2012/07/31

648日本人は5度目の大被曝体験をしても原発を動かす

朝日新聞(2012年7月30日東京版)の朝日歌壇で発見した歌がある。永田和宏選のトップにある。

あれしきの被曝で何を騒ぐかと言ってはならぬ我は被爆者
                                                    (アメリカ  大竹幾久子)


日本人は広島原爆、長崎原爆、ビキニ環礁水爆実験、東海村JCO臨界事故、そして福島原発事故と、なんとまあ、ただ今5度目の大被曝体験の真っ最中である。懲りないのだ。
その被曝の軽重を比較することなかれ、軽重でその罪をはかることなかれという、最も深い傷をおった体験者の言葉の重さを、選者は汲み取っている。

大竹幾久子氏には、「Masako's Story Surviving the Atomic Bombing of Hiroshima」という著作がある。2007年に初版(日英対訳版)、2011年に改訂増補版をアメリカで出版している。
1945年8月6日の灼熱の光を浴た広島の焦土の中を這いずりまわるようにして、奇跡的に生き延びた過酷にして壮絶な記録である。

彼女は幼ない身に悲劇が深すぎて、被爆の記憶が脳裏からかき消されているそうだ。だが、放射線の毒牙は、幼いほど鋭く身に突き刺さるものだ。
長じて偶然にもその毒牙を剥いたアメリカに暮らすようになった。
そしてアメリカでこそ原爆の記録を世に伝えるべきと考え、その悲劇を語ろうとはしなかった母親から、老いたある日にようやく聴きだしたオーラルヒストリーである。

その本の著者紹介によれば、彼女は被爆の時は5歳、母と兄と弟とともに爆心地から2㎞弱の家の中にいた。外にいたら確実に死んでいたが、4人とも偶然に命を取り留めた。だが、外傷と原爆症に苦しむことになる。
家は完全に倒壊焼失、母は3人の子と生き延びるために、その後に待ちかまえる被爆ゆえの数々の塗炭の苦しみを抜けて、戦後の時代を生きることができたが、爆心地近くの兵営にいた父はいまだに行方不明のまま。

母親の語る広島弁は、地獄篇の詩である。


  まあ  ねえ

  あんときのことはねえ


/  一体どう言うたらええか

  この世の生き地獄じゃった

  とても言葉では言い表わせん


  ほんまに
  もう

・  あんとうな地獄は


ああ

もう続けられん


  Ah,that time on the sandbank,

  I don't know how to describe it all.

・  It was truly a living hell on earth.


  Never

  Oh, never again.
・  ・・・・・・・・・

Oh, I can't continue to speak of it!


わたしはその隣の岡山県生まれだから、広島弁の細かいニュアンスまで、ほぼわかる。
一方、対訳の英語でそれがアメリカ人にどう伝わるのだろうかと、わたしの英語力ではつかめないのがもどかしい。

大地も街も人間も襤褸となった広島をようやく逃げ出した避難先で、外傷と原爆症で倒れこむ。
身動きもできず枕を並べる幼女を看病もしてやれない母ができることは、童謡を教えるだけ。
わたしの人形はよい人形、うーたを歌えばねんねして、一人でおいても泣きません、、、、

言うて
二人で泣いたんよ

And then we cried, you and me.


そして2001年冬、その母が逝く。そのときの大竹幾久子氏の句作。

寝たきりの母も越えゆく新世紀

寝たきりになれど母在り冬灯す

Even my mother who was bed-ridden for so long
lived to see
the 21st century

And now in the dim light of winter
my moteher is still clinging to
a light spark of life

わたしは昨年、その夫とともに里帰りしてきた大竹幾久子氏に会った。夫はNASAでロケットを飛ばしていたエンジニア、こどもに恵まれ、カリフォルニアで元気に暮らしている。
実を言えば、その夫はわたしの大学の山岳部の同期生、その兄は大学の学生寮での同期生でどちらも親友、国会前でデモ行進をした60年安保世代である。

もうすぐ8月6日が来る。そして今、福島原発事故による被曝問題は、原発反対運動に広がり、60年代とは異なるデモの形の市民運動は、日本に新たな展開をもたらすだろうか。

7月13日に国会周辺原発反対デモに行ったのは、この本が肩を押してくれたのだった。

(注:青字部分は「日本語訳詩付Masako's Story  Surviving the Atomic Bombing of Hiroshima」By Kikuko Otake 2007からの引用)
●参照
500カリフォルニア歌人  
http://datey.blogspot.com/2011/09/500.html
641原発反対で52年ぶりの国会議事堂デモに参加して思うこと多々
http://datey.blogspot.jp/2012/07/641.html

2012/07/28

647横浜港景観事件(11)新港地区という島全体をこれからどうしたいのだろうか

 これまでこの事件についてあれこれ書いてきたことは、もともとは景観という目に見える姿について起きた事件がきっかけであるが、書いているうちに、この新港地区という島全体のまちづくり計画は、いったいどうなっているのかと気になってきた。
 ここにある施設群は、どのような計画に基づいているのだろうか。

 よくある話では、横浜市の総合計画があり、これに基づくMM21の開発計画があり、それを実現していくための実施計画があり、そして現場の規制誘導策として都市計画があり港湾計画があるということだろう。
 あまり大局的な計画を見ての概論では面白くない、あまり現場的なことは実情を知らないからかけない。
 だから、法的な規制とか誘導策はどうなんだろうかと、ネットで調べて見た。

 まず重要な結論から先に書くが、この新港地区には住宅を建てることを禁止している。 すぐ隣のMM21地区の中央地区が、やたらに超高層共同住宅群が建っている(私は嫌いであるが)のと比べて、こちらには一戸も建てることができないのは、なぜだろうか。

 人が住んでこそ都市であるのに、人を住ませない都心とは、どういうわけか。部分的には住宅が望ましくないエリアもあるかもしれないが、この島全部がどうしてそうなのか。
 これには私の想像だが、実は現実的な立地条件ではなくて、港湾行政と都市行政の狭間の問題があるのだろうと思っている。

 ここには臨港地区という用途規制がかかっている。これは港湾行政が都市行政よりも優位に立つ制度である。つまり、都市計画法よりも港湾法のほうが上にあるのだ。
 日本の港湾は、歴史的に大蔵省、運輸省、建設省と所管争いがあり、現在では国土交通省港湾局と都市局・住宅局の所管争いになっている。

 臨港地区は、港に接する陸域の土地について都市計画で決めるのだが、発議者は港湾行政側である。 
 その基本となる考えは、この土地は港湾行政の縄張りであるから港湾事業に関係する施設のほかはつくってはならん、という縄張り宣言である。都市計画の線引きみたいなものか。

 そしてその臨港地区のなかをいくつかに区分して、それぞれの土地の用途を決める分区を指定する。その土地の用途指定は、都市計画の用途指定を外れて、市町村が条例で定める分区指定によって決まることになる。

 横浜市が条例で定める分区は、商、工業、マリーナ、修景厚生(レクリエーションのこと)の各港区があり、そこに建てることができる施設の用途を決めて、それ以外を禁止している。
 臨港地区全部の土地に分区を定めているのではなくて、臨港地区だけで分区のない街区もある。分区のない街区の用途は、都市計画の用途によることになる。

 さて新港地区の中を見ると、たとえばワールドポーターズの街区の分区指定は「商港区」である。
あのショッピングがここに建ったのは、分区条例に商港区に建てることができる施設として挙げてあるうちの「港湾関係者の利便の用に供するための日用品の販売を主たる目的とする店舗及び飲食店」を適用したのであろう。

