2010/09/29

322【世相戯評】国勢調査にいちゃもん

 5年ごとに行なう国勢調査の調査票が来た。郵送でもよくなったのが、まことによろしい。
 記入していて、いろいろ気づいたこと。

男女の別」の記入だが、国勢調査は実態を把握するものであるらしいから、昨今のような性同一性ナントカントカを言われる時代となって、「男」「女」か迷う人もいるだろうし、男女どちらでもない「その他」の欄が必要かもしれない。5年後の調査にはそれが登場するだろうか。

出生の年月」に、以前は無かった西暦での記入が登場したのは、時代の移り変わりだろう。

配偶者」とは何か、これも難しいことがありそうだ。届出は配偶者であっても、実態はそうでないときは、どう記入するのかしら。同居していて、一方はそう思っていても、もう一方はそうではないかもしれない。同性の場合でも、互いにそう思っていると配偶者と書くのであろうか。
    
住居の種類」で、公営住宅が選択肢に無い。多分、「都市機構・公社等の賃貸住宅」なのであろうが、解説に列挙してある中に公営住宅は無い。国政府の調査で「など」の一部になるほどに、日本の公営住宅政策は落ちぶれてしまったのである。

住宅の建て方」の選択肢に「マンション」が出てくるかと思ったら、そうではなくて「共同住宅」となっていて、これでよろしい。解説には共同住宅の例にマンションの言葉もあるが、欧米系外国人が読んだら頭を傾げるだろう。

住宅の面積」の選択肢に、20㎡未満があるのが悲しい。上は250㎡以上でまとまってしまうのも寂しい。
    
教育」の選択肢に「在学中」「卒業」とあるが、これだと「中退」の場合はどうするか困りそうだ。多分、「卒業」のほうにするのだろう。
 学校の選択肢に「高校・旧中」とあって、「旧中」の解説で旧制の尋常中学校などが例示してある。生まれ故郷の町に旧制中学校があったが、戦後の学制改革で新制の高等学校となり、別に中学校が新設された。大人たちはしばらくの間、元の中学校が新制高校となっても中学校とつい言ってしまって、商品の配達先や子供のお遣い先やらの間違いがよくあった。新制の中学校は「新中」といっていた。

9月24日から30日までの1週間に仕事をしましたか」という問にも、自由業の者は回答に困る。例えば、売れない文筆業ならば、その期間に書いた原稿が売れたら仕事したことになるし、売れなければそうでないから、今の時点で回答できない。また例えば、都市計画審議会の委員をやっているとして、会合の日の日当は出るが、その前の下調べとか終わってからの検証とかやらなくてもよいことをしたら、これは仕事か仕事でないのか。
    
 以前の調査には「年収」の欄があったが、今回は無いのはどうしてだろうか。
 全体に調査項目が少ないような気がする。こんなに金かけてやるのだから、もっと詳しく聞いてはどうか。
 例えば、お酒を飲みますか、なにが好きですかなんてあって、日本酒やら焼酎やら選択肢があると、書き込みも楽しいのだがなあ。旅行にはどこに行きましたか、とかね。え、どうでもよい?、いや、日本の産業振興のための統計になりますよ。

 あ、そうだ、総務省の調査なんだから、ぜひとも血出痔問題についても聞いてほしかったぞ、賛成、反対なんかね、わたしは断然反対、個人財産を国家が補償なしに廃棄させるのはファシズムであるってね。

