そろそろ、小さな歩幅でビッコ引きつつ拠点の家まで戻った。
 なお、帰宅後の医者の診断は、骨に損傷なし、靭帯損傷して内出血、テーピングで患部固定、全治3週間であった。久しぶりに杖突き生活をやってみるか。

 昼飯を食ってから、さて「賽の神」会場に行けるだろうかと思案したが、ここまできて第1の目的を達しないまとは悔しいので、そろそろと登る。幸いにして珍しく太陽が出ている。
 村人とその子や孫、わたしたちなど40人ほどが集まっている。藁で作った「賽の神」にお神酒をささげ、お飾りやだるまをぶら下げてある。やがて、年男年女たちが点火すると、もくもくと煙が立ち上る。

  集落最長老が毎年恒例の音頭で、参加者がこっをそろえて祝唄「法末天神囃」を合唱すれば、火と煙が雪をかぶる林にかかっていく。
遅れてやってきたのが、10数人の子供の集団で、手に手に藁を抱えている。東京の小金井で活動している集団で、昨日やってきて雪遊びをして、この行事を最後に戻るのだそうだ。毎年やって来ている。

 賽の神の後は、集落のセンター施設である「やまびこ」の食堂で、お茶会である。立礼ながら本式にお茶をたてて、集落民一同が楽しむ会である。
 震災後にやってくるようになった私たちの仲間がはじめた行事だが、これも恒例行事となって今年で10回目を迎えた。
 集落の人たちもわたしたちも神妙に抹茶をいただくと、雪の山村に季節が一巡りした心地になってくる。
 お茶会でのわたしの役目は、お菓子やお茶のお運びである。足が痛いのを隠して、転ばぬようにそろそろと運んで、なんとか役目を果たしたのであった。

 
 こうして今年の正月もやってきた。わたしは2005年以来、ここに何回やってきただろうか。初めのころは月に2回も来ていた。毎土日にきていた仲間もいた。はじめは10数人だった仲間も、復興が一段落したころから次第に減り、来る回数も減った。
 米つくり作業に年に3、4回、お茶会、盆踊、花見などの行事がある。わたしはもう、そのどれにも参加というわけにはいかなくなった。
 電車やタクシー交通費の懐具合もあるし、米つくり短期決戦重労働作業は体力的に限界になってきた。年に2回ほどになってしまった。
 春から夏は実に気分が良いのだが、真冬にここに来ることも泊まることも、寒さや足場の悪さにもう体力がついて行かない。
 そろそろ、わたしにとっても限界集落になってきた。このあたりがシオドキか。雪国育ちでないわたしの泣き言である。



参照
・法末集落の四季
http://homepage2.nifty.com/datey/hosse/hosse-index.htm
・法末集落へようこそ
https://sites.google.com/site/hossuey/

2014/01/05

884【五輪騒動】都市計画談議(その10)東京って権威的景観がご自慢なのね

その9からの続き)

 「東京都都市景観計画」(2011)なる行政計画があり、そのなかに「首都東京の象徴性を意図して造られた建築物の眺望の保全に関する景観誘導」という項がある。
 その眺望保全には、4つの場所の建物がとりあげられている。国会議事堂、迎賓館(赤坂離宮)、明治神宮聖徳絵画館、東京駅丸の内駅舎である。
 それらを真正面から眺めるにあたって、その後ろあたりに見える高い建物をつくると邪魔だから建てるな、と規制をしている。

 おいおい、どいつもこいつも権力の権化の建物だぞ、近代日本を築く途中に必要だった権力の象徴としての建築である。だから保全するのも権力の景観ってことかよ、よくまあ、こういうものだけを選ぶもんだよなあ。
 もっと庶民の象徴、そうだなあ、例えば東京タワー、あ、そうか、今はスカイツリーか、あるいは浅草観音とか、そういうのじゃ「首都東京の象徴性」にはならないのか、そうかもねえ。

 国会議事堂は、計画開始は明治政府の時までさかのぼって古いが、できたのは1936年である。
言わずもがなの権力の館であり、その姿のまあ権威主義的なことよ。国民の代表が会議をするのに、いまどきこんな姿でいいのかよ。
 その景観を保全しようってのも、なんともはや。こういうのは、本当は街の中にあるべきだろうと思う。あ、デモ隊がやってくるから、街なかじゃあまずいのか、。

 迎賓館は、元赤坂離宮だからまさに王権の館、1909年の竣工で、背伸びする日本の精一杯のコピー建築である。
 でもねえ、正門から眺めると、既に後ろに超高層建築がいくつも建ってますよ。そうか、だからこれからは建てさせないぞってことなのか。
権威景観保全の意味もあるだろうが、迎賓館の要人をビルから狙撃されないようにする対策かもなあ。

 さて、今話題の新国立競技場がらみの明治神宮聖徳記念絵画館は、1926年の竣工であるが、これもまさに王権の象徴である。

 1911年の明治天皇の死によって、明治新政府があわてて発明した明治神宮という王権装置のひとつである。
 江戸時代までは一般民衆はほとんど知らない「雲上人」だった天皇を、明治政府が京都から拉致してきて雲の上からおろして、多くの仕掛けでカリスマ性を付与し、世に見える天皇として新政府の権力集中の核にしたてあげた。
 ところが59歳で急死、その後継の大正天皇は病弱でとてもカリスマ性には欠ける。