 これがなんだかおかしいのは、ワールドポーターズで売っているものは、「港湾関係者の利便の用に供するための日用品」なのだろうか、ということである。
 あるいは「港湾関係者の利便の用に供するための船用品販売店及びその附帯施設」、あるいは「港湾関係者の利便の用に供するための銀行の支店、郵便局及び保険業の店舗並びにこれらの附帯施設」も、中にはあるのかもしれないが、わたしは知らない。

 ホテルのナビオス横浜が建つ土地も商港区である。条例によれば、「港湾関係者のための休泊所、診療所その他の福利厚生施設」にあたるのであろう。
 このホテルの公式名称が「横浜国際船員センター」であり、経営者が(財)日本船員厚生協会であるので、それとよくわかる。
 だが、実際のところは、ネットの情報を見ると宿泊者を船員に限っているとは思えない。実は私も一泊したことがある。

 赤レンガ倉庫は、「修景厚生港区」の中にある。条例による規制でみると、これは多分「港湾関係者の利便の用に供するための物品販売業を営む店舗及び飲食店並びにこれらの附帯施設」なのであろう。これも「港湾関係者の・・」とあるところが引っ掛かる。

 つくってよい施設で「港湾関係者の・・」とついていないのは、「図書館、博物館、水族館、展示施設、公会堂、展望施設及び海事研修施設並びにこれらの附帯施設」と、海や貿易関係の官公庁施設のみである。

 どうして赤レンガ倉庫のような、あるいはワールドポーターズのような、海や港と関係なさそうな商業施設ができるのか、そこがわからない。なにか少しでも関係(たとえば輸入品を売って店が一軒)があればよいのだろうか。
 もっとも、法令には臨港地区の利用を港湾関係者に限るとは書いていないから、港湾関係者でなくても利用してもよいのだろう。
 でもそうとなると、なんで臨港地区なんだ、ということになる。単にショバ争いの結果か。

 赤レンガパークの西隣の空き地も、修景厚生港区である。
 これからどのような港湾関係者の利便に供する施設、あるいは図書館、博物館、水族館、展示施設、公会堂、展望施設及び海事研修施設ができるのか、楽しみである。

 いま、話題になっているアニヴェルセル結婚式場が建とうとしている土地は、分区無指定であるから、都市計画の用途地域と地区計画の規制がはたらく。商業地域だから結婚式場はOKである。
 だがしかし、ここで疑問が生じる。都市計画法第9条の22項には、「臨港地区は、港湾を管理運営するため定める地区とする。」とある。

 分区は指定していなくても臨港地区内であることは変わりないから、この結婚式場は「港湾を運営管理するための施設」、つまり「港湾関係者の利便の用に供する」結婚式場なのであろう。
 他の分区無指定の街区にある万葉倶楽部、カップヌードルミュージアム、コスモクロック、JICAなど、いずれも「港湾を運営管理するための施設」であるらしい。

 まあ、硬いことを言いなさんな、なんていう声もあるだろうが、もとが法令の定めなのだから、ここは厳密にならざるを得ない。
 そもそもどうしてまだら虫食いに分区を指定しているのか。全部指定して港湾行政で一元化するほうがすっきりするような気がするが、そういうものではないのか。
(わかってます、12年通知のⅡレベルで手を打ったのでしょ、と、突然にマニアックコメント)

 あるいは逆に、実態からして「港湾を運営管理する」とか「港湾関係者の利便の用に供する」とかのための施設ではない施設が立地している現状からすると、臨港地区を解除してしまって、都市行政に一元化するほうが実際的という考え方もできる。
 まあ、港湾行政当局からいえば、都市行政に縄張りとられるっってことで、お気にいらないでしょうが。タックスペイヤーからいえば、どちらになっても同じことなんですがねえ。
 へんに2重行政では余計な手間がかかるばかりで、行政にも開発事業者にも余計なコスト負担になる。

 この話の出だしが新港地区での住宅禁止のことであった。話を戻す。
 これは今もあるのかどうか知らないが、わたしが昔あるところで臨港地区開発にかかわった時に建設官僚から聞いた話だが、臨港地区に住宅をつくることは都市行政が絶対に許容しない方針であるとのことである。
 それは臨港地区をめぐる運輸省対建設省の長い領土縄張り争いがあり、その確執のひとつらしい。それゆえかどうかしらないが、この新港地区でも住宅は地区計画で禁止してしまっている。

 中央地区では住宅を許容し、新港地区では住宅を禁止するのは、どうもしっくりこないい。
 この地区では中層の質の高い海辺の環境を生かした住宅をつくれば、かなり面白い計画になるだろうと、わたしは思うのだが、そういう考えはこれまでなかったのだろうか。
 港湾行政と都市行政の狭間に落ち込んだ都市住宅、いや、都市生活者が哀れである。ここに賃貸の公的住宅を作ってくれたら、わたしは今いる関外から大喜びで移転する。あ、津波が怖いか。

 わたしは1980年代に横須賀港でウォーターフロント開発にかかわったことがあり、運建戦争と揶揄された臨港地区問題に巻き込まれた。
 そのいっぽうで、世界の港での開発をいくつも何度も楽しく視察した経験がある。
 記憶に残るのは、バンクバーのグランビルアイランド、サンフランシスコのピア39、ロサンジェルスのマリナデルレイ、サンディエゴのシーポ-とビレッジ、ニューヨークのサウスストリートシーポートビレッジ、ボルチモアのインナーハーバー、シドニーのダーリングハーバーなどである。
 日本バブル期ににそれを真似したものがいくつか実現したが、今は大苦戦らしい。神戸のハーバーランドが今大苦戦らしい。

 都市生活が海の生業や遊びと密接な関係を持つような、アメリカやオーストラリアの暮らし方は、どうも日本では無理のような気がしている。
 しかし、これからはありうると思うので、新港地区では中央地区のような高密度高層開発ではなくて、結婚式場も遊園地も小売店もよいが、歴史と文化と水辺の景観を満喫できる都心での暮らしの場をぜひ作ってほしい。

 ここでさらにやってほしいことは、水面の積極的な利用である。レストラン船、デッキテラスカフェ、海水浴場(海の上のプール)、水上シアターなど、静かな運河水面をもっと使ってはどうか。

 新港客船ターミナルは、どれくらい使われているのだろうか。昨年の横浜トリエンナーレ期間中に、ここで興味深いアートイベントが開催されて、わたしも何度か通った。
 ただし、建物の中だけであり、港としての立地には関係なかった。
 ということは、あれだけ長い期間をあの大きな建物建物全部を、港湾と関係ない利用をしても差し支えないということなのだろう。
 ならば、ここも新たな住宅とかアートの場とかを誘致して、港と一体のなった開発をしてはどうか。そのような開発をシドニーのダーリングハーバーで見てきた。

 はなしが景観よりも新港地区全体のあり方に身が入りそうになってきたので、ここらあたりで一段落する。
 また新展開があったら、面白がって何かイチャモンを書いていきたい。(一応,終わり)

  追記(120821)  と思ったのだけど、8月20日に横浜市から結婚式場計画のGOサインの発表があり、ついつい続きの(12)を書いた。
 参照⇒横浜港景観事件(12)
http://datey.blogspot.com/2012/08/660.html

●参照→横浜港景観事件(1)~(12)一覧

2012/07/27

646横浜港景観事件(10)横浜の景観行政は凄腕だと評判なので本当かと新港地区に現場を見に行く

1●横浜みなとみらい21の新港地区を見に行く
横浜のみなとみらい21地区のなかの新港地区で、アニヴェルセルなる結婚式場の建設計画が出された。横浜市の都市美対策審議会で、そのデザインがよくないと否決された。
だが今日までのところ、なんとなく聞こえてくるのは、横浜市はその否決された計画でGOサインを事業者に出す気配である。
審議会の委員はもちろん怒っているだろうし、周りのキマジメな建築家たちも怒っている声が聞こえる。