2010/09/28

321【東京風景】六本木から神谷町へ

  今年の夏はあまりに暑くて、徘徊老人をやることができなかった。机上のPCに向ってばかりいたのだが、どうも運動不足の上、姿勢が悪かったらしい。ちょっと腰をひねると、イタッとなるぎっくり腰もどきである。正しい姿勢で徘徊運動再開が望ましい。
さて、猛暑から突然の晩秋である。出歩くには絶好である。小雨のなかを六本木から神谷町まで、ぶらぶら徘徊した。
   ◆
 地下鉄六本木駅から久しぶりに六本木交差点に出た。防衛庁跡地の「東京ミッドスクエア」開発を見る。この前は一昨年だったろうか、まだ工事中であったが、すっかりできあがっている。
 超高層建築はなんだかつまらないデザインである。「ガレリア」なるサントリー美術館が移ってきた大きな吹き抜けのも、今時では陳腐なものである。
 外は開発緑地と檜町公園(既存改修)とが連続していて大きな都市のオープンスペースとなっているのが、なかなか良い。
 その開発緑地の隅っこに、平屋で横長の三角屋根が見える。「21‐21design site」なる美術館であるらしい。安藤忠雄の設計であるから例によって遺跡、割り込みデザインである。
 入ってみると、現代アート見世物展覧会であった。佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と認めざるを得ない”展」だそうである。大勢の若い男女が、コンピューター仕掛けの見世物に嬉々としていた。このような見世物アートは好きだが、仕掛けが見え見えなのがちょっと気にいらない。
    ◆
 六本木から檜町公園下までずいぶんレベル差がある。このあたりは全く起伏の激しい土地である。東京だからこんなに斜面でも何でも建物を建てているが、田舎なら森の丘陵と入り組んだ谷に水が流れる地である。
 檜町公園の下、赤坂中学よりに、屋敷の林の中にずいぶん古そうな廃屋寸前に見える木造家屋がある。一昨年にきたときもあったが、今度も健在であった。ミッドタウンの超高層との取り合いが面白い。
 昔々、なにかの用事で六本木駅から防衛庁の横の細い道を下って、赤坂秀和レジデンスに行ったことがあったことを思い出した。あの寂しいところがこんなになったのか。
    ◆
 氷川神社を経て六本木二丁目方面に移動する。氷川神社の森はここが東京の真ん中かと思わせる。山王日枝神社みたいにこの空中権を移転して開発するって話がありそうなものだが、どうなのだろうか。
 一山超えてアークヒルズの近くまで来る。アメリカ大使館の下にある神社境内から見る超高層群も、鳥居と取り合わせるとなんだか妙なものである。
 首都高の谷町ジャンクションに来る。ここは三角の交差点が三角の高速道路に囲まれ、下には駐車場などで、上も下も環境も景観も悪い、全くもって雑駁きわまる空間である。アークヒルズが都市空間をあれだけ一生懸命につくっても、この交差点のあまりのひどさに帳消しになってしまう。
 森ビルの開発の手は、アークヒルズの周りに伸びているが、すぐ南の二つの寺はまだ手がついていないらしい。道源寺の昔なりの墓地と本堂、庫裏が健在である。墓石、石仏と超高層との取り合わせはなかなかよろしい。

 また一山超えて神谷町にやってくる。
 オヤ、「虎ノ門パストラル」(農林年金会館)を取り壊している。新館のほうはけっこう新しいはずだったが、もう壊すのか。超高層のオフィスや共同住宅に変るのだろうが、なんだかもったいないような気がする。ここの会議室はけっこう使ったことがあるから、特にそう思う。
 愛宕山の西側にやって来ると、木造家屋が立ち並ぶ一角がある。ここは日本都市計画家協会への通勤でよく通っていたから、山の東側に建つ超高層との取り合わせを楽しんでいたが、まだその風景は健在であった。
 虎ノ門三丁目のあたりは、広く工事用の塀で囲って、建っていた建物がすっかりなくなっていた。環状2号道路の建設が始まったのだ。
 それにしてもこのあたりは建物が立ち並んでいて、いつも見慣れた風景であったのに、なくなってみると何があったかほとんど思い出せないのが、不思議である。

