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2023/11/30

1753【紅葉の季節】故郷生家の森の紅葉から思いを巡らす街の紅葉そして人工の紅葉

 今年の紅葉は平年と比べてどうなのだろうか。夏から秋へと暑かったから、紅葉は遅いのか逆に早いのか、どちらなのだろうか。

 ここに載せた紅葉黄葉風景の写真は、2014年11月10日撮影である、場所は岡山県中西部にある高梁盆地の神社境内で、ここはわたしが生まれ育って少年期までを暮らした生家である。故郷の盆地で暮らす同年友人が撮って送ってくれた。
 少年の頃には紅葉なんてものには全く興味なかったから、このような紅葉風景を送ってくれて、改めて美しいと感動したのであった。

 その生家の神社は、盆地を取り巻く丘陵の中腹斜面の街から見上げる位置に、裏に山を背負った森の中であった。生まれた時から自然の四季の移り変わりの中におぼれるほどにどっぷりと浸かって生きていた少年にとっては、あまりに日常的すぎて身のまわりの自然の変化には全く気を止めるようなことはなかった。周りの森もの樹々も裏山の森も全て自分の領分だから、それはまるで身体の延長である。自然を客観的に見る目はなかった。

 ところが、ある日のこと、突然に自然を感得した得難い体験の記憶がある。中学生になったばかりの頃だったような春のある日だが、真昼の森の中から森の外の雑木林のあたりをぼんやりと見ているとき、それは急にやってきた。
 樹々の萌える若葉のひろがる枝葉、その色彩のグラデーション変化、風による木の葉や草のさやぎ、鳥の鳴き声、森の樹々の合間からさす日の光、それまで気に留めることなかった自然の姿が一気に押し寄せてきた。

 それはいったい何だったのだろうか、しばらく立ち尽くしていた。自然がわが身の外にある客体としての自然が見えてきた”事件”があった。それはどこか外から来たのではなく、身の内から湧き出てきた感情であった。何か特別なきっかけはなにもありはしなかった。

 たぶん、それはその日から大人になるステップを登り始めるという少年にとっての、心と体の儀式だったのであろう、と勝手に思っている。遠い少年の日のその不思議な体験を、不思議なほどにありありと覚えている。もっとも、自然が美しいと悟るにはまだ時間が必要であった。

 それから20年ほども後のことだが、これに似た体験をしたという知人にひとりだけ出会ったことがある。また何か外国の小説であったとかすかな記憶だが、これと似たような体験する少年の話を読んだことがあり、ときに思いついて探すのだが見つからない。

 故郷の盆地にはもう20年も行かないし、もう行くことはなさそうだが、上の写真のような紅葉は今もあるらしく、先日のこと、故郷の盆地に住む知人が、街から見上げた神社の森の中に、今年もイチョウの大木の黄葉が目立っていたが、もう落葉したと便りをくれた。

 さて、今わたしが住む横浜の近所に紅葉黄葉の名所がある。街路樹のイチョウ並木がかなり多い。有名なところは日本大通りであろう。紅葉狩りの名所ならば三渓園である。これまで何度も出かけたものだ。

横浜三渓園紅葉風景 2021年

横浜大通公園 銀杏黄葉 2015年

 銀杏並木と言えば、今話題の明治神宮外苑である。上の日本大通りの銀杏本来の姿のそれと比べると分るように、外苑では強い剪定をして、槍の切っ先のようにとがった姿にしている。それはここが明治王権のシンボル空間だからである。その先にある絵画館に視線を集中する人工の仕掛けであり、その視線を強要する人工景観をわたしは好まない。
明治神宮外苑の銀杏並木 2013秋

 近ごろは紅葉や黄葉の樹木に、夜間にライトを当てて見せるということがしきりに行われているらしい。わたしは実は見たことが一度もないのだが、見たい気がおこらない。ライトの当て方が人工的でわざとらしい風景になるに決まっているからだ。いっそのこと紫色でもあてて紫葉狩りでもしたらどうですか。

 ネット検索で紅葉ライトアップを探すと腐るほど出てくる。これではご免を蒙りたい。雪景色でも花見でも瀧でも何でもかんでもライトアップして、しらじらしい風景に変えてしまうのが気に食わない。これも視線を強要して不自然極まる。

ネット検索サイトに登場する紅葉ライトアップ風景

 自然の風景を光で改変するライトアップも風景破壊であるし、こうも夜まで明るくされては植物の方も寝不足であろうから枯れてきて自然破壊になっているに違いない。
 これからクリスマスがやって来て、個人の家をキンラキラキラさせるのはそれぞれ勝手ながら、景観についての美的感覚に頭をかしげさせるのである。
 ここに並べた写真を見て気が付いたが、計らずも自然のままの紅葉から、人工の極致の紅葉へと並んでいるのが面白い。

(20231130記)

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伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
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2023/02/20

1672【頼久寺庭園】江戸初期小堀遠州作の名園は借景に時の変化をどう表現するか

 本棚からもう忘れていた昔の写真のプリントとかフィルムが出てきた。もうずいぶん前に、古いアルバムからはがして、PCスキャンしてデータ化したから、もう捨ててもよいものだが、ついつい瀬k実の写真プリントを見てしまった。

 それらの中の一つに、わたしの生まれ故郷である高梁盆地で、1960年に撮った頼久寺庭園があった。もちろんモノクロだが、今の庭園の姿とは異なる。作庭当時とは景観が違うのである。名勝指定になったのは、この写真より後の1974年とある。

 この庭園は江戸幕府の作事奉行であった小堀遠州の作庭であり、江戸初期にこの備中松山藩の代官をしていた若い彼は、この頼久寺を住まいとしていたのだった。

 小さな庭だが、庭園外の遠くにある愛宕山の山容そのものを借景にとりこんでいる。庭園内のサツキの丁寧な大刈込みと対比的に、外の森や山の借景はラフな自然景である。
 この1960年に私が写した写真の特徴は、庭園のサツキ大刈込みの向こうに瓦葺き屋根の大きな建物があることだ。つまり庭園の緑の連なりが遠くの山まで視線が途切れることなく通るのではなく、いったんは庭の外で視線が断絶する。当時のわたしの記憶ではこの建物を養老院と言っていたような気がする。今は大学のキャンパスの一部となって校舎が建つ。

 もちろんこのような建物が遠州の作庭時の17世紀初めにあったのではなく、森が続いていたか、あるいは農村の田畑の風景であったろう。それが庭園は変わらぬように維持されてきたが、その外の景観は時代と共に変化する。
 1960年当時は外の建物がそのまま見えているのだが、現在はどうなっているだろうか。

 そこでネットで最近のこの庭園の写真を探して、わたしの撮った1960年庭園写真と同じアングルで同じにトリミングして比べてみた。
 現在では瓦屋根建物は見えず、その手前の庭園内の境界線上に沿って背の高い高い樹木が並べて植えられており、建物を見切る高さで水平に頭を刈られている。