でもねえ、その結婚式場を設計するのも、日本の建築家のひとりなんですね。
似たような結婚式場が近くにいくつもあるけど、これまで建築家がそれらにNOといった形跡はないなあ。高島地区や紅葉坂や本町通ではよくて、新港地区ではいけないのは、そこがなにか特別のところなのかしら。
そういうデザインを世の結婚年齢層が好むのがけしからん、というつもりか。
では、あのどこが悪いか、世の若者たちにわかるように、建築家は言ってもらいたい。

これまでの横浜市の景観行政はなかなかに凄腕でよくやってきたのに、こんどの事件は残念という声もある。
ということは、さぞやその腕前がこれまでの新港地区での建築に発揮されていて、それらと比べると今度のアニヴェルセル結婚式場は相当に下手くそなのであろう。
と、新港地区の建築群をしげしげと眺めてきたのである。これから順番に、それらをあげつらっていく。


2●あっけらかんの赤レンガ倉庫
まずは、何と言っても赤レンガ倉庫である。20世紀初めにつくった港の倉庫である。
その昔は何しろ倉庫であるから、飾り立てる必要はないので、汚らしいごたごたしたやっちゃ場風情だったろう。
レンガ造としたのは、貿易の保税倉庫として防火防犯や防湿などの機能で最先端の技術を使ったからであろう。
それがデザインが良いから使ったのではない。 

今ではそれをこうやって磨き立て、まわりに何もなくて見通しが良くし、バックには海と大桟橋や橋が見えるようになり、赤レンガパークなる公園施設として再生すると、赤レンガの色がなかなかの風情である。もしあれがほかの倉庫のようにトタン張りだったら、こうはならなかっただろう。

外のあっけらかんさは、野外イベントがあると、突然に生き生きとした空間となる。図体ばかり大きな赤レンガ倉庫も生きる。
ただ、わたしが嫌いなのは、樹木が一本もなくて、今どきの暑さの季節はとてもいられないことだ。少しは樹木を植えなさいよ、赤レンガと緑の樹木は似合いますよ。

3●草ぼうぼうの地と運河べりの官庁はどうなる
その西隣あたり、つまり馬車道から万国橋をわたって新港3号線道路を来ると、右側は何ともわびしい。まだ売れ残っている土地らしい。茫漠たる風景である。いっそのこと生え放題の草原にすると、子どもが喜びそうである。
ここあたりは何ができるのだろうか。都市計画の土地利用規制を見ると、臨港地区の修景厚生工区という分区指定だから、たいていの都市的な施設を建てることができる。

万国橋をわたって右に、どうってこともないそこら辺にあるような事務所ビルがある。港湾官庁や税関のオフィスらしいが、これはまたなんとも愛想がない建物である。赤レンガ倉庫の引き立て役であろうか。
このブロックには総合庁舎のような計画があるらしい。さて、赤レンガ倉庫に対応してどんな建築ができるのだろうか。玄関口にふさわしいデザインを期待する。

4●汽車道を通したナビオス横浜
万国橋を渡って左には、「ナビオス横浜」なるホテルがある。汽車道から赤レンガ倉庫を見通すラインの建物をぶち抜いて、大きなゲート状のトンネルが特徴的である。
そのゲートの汽車道側の広場は、運河パークの一部に見えるが、じつはこのホテルの敷地らしい。汽車道を敷地の中を通すためにこのような配置にしたらしい。
それにしても思うのだが、こんな無理して(?)建物を貫通させるプロムナードにしたのは、わざとそうしてのだろうか。
もともとの汽車道を、赤レンガ倉庫まで延長して公共の道路、あるいは地区計画の地区施設に指定しなかったのは、なぜだろうか。かつて赤レンガ倉庫のそばまで列車が入っていた歴史を示すにはそうするべきであった。このゲートをくぐると汽車道は消えるのが残念だ。
全体としてはバランスのよいデザインだが、何しろホテルだから外に開かないのが残念である。


5●新港地区を分断した臨港幹線道路
新港地区は一つの島である。ここを東西に貫く広すぎる道路・臨港幹線がある。今の交通量に比較してあまりに広いのは、今後、どこかの幹線道路とつながるのだろうか。
この広すぎる道路は、新港地区の土地利用にかなり致命的な感じがする。島を海側と運河側に分断している。これをわたるのは一苦労である。

だからだろうが、万国橋から来る新港3号線道路と臨港幹線道路との交差点に、巨大な楕円ドーナツ歩道橋がかかっている。
わたしは歩道橋が大嫌いで、基本的にはわたらないで無理しても(時には命がけで)地上を行く主義である。
ここでは道があまりに広くて、しょうがないからドーナツ歩道橋を渡るのだが、これ揺れて揺れて、気持ちが悪い。ここからあたりを眺めていると、あっ、また地震だ、とたびたび思うくらいである。
丸いデザインもいいけど、耐震構造を何とかしてもらいたい。景観以前の問題である。 
道路になんだか広い中央分離帯があって、なかにトンネルのようなもの見える。使っていないのだが、何だろうか。高速道路にでもつながるのか。
その分離帯がまた広いばかりで無駄にしか思えない。どうせなら森にでもしてはどうか。

歩道橋から西を眺める。左のワールドポーターズの向こうに、遊園地「コスモワールド」の巨大な観覧車の輪が顔をのぞかせている。この異様さに目が行って、ワールドポーターズの下手くそデザインに目がいかない仕掛けであるのか。
異様さといえば、その右向こうにはスイカの切り身か出刃包丁のようなホテル・インターコンチが立ち上がっている。
この二つの円弧を描く建築物は、他の建築物とは明らかに異なるイメージをもっていて、この臨港道路のランドマークとしての役割をもっている。
この対の関係は意図した景観計画によるものか、偶然の産物か。意図したとすれば、それなりにうまいと思う。それは沿道の建築があまりにもつまらないことと、大いに関係がある。

6●どうにも邪魔なワールドポーターズ
さてそのドーナツ橋で揺すられながら臨港幹線の景観を鑑賞するのだが、これがどうもねえ。
まことに困るのは、左に見えるワールドポーターズなるショッピングビルである。これこそ港の流通倉庫そのものデザインで、でかい壁に描いた落書きのような絵も変だし、丸見えの駐車場ビルも流通倉庫につきものの風景である。
まあ、考えようでは倉庫の島であった新港地区に、まことにふさわしい景観をつくっているかもしれない。

このワールドポーターズが新港地区という島の真ん中に、でんと大きな図体を構えたので、メインアクセスの汽車道から海への見通しがいかにも悪い。
建物デザインが悪いから特に気になる。新港地区におけるワールドポーターズの唯一良いところは、屋上からの眺めが良いことっである。しかもここに来ればワールドポーターズが見えないから、まことによろしい。もっとも、眺めをゆっくり鑑賞するような快適な屋上ではない。

わたしが想像するに、最初にこのブロック割を考えたときに、この位置にはラウス社が世界各地の港でやったフェスティバルマーケットのような施設を想定していたのだろう。
それならば、運河パークと一体になって、シドニーやボルチモアのような楽しい空間になるはずだ。
現実は閉鎖的な普通のショッピング施設になってしまっている。ここでなければならないようなデザインでも業態でもない。
これだけでかいと大きな吹き抜けのアトリウムがあり、そこから運河側の風景を眺めながらエスカレーターで上るようになっているに違いないと、中に入ってみたが各階にぎっちりと店が詰まっていた。

