1日目はバスで動いたが、上賀茂神社の社家町(重伝建地区)、西陣電話局(岩元禄設計)を見た。
一条戻り橋の晴明神社を訪ね、夜はRIA時代の旧友たちと町屋の料理店(秦家)で遅くまで話し飲み、烏丸御池のホテルに泊まった。
2日目は地下鉄北大路駅から歩き出し、加茂川を飛び石で渡り(ちょっと怖かった)、岩倉の円通寺で庭を見て、借景問題で考えることあり(→怨念の景観帝国 )
電車で鞍馬駅まで行って、小雨の中を歩いて鞍馬寺の本院までよたよた登る。
時刻はすでに15時15分、ちょっと迷ったがままよっとばかり山道を奥の院へ登り、貴船の鞍馬西門にむけてくだる。この間、寺の人を別にして鞍馬山中で行交ったのは女6人、男2人であった。
西門から貴船神社奥宮まで往復してきたら、夕暮れになった。
貴船口駅まで歩き電車にのって岩倉で降り、国際会館前駅のそばにある平安教会(山口文象設計、プロポーションよくない)をみて、地下鉄でホテルに帰ってきた。
寒かったが、人の極端に少ない洛北の冬を満喫した。
3日目は、大原に行こうかと思ったが、毎度京都訪問の定番コース東山に行こうと、京都駅から歩き出す。
土曜日でさすがに人出が多い清水坂の混雑を避けて、大谷本廟から鳥辺山の墓地を抜けて登れば、閑静なものである。
三寧坂、二年坂から八坂に抜けてバスに乗り、帰宅の途についた。
◆
清水寺の舞台の手前で鳥辺山方面を眺めていたら、同年くらいの男が横に立って、「清水はいま工事ばかりです」という。
なるほど、見渡せば、舞台の足元はブルドーザーがうなっているし、子安の塔には足場が組まれている。
おお、そうですねえ、と言いつつ見れば、その人は清水寺の人らしい仕事着である。
「花守ですか」としゃれようかと思ったが、まだ花には早い。
「こちらのお寺の方ですか、よろしければ教えてください」
そして話は、この寺を創建した坂上田村麻呂のこと、見渡す眺めの音羽山や鳥辺山、遠くの東寺など名所を教えてくれる。
10分ばかりすると時計を気にしている様子、質問を切り上げてお礼を言うと、人ごみの中を田村堂の方にそそくさと消えた。
おお、これは、能「田村」の前場に、まるでそっくりである。
能では、東国から旅の僧(ワキ)が京にやってくる。折から花のさかりの清水寺を訪ね、そこに現れた箒をもった童子(前シテ)を見て、「花守か」と問うのである。
能のこの前シテは「花守の宮つ子」と答え、問われるままに清水寺や地主権現の由緒を語り、眺め渡す景色の名所教えをして、忽然と田村堂の中に消えるのだ。
わたしは本堂舞台、地主権現、子安の塔、音羽の瀧と一巡して元に戻り、順路と逆に入り口から出ると、どうもありがとうの声に2,3歩行って振り向けば、先ほどの人がにっこり笑って手を上げている。拝観券のチェックをしているのだった。
「門番の宮つ子」の彼は、田村堂のそばに立って見送ってくれる。こちらも手と笑顔で答え、清水を後にした。
能のように夜までここに居たらば、坂上田村麿(後シテ、観世流の能ではこう書いてサカノウエノタムラマルと発音する)の姿で出現して、戦いの様子を語り舞ってくれたかもしれないなあ。
そういえば今回は、「田村」と「熊野」の清水寺、「鞍馬天狗」の鞍馬、「金輪」の貴船(安倍晴明も登場)、「賀茂」の上賀茂神社と、図らずも能楽の現地を訪ねる旅であった。
京都はどこを訪ねても、そういう歴史舞台であるということだろう。
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