 さてこれをどう見ようか。見ようによってはもう一つ大刈込みが高い位置にできた感もある。だが、この植込みの厚さがないので、もうひとつ迫力がない。
 向こうの森と調子を合わせて大借景との調整役になっているかと言えば、そのスケスケぶりと形が幾何学的で、いかにも目隠し感がありすぎる。見ようによっては、この目隠し植樹帯を区切りにして、向こうの森や山とこちらの庭園とは違いますよと、借景を否定してるような感があるのだ。

 いや、もしかしたら、わざとそうしているのだろうか。これは遠州の作庭にはなかった植栽だから、明らかにそれと分かるような姿につくったのだろうか。なるほど、それは歴史的庭園保全のひとつの考えであるともいえよう。実情はどうなのだろうか。

 上の二つの写真をしばらく見ていたら、1960年写真の方が借景が生きているとも見えてきた。もちろんあの瓦屋根のスケールには困るのだが、あの屋根がいくつかに分節して、高さに変化があるとよいかもしれない。もちろん今の建物が1960年のそれではないだろうが、航空写真を見ると今も同じような建物があるようだ。
 庭園の外に建物などが見えても、庭園に対応したそれなりのスケールや色彩ならば、それも借景にした方がむしろ適切かもしれないと思う。時代の表現である。

 2011年の写真にみる境界目隠し植栽体を、分節するとか目隠しラインを自然に刈るとか、一部に屋根が見えてもよいからそれなりのデザインをして、総合的に内外を合わせた景観を考える現代の作庭があってよいようにも思うのだ。
 もちろん、文化財としての名勝指定による保全の在り方が決まっているのだろう。それは遠州作庭の姿を守ることが基本だろうが、時代による景観変化を生かすという考えがあってもよいだろう。

 なお、これは以前に調べて知っているのだが、この借景の範囲に高層建築が見えないのは、庭園からこれ以上は建物が見えないように建築物の高さ制限を、高梁市の都市計画行政として定めているからである。これについては既にこのブログにこのように書いている。


 借景で有名な庭園は、頼久寺より少し遅れるが同じ江戸初期作庭の京都岩倉の圓通寺である。ただしそこも借景のお手本というには、かなり難がある景観になっている。後水尾天皇が作った時はもっとおおらかだったはずだが、比叡山の手前の市街地化で雑多な風景となり、ここも垣根や植樹がおおらかさを失わせてしまっている。


(20230220記)

●参照*高梁盆地:小堀遠州作の名園の借景を守る(2011/10/22)
 ◎京都岩倉:怨念の景観帝国ー円通寺と後水尾上皇(2009) 


2021/04/17

1561【コロナの春行く】願わくは緑の木陰に夏死なむその皐月の望月のコロナ


故郷の街(高梁盆地)に住む高校同期生からメールが来た。その便りの中になかに、同期のある女性の息子が母校の高校の校長になったという、おめでたい知らせがある。
 一瞬脳裡に浮んだのは、自分が生徒の頃の年取った校長の顔であり、そんな年寄りの息子がいるのか、すぐに思い返して、そんな年寄りの子がいてあたりまえの歳になったと気が付いた。よくまあここまで生きたものだ。

 そしてまた、同期生男女5人で野外宴会をやって楽しかったと写真もついている。懐かしい顔ぶれであり、もちろん息子に校長がいておかしくない容貌だ。
 今どき宴会なんて、羨ましいことだ。それなりにコロナに注意してやったとあり、そうか、あの小さな静かな盆地も興中の災禍にあるのだと気が付いた。

 そこで故郷にはいったいどれほどのコロナ感染者がいるのだろうかと、高梁市のウェブサイトで調べてみた。
 盆地での状況はわからないが、高梁市域内の数字はあった。これまでのコロナ感染者数の累計は、15人である。桁が違うと見直したが、去年7月以来ぽつりぽつりと発生の様子。


高梁市内の新型コロナウィルス感染者数
(市のウエブサイトより、元号記述を西暦に修正)
 こちら横浜市では毎日何十人も発生する。現在は累計約22000人で、高梁市の1470倍の感染者数とはすごい。
 人口の差かと思ったが、それは横浜(372万5千人)が高梁(3万2千人)の116倍だから、人口は言い訳にならない。なんとも申し訳ない気分である。

 故郷便りの添付ファイルに、高梁盆地の俯瞰写真がある。緑の丘陵に包まれた街は、盆というよりも深皿で、グラタン皿のごとくに楕円形だ。この盆地の中に1万人ほどが住んでいる。市域は合併を重ねてこの盆地の100倍もあろうかという広大さである。


高梁盆地を南西から俯瞰(撮影kawakami)

 この盆地の中に行政人口の3分の1近くの1万人ほどが住んでいる。興味深いことに、この1万人ほどという盆地内人口は、近世末期からあまり変わらないということである。

 比較のためにわたしが住む横浜都心の俯瞰写真を観よう。この建物群の混雑度を見て、コロナ3密を思い出さざるを得ない。これでは故郷の1500倍もコロナ感染者が多いのも無理はない。


山手から横浜都心俯瞰

 つまり故郷のコロナ感染度合いは、横浜よりも1500分の1も薄いのである。それならコロナなんて恐れる必要がなさそうに思ってしまう。が、どうなんだろうか。それでも何かの機会で誰か住民がコロナに狙われて、いわゆるクラスターが起きると、とたんに大変になるのだろうなア。

 今日から横浜市はマンボウ、いや「まん坊」、いや「まん防」がやってきた。そう、特措法による「まん延防止重点措置を行うべき区域」、略して「まん防」に指定されて、いろいろと規制が始まるらしい。わたし個人はその規制になんの関係もないから平気である。マンボウでもクジラでもやってこいである。

 そう、「まん防」の上にはクジラならぬ「きん宣」が待っている。例の「緊急事態措置宣言区域」略して「緊宣」、「まん防」指定やっても効果がなくて感染増加なら、つぎはさらに規制厳しい「緊宣」指定である。

 その「まん防」になってしまった横浜の都心部に住んでいるのだが、今日たまたま用事があって近所の横浜球場の横を通り過ぎたら、野球の試合でもあるらしく超大勢の人々が押しかけている。「まん防」なんて知ったことかの3密ぶり、内部はもっとすごいのだろう、これじゃあ早急に「緊宣」格上げは近いな。


野球競技があるらしい「まん防」の横浜球場

 どうやらコロナ大戦は当分やむことなさそうだ。もうコロナ軍に本土上陸されてしまったし、全国主要都市はコロナ襲中である。
 これに対抗するには、防空頭巾に代わるマスクをつけて、竹槍に代わる消毒液を手に塗って、防空壕に代わる空中コンクリ陋屋に逃げ込むしかない。

 唯一の反撃兵器はワクチンらしいが、科学先進国日本はいつの間にか後進国になっていてそれを作る能力がないらしい。輸入しかないけどその争奪戦にも負けてしまった。それでもオリパラ返上といわないで準備するその世界の人々って、なんとも凄いもんである。

 わたしにワクチン接種順番が来るのは、横浜市のウエブサイトを探したら、2~3か月以上も先らしい。5歳刻みで高齢者から順番で、その最初の80歳以上というひとくくりにされてしまったわたしの年齢、なんだか悲しいような、もったいないような、申し訳ないような複雑な気持ちである。