 民権運動が盛んになる中、王権利用の統治政策が揺らぎそうだと心配した明治政府が考え出したのが、明治天皇を神様にして祀って、王権のカリスマ性の継続を図った装置が明治神宮である。
 内苑が森の中に隠れて見えない天皇の装置だとすれば、外苑はオープンな西洋式庭園のなかで民衆に見せる天皇としての装置である。

 新国立競技場計画について、明治神宮外苑の歴史的文脈をもって景観問題をとりあげる建築家が多いようだが、まあ、あのような一点透視図画法の模範のような銀杏並木から絵画館を望む景観は、建築家が透視図を習うお手本みたいで、お好きであろう。
 もちろん、その一点透視の視線の集まる先には、権力装置の求心力としての王権の象徴たる絵画館が、待ち受けている。

 あれこそ明治大帝のカリスマを継続する装置としてつくりあげた景観である。
 似たような景観づくりですぐに連想するのは、建築家になれなかったヒトラーがお抱え建築家シュペーアにやらせようとしたベルリン改造計画である。こちらの方が外苑、絵画館よりも後だが。
 大きさはかなり違うが、視線の先の絵画館のあの坊主頭は、ベルリンでヒトラーが大ホールのドームとして議事堂を真似したのかもしれない、と、冗談にしても面白い。

 それにしても絵画館の建築の造型の無骨さは、もう下手としか言いようがないのだけど、たぶん佐野利器のせいだろうなあ。明治の終末を告げる施設としての記念的意義はあるだろうが、造型的には二流である。
 あまつさえ、その建物周りは全部が駐車場になって、聖なる場所としてしつらえられた葬場殿址の楠のまわりも、かつては玉砂利の広場だったのが、今では無粋なアスファルト舗装に白線が引いてある駐車場である。

 芝生と花園であるべき前庭は草野球場となっているし、隣には神宮球場や第2球場そして国立競技場の建物が森の上に頭を出し、無粋な照明塔や金網が高くそびえる。
 管理者の明治神宮は、かつての造られた当時の景観を、それほど大切に保全する気はないらしい。これだけ広大な土地建物の維持費を稼ぐためには、あれこれスポーツ商売に手を出さないわけにはいかないだろう。

 考えてみれば、王権の時代はとっくに終わって、ここを明治天皇の故地と知らない民衆たちが、草野球やテニスやゴルフ打ちはなしに興じる風景は、まさに民主主義の世の中である風景になって、これはまことに好ましいことなのである。
 面白いのは、それらの大衆スポーツの場としての普及に大きな貢献をしたのが、ここを太平洋戦争終結直後に接収したアメリカ軍であったことだ。かれらがつくって、接収解除後も取り壊さずに使ったものが、軟式野球場とテニスコートである。絵画館前の芝生広場は変身して、戦後の大衆スポーツ普及に大いに役立った。
 ときにはデモ行進の拠点にもなって、王権発揚の場は民主主義発揚の場となった。アメリカさんは大衆スポーツと民主主義的風景(権威主義的景観の破壊)を外苑占領の置き土産にし、明治神宮はそれをそのまま戦後の外苑に継承したのであった。

 いまとなっては、絵画館のまわりになにがそびえようが、もうよいではないか。昔の王権的、権威主義的な象徴空間が良かったなんて、アナクロニズムはよしましょうよ。
 そもそも、ここは神社の境内である。境内には昔から露店が立ち並び、サーカス小屋やお化け屋敷があり、門前街には猥雑な土産物屋や旅館街があるのが、日本の伝統風景である。そう、これこそが「神宮外苑の歴史的文脈」の延長線上にあるものだ。
 
 まあ、日本近代における王権空間形成史の記念として、建築あるいは造園史のメルクマールの保全をするならば、あの小判型の道路の内側を徹底的に復元することだろう。
 そのほかは現代の都市公園として。国立競技場も含めて総合的な計画のもとに再開発すればよろしい。同じ都市公園である後楽園遊園地を、よい意味でも悪い意味でもお手本にしてはいかがかな。

 まあ、これはわたしの与太話のように聞こえるだろうが、実は外苑では昔こういうこともあった。
 アジア・太平洋戦争が終わり大きく体制が変り、国営神社だった神宮は宗教法人となり、外苑の土地の帰属が問題となった。国は外苑は宗教に関係ないから国に帰属すると主張した。
 これに対して神宮側は、いやこちらだと争い、民俗学者の折口信夫に理論武装を頼んだ。折口が主張したのは、日本の神社境内は昔から力比べ、弓術、相撲、流鏑馬、競馬、競艇などの遊びをして奉納する場であったから、運動施設のある外苑は宗教の場だ、というものであった。
 そして外苑の土地は神宮の所属になった(時価の半額で売買)。境内地とはそういうものである。もっとも、今では運動施設の経営は宗教活動とはみなされず、課税対象だそうだ。