2010/09/22

320【法末の四季】今年の稲刈り

中越の棚田の山村・法末での米つくりは4年目に入った。先日、今年の稲刈りをしてきた。日照りで水不足と聞いていたが、実際はよく実っていた。棚田の場所によっては水不足もあったらしいが、わたしたちの田は大丈夫であった。
 3枚の棚田のうち、初日の午前中に下の一枚を3人で刈り取った。バインダーなる機械を使ったから、3人でも効率が上がった。
 後からやってきた7人を加えて10人で、その日の午後と次の日の午前中ですべて刈り取り、ハサ掛けを終えた。2週間後に脱穀である。
   ◆
 集落では超高齢化が進んで、農作業から離れていく人たちがボツボツと出てくる。
 わたしたちの仲間は、今年はこれまでところに加えて更に2枚の棚田をつくった。この棚田は、去年までは元気であった長老格の人のものだが、体調が悪くて仲間が米つくり支援を引き受けた。これは仲間の一人ががんばって刈り取った。
 ほかにも米つくりを撤退しようかという人もいるそうだ。現実に耕作されていない棚田があちこちに出現している。
 まだ元気だが近くの街に引っ越して行き、こちらの家は農作業用にしている通勤農業の人もいる。あるいは高齢の親を支援して、近くに住む息子夫婦が農作業にかよってくる例も多い。
   ◆
 80人いるかどうかの集落だが、毎年1~2人の死者が出る。入ってくる人はいない。
 この冬は自死者があったそうだ。この男性は首都圏のある都市からこちらに10年位前にやってきた。年金生活者のようであったが、モダンな家を建てて、山野草や盆栽が趣味であった。
 いちど訪ねてその沢山の鉢植えを見せてもらったことがある。解説を聴いたがこちらにその趣味がないのでよく分からない。周りの山の中から珍しい品種を採集して育てるのだそうである。なるほど、こういう趣味でここに住むのは、それなりに目的に適うものであると知った。
 そんな積極的な生き方をしているように見えた人だったのに、この冬、山中の深い雪の中で遺体が見つかり、覚悟の自死であったという。
 それ以上の詳しいことは知らないが、考えようでは、この山里を死に場所として選んだのかもしれない。生きがいのある場所でもあったが、死にがいのある場所でもあったのだろうとも思う。
 この「死にがいのある場所」とは、なかなかに深い含蓄があると思うのだ。
 自分の終焉の場を自分で選ぶのは、実際は難しい。美しい山野があり、清くて深い雪のあるこの地を選んだその人の気持ちが、おぼろげながら分かるような気がする。

2010/09/21

319【東京風景】変りゆく東京駅八重洲口の風景も面白い

去年のはじめに東京駅の八重洲口に行ったら、巨大な真っ白な壁が出現していて驚いた。大丸取り壊し工事のための囲いである。この白い壁の架かる前は、ビルの黒いガラスのカーテンウォールであった。
 ごたごたした八重洲駅前に、幅200m、高さ50mくらいの真っ白な壁が立ちあがるのは、クリストのアートかと思わせるようなシュールリアリズムの光景であった。ただ真っ白で、いまどき流行の広告もなくて、潔かった。
   ◆
 先日久しぶりに八重洲通りから東京駅を眺めたたら、白い壁は下のほうに一部だけになっていて、丸の内側の高層ビルがいくつも見える。
 このビルを壊した跡は低層の建物を建てるらしい。新しい八重洲側の顔になるだろうが、上空に見える新丸ビルと丸ビルの超高層風景は、なんだか正面性がなくて中途半端にごたごたしている。
 それは八重洲通りと丸の内の駅前通り(通称・行幸通り)とが、軸がずれているからだ。八重洲側から見ると半端に正面に立つ新丸ビルの、これまた半端なデザインが気になる。
 丸の内側のビルの建築家は、八重洲から見える景観を考えて丸の内のビルを設計すべきところを、多分、忘れていたのだろう。
 同様に今後は、八重洲・京橋側の建築のデザインは、丸の内から見通す景観を考えて設計しなければならない。
   ◆
 八重洲口から東京駅に入るには、この工事中のごたごたしたところを通り抜けなければならない。
 そこを歩いていてふと思い出したのは、あれは1954年だったと思うが、修学旅行で東京に行き従姉にあったときが、まさにこんな工事中の東京駅であった。ごたごたした駅を通り抜けるときに、いま駅ビルを工事中なのだと教えてくれて、どこかのレストランでエビフライをご馳走してもらった。
 そのときは、いま壊しつつある駅ビルが完成間近の建設中であったのだ。あれから55年でビルは命を終えた。
 わたしより後から生まれてきたあんな巨大で頑丈なものが、わたしよりも先に消えるなんて、なんだかこちらが長生きしすぎているように思えてくる。