 ま、なるようにしかならないし、先が短い年寄りがオロオロしてもしょうがない、ここは未来がある若い人たちを優先してワクチン接種し、しっかり生き延びてください。
 年寄りはあとからゆっくりでいいですよ。どうせ短い命ですから、ワクチン前に死んでも後悔はしませんからね。

 ところが、コロナ大戦が終わると戦後処理の時代がやってくる。コロナ対策やオリパラで抱えこんだ未来からの大借金が待ち受ける未来である。
 その返済のためには、少なくとも今の震災復興税にコロナ復興税が重なるのでしょうね。ほかにも増税ああるだろうな。
 アジア太平洋戦争の戦後処理時代に空腹を抱えたわたしたちの世代、あの悲惨な戦争直後の体験をまたもやしたくないなあ、うん、そうだ、ピンピンコロナ待望するかなア、、。

 なんてオロオロ考える日々を送っておるところに、こんどはマンボウが来てますます知人も息子も遊んでくれないなあ、
 まあ、脚だけは丈夫な私は孤独徘徊花見シーズンが終わり、今や緑陰シーズン到来、木陰で缶ビールを孤独に飲みましょう。いまや「花の下にて春死なむ」がおわり、「願わくは緑の木陰に夏死なむその皐月の望月のコロナ」になってしまう。

 故郷とのコロナ落差の大きさに、戸惑うばかりである。(20210417記)

2020/08/22

1486 【望郷と忘却:『荘直温伝』読後感想文:2】高梁盆地を縦断した山陽山陰連絡鉄道を当時の町長は街としてどう受け止め、後世はどう生かしたか

望郷と忘却:『荘直温伝』読後感想文:1】のつづき

●荘直温町長が誘致した鉄道

 日本の小さな地方都市が一人の人物を通じて、日本史の中にどう位置付けられており、どのように国家の網目の中に組み込まれ、それをどう受容したか、興味深い本をよみました。
 わたしが少年時代を過ごした街ですから、地理的によくわかるので読んでいて身に染みるのです。ここに書くのは、わたしの故郷の高梁盆地を舞台にした一人の男とその一族の伝記・松原隆一郎著『荘直温伝』を読んで、極私的な読後感想文です。
 前回はその本の付録の幕末地図に、わたしの生家である神社が載っていないことへの疑問と探索でした。

 今回は、荘直温が高梁盆地のリーダーとして行った大事業の鉄道誘致について感想を書きます。この高梁盆地に中国地方を南北に結ぶ幹線鉄道の伯備線備中高梁駅が開通したのは1926年でした。それがその後の高梁盆地にもたらした実に大きかったたことは、著者が110ページ(本文365ページ)も使っているほどです。

 特に誘致運動についての荘直温の中央政府への陳情努力は、それに私財をつぎ込んで荘氏没落に至った原因となったとさえ書いてあります。
 20世紀の初め頃、日本各地で鉄道誘致運動が盛んであり、政党の政友会はこれを利用して勢力を伸ばしたくらいでした。岡山出身の犬養木堂がキイマンとして登場するように、高梁もその一つだったのです。鉄道誘致は政治運動であり、荘直温は表に出せない多額のカネも使ったことでしょう。


(「荘直温伝」より引用)

 山陽の岡山からに北へと山陰と結ぶ路線候補はいくつかあり、どこもそれがわが町を通るか否か、大きな政治経済問題でした。南から高梁川にそって北上する鉄道が、高梁盆地に入る直前に西方の成羽川沿いに方向を変える路線候補が、高梁にとっては大きな競争相手でした。高梁と成羽の熾烈な陳情合戦の結果は今に見る様に高梁路線になったのです。
 思えば戦国時代、高梁盆地の支配者であった荘氏の先祖の庄氏が、成羽に鶴首城を構える三村氏と幾度もの松山城を取り合う合戦をしましたが、その再現だったでしょうか。

 伯備線は1928年に山陽山陰連絡幹線として岡山‐米子間が開通します。高梁盆地から南に1時間ほどで倉敷や岡山へ、北へ3時間ほどで山陰へと結ばれました。
 線路が盆地の底を南北に縦断して、城下町を東西二つに切り裂きました。その備中高梁駅は、盆地北部の繁華な城下町から離れて、南部の水田の中にポツンと登場しました。駅や路線の位置は鉄道としては合理的だったのでしょうか。
 しかし、長い繁栄をしてきた城下町としては駅も線路も奇妙な位置です。そしてその後の高梁盆地の消長を左右してきた鉄道でした。

 この鉄道に関する極私的な記憶から書きます。わたしたち盆地の底の少年たちにとって鉄道は、ここから外に出ていく道であり、駅はその出口でした。
 そして乗るのは常に地形的には下るのに上り列車であり、反対の北行き下り方向には全く目が向かないのでした。わたしは少年時代の終わりとともに出て、そのまま戻っていません。弟たちもそうです。

 わたしの父は、この駅から3度も戦争に出てゆき、運よく3度とも生還しました。最初と次は中国戦線に、3度目は関東で本土決戦に備える兵役でした。
 3度目の1943年12月、この駅から母とともに送りだし、家に戻ったとたんに母が泣き崩れた記憶があります。その父母も55歳でこの駅から出て行き、岡山そして大阪へと移り住み戻りませんでした。

 では、わたしたちが出ていった如くに、他の人々も出て行って盆地内は空き地空き家ばかりになったかというと、そうではないようです。
 私の生家があった神社の境内や山林は変わりませんが、その周りの広い田畑や竹藪だったところは、今ではびっしりと住宅が建ち並んでいます。出て行った人を上回る人たちが周辺地域からやってきたのでしょう。

 実は高梁盆地の人口を調べていて、江戸中期から1万人前後であまり変化がないという、じつに興味深い発見をしたのです。盆地特有の閉鎖空間の自然環境と社会環境が、そのようにさせるのでしょうか。
 行政市域人口は減少するばかりですが、その中心部の盆地では出入りが均衡しているのです。誘致した鉄道が盆地から人や物を奪っていくストローとして働いたことは確かでしょうが、一方で鉄道があったことで地域中心としての地位を保持し、周辺地域から人々を吸い込んだのも事実でしょう。

●高梁盆地を縦断する鉄道

 それにしても思うのですが、どうして町長の荘直温は誘致した鉄道を、この線形で盆地の中を通したのでしょうか。
 駅は賑やかな城下街から南に外れた寂しい田んぼの中であり、線路は盆地内随一の優良邸宅地の武家屋敷町をなぎ倒して縦断しました。それは鉄道敷設する側の都合によるものか、それとも地域が欲した位置でしょうか。どうも鉄道側の都合だったような気がします。

近世形成の計画市街と近代以降形成の無計画市街との比較

 この街なかを通る鉄道の列車は、長時間の大騒音、地を揺るがす振動、真っ黒な煤煙を街に振りまきました。わたしにも直接被害経験があります。
 戦後に生まれて新築されたばかりの新制中学校に入学しましたが、その校地は鉄道線路に接していました。3年生の時の木造校舎の教室は線路際の2階でしたから、騒音煤煙振動の3重苦に襲われて、列車が走るたびに授業は中断しました。