駐車場出入り口が、運河パーク側の区画道路にあるため、ここの交通量が多くて運河パークとショッピングとがつながらない。こちら側の駐車場出入り口ををなくして、区画道路を歩行者専用にすれば、ずいぶん雰囲気がよくなると思う。
本来ならば臨港幹線側をセットバックして、駐車場出入り専用レーンを作ればよかったろうにと思うが、手遅れである。
運河パークに、ホテルやショッピングの楽しさがにじみ出てこないのが、残念である。

7●ちょっとピンとこないJICA、そして空き地 
さてまた元に戻って、丸い歩道橋の上からの眺めである。
右側の手前にJICAと書いてあるビル、その向こう隣は空き地、その向こうに赤い豆腐のようなビル、さらにその向こうにガラス張りの事務所のようなビルが見える。
JICAは研修所らしい。なんだか凝ったつもりの立面だが、45度のひねりがしっくりとこない。外回りを赤いレンガ色にしておけばよいだろうという程度の建築で、特に論評に値するデザインではない。海側に回ると倉庫かと思うような壁が連なる。

その向こう隣の空き地には、結婚式場が建つらしい。今の話題のアニヴェルセル結婚式場とは別物である。
このあたりは結婚式場だらけになる。そのうちにどれかがつぶれて、葬儀場になるだろう。これからは婚礼需要は減っても、葬儀需要は増えるばかりだから。

8●赤レンガ倉庫建築元祖カップヌードル・ミュージアム
さてその向こうにある赤い箱が問題である。愛想のない真っ四角な豆腐に、レンガ色のタイルを貼り付けている。近づいてみても、なにも看板がない。なんだろう、倉庫か。
入ってみてわかったが、これが日新チキンラーメンの発明者・安藤百福の記念館、題して「カップヌードル・ミュージアム」であるのか。

ずいぶん前に新聞報道でその記念館ができるとあって、これは絶対にカップヌードル型の建物ができるに違いない、横浜市の美観審議会はどう判断するかと興味を持っていた。
もうできていたのであったか。これはまた、なんということか、赤レンガ倉庫建築の元祖のようなデザインであるとは、、、。唖然とするほどの思い切りの良さである。
もしこれが真っ白なら豆腐そのもの、建築史でいえばモダンデザインのハシリの下手なやつ、ということになるだろう。
よく見ると壁に縦に筋が2本入っているのは、多分、あまりに単調な大壁なので、分節したのだろう。もしかしてこれは、デザインガイドラインにある分節デザインとして、都市美審議会の指導によるのか。

単体としてみるこの建築デザインは、わたしとしては好ましいと思っている。しかし街並みとしてみると、どうもねえと思うのである。
このような箱をみて、ごく普通の人はどう思うのだろうか。まさかカップヌードルのミュージアム、つまり食文化のエンタテインメント施設とは思うまい。
あ、安藤百福記念館だから、エンターテインメントじゃないのか。いや。こういうミュージアムこそエンタテインメント性を持ってほしい。

ワールドポーターズからのアプローチは、広い臨港幹線道路を横断歩道で横切るのだが、それと知っていれば渡っても行くだろうが、知らなければ寄ることはないだろう。
とにかく、運河側から海側ブロックへのアクセスが、広い臨港道路にさえぎられてしまっている。せめて、ワールドポーターズの2階から、こちらにデッキをつないではどうか。運河パークからのデッキを貫通させるのである。

このデザインが、どのような協議がなされて登場したのだろうか。
初めからこうだったのだろうか。それとも初めはヌードルカップデザインだったのが、協議の結果でこうなったのか。
今の話題の結婚式場のようなやり取りが、実は裏であったのだろうか、なかったのだろうか。

この建物の愛想のなさは、北の新港パーク側に回るとさらによくわかる。せっかくの公園側の道路からは荷捌き等の車の出入り口であって、公園とはつながっていない。わずかに屋上テラスからこちら側の海を眺めるようになっている。
このことは、JICAビルもそうであり、海側の公園とは何の関係もない壁の連続で、車の出入り口があるばかり。
もっともこれは設計側に問題があるのではなく、横浜市の示す土地利用規制が、車の出入りをこの公園側にするように定めているからである。
これは土地利用規制策が間違っている。このブロックは新港パークとつながって利用するようにし、車の出入りは、臨港幹線にそのためのレーンを設けるべきであった。こうすればこのブロックの施設群は、新港パークと一体になって楽しいだろう。

9●万葉倶楽部はどう見ても共同住宅つき事務所
ところがである。カップヌードルミュージアムの道を挟んで西隣の「万葉倶楽部」なるお風呂付宿泊施設は、海側に道はないから新港パークと敷地はつながっている。しかるに、施設側から積極的に公園側に顔を出している様子はない。ほとんど閉じている。
入場料金を取る施設なので、オープンにできないのだろうか。それにしてももったいない。

で、この万葉倶楽部の建築デザインであるが、とてもそのようなレジャー施設とは見えない姿である。どう見てもオフィスと共同住宅のビルである。倉庫には見えないが、ここには赤レンガイメージさえも見えない。
突飛ではないが、面白くもなく、上手でもない。

10●ひとり気を吐く異形のコスモワールド
万葉倶楽部の臨港幹線道路を隔てた向いが、遊園地の「コスモワールド」である。この大観覧車がどうやら目玉施設らしい。
いろいろな人にみなとみらい21地区の印象を聞くと、「ああ、あの大観覧車がある」と、これが大きな役割を果たしていることがわかる。観覧車の下にはジェットコースターなど定番の遊園地施設がひしめいていて、ワーキャーゴーッとかまびすしい。
この遊園地は運河の対岸の、日本丸パークにも及んでいる。

ところで、この遊園地は横浜市の都市景観計画ではどのような位置づけになっているのだろうか。ほかの施設と比べてあまりにも異色で、比べようがない。
つまり、景観としてはかなり異様なものを持ち込んでいることになる。異様なものが一概に悪いというのではない。ランドマークとしてのそのエリアを象徴する景観としての位置づけもあるだろう。
その意味では、一般の人々が観覧車コスモクロックに、港みらい21地区の象徴性を与えていることから、明確な位置づけにあるといってよいだろう。

問題は、これを景観計画として位置付けて誘導したのだろうか、ということである。
今回のアニヴェルセル結婚式場計画が、そのテーマパーク的異形をもって審議会から否決されたとすれば、このコスモクロックのふもとにそれがあることで、異形同士の取り合いの妙が生まれたことをどう見ればよいのか。
計画的に誘導したのであれば、新たな延長としての異形を排除する論理が無理となる。
あるいは計画的誘導ではなくて、何かの手違いで登場したのなら、それを排除することをなぜしなかったのか、それを排除しないでこの結婚式場計画を排除するのはなぜか、ということになる。
アニヴェルセル結婚式場計画は、巧妙にもコスモクロックを人質にとったのである。
遊園地も結婚式場も楽しい施設であって、それらを新港地区から排除する論理は考えにくいだろう。特にコスモクロックはいつの間にかシンボル的な位置を獲得してしまったのだから。
この騒ぎの根本は何かがおかしいように思うのだ。

12●新港地区の島全体を眺めて考える
ここまで、新港地区の建物などをいろいろ見てきたが、全体としてわかったことは、建築が敷地の中で完結していて、外部との連携がほとんどないのである。唯一の例外がホテルナビオス横浜である。
それはみなとみらい21地区の中央地区の開発が、モールや公開空地をつなげて敷地間の連携をしていることと比べて、対照的である。