2010/09/16

318【老い行く自分】目も耳も人の縁も遠くなるばかりだなあ

 年取るとオシッコは近くなるが、逆にいろいろと遠くなることが起きる。目と耳がいちばん典型的である。縁も遠くなる人が増えてくる。
 わたしはまだ耳も目も、まだ遠くはなっていないと思っているが、それはこちらが勝手にそう思っているだけかもしれない。
 ただ、聞くのがめんどくさくなることが多くなった。話し相手でも会議での発言者でも、小さな声でぼそぼそしゃべるのは、もう聞かないことにしている。耳をそばだてるのが疲れるからである。
 居酒屋のガヤガヤのなかでも、若いときはしっかりと聞いたりしゃべったりしても、特にどうってことなかったが、今はどうせそんなところでの話だから真剣でなくてもいいやと、聞く努力をしないのである。聞こえる音をただ音として聞いているだけ。これが老人のボンヤリ姿になるのであろう。
 これは多分、同時に聞こえるほかの雑音との聞き分け能力、脳内仕分け能力が老化減退しているのだろう。
 勝手ツンボは、まだ芸がなくて、できない。
    ◆
 目が遠くなるのはまだ来ないが、乱視近視遠視(目が遠いと遠視とは違う)は進むようだ。若いときは変な姿勢で本を読んでも平気だったが、いまは寝転んで読書はちょっとつらい。目がチカチカ、腕がくたびれる。
 ただ、目が遠いフリをしておいたほうがよいように思う。なにしろ、人様の顔と名前を覚えるのが不得意のうえに老化が進んで、最近会った人も忘れる。次に会って向うから挨拶されても、忘れたのじゃなくて目が遠くて分からなかったと、すり抜けるのである。

2010/09/15

317【くたばれマンション】衣のファストフード、食のファストファッション、そして住のファストハウス、ファストマンション

 衣食足って礼節を知る、と、昔の人は言った。
 一般に衣食住と3つを並べていうけど、なぜ住はなくても礼節を知ることができるのか?
 食は足りすぎた先にファストフードとかジャンクフードとか、立ち食い屋みたいなどうにも礼節のない輩が登場している。

 では衣はどうか。最近はユニシロとかでてきて、それを真似するて安売り衣料屋が流行るとかで、それらをファストファッションというそうだ。
 ファストフードもファストファッションもそれなりに美味いものもあり、格好も良いものもあるのが、なんだか癪に障るが、戦後半世紀以上経って衣食はようやくそこまで来たってことである。

 で、残りの住はどうか。ファストハウスとかファストマンションとか、そんなものがあるのだろうか。夜な夜な立ちあがるダンボールハウスのことか。
 住だけは安くて品が良いってファスト段階にはいまだに及ばなくて、高くて品が悪い名ばかりマンションがはびこっている。衣でいえばプレタポルテ時代だな、食で言えばいまだに代用食時代だな。

2010/09/09

316【都市・地域、くたばれマンション】首都圏の住みたい街アンケート回答御三家は吉祥寺・自由が丘・横浜だって?

 マンション販売屋の大手8社が調査した、首都圏での住みたい街アンケートが発表されている。http://www.major7.net/contents/trendlabo/research/vol013/
 2005年から2010年までのランキングを見ると、毎年ベストテンに登場しているのは、吉祥寺、自由が丘、横浜が毎度のトップ御三家である。そのほかは二子玉川、恵比寿、広尾、鎌倉が毎回登場している。ふ~ん、そういうものなのか。
 マンション屋のアンケート調査だから、共同住宅を買って住みたい街はどこかという問いであり、一戸建て住宅や賃貸住宅は回答の対象ではないであろうことを前提に考えなければならない。
    ◆
 この中で横浜と鎌倉はほかと比べてエリアが広すぎるけれど、多分、共同住宅が多く建つところでそれなりに地域イメージがあるのは、横浜ならば関内あたり、鎌倉ならば旧鎌倉の市街地を言っているのであろう。
 東京では下町はでてこないし、千葉方面もない。ベスト20くらいまで入れると、豊洲や浦安が出てくる。
 川崎は、武蔵小杉だけが登場する。最近になって、大希望工場跡地ににょきにょきと超高層共同住宅群が登場した。マンション屋としてはイメージ作戦で武蔵小杉をベストテンに入れさせたかったのであろう。でも、あの街のどこがよいのかしら。環境とか景観よりも、比較的交通便利で比較的安価が理由であろう。
    ◆
 吉祥寺と自由が丘が毎年トップを争っているが、どちらもわたしには縁が深い町である。
 自由が丘は大学時代は遊ぶ街であったし、家庭教師アルバイトの街であった。その後も日吉に住んで通勤の行き帰りに何かと縁がある。いまでもたまに昔からの飲み屋に行く。あんなゴチャゴチャしたところが、どうして住みたい街なのかしらと首を傾げたくなる。
 吉祥寺は1970年代に、まちづくりに通っていた街である。その伊勢丹ができてからがらりと変わった。まあ、住みたくなるような街を作ったひとりかもしれないとも思う。でも、東京でトップになるってのがよく分からない。
 二子玉川は、学生のころは山岳部トレーニングでマラソンしてよく行った。その後は幼い息子をつれて遊園地に行った。あのあたりは上野毛からの台地にお屋敷があって、庶民が住みたいと思うようなところではなかった。それが高島屋のショッピングセンターができてから、ガラリと雰囲気が変わった。いまは遊園地であったところに超高層マンションが建ちつつあるらしい。
 恵比寿も昔はどうってこともないところだった。大きなビール工場があり、あたりは起伏の多いゴチャゴチャとした住宅街であった。ビール工場の跡地開発が街のイメージをがらりと変えた。
    ◆
ここまでを見て、自由が丘だけがずいぶん違うことに気がついた(横浜と鎌倉は別格)。どこも何か大規模な開発があってガラリと転換して行ったのだが、自由が丘は特にそのようなこともなく、狭い道のままに、じわじわと住宅街に商業が滲み出しつつ、なんとなく賑わいが出てきた街である。駅前の姿なんてわたしの学生時代と大差がない。ちょっと妙な街である。
 鎌倉は四半世紀住んだところ(ただし共同住宅でない戸建住宅)、横浜の関内の隣の関外に現在は住んでいる(ただしマンションではない賃借共同住宅)。東京の吉祥寺や自由が丘には住めなかったが、わたしもまあまあのミーハー居住地選択だった。そうだ、学生時代には自由が丘の隣の緑ヶ丘に住んでいたぞ、大学の中の寮だけど。
●参照→251百貨店時代の終わり