武家屋敷町の石火矢町を切り裂く機関車
1971年公開映画「男はつらいよ 寅次郎恋歌」より引用
 
 ついでながら、この学校の北側には専売公社の煙草工場がありました。この工場から煙草に入れる香料の甘ったるくて胸が悪くなる異様な匂いが、学校全体に流れ込んでいました。この工場も荘直温伝には、彼が土地斡旋に苦労して誘致成功したとあります。どうも少年のわたしは、その称えられる荘直温の事績とは相性が悪かったようです。

 荘直温の事績について付け加えると、街の南部の川沿いに桜並木を彼が作り高梁の名所であったが、これを後の1940年に切り倒したことを著者が難じています。高梁では桜土手と言っており、幼児のわたしは親に連れられて行った記憶があります。3歳以下の幼児にサクラドテなる言葉の記憶があるとは思えないので、実は一部が後々まで残されていたのでしょうか。わたしの少年期の花見は方谷林でした。

 駅がなぜ賑やかだった城下町に接することなく、遠い田んぼの中だったのでしょうか。普通に考えるとその駅の周辺が新たな市街地として整備しやすいからと思うのです。
 ところが、わたしがいた50年代までの駅周辺は映画館(3軒もあった)や飲食店が多い歓楽街で、買い物に行くところでもなし、まして少年が行くところではないのでした。買い回り品は城下町の中心の本町や下町へ、最寄り品は新町や鍛冶町へ行ったものでした。

 駅から南部は大部分は田んぼでした。駅裏になる駅東側は、鉄道で出荷する松など木材がたくさん積んでありました。松丸太の積み出しが盛んな駅でした。
 その後70年代には栄町がショッピングの街として繁栄したと、この本にはありますが、50年代末に盆地を出たわたしは、その姿を知りません。


1946年ころの盆地南端から北を写した、右方に線路
1947年航空写真 左端に臥牛山、右方の駅前通りから南部は田んぼ

 駅ができたことで開発利益に与るのは、それまで田畑を持っていた人たちです。なぜこの位置だったのでしょうか。

 それを勘ぐれば、ここは旧松山村のエリアであり、松山村で荘氏松山分家が庄屋として、18世紀終わりごろから采配を振るっていたのです。駅を旧城下町と旧松山村とで取り合いになり、荘直温町長はその故地に駅を決めたのでしょうか。我田引水をもじって我田引鉄といいましたが、その実例かもしれません。

 一方、線路が縦断するだけの旧城下町は、直接利益がないどころか生活環境が悪化しました。武家地だった寺町、間之町、頼久寺町、石火矢町、内山下の静かな高級住宅地を縦断するのは、鉄道の線形としては最良だったのでしょうか。

鉄道線路は武家屋敷地(青色部)を縦断して驀進
(「荘直温伝」付録地図の一部を加工、
グレイ部は商人地

 町長の荘直温はどうしてそれを受け入れたのでしょうか。いや、鉄道用地土地買収で地元調整に尽力したと関係者から感状をもらっているのですから、積極的にこの武家屋敷地縦断を進めたのでしょう。誘致とバーターだったのでしょうか。

 なぜ商人地でなくてこの武家屋敷町を通ったのでしょうか。没落士族のほうが、栄える商人よりも土地を手放し易かったのでしょうか。商人地は間口が小さいので関係者が多くなるが、武家地は宅地が大きいので買収対象者が少なかったからでしょうか。
 西半分を線路にとられた石火矢町は、残る山側の半分だけが現在は武家屋敷町として歴史的雰囲気を演出しています。同様の頼久寺町ときたら、わたしが毎日のように通っていた1940~50年代は、武家屋敷どころかほとんどが竹藪でした。いまは住宅地のようです。

 元都市計画家の目で、高梁盆地の地図や空中写真を見て、奇妙なことに気が付きます。駅から遠い北のほうの街、つまり近世の城下町だったところは道も街網も整然としているのですが、駅やその南のほうの街つまり近代以降のできた街は道も街並みも乱雑です。
 どうやら、鉄道が来て駅周辺が田園地帯か市街地に変わっても、近世以前のように都市計画的整備をしないままなしくずしに街になったようです。

 つまり、荘直温町長は、鉄道の駅を受け入れる側の街としてのまちづくり計画もないままに、鉄道事業者の計画に従って土地買収に協力しただけなのでしょう。もしかして、鉄道がどのようにこの地に影響及ぼすか考えることなく、誘致そのものがが目的化してしまったのかもしれません。荘町長は鉄道が高梁盆地の一大流通産業である河川交通の高瀬舟の没落を招くと考えなかったのでしょうか。その頃の町議会の議事録を閲覧したい。


中央に備中高梁駅、その左下方の整った街並みが江戸時代の城下町

 その後の為政者たちも、南部地域を駅を中心とした街として面的に整備することなく、いくつかの道だけを作って、なし崩しに田畑を宅地し、適当に公共施設を作ったようです。総合的に街を作ることに関心がなかったようです。
 地元有志が計画した栄町商店街再開発ができなかったが、行政のリードすべきだったのにと著者の松原さんは指摘していますが、駅中心の田んぼの街づくりさえできないのに、そんな権利輻輳した市街地のまちづくりは、とても無理でしょう。駅前通りと栄町通りの道づくりで手いっぱいだったのでしょう。

●他都市と比較する鉄道の位置

 では、鉄道が高梁盆地に来た頃、岡山県内の近くの他の同じような盆地ではどうだったでしょうか。昔を調べるのは面倒なので、グーグルマップで現在の空中写真を見ましょう。
 まず新見盆地ですが、伯備線は城下町だった市街地の川の向う、高梁川の対岸に線路も駅も作っています。だから既成の城下だった市街地の破壊がなかったようです。しかし駅周辺を見ると、どうやらここも総合的に整備されないまま今日に至っているようです。


新見駅は旧城下町から高梁川の対岸にある

 津山盆地も新見と同じように、旧城下町市街を避けて吉井川の対岸に駅と線路を通しています。ここも駅周辺総合的整備はなかったようで、旧城下町市街地が栄えています。
 ということで、新見も津山もやらなかった旧城下町破壊を、高梁盆地では鉄道に許しているのでした。荘町長は誘致運動で資産と体力を使い果たし、備中高梁駅開設の2年後に他界したのでした。

津山駅は旧城下町から吉井川の対岸にある

 高梁盆地でも地形的には高梁川の右岸(西岸)に線路を通して、そこに駅を作ることができたはずです。盆地に入る直前に川を越えて右岸に移り、そのまま北上していくほうが線路線形はまっすぐにになります。そして城下町破壊をしないで済みます。
 新見や津山と同じころに鉄道ができたのに、なぜ荘直温町長の高梁では武家地を縦断し、旧藩主館の尾根小屋跡の門内にまで鉄路を入りこませたのでしょうか。