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追記20151105 ところが今や絵画館の後ろには、なにやら高いビルが建ってしまっているのは、どうしたわけだろうか。やはり明治帝国の権威は、現代商業主義社会には及ばないらしい。
2015年11月3日撮影
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 おっと、忘れそうになったが、東京駅丸の内駅舎は、1914年の竣工である。

 明治政府が全国統治の道具とした鉄道網の「上り」の終点であり、「下り」の出発点である。王権専用の駅舎として、当時の繁華街の京橋に背を向けて建てたのだった。
 この景観計画で保全する眺望の視線の持ち主は、皇居を出てくる天皇であることにご注目を。

 東京駅の後ろに建てるなって言ったって、京橋のほうが東京駅ができるよりずっと前から江戸の中心街として繁栄していたんだぞ。京都からやってきて、江戸城にいつの間にか居ついてしまったお方から、あれこれ言われて一等地にビルを建てさせないって、そんなことはこちとらには通じませんぜ、なんて江戸っ子は言わないのかしら。 
 ついでにこちらもお読みくださいな。 ◆東京駅復原反対論から考える風景の記憶論考

(都市計画ではまだいろいろあるけど、10回も書くとさすがに飽きた、やっぱり景観論のほうがだんぜんおもしろい)

これまでのあれこれ書いてきた一覧はこちらを参照
【五輪外苑騒動】国立競技場改築騒動と神宮外苑再開発騒動瓢論集

2014/01/04

883戦後復興期の都市建築をつくった建築家 小町治男氏にその時代を聴く

 建築家の小町治男氏は、戦争直後に出発した建築家への学業と修業の同時進行の道程において、建築家で東京大学の池辺陽のもとでの実験的住宅設計からはじまり、戦後の不燃都市づくりに貢献した建築家の今泉善一のもとでの防火建築帯づくりに携わった。


 ここに戦後復興期の都市建築づくりについて聞きたくてインタビューをした記録を、小町さんのご了解を得て公開する。その頃の建築界のひとつの貴重な断面を興味深く見せてくれる。

 なお、建築家小町和義氏の弟であり、わたしは以前に建築家山口文象の弟子としての和義氏に、戦中と戦後のその周辺のことを聞くインタビューをしたことがある。それも戦後復興期にかかわる貴重な証言である。

                   インタビュアーと記録:伊達美徳
                    立会:横内啓氏(小町治男氏の甥・建設会社設計部員)
                   場所:浦和市内の喫茶店
                   日時:2013年11月9日14:30~17:00

●以下、インタビュー記録全文は
戦後復興期の都市建築をつくった建築家 小町治男氏にその時代を聴く
https://sites.google.com/site/dateyg/komachi-haruo

2013/12/29

882若者には保守は革新で右翼は左翼になってしまった今日この頃


 今朝の朝日新聞に世代別の意識調査の結果が載っている。その中で、若い年代ほど自民党は変革的だとの回答だそうである。

「自民党に対し、若い年代ほど「変革」のイメージを抱いていることが、朝日新聞社の世論調査(郵送)でわかった。また、自民への「右寄り」の印象も、若い年代ほど薄かった。
 若者の政治や社会に対する意識を幅広く探るため、20代だけの調査を11月上旬~12月中旬に実施。同時期に30代以上にも同一の質問による調査を行った。有効回答は20代の調査は1839件(回収率61%)、30代以上の調査は1792件(同72%)。
 調査では「変革」を「1」、「安定」を「6」とし、今の自民のイメージはどちらに近いか、6段階で聞いた。20代の回答の平均は中心(3・5)より「変革」寄りの3・03。30代は3・09で、年代が上がるほど中心に近づき、70歳以上は3・51とわずかに「安定」寄りだった。7月の参院選比例区で自民に投票したと答えた20代は2・92で、「変革」の印象が特に強い。」(
2013年12月28日朝日新聞digital)

ふむ、その若者の意識はよく分る。いや、なに、若者に迎合する年寄りを演じようとしているのではないぞよ。
考えてごらんよ、大変革があった太平洋戦争敗戦から10年ほどの期間は、もう60年ほども前のこと、若者にとっては生まれる前の大昔で、いわば年寄から言えばもう明治時代の話のようなもの。

その大昔体制が続いてきたところに、アベさんトップの自民党が、憲法を変えるぞ、戦争ができる様に自衛権見直しだ、国家防衛のための秘密保護だ、武器三原則も変えるぞ、天皇も歴代総理も行かない靖国神社に参拝だ、なんてことやれば、昔を知らない若者にはこりゃ大変革だと思うのが当たり前だろう。

かつては左翼が変革を担っていたのに、いまじゃあ、環境を守れ、憲法を守れ、個人秘密を守れ、守れ守れとまさに「保守」を唱えるもんだし、一方、右翼のアベサンは若者から見たら変ったことばかりやるもんだから、若者たちは左翼が保守で右翼が革新だと勘違いして思うのは、まあ、当然でしょ。
このへんで、保守と革新の保革入れ替え、右翼と左翼の左右交替をしてはいかがでしょうか。いや、政権のことじゃなくて言葉の意味のことです。

2013/12/26

881【五輪騒動】都市計画談議(その9)神宮外苑の公園指定地から隣接の青山通り沿い大企業民有地に容積移転再開発の企みか

その8から続く)