都市デザインとは、個々の建築の姿かたちをどうこうすることも重要だが、それらが街並みとして連携するときに、景観という言葉として登場させる技である。
新港地区では、ひとつひとつの建築もどうかと思うデザインであり、それらが連携することもない。都市デザインというものがあるのだろうか。

水辺に公園を作れば都市デザインだ、というのではあるまい。
赤レンガ倉庫を保全したから歴史景観だというのでもあるまい。汽車道が運河パークで消えるのは、歴史のデザインとは言えまい。
導入機能も含めて、この島全体を見通すマスタープランの視点が欠けているような気がする。あるのかもしれないが、もう古くなっているのか。

新港地区からの帰りに万国橋を渡って、新たな好ましい街並みができていることに気が付いた。
古いUR団地の建て替えをしているのだが、隣の旧生糸検査所(現:合同庁舎)の立面に調和するようなデザインである。
それ自体が特に素晴らしいデザインではないが、街並みの形成となると、いかにも自然にできがっていて、まことに好ましい。新港地区も見習ってはどうですか。

(つづく。今回で一段落のつもりだったが、もう一度、臨港地区と審議会の制度のことを書いてひと区切りにしよう)

●参照⇒横浜港景観事件(11)
●参照⇒これまでの11編の記事一覧

2012/07/26

645オリンピックをやってるらしい、その上に高校野球まで、困ったもんだ

オリンピックをやっているらしい。
近頃なんだか新聞にスポーツ記事が多くなってきたなあと、いやな気になっていたら、ついに1面から社会面までスポーツ記事である。

しょうがないから読んだら、なんとオリンピックをやっているらしい。その上、高校野球までやっているから、始末に悪い。
とっくにTVは見ないことにしているから問題ないが、新聞がこうでは困る。この期間だけスポーツ欄は除いて配達して、購読料を安くせい!。

それでも、いつも見ないTVを、オリンピックのマラソンだけ見る。なに、競技は見ていないのだ。沿道の都市景観を見て、いろいろと思うのである。
この都市景観を世界に見せようという政治的意図がわかることがある。北京オリンピックはまさにそうであった。だからつまらなかった。アテネは面白かった。さてロンドンはどうなんだろうか。

お暇なら、わがオリンピックイチャモンブログをどうぞ。
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2012/07/20

644オリンピックで浮かれても戦争したイギリスと日本は複雑な間柄

今日(2012年7月20日)の朝日新聞夕刊に、オリンピックにちなんで「日英新世紀」と題してシリーズ記事がある。
アジア・太平洋戦争で日本とイギリスは、ビルマ(現・ミャンマー)で対戦した。そこで戦ったイギリス人の元兵士が、日本の震災のTVを見て、それまでの憎しみを捨てて義捐金を送ろうと提唱した話である。新聞が好きな美談である。

ミャンマーになぜイギリス軍がいたか、それはそこがイギリスの植民地であったからだ。西隣のインドもそうだった。
ビルマでの初期の戦いでは日本軍が勝ち続けて、ビルマを日本軍が制圧した。当然のことに多くのイギリス兵が日本軍の捕虜となった。

国際条約に無関心だった日本軍が、この捕虜を残虐に扱い酷使したことが日本の敗戦後に問題となった。そのことを映画にしたのが「戦場に架ける橋」である。
イギリスでオリンピックだと、ノー天気に日本人は騒いでいる。だが、いまだにイギリス人は日本への印象が悪いのである。
こんなことを知っている日本人はもういないのか。

その記事に出てくる元兵士は91歳、ビルマ国境に近いコヒマの戦いに参戦したとある。
そのコヒマの戦いに参戦した日本人を、わたしは知っている。長岡市の法末集落の長老・大橋正平さん(92歳)で、インパール作戦の日本軍の数少ない生き残りである。

日本はビルマの西隣のインドまで攻め込んだ。戦史上で超悪名高い大敗北のインパール作戦である。
インドのインパールを攻略するために、そこへの補給路の要衝コヒマを占領すべく攻めたのである。
だが、日本軍は待ち受けていたイギリス軍に袋のネズミにされて、徹底的に翻弄されて惨敗したのである。

新聞記事だと、コヒマでイギリス兵士が捕虜になって虐待されたと、読めてしまう。
しかし事実はそうではなくて、ここでは日本軍が大敗北したのだ。
なにしろ日本軍司令官の作戦は、武器も食料も補給しないで現地で調達して戦えという無茶なものだった。

イギリス軍の待ち構える罠に陥り、敵の物量作戦の前に武器のない日本軍は、肉弾戦で死ぬだけだった。
補給のこない無手勝流の戦いのあまりの無謀さに、ついに前線の師団長が独自の判断、つまり軍命に反して、自軍をコヒマの前線から撤退させたのだった。
イギリス軍に追われつつ、雨季の泥濘のジャングルの中を日本兵たちは敗退していく。
敗走路は累々たる死骸が暑さと雨ですぐに白骨となって連なり、通称「白骨街道」という。生き残り兵は1割ほどだった。

このことは大橋正平さんにインタビューして、いかにバカバカしい作戦であったか世に言われている事実を、戦場を体験した本人から直接に聞いた。
その記録はこちらからどうぞ。「大橋正平さん 戦場を語る
https://sites.google.com/site/hossuey/home/ohashi-syohei
もうすぐ8月15日が来る。戦争のことを忘れまい。

2012/07/18

643少年時代の読書のことで幼馴染に60余年目の詫び状を書いた

読書に目覚めた小学生の高学年の頃は、戦争直後で世に子供の読むような新刊本がなかった。
親しい友だちどうしで、家にある古い少年雑誌や大人の本を見せあい、貸し借りした。
親戚や知り合いの家の書棚もあさったから、なかにはカストリ雑誌もあれば、漱石全集もあった。玉石混交で読んだ。

わたしの父の書棚に「講談全集」(大日本雄弁会講談社 昭和3、4年、全12巻、各冊千頁以上)があった。
言い回しは難しいが、筋は単純でわかりやすく、話にくすぐりがあり、漢字は総ルビだし、挿絵が多いので、少年仲間に大好評であった。

長じて東京の芝・愛宕山に花見に行った。
講談全集で読んだ「寛永三馬術」の間垣平九郎が、馬で登り降りした急階段はこれであったかと、四つ這いになって登った。

今年2月、故郷で講演をする機会に恵まれ、そのあとで聞きにきてくれた幼馴染たちと飲む集いがあった。その中に幼稚園から高校まで一緒で仲の良かったY君がいた。
実はわたしはY君を思い出すと、いつも心をチクリとさすある記憶があったので、思いきって聞いてみた。

「むかし講談全集を君に貸さなくて、ずいぶん恨まれたけど、覚えているか」
「ああ、覚えているとも。ほかのヤツには貸してオレには貸さなかった。大人になっても思い出して古本屋を探し、講談社にもいったけど見つからず、君を思い出すと条件反射で講談全集が頭に浮かぶ。いまだに恨み骨髄だよ」

ウワッ、覚えていたか。
あれは父の秘蔵本で、内緒で仲間に貸していたのがばれて叱られ、運悪く次がY君の番で、貸せ貸さぬともめたのだった。
60余年目の陳謝をしたが、両方とも永いトラウマになっていたのであったか。

帰宅して図書館蔵書検索したら近くの川崎図書館にあり、さっそく出かけて懐かしい本に再会した。表紙の布装丁の緑色は褪せ紙は赤茶け、わが身もそうかと歳月を思った。
いくぶんかの罪滅ぼしにと、第2巻の中の「寛永三馬術」を老人向けに拡大コピーして、60余年目の詫び状を添えてY君に送った。