2010/09/08

315【各地の風景】浅草寺の門前町に今じゃあ建築という見世物小屋も建つんだな

 建築は見世物である。最近そう思うと、いろいろなことが分かるようになった。
 建築家は、自分のことをもちろん建築家というし、設計するものはもちろん建築と言うが、同時に「作品」とも言う。
 つまり、画家とか作家とかに肩を並べて「家」をつけたがるし、設計したものは絵画や小説と同じに芸術品でありたいらしい。
 ところが世間ではそうは言っていないのである。「建物」をつくる「設計士」である。街の不動産屋さんは「物件」という。どちらも「物」である。設計士と言うと、弁護士と肩を並べているようだが、どうも庭師とか指物師のような職人に聞こえる。
    ◆
 ヨーロッパに初めて行ったのは、もう40年も前だった。都市の観光コースには必ず地元のガイドが乗ってきて、ひととおりの説明をする。
 こちらは建築史の出だから、都市によっては世界的に有名な建築があって、写真で知っている現物に出会って驚き、喜ぶこともしばしばある。
 そのような建物の説明は現地ガイドはその設計者も入れて説明する。こちらは知っているから、ああ、あの建築家の名前を言っていると、外国語でもある程度は分かる。
 ところが、これを日本人通訳が翻訳すると、必ずといってよいほど建築家の名前を言わないのである。それは多分、怠慢ではなくて、建物ごとになんで設計した人の名を言うのか、そのこと自体が理解できていないからであろうと思った。それが悪いといっているのではない。日本はそういう文化なのだ。
    ◆
 日本の観光名所に行って美しい建築があると、パンフレットなどに説明書きがある。そこには必ずといって良いほど設計者の名前があることはない。広さが広いとか、こんなに昔に建ったとか、柱が太いとか、欄間が精巧であるとか。だれそれという有名人が住んでいたとか、ようするに不動産の物件説明よりましな程度の見世物としての説明である。
 東京駅を今、昔の姿に戻す工事をしている。1945年に戦災で焼けた3階から上を復原するのだという。わたしに言わせると、戦災から復興したときから今までの姿こそが、戦争とその復興を記念する姿だから、昔の姿に戻すべきでないと思うのだ。

 ところが世間では、JR東日本はすごい、500億円もかけて、昔の姿に戻すとはえらい、コピーであろうとレプリカであろうと早く明治(実は大正だが)の栄光の姿を見てみたいものだ、なんて、もてはやすばかりである。
 単なる見世物として期待をするのである。ディズニーランドと同じである。