 新国立競技場計画がらみで決めた「神宮外苑地区地区計画」の区域に、国有地でもなく都有地でもなく明治神宮用地でもない、一般の民有地が含まれいることが、わたしの興味をひき、妄想をたくましくさせてくれる。
 スタジアム通り沿いにあるJSCビルになる用地(現・国立競技場西テニス場)の西奥にある「外苑ハウス」のことはすでに書いたが、妄想的推測では建てなおす時に容積率アップを狙っているのだろう。それにしても、ちょっと見には外苑ハウスはいかにもゲリマンダー的である。

 秩父宮ラグビー場の南隣、青山通り沿いのいくつかのビルが建っている土地が、地区計画区域に入っているのが気になる。
 どうせなら、スタジアム通りと青山通りの外苑前交差点まで入れればよさそうなものを、そのあたりの中小ビル群の土地はゲリマンダー的に避けて、大きなビルが建つあたりだけが地区計画の区域に入っている。
 そこには伊藤忠商事本社ビル(22階建て、1980年)と三井不動産が開発した青山OMスクエアー(24階建て、2008年)がある。

 はて、こんな大きな新しいビルが建っているのに、再開発等促進区の地区計画をかけるとは、これらはもう建て直しを計画しているのだろうか。2008年に建ったビルをもう壊すとは、不動産投資が見合うのか。
 再開発事業を行うとすれば、こんなところではなくて外苑前交差点北東のあたりの中低層ビル群の土地ならば、はるかに投資効果がありそうなものを、なぜそこでないのだろうか。まあ、権利者が多くて話ができなかったのであろう(と、思う)。

 妄想を働かせると、伊藤忠商事と三井不動産は、外苑地区の再開発に投資する目的で、この地区計画に参加したのかもしれない。つまりビルの場所に意味があるのではなく、その企業があることに意味があるのかもしれない(と思うのだ)。
 あるいは、伊藤忠本社ビルは30年以上経ったからとての建て替えを目論見ているかもしれない。6年やそこらの青山OMスクエアも壊すのかもしれない。
 でも、そんな大きなビルを壊して建てなおすのに、地区計画が何の役に立つかって思うだろうけど、これが役に立つのですな。

 建て替えるとしたら、いまのビルよりも床面積をかなり大きくしないと、不動産投資としては意味がない。プロの商社や不動産屋が、単なる建て替えをすることはあるまい。
 では建て替えたら、より大きくなる方法は何か。
 考えられるのは、北に隣接する秩父宮ラグビー場と神宮外苑諸施設の土地と合わせた地区整備計画をつくって、容積率移転による容積率の増加である(ような気がする)。


 ラグビー場用地も外苑の土地も容積率は200%だが、風致地区かつ都市公園区域内だから、高さが15mで3階建てまでだし、建蔽率は2パーセント(特別でも10%)まで。
 用途規制も厳しくて、住宅、事務所、商業施設などは不可で、運動施設(野球場や競技場など)、教養施設(植物園、図書館など)、便益施設(売店、レストラン、ホテルなど)などに制限されるから、容積率200%をとても使きれない(ような気がする)。
 いっぽう、青山通り沿いの土地は商業地域、容積率600~700%で、高さ用途ともにほぼ制限なしである。

 そこで、地区整備計画でもって、ラグビー場用地や外苑諸施設だけでは使い切れない容積を、こちらに移転をするのである。東京駅、愛宕山、日枝山王神社などでやったのと同じである(らしい)。ラグビー場用地も外苑用地も広いから、かなりの床面積が移転できるだろう。
 こうすれば青山通り沿いに900か1000%かそれ以上の、丸の内並みの大きな容積率で建てることができて不動産投資効果は上がるし、ラグビー場等も容積を売ったことによる対価を、自分の施設の建設費等に充てることができる(ような気がする)。

 ただし、ラグビー場用地は国有地だから、国有財産を民間開発との関係でいじるとなると、国有財産法の規制や政治的介入やらで、いろいろ面倒なことがありそうだ。
 ところがこんなニュースを見つけた。
スポニチニュースに、「東京五輪後神宮再開発プラン!神宮球場と秩父宮の場所入れ替えへ」とて、野球場とラグビー場を建て替えるにあたって入れ替えをしようという話があると書いてある。

 なるほど、神宮球場の明治神宮所有地と、ラグビー場の国有地を交換するのか。
 こうすれば隣も民有地となって、明治神宮という宗教法人も含めての民民の間での関係となるから、相手が国有地ほど難しくなない(だろう)。
 そうか、今の場所で建て替えたってよさそうなものを、そうやってわざわざ動かすことで開発のやりやすさを考えついたのか、知恵者がいるんだな(と、妄想したのである)。

 ラグビー場は国施設だから税金で建てるだろうが、神宮球場は私営であるから民間資金調達が必要だ。そこで、そうやって神宮球場の建設費を、容積売買で調達しようと算段しているらしい(ような気がする)。
 でも、今の神宮球場もラグビー場も風致地区指定がなかった時に建ったから、あんなに背が高いけど、今は風致地区の制限がある。
 国施設のラグビー場は国立競技場なみに、都との協議で風致地区規制を事実上は不適用にさせて高く建てるかもしれないが、民営の神宮球場は都の許可だから、簡単にそうはいかないだろう。
 まあ、新国立競技場なみに、政治的な働きかけで、いろいろ例外的な適用するのだろう。