 そのわけを勝手に推測すれば、維新前の荘一族は松山藩のあちこちの村で、農民を統率して武家に過酷な年貢を納める庄屋であったので、その支配階級への維新後意趣返しだったのでしょうか。
 それとも逆に、秩禄公債を食いつぶして困窮していた元武士階級を鉄道用地買収補償金で救済したのでしょうか。
 いや単に西岸は隣村だったから、通すわけにいかなかったからでしょうか。

 他の街との比較ならば、ここでドイツの有名な古都市ハイデルベルクを挙げなければなりません。わたしが1991年に”発見”したドイツのこの街の景観は、驚くほどに高梁盆地と実によく似ています。
 旧城下町と駅中心新市街という関係は、盆地地形的にハイデルベルクにそっくりなのです(詳しくはこちらを参照)。もっとも、新市街地も計画的に開発しているところが、高梁盆地を大違いですが。

 ここも高梁盆地と同じように鉄道が新市街から旧市街の反対側に抜けているのですが、高梁との大きな違いは、それが市街地縦断ではなくて、背後の丘陵地のなかをトンネルで市街地の端に抜けていることです。
 高梁盆地に例えると、秋葉山から臥牛山の中をトンネルで内山下の上に抜けるのです。これなら線路が旧城下町に何の影響も与えません。伯備線にはハイデルベルクのような路線案はなかったのでしょうか。

ハイデルベルクの左半分が古都 鉄道が古都を避けてトンネルで抜ける


高梁盆地赤点線のように線路をトンネルにすればよかったと思うが、

 ついでに言えば、ハイデルベルクでは山側の幹線道路も半分はトンネルです。通過交通が街の中を通らないので、ネッカー川と市街の関係が密になります。
 高梁盆地では高梁川沿いに幹線国道を作り、しかも堤防を塀のように高くしたので、街と川の関係が非常に薄くなりました。わたしが少年のころはこの高梁川が大きなレジャーランドであり、同様に周囲の緑の丘陵もそうでした。そうだ、松山城の天守へは日常的に登って遊んでいました。今はどうでしょうか。

 というわけで、荘直温の努力で誘致に成功した鉄道を、著者の松原さんは社会経済学的に評価されたのですが、わたしは盆地内の都市計画的として辛い評価をしてみました。もちろん、著者のように新資料を駆使する能力はないので、極私的な感想として面白がっているだけです。
 さて、続きを書くかなあ、だんだん妄言が多くなりそうだなあ、どうしようかなあ。

(つづく、かもしれない) 

高梁盆地に関する記事はこちらにも

2020/08/12

1483【望郷と忘却:『荘直温伝』読後感想文:1】故郷生家の神社を探した歴史地図の忘却

  わたしの生まれ故郷は高梁盆地、そこの鎮守の神社に生まれて少年時代を過ごした。そう、まさに故郷である。
 そこは岡山県の中西部にある市域は広大な高梁市の、臍のように小さな中心部である。四方を丘陵で囲まれた小さいながらも典型的な盆地の景観を持っている。この辺りは吉備高原と言われる準高地平原で、そこを高梁川が切り込んで作ったのだ。


  今は世界中が新型コロナウィルスパンデミックで、日本列島も2月頃からそのコロナ禍の中にある。この山間部の人口1万人ほどの小さな高梁盆地には、その災いが及ばない平穏な日々がつづいていた。だが2020年7月22日、その盆地最初の感染者2名が、とうとう発生した。

 それがスリランカ人であると聞いて、そんな遠くからこの山間の小さな町に何故と意外だった。でも実は、盆地内にある吉備国際大学は、外国人留学生誘致に力を入れているから、十分にありうることだ。インド洋の島国からはるばるやってきた地で、パンデミックに追いつかれるとは気の毒なことだ。

●生まれ故郷「高梁盆地」が舞台の本

 その高梁盆地を舞台とする『荘直温伝 忘却の町高梁と松山庄家の九百年』(序・荘芳枝、松原隆一郎著 吉備人出版)という本が出版されました。それをを知ったのは、新聞書評を読んだかつての仕事仲間の旧友が教えてくれたからからでした。(ここから口調が丁寧語に変わったのは、この本に倣うことにしたからです。)

 うーむ、買うかなあ、だが老い先短いのに、家に蔵書がたまりすぎて困る、蔵書は他人に差し上げる、これからは本購入一切禁止、そう自分に言い渡して10年ほどになります。
 でもなつかしい故郷の本ならば、禁を破って購入しようかな、政府がコロナ給付金とて、税金10万円を返してくれたからなあ、それでも定価税込み3300円とはちょっと高い、そこで近所の市立中央図書館に購入を申請をしました。

 ところが嬉しいことに故郷の幼馴染の同期生から、入手したけどもう読んだからそちらに回す、近くに住む同級生たちと読み回すようにと、その本がやってきました。さっそく興味深く読んだので書評を、というにはあまりに私的なことなので、読書感想文としてここに書こうと思います。

 故郷の本を読むときは、自分にかかわることがどう記述されているか、知っている人が出てくるか、知っている場所が出てくるか、そんな極々私的なことにどうも興味が行きます。そして著者が読者よりも知らないことや、間違いがあると、もう鬼の首でも取ったような良い気分になります。

 さて、表題『荘直温伝 忘却の町高梁と松山庄家の九百年』著者「序・荘芳枝、松原隆一郎著」が気になります。
 荘直温(しょうなおはる)は、主人公の氏名でしょう。わたしはその名を知らなかったのですが、荘という姓の人に出会ったは、高校で歴史教師が荘智心先生だけですが、ご親戚かもしれません。

 忘却の町高梁とはどういう意味でしょうか、高梁の町が世間から忘却されているのでしょうか、逆に高梁はなにか大きな忘却をした町なのでしょうか、気になります。
 松山庄家とはなにか、庄家となっていますが、庄は荘の略字ですから主人公の家系なのでしょう。松山とは、今の高梁盆地あたりを近世までは松山と言っていましたから分かります。だが九百年となると、源平合戦時代にさかのぼるのですが、松山がそのころの歴史に登場するとは聞いたことがありませんから、読むのが楽しみです。

 荘芳江さんについても知りません。わたしの母校の小学校教師だったと経歴にあるのですが、在校の時期が一致しないようです。
 松原隆一郎さんのお名前だけを知っていますが、著書を読むのはわずか2冊目です。その1冊目は都市景観に関する本で、もう20年も昔の発行前でしたか、その本の編集者からメールがあり、わたしのネットページの一部を引用したいとのこと、それでその名を知ったのでした。その本を書棚に探したが見つからないのは、だれかに差し上げたのでしょう。今、ネット検索したら「失われた景観―戦後日本が築いたもの 」(PHP新書  2002)と分かりました。

 書評ならば、本の内容の紹介から書き始めるものでしょうが、そのあたりは池澤夏樹さんにお任せします。これは極私的な読書感想文ですから、本の中のわたしに関係深いことから記していきます。もちろん全部読んでからこれを書いているのですが、極私的に関係することは次の件だけだったので、それから開始することにします。

●幕末地図に百年後のわが生家を探す

 巻末に付録として、高梁盆地の幕末のころの地図「備中松山城下図」(松山とは当時の高梁の地名)があり、市街部には商家や武家の居住者名の記入があります。
 わたしは都市計画を仕事にしていたし、大学を建築史研究で出ましたから、こういう歴史地図を見るのを大好きです。

 そして歴史地図ならば、とうぜんに御前神社(おんざきじんじゃ)があるはずです。御前神社とは、この地図の時代から100年ほど後に、わたしの生家となる城下町の鎮守社です。15世紀半ばには確実に存在していたとわかる文献がありますから、幕末には当然ありました。
 この地図には御前神社があるはずと探すと、なんとそこは空き地です。なぜ?


