本棚からもう忘れていた昔の写真のプリントとかフィルムが出てきた。もうずいぶん前に、古いアルバムからはがして、PCスキャンしてデータ化したから、もう捨ててもよいものだが、ついつい瀬k実の写真プリントを見てしまった。
それらの中の一つに、わたしの生まれ故郷である高梁盆地で、1960年に撮った頼久寺庭園があった。もちろんモノクロだが、今の庭園の姿とは異なる。作庭当時とは景観が違うのである。名勝指定になったのは、この写真より後の1974年とある。
この庭園は江戸幕府の作事奉行であった小堀遠州の作庭であり、江戸初期にこの備中松山藩の代官をしていた若い彼は、この頼久寺を住まいとしていたのだった。
小さな庭だが、庭園外の遠くにある愛宕山の山容そのものを借景にとりこんでいる。庭園内のサツキの丁寧な大刈込みと対比的に、外の森や山の借景はラフな自然景である。
この1960年に私が写した写真の特徴は、庭園のサツキ大刈込みの向こうに瓦葺き屋根の大きな建物があることだ。つまり庭園の緑の連なりが遠くの山まで視線が途切れることなく通るのではなく、いったんは庭の外で視線が断絶する。当時のわたしの記憶ではこの建物を養老院と言っていたような気がする。今は大学のキャンパスの一部となって校舎が建つ。
もちろんこのような建物が遠州の作庭時の17世紀初めにあったのではなく、森が続いていたか、あるいは農村の田畑の風景であったろう。それが庭園は変わらぬように維持されてきたが、その外の景観は時代と共に変化する。
1960年当時は外の建物がそのまま見えているのだが、現在はどうなっているだろうか。
そこでネットで最近のこの庭園の写真を探して、わたしの撮った1960年庭園写真と同じアングルで同じにトリミングして比べてみた。
現在では瓦屋根建物は見えず、その手前の庭園内の境界線上に沿って背の高い高い樹木が並べて植えられており、建物を見切る高さで水平に頭を刈られている。
さてこれをどう見ようか。見ようによってはもう一つ大刈込みが高い位置にできた感もある。だが、この植込みの厚さがないので、もうひとつ迫力がない。
向こうの森と調子を合わせて大借景との調整役になっているかと言えば、そのスケスケぶりと形が幾何学的で、いかにも目隠し感がありすぎる。見ようによっては、この目隠し植樹帯を区切りにして、向こうの森や山とこちらの庭園とは違いますよと、借景を否定してるような感があるのだ。
いや、もしかしたら、わざとそうしているのだろうか。これは遠州の作庭にはなかった植栽だから、明らかにそれと分かるような姿につくったのだろうか。なるほど、それは歴史的庭園保全のひとつの考えであるともいえよう。実情はどうなのだろうか。
上の二つの写真をしばらく見ていたら、1960年写真の方が借景が生きているとも見えてきた。もちろんあの瓦屋根のスケールには困るのだが、あの屋根がいくつかに分節して、高さに変化があるとよいかもしれない。もちろん今の建物が1960年のそれではないだろうが、航空写真を見ると今も同じような建物があるようだ。
庭園の外に建物などが見えても、庭園に対応したそれなりのスケールや色彩ならば、それも借景にした方がむしろ適切かもしれないと思う。時代の表現である。
2011年の写真にみる境界目隠し植栽体を、分節するとか目隠しラインを自然に刈るとか、一部に屋根が見えてもよいからそれなりのデザインをして、総合的に内外を合わせた景観を考える現代の作庭があってよいようにも思うのだ。
もちろん、文化財としての名勝指定による保全の在り方が決まっているのだろう。それは遠州作庭の姿を守ることが基本だろうが、時代による景観変化を生かすという考えがあってもよいだろう。
なお、これは以前に調べて知っているのだが、この借景の範囲に高層建築が見えないのは、庭園からこれ以上は建物が見えないように建築物の高さ制限を、高梁市の都市計画行政として定めているからである。これについては既にこのブログにこのように書いている。
借景で有名な庭園は、頼久寺より少し遅れるが同じ江戸初期作庭の京都岩倉の圓通寺である。ただしそこも借景のお手本というには、かなり難がある景観になっている。後水尾天皇が作った時はもっとおおらかだったはずだが、比叡山の手前の市街地化で雑多な風景となり、ここも垣根や植樹がおおらかさを失わせてしまっている。
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