 さて、建築見世物論を十分に堪能させる建物が建ちつつある。東京は浅草の観音様の雷門、その道の向かいに建築中の「浅草観光センター」である。
 なんでも去年、台東区主催で建築デザインコンペをして、一等賞は隈研吾さんだったとかで、さて地元説明会も終えて着工したろころで、地元からクレームがついた。
 それが浅草寺と地元商店街からだそうだ。審査員には地元商業界代表もいたし、もう決まって半年以上たつのに、どうしたことか。
 WEBサイトを探すと、それらしい区議会への陳情書があり、「雷門を起点とする浅草寺境内の宗教的聖域性に調和しない同センターの高さなどの空間的実感について、地域住民および関係者の要望を反映して現行案を縮小するように変更していただきたく存じます」と再考を求めている。
 マスメディアの報道なども読むと、どうもデザインがどうとかではなくて、雷門が日陰になるのが嫌だという浅草寺の強硬なる意向に、観音様で食わせてもらっている商店街が同調したようである。
    ◆
 さて、そのコンペ当選案を台東区のサイトで見たら、なんともはや、これこそ神社仏閣の祭りのときににわかに登場して祭が終わると消えさる、あの懐かしい見世物の掛け小屋のデザインである。筵の掛け小屋が立体的に積みあがっているのだ。
 そのザンシンさに噴き出してしまった。さすがにあのバブル時代に名を成した隈さんである。これは21世紀の浅草凌雲閣である。あの関東大震災でもろくも折れた浅草十二階がこんな形で戻ってきたのだ。
 浅草寺のクレームは、高さだけに対するもので、デザインにではないらしい。その見世物小屋デザインは「宗教的聖域性」にはマッチしていると思っておいでなのであろう。そこのところが、まことに興味深い。
 コンペでは2等賞は乾久美子さんだったが、この案もなかなかに門前町らしい賑わいに富んだ見世物デザインである。わたしとしては隈案よりもこちらのほうが好きである。
 いずれも、なんでもありの日本の門前町の景観を、建築という見世物にして見せてくれている。
 といことで、こんなのが家の近くに建ったら、とてもじゃないがたまらないけど、浅草には見世物小屋がよく似合う。あ、そうそう、川向こうにある空飛ぶ黄金色のウンコも浅草によく似合う。

2010/09/07

314【横浜ご近所探検】日の出町から伊勢佐木町へ

市立図書館にぶらぶらと歩いて通う。図書館近くの日之出町界隈はどこか戦後の下世話な雰囲気がある。
「ストリップ浜劇」が幹線道路に面して建っている。その向かいには「光音座 神奈川で唯一のゲイムービー(成人向け)」と看板のある映画館もある。
 図書館の近くでは風俗営業は禁止であるはずだが、図書館のほうが後からできたのだろう。

 大岡川を渡ったところのビルの谷間に、2階建て瓦屋根の煉瓦造の蔵がひっそりっ建っている。1945年の戦災の焼け残りであろうが、寂しそうながらけなげである。
 もうすこし伊勢佐木町よりに、全身が緑のツタにおおわれていて、何階建てか分からないビルがある。もこももとした姿が、ドーモ君にソックリである。今ならエコビルといわれるのか。でも窓まで塞いで暗いから電気代がかえってかかるかも知れない。

 更に進んで伊勢佐木町になると真っ赤で巨大な蟹がビルの壁に張り付いて、眼、爪、脚を振りたてている。どこか大阪的などぎついユーモラスさがある。
 大阪と書いたが、この「かに道楽」創始者は、たしか但馬の城之崎あたりの出身であったと覚えている。昔々その人に会ったことがある。そうだ、思い出した、日和山観光の今津さんといった。エネルギッシュな人であった。
 ぶらぶら徘徊していると、いろいろと興味をそそられる物件がある。

2010/09/05

313【言葉の酔時記】ヘンな「させていただく」の大流行

これほどまでになっているのかと、驚いた。2010年9月4日の朝日新聞(Be on Sunday)にあるアンケート結果である。
「させていただきます」がヘンであるか、ヘンでないか4202人の読者に聞いたところ、変だ54%、変でない45%だというのである。
 おおそうか、これほどにも「させていただく」が、変でない言葉として普及しているのか。

 世の中の言葉はこうやって、正反対の方向に変わっていくのだろうか。
 とにかくわたしは「させていただきます」を聞くと、背筋がムズムズするので、できるだけ聞きたくない。珍妙な遣い方だとふきだしてしまう。
 アンケート回答にもその例があり、不動産屋にこのあたりの道は渋滞するかと聞いたら、「朝はかなり渋滞させていただきます」と答えたという。読んで吹きだした。