松原図の御前神社付近拡大(御埼丁と記入の上の空地が御前神社の位置)

 この地図は既存資料二つ(国分胤之「昔夢一斑」、泉順逸「備中高梁城下絵図下絵」高梁市歴史美術館蔵)を参考にして、この本のため新たに製作したとあります。ここでは著者の名をとって「松原図」という言うことにします。

 他の八重籬と八幡の各神社や寺院の記入はあるから、寺社名を書かないルールではないようです。更に御前神社がある地名を、「御埼丁」と書いてあります。「御前丁」のはずです。もちろん神社名による名称です。
 これらは参考にした二つの資料がそうなっているか、あるいは写し間違えたか、あるいは理由あってそのように変えて編集したのか、どうなのでしょうか。

 参考資料と記してある〔国分胤之「昔夢一斑」〕と〔泉順逸「備中高梁城下絵図下絵」高梁市歴史美術館蔵〕を探しました。
 「昔夢一斑」(1928年発刊)は、国会図書館がデジタル化してネット公開しているので見ることができます。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190202

 御崎か御前かについては、「増補版高梁市史」に次のようなことが書いてあります。1444年にこの神社の神職が書き残した「神社祭礼次第」があり、その文中には「御前神主」とあり、また1622年及び1704年の神社寄進帳には、「御崎神社」と書かれているとのことです。
 1651年に時の鐘がこの神社に作られましたが、その由緒が鐘に鋳込まれた文字の銘文があり、そこには「御前大明神」の語があります。御前も御崎も同義語のようですが、わたしの記憶の範囲では御前でした。

 幕末の1850年前後頃の各町丁ごとの武家と商家の名称のリストがあり、付属の地図「松山城下之図」(ここでは「国分図」と言いましょう))には主な町丁名と主な施設や社寺を記しており、御前神社がその鐘撞堂(かねつきどう:現存する)とともに大きく記してあります。

 ただし国分図には、松原図のような住民名記入はないので、リストから判定するしかありませんが、いずれにしても御前神社も御前丁も記入してあります。

 「松原図」が参考にしたもう一つの泉順逸備中高梁城下絵図下絵」(ここでは泉図という)は、ネットを探してもみつかりません。現物を見るしかないので、高梁盆地に住む旧友に頼み、一方で歴史美術館にメールで問合せをしました。


泉図の御前神社あたり

 その結果として分ったのは、泉図には御前神社があります。そして下絵と書いてあるごとく鉛筆によるモノクロ画ですが、驚いたことには、これをもとに色彩絵図に仕上げたもう一つの泉図があるのです。
 それは泉順逸「松山城下屋敷図 幕末頃 昭和44年6月13日作成を終る」とあります。「下図」にもこれにも御前神社の記入があり、御崎丁ではなく御前丁とあります。


泉順逸「松山城下屋敷図」の御前神社付近部分拡大

 こちらの図のほうが美しく詳しいのに、松原図の作成の参考にしなかったのどのような理由でしょうか。

 なお、泉順逸「松山城下屋敷図 幕末頃」には、次のような参考文献の記入もあります。
   弘化二年正月二十六日作成城下之図 杉木家蔵
   嘉永四年御家中席順表 杉本家蔵
   慶応四年二月坪井○○備中松山城下絵図 信野友春氏蔵
   昔夢一斑 国分胤之氏著
   延享元年差出帳之内町屋之部 芳賀氏蔵
   高梁町切図、同土地台帳 高梁市役所 

 松原図は、なぜこれらを参考にしなかったのでしょうか。御前神社は1839年に火災で炎上し、1845年に再建したそうですから、この間の地図とすれば、神社も鐘撞堂定番の家も滅失していたかもしれませんから、松原図はその表現でしょうか。しかしそれならこの火事で600軒も焼けたのですから、他にも空白地が多くあるはずです。

 この地図を持って高梁盆地をめぐって、往時の美しかった城下町を偲べと、松原さんは書いているのですが、たまたまわたしの生家だった神社に関することなので気が付いた疑問ですが、この他にも疑問とすることがあるかもしれません。

 ついでに言えば、松原図では高梁盆地はこれだけしか家がなかったように見えますが、実際はもっとあったのです。対岸には備中鍬を生産した鍛冶屋町があったし、山すそや中腹には農村集落があったのです。住人名を書かないにしても、それらがあったことを表現してほしかったと思います。泉順逸「松山城下屋敷図」にはそれがあります。

 さらに言えば、現在の鉄道の線路と駅の位置を記入し、地図づくりの基本であるスケールを記入してあれば、持ち歩くときに往時と現今の対比照合をしやすかったろうにと思うのです。
 ということで、御前神社と御前丁は参考資料に存在していますので、松原さんは何らかの理由で神社名を削除し、町名を別名にされたのでしょう。聞いてみたい。

●御前神社の鐘撞堂・時鐘撞定番高梁

 「昔夢一斑」の丁町別人名リストの中に興味深い発見をしました。「鐘撞定番」として3名が書いてあります。この「鐘撞」の鐘とは、御前神社の「鐘撞堂」にある時の鐘のことで、「定番」士分の3名は定時にその鐘を撞いて、城下に時刻を知らせる役割の武士たちです。もちろん吊り鐘と鐘撞堂の管理をしたのでしょう。
 なお、そこにある藤本又兵衛の名は、今の下町にある藤本呉服店の先祖だと、その末裔になるわたしの同級生の藤本さんが教えてくれました。
 国分図と泉図には、その鐘撞堂を描いてあります。


『昔夢一斑』にある「鐘撞定番」の氏名

 他の資料によると、鐘撞堂の南隣の敷地に長屋があり、この3名が住んで居たとあるように、泉図ではその3名の名が記入してありますが、松原図にはありません。
 
 その「時の鐘」は1651年にここの鐘撞堂に設置したと、藩主の名で鐘にその旨が鋳文字で銘記されていました。そして1940年まで290年も盆地に、大時計のようにその音が響いていたでしょう。もちろん近代になってからは鐘撞堂定番はなくなり、神社の神職が撞いています。わたしの祖父や父がそうでした。

御前神社付近 (グーグルアース)


御前神社参道坂道の登り口(グーグルストリート)


参道坂道の途中から振り返り鐘撞堂を見る(グーグルストリート)