 念のために言っておくが、ここに書いたことはすべて私個人の妄想である。本当にこんなことを関係者が考えているかどうか、まったく知らない。
 わたしの趣味としての勝手な都市計画推理遊びである。

つづく 9回も書いてそろそろ飽きたなあ、つづきは都市計画じゃないことを書こうかなあ)

追記2013/12/29
 ここまでに書こうか書くまいかと逡巡していたことがあるが、やっぱり書いておくことにした。
 それはラグビー場(跡地)が、その隣接する複数の民有地と共同して、ある一定の条件下で再開発をするなら、風致地区規制も都市公園制度も外して、ほぼ、どんなものでも建てることができる、完全に合法的な例外的方法があるということだ。
 だが、合法的とはいっても、都市公園指定されている外苑からいえば合理的とは言えない超妄想なので詳しいことは書かない。都市計画プロは知っているだろうから、お前は知らなかっただろうと言われても癪なので、これだけを書いておいた。
 都市計画審議会は、そういう再開発の都市計画が出たら、法の基本に立ち返って真剣に審議してもらいたいと思う。

これまでの論考は「◆新国立競技場に関する瓢論と弧乱夢と似非言い
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html

2013/12/23

880能「檜垣」の登場人物にも演者にも観客にも老いを重ねて観てきた

寒い師走の土曜日、横浜市立図書館で「建築家の自邸」なる本を探す。池辺陽と今泉善一の二人の建築家が共同して、連戸共同住宅として建てた自邸を調べたのである。
最近、たまたま池辺のもとでその建築設計と現場を担当した建築家の、小町治男さんに会って昔の話を聞いたからからである。

そのことを聴くのが目的ではなくて、戦後復興時代の防火建築帯をたくさん作った今泉さんのもとでの仕事のことを聴きたかったのだが、小町さんは一時は池辺さんのもとで仕事をしていたとて、この住宅の話を聞いて興味がわいた。
戦後とはいえ、もう5~60年も前の昔々のことを調べて、なんだか懐かしくなるのは、わたしもすっかり老いたということである。

図書館の後は、その老いをテーマの能を見るために、横浜能楽堂に行った。本日の演目は「檜垣」というめったに見られない老女ものといわれる大曲である。
その演者たちは、シテ野村四郎77歳、ワキ宝生閑79歳、アイ山本東次郎76歳という、いずれも老いたる人々が老いをテーマの能を演じるのだ。
さらに解説者として登場した歌人の馬場あき子は、85歳である。でもこの人は、話といい立ち姿といい、とてもそうは思えない若さだ。

こちらの見所の観客たちも老人が多い。館長の山崎有一郎さんの姿も、わたしの席のそばに見えて、この方は100歳である。老人ばかりの年の暮。
それにしても今日は、超満員で補助椅子までも出ているのは、めったに見られない曲であり、ベテランの共演であるからだろう。

はじめて観る曲なので、あらかじめ岩波の謡曲集を読んだのだが、なんとも筋が簡単すぎて、これでは眠ってしまいそうだと予想していったのだが、馬場あき子の解説で見方が分った。
この曲は、老いがテーマである。若いころは美しく芸達者でもてはやされた遊女が、百歳にも生きてヨロヨロに年老いた姿で彼の世から登場する。昔の若く美しい時に舞った序の舞を見せて、いま彼の世で責め苦にあっているので苦しい、僧に成仏させてほしいと請うのである。
この百歳もの老女のふるまいや舞姿を、演技として演者が演じることの難しさがあるという。

美しい若い女の舞う序の舞を老いてヨボヨボになった老女が舞う演技が求められるのだが、実際の老人の演者の肉体の老いそのままでは演技にならない、ベテラン演者として若い女の舞うあでやかな序の舞の演技のままででは老女の演技にならない。
生身の今の時間と物語の中の今昔の時間という、3つの時間がもたらす身体の矛盾を、どう表現するか、しかも男の演者が女性を表現する、そこがこの能の見どころだと、馬場あき子は言った(ように聞こえた)。

ふむ、野村四郎はそれをどう見せてくれるのか、これは眠れない能見物になるなとおもったが、実際に眠らなかった。
能の観巧者ではないから何とも言えないが、たしかに身体の運びは能の確実なる演技であるが、ヨボヨボの老いを不確実な運びで見せるのではなくて、わずかに揺れる緩急の中に見せる演技であった(ように見えた)。

ずっと前に、老女もののひとつである「卒都婆小町」(金剛流 豊島訓三)を見たことがあるが、いや、その動きの遅いこと遅いこと、幕から出てきて舞台に入るまで橋掛かりを20分もかけて歩いた。途中で2度も休みつつ。
「檜垣」もそうかもしれないと警戒したが、途中2度の立ち止まりはあったが、遅い小さい歩幅ながら、比較的スタスタと渡った。緩やかに遅く演じれば、老婆の姿になるというわけでもないらしい。