 ある会社に電話をして知人につないでもらおうとしたら、本日お休みをいただいておりますとか、お休みさせていただいておりますなんて答えがあった。
 ほかでも一度ならずそれがある。おいおい、おれは休ませろなんて言った覚えはないぞといいたくなる。

 もちろん使って良いときもあるのだが、ほとんど正しい使い方であることはないのが原状だ.。これほどの割合で正しいと信じている人がいるとはねえ。

(追記)9月6日朝刊に小澤征二さんが「ひとこと謝らせていただきます」といったとある。腰痛で予定していた指揮ができなくなった音楽会でのこと。
 小澤さんはわたしと同じ年齢であるはずだ。う~む、困ったもんだ。間違って遣ったのでないとすれば、謝れといった人がいたのであろう。
   ◆
 この言葉については既に別に書いているが、ここに全文掲載しておく。

●イチャモンコラム8月号●させていただきたくない
 「作業スタッフ4~5名で伺わせていただきまして、お部屋の中からお部屋の中までお運びさせていただきまして、インターネット割引をさせていただきまして、できるだけお勉強させていただきたいもので、上司に交渉させて いただきましたところ、100,000~120,000円(税別・保険代(1,000円))まで、何とかOKを、取らせていただいたのですけれども・・・」(原文のまま)

 これは最近、引越し見積もりをインターネットで取ったら、ある業者からの返答メイルの一部である。オオ、6回も「させいてたただく」の大インフレ。全文この調子で、目が引っかかってチカチカイライラする。

 この10年くらいだろうか、「させていただき」大流行、挨拶なんぞで舌を噛みながら言っているやつもいる。
 元来「させていただく」の意味するところは、「あなた様のご意思に従ってそのようにいたします」という謙譲言葉とわたしは解釈しているので、こちらがそうは思っていないのに勝手にそう思わせられては困るし、腹も立つのである。

 「お疲れさま」とか「ご苦労さま」とか、若いやつから言われるとムカッとする。
 言うほうは無邪気なもんだろうが、元来はねぎらいの言葉は上から下に言うものである。お前にねぎらわれるほどもうろくしてないよ。

 居酒屋で注文すると「それでいいですか?」、ムカッ、そんな安物注文で悪かったよなあ、俺はそれいいから注文したんだっ。

 電車で「お忘れ物ございませんようにご注意を、、」と放送、おいおい、車掌の荷物までオレが知るかよー、「ございます」は自分のことに使うもんだよー、・・なさいませんようにって言え。

 故障の時など「ご迷惑をおかけしました」といって、それでおしまいの放送がよくある。迷惑かけた認識はあるらしいが、だからといって「お詫びします」とは言わないから、詫びないのである。

 この暑いときに、どうか日常語くらいは、いらいらさせていただきたくないものである。年とると骨が折れることが多くなるもんだなあ。(020722) 

2010/09/01

312【横浜都計審】市民委員退任にあたっての反省記

 役人や大組織の人事異動のときの挨拶の言葉として、他に出て行く人は「大過なく無事に務めることができてありがとう」という。
 これに対して入ってくる人は「図らずも任じられて来ましたがよろしく」という。

 わたしが横浜市都市計画審議会委員を、2008年11月からやって今年の7月で任期を終えた。
 これに関して挨拶するとしたら、「図って任じられましたが、大過なく無事に務めて残念でした」ということになる。
 公募に自分で応募したのだから、図ったのである。

 大過なく無事で残念とは、あれだけ毎回がんばっても、毎回わたしの意見は通らずに、審議会は毎回何事も無く終わったということである。
 7回の審議会に一度の欠席もせず、毎回事前調査を現地や市役所で行い、毎回議案の問題点を指摘する意見を映像資料を使って発表し、終わると毎回の状況をその都度「まちもり通信」に掲載してきた。
 これを愚直といわずしてなんであろう。

 マドンナという議題を一生懸命追いかけて、自分では口説いているつもりが、結局は相手にされない。
 そして次の審議会という旅にでて、またしょう懲りもなく次の議題というマドンナを口説くが結果は同じ。まったくもってフーテンの寅さんの気持ちがよくわかった。
 あるいは風車に立ち向かうドンキホーテであったかもしれない。

 終わって反省と立腹とがあるので、一応のまとめをしておいたので、お暇な方はお読みください。
 
参照⇒あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている2013:横浜都計審の実態(要約版)