1926年の写真 鐘撞堂の北に旧制高梁中学のテニスコートがあった

御前神社境内と付近 1950年代の記憶(2011描画)

御前神社社殿・社務所・宮司宅 1950年代の記憶(2011描画)


御前神社とその周辺の現況 (グーグルアース)

 しかしその鐘は1940年に、戦争の武器となるために軍に供出して出て行ったままで、吊り鐘のない鐘撞堂がいまもむなしく建っているばかりです。
 その鐘が出ていった年は紀元2600年の節目とて、元日にこの鐘を2600回撞き鳴らす行事がありました。その時の音と騒がしい雰囲気が、2歳半の幼児だったわたしの人生最初の記憶となっています。
 その年、日本開催予定だったオリンピック大会を、戦争で返上しました。


1940年元旦紀元2600年祝賀2600回撞鐘記念写真


290年間ここにあった鐘が戦争に出ていく日 1940年

 この出て行った吊り鐘を、戦争が終わった次の1946年に、まだあるかもしれないと瀬戸内海の島に、父に連れられて捜索に行きました。伯父と従弟も一緒です。暑い夏の日、小さな船に乗って着いたのは直島でした。今はすっかり観光の島になっているようですが、そのころは三菱の金属精錬工場だけで、戦中に武器にするべく各地から集めた金属を溶かしていました。

 島は工場の煤煙のせいでしょうが、草木一本もない禿げ上がった赤い小山でした。その丘の上の赤い土の大きな空き地に、吊り鐘の大群が待っていました。
 さまざまな吊り鐘が暑い陽に照らされて黒々と、校庭の子供のように広がり並んでいました。幼少年の記憶でも、それは実にシュールな風景でした。

 子供の背丈ほどの吊り鐘群の中を歩き回り、御前神社の鐘を探しまいたが、見つかりませんでした。もう溶かされて武器になっていたようです。この鐘が何人かを殺したかもしれません。その帰り道、瀬戸内海のどこかの美しい砂浜海岸で生まれて初めての海水浴をしました。まだ、だれもいない海水浴場でした。
 ●参照:2016/08/22【敗戦忌】兵器となった鐘は戻らない
       http://datey.blogspot.com/2016/08/1209.html

 なお、70年代だったと思いますが、奇特な人がこの鐘撞堂に吊り鐘を寄付して、街に時の鐘の音が再び響いたのでした。その吊り鐘はプラスチックでできており、鐘の音は録音機から放送していたそうです。
 戦後再び、見上げれば小さいけど黒い鐘が見え、鐘の音が聞こえた時期がどれくらい続いたのか知りませんが、今はそれもありません。
 グーグルストリートには、鐘撞堂が立っている姿が見えるので健在のようです。これは少なくとも95年前には建っています。社殿も拝殿は1877年築、本殿は1881年築だから、いずれも長寿の木造建築です。

 ついでに「昔夢一斑」の幕末の町丁ごとの人名リスト中に、わたしのご先祖の名を探しました。わたしの祖父の代から御前神社宮司(社掌)になりましたから、御前神社にはいません。
 父が編集制作した伊達家系の資料には、高梁での伊達ファミリーの先祖は、伊勢の亀山からきたそうです。転封(1744年)された板倉家の士分として、殿様についてきてそのころの姓は増田だったそうです。だから幕末には誰かいるはずです。
 そのリストの中に、東間之町に2名の増田〇〇(判読不能)と増田忠治という名前が見えるのですが、これでしょうか。

 ●参照:広報たかはし 地名をあるく 92.御前町

  https://www.city.takahashi.lg.jp/site/koho/onzakicho.html

 以上で、荘直温伝の本筋とは全く関係ない極私的なことですが、無理に関係つけるとすれば、荘直温は私の祖父が撞く御前神社の時の鐘の音を聞いたことだろうし、荘芳江さんは父が撞くそれをお聞きになっていたでしょう。
 次から本文を読んでの、いろいろな望郷と忘却の故郷への感想を書きましょう。

(追記 20200813)
 今朝の新聞を見たら、コロナが蔓延するからお盆の帰省を控えろ、という世論があるという。わたしはもともとお盆帰省の習慣がなかったし、もしあったとしても今や帰るべき家がない。
 そうか、この記事は一種のリモート帰省だなと気が付いた。リモートの先は空間と時間の両方である。そうだ、8月15日が来るのだから、この話も書いておこう。1945年のことである。これも荘直温には関係ないが、御前神社のことならこれも外せない。

 当時の憲法が定める戦争開始と終結の責任者たる天皇が、1945年8月15日の正午から、初めて肉声で放送する事件、これにわたしは遭遇した。場所は岡山県中西部の高梁盆地の、生家の神社社務所であった。
 その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から兵庫県芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて住んでいた。盆地内のほかの寺社などに児童51名が疎開して来ていた。

 当時ラジオのある家は限られていたが、その疎開学級が持っていた。社務所の玄関口に近所の人々が集まって、敗戦の詔勅を聴いていた。
 放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、列になって黙々とぼとぼ参道の石段を下って行くのを、わたしは社務所縁側から見ていた。緑濃い社叢林の上はあくまで晴れわたり、暑い日であった。
 もちろん8歳のわたしには内容を分らない。その場の情景の記憶のみである。
 聞いていた人たちがこれを敗戦と分かったのは、たぶん、疎開学級の教員がそれを伝えたのであろう。

 その半月後に父が兵役解除で戻ってきた。父は満州事変、支那事変、太平洋戦争と3度も繰り返して、日本の十五年戦争のうち半分の通算延べ7年半も兵役に就いた。
 最後は本土決戦に備えるとて、小田原の海岸から上陸する敵を迎え撃つ陣地構築をしていたが、「父の十五年戦争」がようやく終わった。

 だが、わたしの家では戦後戦争とでもいうべき難が始まった。戦後農地改革で小作田畑を失い、食料源がなくなったのであった。支払われた補償金は数年間の分割払いで、戦後超インフレで紙切れ同様になった。
 戦争で思い出すのは、とにかく腹が減っていたことばかり、3人の子に満足に食わせてやれないのが、父母の一番の悩みだったろう。今のコロナ禍では、食い物の苦労がないだけ良しとするか。

                (つづく

高梁盆地に関する記事はこちらにも

2018/07/13

1150【西日本豪雨大水害】基地原発火山海嘯遠くして地震希なるふるさとに豪雨

近ごろ大災害がたびたび起るような気がするが、昔はそうでもなかったのだろうか。災害とは人間が関係するところで起きるのであり、人に無関係な地で何が起ろうが災害にならない。
 ということは、人間が災害に遭いそうな土地にも広がって利用する様になったからだ。都市計画から言えば、土地利用の規制緩をしてむやみに市街地を拡散してきた結果だろう。気候変動のせいかもしれないが、身近で分かるのは土地利用問題である。
2018年7月倉敷市真備町大水害区域における宅地拡大