能ではさまよっている幽霊の主役が、脇役の僧侶に成仏させてくれと頼んで、経文を唱えてもらって「仏果を得しこそありがたかりけれ」なんて、ハッピーエンドになることが多い。
この「桧垣」も見せ場の老女の序の舞がおわって、僧に汲んできた水桶を供えて、「罪を浮かめて賜びたまへ」と頼むのだが、どういうわけか、そこでプツンと終了した。
エッ、まだあるんじゃないのと見ていると、囃子方は座るし、シテはヨロヨロと橋掛かりへの退場にかかる。成仏したのか、しなかったのか、なんかもう気になる。

「清経」や「砧」のように、無理やりというか安易に、最後のどたん場で突然にわけもなく成仏させてしまうのも困るが、こうやってポンと投げ出されては、「隅田川」のように悲劇に終わらせるのでもなく、これも困る。
もしかしてこの能は、老いたる女の序の舞の演技をいかに演じるか、そこを見せることだけにあるのか。う~む、あまりに玄人過ぎる能である。しょっちゅう能を見ていないと、なんにもわからない。

ここまで書いて、また岩波の謡曲集を開いて見た。おや、「罪を浮かめて賜び給え」の続きが小さい字で書いてあるぞ。
なになに、けっこう長い地謡のロンギで、最後は「はやく仏道なりにけり」と終わっている。おお、ハッピーエンドだよ。
注が書いてある。「金剛流のみ、「賜び給え」のあとにロンギがつづく。古写本に見えず、近世の付加らしい」
やっぱり、江戸時代にポンと放り出されて気になる人がいて、創作してくっつけたらしい。

2013年12月21日(土)
世阿弥生誕650年記念 横浜能楽堂企画公演  主催: 横浜能楽堂
「時々の花」第3回 玄冬の巻    解説:馬場あき子
「檜垣」観世流)
シテ(老女・檜垣女):野村 四郎
ワキ(山僧) :宝生 閑
アイ(岩戸山麓の者):山本東次郎
笛 :一噌 仙幸   小鼓 :大倉源次郎   大鼓 :柿原  崇志
後見 :浅見  真州  清水 寛二  浅見 慈一
地謡 :観世銕之丞  浅井文義    上野朝義  西村高夫  
          上野雄三  小早川修   柴田  稔  野村昌司

879カリフォルニア閨秀歌人の歌が朝日歌壇に入選した

今日(2013年2月23日)の朝日歌壇に、この歌を二人の選者が選んでいる。

真珠湾の報復という原爆を落した国に帰化せり我は
                          
                                              (アメリカ)大竹幾久子


大竹幾久子さんは、広島出身でカリフォルニアに住む。
ときどき朝日歌壇などの、日本メディアに短歌や俳句で出没する。ご本尊そのものも、年に1回は、亭主をポーターにして、日本に姿を現す。

そのポーターが、わたしの大学山岳部時代の仲間である。毎年やってくる度に、山岳部同期生の生き残り仲間9人で、「Q人会」と称して飲み会をやる。
この秋もやってきて、その飲み会の次の日は、横浜で大勢の人を集めて、夫婦で講演会をやってから帰った。
幾久子さんは、アメリカにおける日本語教育の話、ポーターは元NASAでロケットを飛ばしていたので宇宙探査の話、どちらも好評を博した。

このカリフォルニア閨秀歌人の朝日歌壇、最近の入選作。

あれしきの被曝で何を騒ぐかと言ってはならぬ我は被爆者

仰ぎ見る万国旗は皆同サイズアメリカアフガン並びてはためく

香港とスロバキヤから来し嫁と厨に立ちて雑煮を作る



○関連ページ参照
705カリフォルニア歌人の朝日歌壇賞の受賞歌は原発と原爆の両悲劇を結ぶ
http://datey.blogspot.com/2013/01/705.html
648日本人は5度目の大被曝体験をしても原発を動かす地震津波火事原発
http://datey.blogspot.com/2012/07/648.html
500カリフォルニア歌人
http://datey.blogspot.com/2011/09/500.html

2013/12/21

878理工学部出身の知人医者がシュトレンなるクリスマス用ドイツ菓子を送ってくれた

大学時代の先輩であり同期であり後輩の(要するに2年留年した)Mさんから、自家製お菓子「シュトレン」をいただいた。
菓子のことは和洋にかぎらずなんにも知らないが、送り状にシュトレンと書いてあるのでインタネットで調べたら、これはドイツのクリスマス用のケーキらしい。Stollenと書く。

毎年、奥方が1か月くらいかけて焼きあげ、暮れに知人に配っていて、その年の配布先にうまく当たると、わたしにもやってくる。これが2度目である。
この前は一昨年の暮れであったが、クリスマスも過ぎて小正月に越後山里の法末集落に持って行き、「賽の神」行事に集まった仲間と美味しくいただいた。

この菓子をくれたわたしの同窓生のMさんは、医者である。その同窓の大学は理工学部だけで、医学部なんてものはなかった。Mさんは何を専攻して卒業したのか、実はわたしは知らないのだが、大学時代は山岳部員仲間として知っている。
ちょうど60年安保反対闘争の華やかな時代であり、大学生の彼は学生運動の闘士であった。
ノンポリのわたしも、安保デモに参加したが、そのおかげでその後の人生が若干曲がった。曲がってよかったのかどうか検証しようがないが、生涯所得は確実に低下する方向に曲がった。