受け取ったY君から返事が来た。
一気に読んで楽しんだ、永く探していたのをこんなにすばやく良くぞ見つけてくれた、少年の眼と心で読みたかったが、すっかり恨みが晴れた、と。
382ページ分のコピー作業は疲れたが、送った甲斐があった。

わたしも久しぶりに読んでみて懐かしかった。
しかし、講談は大人が眼で読んでも実につまらない、講釈師の語り口を楽しむものだと、いまさらながらよく分った。
面白くむさぼり読んだ少年の日は還らない。Y君に済まないと思う。

2012/07/15

642新PCが印刷不調で年寄電話相談室のおばさまとじっくり付き合った

 昨日、ついに堪忍袋の緒が切れて、新ノートPCを買ってしまった。 
 20日ほど前から、デスクトップPCが持ち主に似てノロノロノロノロしてきた。わかることはいいろいろやったが、仕事中によろよろしてたびたび立ち止まって考えるし、プリンターは3行ごとに考えごとを1分ぐらいしている。だだましだましこき使ってきたが、機械よりもこちらの心がもう限界である。

 いらいらしながら使っていると血圧が上がりそうだし、こいつの認知症が感染しそうである。
ついに我慢できなくて、近くの電機店にいって、安売広告にある5万円ダイナブックを買った。考えると買わないくなる可能性があるので、エイヤット決めて買った。
 まあ、ウインドウズセブンなんてどれ買っても同じようなもんだろうし、いまのXPと大差なかろう。

 さて持って帰ってさっそく自分向きにこいつを仕込むのだが、それがまあ、まったくもってめんどくさいのである。
 一生懸命やっても結果にはなんの得るものはなく、要するにマイナスからゼロの出発点に戻るだけである。アホラシイことだ。
 セブンとXPとは同じだろうと思ったら、なんだかあちこち違っていて、やりにくいったらない。まったくおなじ仕事する機械なのに、なんでわざわざ操作方法を変えるんだよ、客が迷うだろうが、。

「まちもり叢書」のうち旧友から追加注文あった「美しい故郷に」が印刷できないでいたので、さっそくとりかかった。ところが、どうやっても冊子設定がうまくいかない。
 XPではうまくできて、それを改良したセブンでダメとは、なんだよ、頭にきてキャノンに電話した。

 出てきたおばさまにご相談すると、とっくに私がやってうまくいかないことばかり指示なさるので、もちろんどうやってもNO。いったん電話切って、別のものと相談してかけなおすという。
 しばらくしてかけてきて、当方で同じプリンターで万事うまく動きました、という。印刷アプリケーションがおかしいかもしれないから、再インストールしてくれという。
 もしそれでもだめなら、印刷データのワードを作ったマイクロソフトに文句言ってくれという。そんなあ、もうめんどうなことになってきた。

 また電話切って、プリンター付属のCDを回そうとするのだが、こいつが立ち上がらない。
くそ、また電話してそういうと、インタネットのキャノンサイトからアプリケーションをダウンロードせよと言うので、電話を切ってそうした。
 それでやってみたら、おお、今度はうまくいった。最初から3時間ぐらいたっていた。
 キャノンのおばさまに電話でそう言ったら、何度もうるさい爺によほど迷惑していたらしく、心の底から嬉しそうであった。

 なにが原因か、多分、印刷アプリケーションに問題があったのだろう。まったくもってこちらは暇人間だからよいが、これが仕事で忙しいと、かなりの損失である。
 電子機器はなんとも不完全な代物であると、いまさらながら思う。

 なにせまだ5時間程度しかいじくっていないのだから、このPC君にはまだまだあれこれ起きるだろうなあ、こんどはどうやって電話相談室のおばさんをいじめようかなあ。

2012/07/13

641原発反対で52年ぶりの国会議事堂デモに参加して思うこと多々あり

毎週金曜日に国会議事堂と総理官邸あたりで、原発反対のデモンストレーションがある。友人の中にも行ってきたとFACEBAKAに書きこむ人がいる。
わたしも気になっていたが、今日、思い立って参加してきた。

霞ヶ関駅で降りて議事堂前の大通りへの横断歩道を渡ったところで、警備の警官に声を掛けられた。
「コウギにいかれますか」
講義に行くって?、あ、抗議のことか、警官もそういうのかと思った。議事堂前の横断歩道は渡れませんのでご承知ください、という。

時刻は5時だから、まだほとんど人はいなくて、だんだんと制服や私服の警官ばかりが目立つ。
議事堂近くの歩道に世話人らしい人たちがいて、「ファミリーエリア」とかいた紙を持って立っている。ならば「シニアエリア」もあるかと思ったが、ファミリーならシニアもいいだろうと、そこの道端に座り込んだ。老若男女がぞろぞろとやってくる。

6時になってもたいして多くはないが、時間通りにシュプレヒコール(今でもこういいのだろうか)がはじまった。
「サイカドーハンタイ、サイカドーハンタイ」
ふむ、大飯原発再稼動反対に抗議を絞りこんでいるらしい。それはそれで分りやすい。

6時半ごろからにわかに人出が多くなって、歩道が満員になってきた。
赤ンボが母親に連れられている。浴衣で下駄履きの花火見物のような女の子もいる。サラリーマン風、おばさん風、多種多様であるが、男よりも女のほうが多いようだ。
若い夫婦が多いのが特に目に付いた。わたしのような高齢者もいるにはいるが、それほどでもないのが、なにかイベントあるとやってくる閑老人が多い今の世に興味深いことだ。

向こうのほうで、女性の声で演説が聞こえる。民主党のなにがし、国民の生活が第一党の何がしとか、呉越同舟でやっている。
そのうちにドラムやトランペットの5人ほどの楽団がやってきて、ジャズ演奏さながらのビートのきいた演奏とともに、「原発反対、再稼動反対、未来を守れ、子どもを守れ」と、一同シュプレヒコール合唱する。
そばで白い風船をせっせと配っている中年男がいる。見たことがあるような、田中なんとかという作家の代議士のような。

わたしは道端に腰を下ろしたまま、感慨にふけっていた。
あれは1960年の6月、岸内閣のときであった。日米安保条約改定に反対する運動が高まり、毎日、国会議事堂あたりはデモの人が埋め尽していた。
わたしは大学4年生、アクティブな活動家ではなかったが、デモには何回も参加した。今眺めているこの道を、大学や職場の旗やプラカードを掲げ、「アンポハンタイ、キシヲタオセ」と叫びつつ、ぐるぐると激しい渦巻きデモ、機動隊の警官との衝突。
そうだった、若いからできた。

●(動画)18時半、人々が集まってきだした
http://www.youtube.com/watch?v=UN-SDv_Clr8

●(動画)19時前、鼓笛隊がやってきた
http://youtu.be/wSkU-iCuo4c

実は今日も来る前に、あのようなデモはもう体力も気力もないからできない、どうしようかと逡巡したのであったが、まるで様変わりのデモであった。
何しろあかんぼ連れ、下駄履きハイヒールでの参加である。団体行動は全然ない。
ひとりひとりの意思による参加であるらしいことがよく見えて、その訴えのもつ真剣さがひしひしとわかる。
何かが変わるかもしれないと、変えなければならないと、現場に来ているからこそ思う。

◆◆◆

わたしがその52年前にデモに参加したことで、なにか世の中は変わっただろうか。変わるも変わらないも分らないうちに、高度成長の大波の中に飲み込まれてしまった。
だが実は、わたし自身の人生は、そのときのデモによって確実に軌道が変ったのだった。