●倉敷市真備町の大水害を地誌的に調べてみた

 わたしに土地勘のないところで大災害が起きても、なかなかピンとこない。1995年の阪神淡路震災の時はある程度はぴんときたが、2011年の東日本震災では東北地方に土地勘がないので、細かい状況をなかなか理解できなかった。
 ところが、このこの7月初めの西日本豪雨災害は、わたしの岡山県の故郷あたりも水害に遭ったから、これはある程度は土地勘がある。
 幼いころから知っている地名が、ネットや新聞に出てきてやきもきした。故郷にいる幼馴染たちにメールで色々と状況を聞いたら、知人たちには大きな被害はないらしい。

 しかし、倉敷のすぐ北にある真備町の広大な地域が水没し、死者も多く出たのは、まことにお気の毒なことである。このあたりは高梁川流域でも最大の水害名所である。
 今回の大浸水が起きた地区は、倉敷平野から丘陵を北にひと山越えた真備町の盆地状の平地である。真備町は高梁川支流の小田川流域で、1894年、1972年、1976年に大きな浸水被害、そのほか何度も水害に遭っている。
 それにもかかわらず宅地化は進み、今回の2018年大浸水被災である。

 大昔から何度も浸水が起きていて、1894年の大水害のあとで20年以上もかけて徹底的な河川改修が行われた。
 それは日本でも有名な大事業であったらしく、わたしが少年時になにやら偉業として聞いたがもう忘れていて、「酒津の堤防」という言葉だけが頭の片隅にあった。今回の水害でネットで調べてその内容を知った。関連していろいろ知ったので、それらをもとに書く。
1925年までは高梁川はふたつの分れて流れていた

 北から高梁川が丘陵を開削するように伐りこんで、南の倉敷平野に注ぐ直前に、西の真備町から流れ来る小田川を合流する。今回の氾濫は、小田川の洪水を高梁川と合流点で呑みこめなくて、また真備町側に戻ったことが原因らしい。
 そうなることが予想されていたので、小田川の流路を変更する計画を国土交通省はもっており、近々に着工する予定であったのが、間に合わなかったようだ。
1925年高梁川大改修後も真備町ではたびたび浸水している

 その間に合わなかった小田川の流路変更の計画(高梁川水系河川整備計画 平成 29 年6月国土交通省 中国地方整備局)を見ると、興味深いことに気がついた。
 かつては高梁川が、この小田川との合流点から下流で、2筋に分れて東高梁川と西高梁川になっていたのだ。1894年大水害後、これを一本にまとめる河川改修をして、1925年に完成した。
 その東高梁川を廃して堰き止めたのが、私の記憶にあった「酒津の堤防」である。東高梁川の跡地は倉敷の市街地に飲み込まれた。
 酒津から上流側は東高梁川を本流として残し、西高梁川を廃して上下を堰き止めた柳井原貯水池になっている。

 小田川の流路の変更計画は、小田川を柳井原貯水池につないで、廃止したかつての西高梁川を復活、つまりもとの西高梁川に戻すのである。西高梁川を完全復活をするなら、東高梁川も復活しなくてもよいのか、なんて思ってしまう。
 河川治水技術をわたしは知らないが、治水対策で廃止した河川を、また治水対策のために復活するとは、1925年に廃止した河川改修自体が失敗もしくは不全であったことを意味するのだろうか
 たしかにそれ以後は、倉敷市街地の水害はなくなったようだが、真備町の小田川大氾濫は相かわらず起きているから、その面での治水は失敗だったのだろう。もっと推測すれば、用水を優先して治水が不完全であったのだろうか。

 治水の難しさを思いつつ、真備町から倉敷にかけての地形を眺めていて、なんとなく気がついたことがある。
 もしかしたら、真備町の盆地状の平地は、倉敷平野への高梁川の氾濫を防ぐために、洪水時の一時的な遊水池として設定されていたのではないか、ということである。その昔には、人が今ほど平地部に住んでいなかっただろうからである。現に小田川もその支流も、天井川に近いようだ。

 もしも今回の豪雨で、高梁川合流点より下流の倉敷の酒津あたりの高梁川堤防が切れていたら、合流点から小田川へのバックウォーターが発生しなくて、真備町の浸水は無かっただろう、逆に言えば、真備町の浸水が倉敷市街への浸水を防いだのかもしれない、と思うのである。
 わたしは治水の専門家ではないから、どなたか専門の方から、あるいは地元のお方から、お叱りを覚悟で書いた。

 余談をひとつ。わたしはてっきり、真備町を「まきびまち」と読むとばかり思っていたら、実は「まびちょう」と読むらしいのだ。この町出身の右大臣吉備真備(きびのまきび)の街でしょ、井原鉄道には吉備真備駅だってあるのに、いいのかなあ。

被災の地「まきびまち」と読みておれば
           テレビラジヲは「まびちょう」と言う

いにしえも大水害のありぬべし
  吉備真備は施策なせしや


(追記20180717:岡山の知人が「まびちょう」と読むことについて、町史で調べて教えてくれた。1952年の昭和の大合併で「真備町」が生れたのだが、このとき吉備真備に因んで町名をつけたが、「真備公の人名は「まきび」であるが読み易く「まび」とした」との記述があるとのこと。ちょっとどうかなあと思う。わたしの出身地の高梁も「たかはり」と読むように変えていはいかがでしょうか。

●大局的には高梁は日本列島でいちばん安全かも

 近頃は各地域ごとにハザードマップなる地図が公表されるようになった。昔は公表しようとすると、町内会とか不動産業界から反対を食らっていた。土地の評判が悪くなる、地価が下るというのである。
 さすがに近ごろのように災害が多いと、ハザードマップ公表が普通になってきているらしい。よいことである。問題は住民がそれを気にするかどうかである。事件が起きて初めて気がつくのだろう。
 ただし、ハザードマップには、洪水、土砂災害、津波についてのみの局地的な地図情報である。災害発生の種は軍事基地、核発電所、火山等もあるが、これら広域的な災害の種はどうしてハザードマップにないのか。

 わたしの生まれ故郷は、川の名前の由来になっている高梁市内の高梁盆地である。今回の豪雨はここも襲って、地区によっては浸水がおきたり山際が崩れたりした。
 このような局地的な災害は起きるが、大局的に見て高梁あたりは、日本列島では有数の災害の起きにくい地域だと、わたしは気がついたのである。
 日本列島レベルのハザードマップは一般にはないので、自分でネットから災害の原因となる地形や施設などを探してきて、そこに高梁の位置を入れてみたのだ。
核発電所の立地状況(赤丸が高梁の位置)

火山の位置(赤丸が高梁の位置)

アメリカ軍基地の位置(赤丸が高梁の位置)
地震発生率(黒丸が高梁の位置)

 これらを見ると、わたしのふるさと高梁は、いずれの災害の種からも遠く離れていて、安全なところなのである。日本一安全な地域かもしれない。
 豪雨で局地的に被災したが、それは日本列島どこでもありうることだから、大局的に見て比較すると、やっぱり高梁は日本でいちばん安全な地域だろうと思うのだ。
 地域振興にこういうネタを使えば良いのにと思う。

基地原発火山海嘯遠くして地震希なるふるさとに豪雨
               はるか故郷を想いて散人詠