Mさんは大学を出て大手企業に就職したが、そこでも労働運動の左翼前線で活動をしてきた。
ところが、50歳くらいの頃か、突然に医者になると志して、予備校を経て医科大学に進み、インターンなどを経て、本物の内科医師になったのは還暦が過ぎていた頃だったろうか。
なにがかれを医者にさせたのかは知らないが、あきれるほどの情熱の人だから、ありえたのだろう。

そして今は、東京の町なかで診療所を持つ赤ひげ医者である。喜寿となった年相応になにやかやと医者の不養生さながら自身が病みながらも、町の年寄りどもを診て、時に看取っている。
幸いにして、わたしはMさんの患者になったことはない。まあ、めったに医者に行かないし、遠いから当たりまえではある。
その看取る日々と孫娘の成長の日々を、毎週のようにメールで仲間にレポートしてくれるのである。
そのレポート相手の中の運の良い者がシュトレンに当るので、わたしは今年は運が良かったというわけである。
Mさんのおかげで、今年は気持ちよく年を越せるというものである。

2013/12/20

877【五輪騒動】都市計画談議(その8)外苑はほんとうに日本の風致地区指定第1号だったか

その7からの続き)

まず、間違わないように書いておくが、現在の国立競技場用地も戦前戦中は明治神宮外苑の一部であり、かつ明治神宮は国営神社だったから、外苑も国有地であった
戦争が終わり、1947年から全国の神社は宗教法人として国の庇護から外され、国有地であった寺社用地は条件によって、国に返還するか、神社に無償譲与あるいは半額売却かの処分をすることになった。
明治神宮の内苑は無償譲与となったが、外苑については宗教活動施設ではないとして、国は返還を、明治神宮は譲渡をそれぞれ主張してながらく揉めた末に、1956年にようやく半額譲渡、10年賦と決着した。
このとき、競技場用地は国有となり、国立競技場として1964年の東京オリンピック大会のメイン会場となった。

さて、この国立競技場の建て替えによって、明治神宮外苑の景観が変化することについて問題があると、建築家や市民がアピールしている。
そのなかに、都市計画法の風致地区を日本で最初に定めた地区として、実に由緒ある場所であることが引き合いに出され、だから新国立競技場の巨大さが問題という論がある。
風致地区とは、1919年に公布した都市計画法に基づく制度であり、都市地域における自然的環境保全を目的としている。

たしかに、1926年9月14日に明治神宮の内苑外苑に関わる地区に、内務省が日本で最初の風致地区指定をしたのだった。
ただし、指定をした地区の範囲は、内苑でも外苑でもなくて、その外の市街地である。
日本最初の風致地区は、表参道、内外苑連絡道路、代々幡明治神宮線の各道路の沿道部幅18mの民有地と、青山通りの銀杏並木入口部の民有地であった。

要するに、内苑とか外苑とかの明治神宮の土地(いずれも国有地)に風致地区を指定したのではなくて、まわりの民間の土地に変なものを建てさせないように規制をしたのであった。
いわば、官のやることには間違いないが、民は何をやるかわからなくて危ないから規制するってことである。官の無謬性といわれる行為である。
だから、外苑は風致地区第1号だったというのは、正しくないのである。まあ、神宮がらみだから当たらずといえども遠からずの位置ではある。
だが、わたしは、こういう明治神宮の権威を風致に引っ掛けて持ち出すような言い方は、好きになれない。

内苑と外苑の土地に風致地区がかかったのは、1970年のことであり、新都市計画法に基づく指定である。同時に、上に述べた第1号指定の民有地から風致地区が外れた。
現在建っている巨大な建物群、つまり絵画館、国立競技場、神宮球場、第2球場、プールなどは、いずれも風致地区指定以前に建ったものである。
だから今の法制度から言うと違反建築、正しくは既存不適格建築物という。これら全部が不適格なのだから適格に直せと、だれも言わないのが不思議である。

絵画館はこの地の元祖みたいなものだから別としても、そのほかの競技場の建物は、風致地区を都市の緑の空間の保全のための制度だとすると、あきらかに大幅に緑を壊しているし、緑の樹冠の上に頭をつき出して建っている。
だが、いずれも風致地区指定以前だから、風致地区好きなお方でも、これにはまったくしょうがない奴らだ、と言うしかない。

戦前に明治神宮内外苑に風致地区指定をしなかったという官の無謬性の行為は、実は、戦後の新都市計画法による風致地区にも受け継がれたのである。
風致地区内で建築行為は、知事や市町の許可を得なければならない。そして、どのように許可をするかについて、都市計画法の政令で風致地区内の建築の規制条例の基準で定めている。
ところが、そこには国や自治体が行なう行為については許可を要しないと、規定される。つまり国や都の建物は、風致地区の許可基準の外にあるのだ。

だから野放図に建てることができるのではなく、許可のかわりに当局間で協議をすることになっている。もっとも、協議となれば力関係で決まることになるだろう。
国の施設である新国立競技場は、法的には、2種風致地区の高さ15m制限はかからず、2種高度地区の20m制限がかかるのだが、それも地区計画で75m制限に緩和された、という筋書きである。