デモが一応の終わりを告げた夏のある日、就職活動で事前面接試験を受けた大企業(三菱地所)に採用が内定した。そのときに安保反対デモに参加したかどうか聞かれて、もちろん参加したと答えた。
そして秋の本面接でも同じ質問に同じように答えたのだが、その答えの故に内定を取り消すとされた。
もちろんわたしは、その矛盾と理不尽に抗議した。先方担当者の言い訳は、事前面接にはいなかった役員が本面接にはいて、そのひとがデモ参加をもってわたしの内定を否定したのだそうだ。それも理不尽きわまる。

しかも、当時の大学は売り手市場だったから、企業側は大学側とことをかまえることを恐れ、こちらから個人的に取り下げて引き下がってほしいとの、勝手きわまる要請であった。
承知できないわたしと、ながらくもめた。もういやになったが、意地である。秋も深まり、その年の就職先はもうなくなってしまった。

とうとう人事担当役員が大学研究室に、わたしの指導教授を訪ねて謝りにきた。ちょうどそのとき、卒論執筆で研究室にいたわたしと出くわした先方の戸惑った顔を忘れない。
指導教授から、知り合いの設計事務所に入れてやるから、もう引き下がれといわれ、こちらもその大企業がつくづくいやになってしまったので、ひきさがってやった。
超零細アトリエ事務所(RIA)に入れてもらって、そこに28年いた。入るとき15人だったアトリエが、辞めるとき200人の企業になっていた。

人生は二度できないから優劣を比較はできないが、確実に比較できることは、クラス同期生のなかで初任給が最低であったことだ。
そんなことを思い出しながら、ここにいる若者たちのこれからの人生が、このデモでどう変わるのか、変わらないのかなどと、とりとめなく思う。
道端に座っていたままに、ドラムス競演とシュプレヒコールの真っ只中になってしまった。
それでもデモの一員のような、傍観者のような、宙ぶらりん気分で7時頃までいて、また元の道を戻ったのであった。
少なくとも参加した頭数にはなったはずだ。

実はこのデモいくようにと、ある書物がわたしの肩を押したのだが、その話はここに
●648日本人は5度目の大被爆体験をしても原発を動かす
http://datey.blogspot.jp/2012/07/648.html

2012/07/12

640横浜港景観事件(番外2)

横浜みなとみらい21新港地区における結婚式場計画について、これまであれこれと思い付きを9回も書いてきた。きりがよい10回目であるが、そのまえにまた番外を書く。
 建築家がいろいろ言っているらしいが、世の庶民がどういっているのか、どうも聞こえない。
 7月10日に日本建築家協会の主催でこれについてのシンポジウムがあると聞いたので、建築家の会の主催だからと期待しないで参加してきた。建築家、景観研究者、法学者の3人の出演であった。

 結論から言えば、いちばん聞きたいことを聞けなかった。
 それは、あの結婚式場のデザインはなぜ悪いのか、ということである。あれは悪いものだ、そういう前提での話ばかりであった。
 そもそもわたしのような庶民には、あれのどこの何が悪いのかを話してくれないと、議論そのものにはいれないのだ。

 どうも、都市美観審議会が悪いといったから悪いんだ、という感じである。それでは学識のある委員の偉い人の権威にたよるだけで、まったくもって説得力はない。
 では審議会では、説得力ある言い方でこれが悪いと審議されたかといえば、議事録を見る限りでは分りにくい。
 西洋物真似が悪いと言われも、どこが物まねで物まねのなにが悪いのか。テーマパークみたいで悪いといわれても、そばの遊園地はどうしてよいのか、庶民はテーマパーク大好きである。
 せめて、あのデザインは下手クソだから悪い、といってくれると庶民にもちょっとは分りやすいのに。

 建築家協会の主催なら、審議会委員の建築家と結婚式場の設計をする清水建設の建築家を議論に入れるべきであった。
 当事者の話を聞かずにそれを非難しても、庶民には不可解でなんのことやらである。

 大衆があのポピュリズムデザインを欲しているからこそ、事業者がそれを供給し、そのデザインをする建築家がいるのである。
 それに建築家が反対の陣を敷くなら、なぜ紅葉坂にあるアレ、みなとみらい21高島地区にあるアレ、馬車道駅そばにあるアレとかについて、反対の論陣をはらないのか。 
 いつもながら建築家の言うことは高踏的で分りにくい。法学者の言うことのほうがよくわかったのが、おかしい。
●横浜港景観事件(1)~(9)はこちら

2012/07/06

639趣味の卓上出版「まちもり叢書」に書評が登場

谷口碩氏は、わたしと同年代・同業の都市計画家である。
 この春、東京から神戸に居を移されるとて、餞別として無理やり「まちもり叢書」(わたしの趣味の卓上出版)の内の3冊をわたした。
 そして神戸からの都市通信を待っていたら、病気になって入院という知らせに驚いたが、もっと驚いたのは入院中にわたしの3冊を読んで書評までくださったことである。

 この趣味を2010年の半ば頃から始めて、いまでは14冊になった。続刊も進行中である。
 これまで多くの人に無理やり渡してきたが、こうやってきちんと書評してくださったのは、これが最初である。
 おおいに感謝してここに掲載を許してもらった。

●谷口碩氏書評全文→「街なかで暮らす」「文化の風景」「風景批評の旅」
http://homepage2.nifty.com/datey/matimori-sosyo.htm#syohyo

●「まちもり叢書」:趣味の自著卓上自作出版の一覧
http://homepage2.nifty.com/datey/matimori-sosyo.htm

―――既刊(2012.05時点)――
・父の十五年戦争/神主通信兵の手記を読み解く
http://sites.google.com/site/dateyg/15senso
・横浜B級観光ガイドブック・関外/戦後復興の残照
http://sites.google.com/site/matimorig2x/yokohama-bkyuu-kankou-gaidobukku
・あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている
http://sites.google.com/site/matimorig2x/tokeisin
・波羅波乱歳時記/日々の小言僻言繰言寝言
http://sites.google.com/site/dateyg/haratachi-saijiki100412
・街なかで暮らす/あぶないマンション・いらないバイパス
・丸の内貼り混ぜ屏風/見世物としての建築
・かまくら冬夏/鎌倉元住人が内と外から描く古都の風景
・建築家 山口文象の世界/作品と評伝
・文化としての緑の環境/人口の緑しかない日本の自然
・ネパール風土逍遥/カトマンヅ・ポカラ・ルンビニ
http://sites.google.com/site/matimorig2x/nepal2011
・文化の風景/都市の伝統と鄙の民俗の風景を伝える
・風景批評の旅/斜めから裏から眺める風景
・美しい故郷に/高梁盆地の昨日と今日そして明日へ
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/utukusiikokyo
・福島原発を世界遺産に/地震津波原発おろおろ日記

―――続刊(見込み)―――
・東京駅復興/20世紀の歴史を消した21世紀の復原
・中越山村の四季/棚田の米つくりから見てくること
・山口文象/時代の先端を駆け抜けた建築家
・高梁川/鎮守の森から
・都市の文化景観
・中越山村の四季

2012/07/05

638日本一安全な故郷で生家の大木が切り倒されて老人ホームで第2のお勤めをしている

昨日のこと、故郷にいる同級の友からのメールに、こう書いてある。
「先日、高梁初の有料老人ホーム「さくらの苑」が開所されました。今朝の新聞に記事が載っていて、『各階の大黒柱には御前神社の境内で伐採したメタセコイアを使っている・・・』とありました。」