もちろんこれは法制度上の筋書きであって、風致地区も都市計画だし、地区計画も都市計画、おなじ都市計画法の中で決めるのだから、適切な風致が保たれる計画である、とは必ずしも言えないのはもちろんである。
だから、都市計画審議会や景観審議会などで、専門家が審議したうえで決めるという仕組みがある。
そうやって審議したから、これで風致が保たれることになったとは、必ずしも言えないことももちろんである。そう、第201回東京都都市計画審議会の議事録を読むと、その粗雑さはなかなかなものである。

都市計画が景観形成にどう寄与するのか、しないのか、あるいは邪魔なのか、もうちょっと考えてみたい。(つづく

◆新国立競技場に関する瓢論と弧乱夢と似非言い
http://datey.blogspot.com/p/866-httpdatey.html

2013/12/19

876国民的行事と言われた紅白歌合戦は今や国際的行事になっているらしい

TVもカラオケも嫌いでこの1年を過ごした徘徊老人の年末決算として、NHK紅白歌合戦に登場する歌い手と歌う歌を、いくつ知っているか眺めている。
まだやってるんですね、この番組。
実のところ、ほとんど知らない人であり、知らない歌である。和田あき子と北島三郎なんて、生きていらっしゃるんですねえ。

歌い手の名前をみて、その名と顔の両方に記憶があると◎、その名をなにかでで読んだような気がすると△、まったく知らないと×をつける。
歌の題名を見て、その一部でもメロディーを思い出すことができるものを◎、題名だけでも記憶にあるものを△、まったく知らないものを×をつける。

その結果は、下表のとおりだが、◎を2点、△を1点、×を0点として採点した結論を先に書く。
紅組が11点(満点なら92点)、白組が17点(満点なら96点)で、今年のわたしの脳内紅白歌合戦は白組の勝ちである。
紅白あわせて188点中の28点で、100点満点に直すとたったの15点だから、これがわたしの俗世間認知度というものだろう。なんともはや。でも、もう、いいんだ~。

実は去年の暮れの紅白歌合戦(ネットでちゃんとわかるのだ)についても同じことをやってみたら、紅組13点、白組16点で、白の勝ち。
紅白合わせて29点であるが、ことしのそれは28点だから、わたしの俗世間認知度はこの1年では大差なしであるらしい。

それにしても、大昔は名前で男か女かわかる日本人ばかりだったが、これはまたなんと、カタカナ横文字のオンパレードである。
まあ、国技と言われた相撲だって国際的になったご時世だから、国民的行事と言われた紅白歌合戦が国際的行事になってるのはあたりまえだろう。

【紅組】
×× aiko/Loveletter
×× E-girls/E-girls 紅白スペシャルメドレー2013
×× いきものがかり/笑顔
◎◎ 石川さゆり/津軽海峡・冬景色
△× AKB48/紅白2013SP~AKB48フェスティバル!~
×× SKE48/賛成カワイイ!
×× NMB48/カモネギックス
△× きゃりーぱみゅぱみゅ/紅白2013きゃりーぱみゅぱみゅメドレー
×× 香西かおり/酒のやど
×× 伍代夏子/金木犀
×× 坂本冬美/男の火祭り
×× 高橋真梨子/for you...
△× 天童よしみ/ふるさと銀河
×× DREAMS COME TRUE/さぁ鐘を鳴らせ
×× AAA/恋音と雨空
×× 西野カナ/さよなら
×× Perfume/Magic of Love
◎× 浜崎あゆみ/INSPIRE
×× 藤あや子/紅い糸
×× 水森かおり/伊勢めぐり
×× miwa/ヒカリへ
×× ももいろクローバーZ/ももいろ紅白2013だZ!!
◎× 和田アキ子/今でもあなた

【白組】
△× 嵐/New Year’s Eve Medley 2013
×× 泉谷しげる/春夏秋冬2014
◎× 五木ひろし/博多ア・ラ・モード
△× EXILE/EXILE PRIDE~こんな世界を愛するため~
×× 関ジャニ∞/紅白2度目! 呼ばれて飛び出てじぇじぇじぇじぇ!!
◎× 北島三郎/まつり
◎× 郷ひろみ/Bang Bang
×× ゴールデンボンバー/女々しくて
×× コブクロ/今、咲き誇る花たちよ
×× サカナクション/ミュージック
×× 三代目 J Soul Brothers/冬物語
△× SMAP/Joymap!!
×× Sexy Zone/Sexy平和Zone組曲
×× TOKIO/AMBITIOUS JAPAN!
×× 徳永英明/夢を信じて
△× 氷川きよし/満天の瞳
×× 福田こうへい/南部蝉しぐれ
×× 福山雅治/2013スペシャルメドレー
△× 細川たかし/浪花節だよ人生は2013
×× ポルノグラフィティ/青春花道
◎× 美輪明宏/ふるさとの空の下に
◎◎ 森進一/襟裳岬
△× ゆず/雨のち晴レルヤ
×× Linked Horizon/紅蓮の弓矢