 わたしの故郷は高梁盆地、そこの御前神社が生家である。鎮守の森にはたくさんの大木がある。大木になりすぎて危険になって切り倒されることもある。
 そんなことをこのブログにも書いた。
 一昨年3月の「大銀杏の死」では、わたしの少年のときに切り倒されたイチョウの木のことを書いた。http://datey.blogspot.com/2010/03/250.html
 昨年10月の「ふるさとの鎮守の森」では、最近に切り倒されたメタセコイヤについて書いた。http://datey.blogspot.jp/2011/10/510.html

 そう、このメタセコイヤのことに違いない。

 「ふるさとの鎮守の森」から一部を引用する。
 高校生だった1955年の夏、少し遠くに住む同級の友人が遊びにきた。
 持ってきたてメタセコイヤの苗木を、境内の石垣の小段に植えた。すくすくと育って30mくらいの大木になっていた。
 青春の記念樹であったが、これも伐られて大きな切り株だけになっていた。大木が風でゆすられて、石垣が危うくなったのだろう。

 そのことを友への返事に書いたら、さっそくそのホームに伝えてくれて、そこからメールが来た。
「『さくらの苑』は、樋口満理事長により開所しました老人ホームで、このたび、御前神社のメタセコイヤをいただき、老人ホーム玄関に設置いたしましたので、別添のとおり写真を送らせていただきます。」

 そうであるか、わが青春のあの記念樹は、わたしが生家を去ってから育ったが、わたしよりも先に真新しい老人ホームに入り、ホールの真ん中にでんと構えて第2のお勤めをしている。うらやましいヤツである。
 そのように生かしてくださった樋口満理事長に、心からお礼を申し上げる。
   ◆◆◆◆
 実は故郷の友からのメタセコイヤメールのきっかけは、わたしが高梁関係の知人たちに送った「高梁は日本一安全な街であるらしい」というこんなメールであった。要約する。

 地震、津波、原発事故、その上に消費税も上がるとて、うっとうしい梅雨ですが、ちょっと故郷のよいところを新発見しました。
 まずこれを見てください。高梁のあたりは地震がないのです。
 日本全国広域 最新30日間の震央分布図 (独立行政法人防災科学技術研究所)
http://www.hinet.bosai.go.jp/hypomap/

 そして今の一番怖い四国沖での南海大地震が起きても、何とか大丈夫のようです。
 中央防災会議資料
http://www.jjjnet.com/image/shindo_nankai.gif

 上の地図だと島根県あたりのほうが安全に見えますが、そこには島根原発があります。島根原発は高梁に一番近い原発ですがそれでもかなり遠い。下記のサイトで島根原発のところの図を見てください。
 全国の原子力発電所の周辺人口(2005年)埼玉大学谷謙二研究室
http://ktgis.net/tohoku_data/genpatsu/

 南海やら東海やら大地震が起きてもなんとかなるだろうし、津波が起きても瀬戸内海から高梁川をさかのぼるには遠すぎるし、島根原発が放射能出してもここまでは来ないだろう、富士山が爆発するらしいけど高梁まで灰が降ってくることはなかろう。
 というわけで、故郷はよいところと分ってはいたけど、こういう意味でよいところと今頃になって知りました。
 これを日本全国に宣伝すると人口が増えるでしょうね。でも相対的によその町を危険と言うのが、ちょっとつらい。

●参照→ふるさと高梁の風景
https://sites.google.com/site/machimorig0/#chusikoku

637長く飼っているとPCも持ち主に似てきてノロノロに

10日ほど前からPC(XP)がノロノロになった。こいつも飼い主に似たか。
 もう買ってから10年、4年目ぐらいに故障したのでハードディスク交換したが、もうだめかなあ。

 本やネットで調べて、薬を飲ませたり、宥めたり、外付けHDにゲロ吐かせたりしても治らない。
 夜寝てるうちに治ってるかもしれないと、明日の朝になってオンしても、やっぱり治っていない。風邪引きとは違うのか。
 中身をまっさらにしてしまうって大手術もあるらしいが、怖くてできない。

 たいして高等な作業をするのではないが、重いソフトやファイルが動きにくい。WEBサーフィンもノロノロノロノロ。
 印刷も超ノロノロで、「まちもり叢書」を発行できない。
 歳とって衰え行く自分を見るようで、まったくもって腹が立つ。

 健康によくないから、中古PCでも買ってくるかなあ、この際WIN7新品を買うか、それとも思い切って最初にPC買ったときに戻ってMACにするか。
 買ってくるとあれこれと設定が面倒だよなあ、まあ、ボケ防止にいいか、とも思う。
 なんにしても11日締め切り原稿までは、だましだまし働かせるしかないなあ。

2012/07/03

636新潟のお屋敷町で擬洋風建築に出くわした

5月末、新潟市内をぶらぶら、古町のほかはまったく不案内なので、適当に歩いていたら、西大畑町というあたりで面白い建築に出会った。
 このあたりは昔はお屋敷町であったらしく、お偉い官吏の官舎跡とか大地主の別宅とか公開している家がいくつかあり、大きな料亭もある。
 それらには特に興味はわかず、なんとなくあたりをぶらぶら歩いていたら、不思議な4つの建築に出会った。
 まずその位置を航空写真でどうぞ。

 航空写真の①マークのところには、なんだかフランク・ロイド・ライト設計住宅の亜流のような家が建っている。

 同じく②のところには、ピンク色の木造で、どうやらキリスト教会の付属幼稚園舎らしい。かなり古そうだ。

 同じ敷地の中に③の、これはまあびっくりするほど立派なキリスト教の教会建築である。木造でつくってある。なかなか本格的である。

 そこからまたぶらぶらしていたら、真っ赤に光る建物④にでくわした。上のほうに「金井写真館本店」と書いてある。
 今は事務所のようだったが昔は写真館だったのだろう。それにしても擬洋風木造建築の典型のようである。真っ赤に塗ってあるのは、昔からそうなのだろうか。

 これらは道ばたに案内もないから、なんだかよく分らないままに道から面白く眺めてきたのだった。
 後でウェブ検索したら①と②のほかは出てきたから、ここには解説しない。②は教会の付属だろうが、①が気にかかる。
 それにしても、まったく不案内なところをうろうろしていて、こんなのに出会うとは、わたしの街歩き術もどうやら極意に達したようだ。

2012/07/01

635再録「20世紀末の気まぐれコラム」を再読して未だに問題はそのままと思う

「週刊まちづくり」というメールマガジンがある。各地のまちづくり活動のお知らせ、まちづくり関係書籍紹介、まちづくり関連コラムなどが載っている。http://w-machi.net/
 2人の若者が1999年4月に創刊して、毎週配信しているが、近頃は月に1回か2回になっている。情報が少なくなったとは思えないから、当初は学生だったのがいまは社会人となて、まちづくり活動に忙しくて、さすがに息が切れているのか。
 それとも始めたころと比べると飛躍的に多様になった電子情報システムによって、まちづくり情報がそれぞれの発信源から直接に届くのが当たり前になってきて、毎週発信の意味が薄れたのか。
 でも、いまや13年半、500号、1100人を越える発信先となっていて、まさに「継続は力なり」と思わせる。新たな展開を期待している。
 わたしはその初めのころの99年6月から2001年7月まで断続的に、「気まぐれコラム」と称して、あれこれゴタクを載せてもらっていた。
 思いついて、それらを一連のコラムとして、ここに収録した。読み返してみて、20世紀末あたりの時代の空気が現れていて面白い。あれから12年たってもそのときの問題は顕著になるばかりで、解決はしていない。
  ●以下全文は「20世紀末の気まぐれコラム」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/k-column