この文は2003年に書いて「まちもり通信」に掲載したが、再掲してまた尋ねたい。
これを読んでくださっているあなたには、こんな経験がおありでしょうか。
それはわたしが、多分、中学生の1年生かその前後の歳だったでしょうか。
ある日の昼まえ、いつものように街を眺めていました。わたしの生家は、盆地東側の中腹にある神社ですから、境内の端から見晴らしが良いのです。
見下ろした頭を回して、山の中腹の雑木林に目を移してゆきます。
初夏だったでしょう、新しい葉が黄緑に繁る林の樹冠からは、レモンイエロウの炎がたっているようでした(右の上の絵の左方)。いつも見ている風景です。
突然そのとき、私の心のなかで何かが動いたのです。
うまく言えないのですが、そう、四季が見えたのです。自然の移り変わりをはっきりと感じたのです。
これまでいつも同じに見えていたこの風景は、じつは同じじゃなかったのだ、この世界には四季があり、いつも変化しているのだ、と、気がついたのです。
風が吹いている、こずえの葉がそよいでいる、色彩がある、雲が行く、陽光がふりそそいでいる、それらが見えてきたのです。
いつも見ていた風景が、生き生きとわたしに語りかけてきたのでした。
少年の頃には、四季なんてものはありませんでした。毎日毎日がそれぞれ別々の独立世界だったのでしたが、その日から、私のまわりには毎日連続する時間が生れ、季節が巡りだしました。
思うに、そのときから思春期に入ったということでしょうか。
こう書いていると、なんだか自分でも絵空事のような奇妙な感じです。でも、そのときの風景は、もう半世紀を超える前のことなのに、いまもはっきりと目に浮かぶのです。
今、ふるさとの同じところに立っても、あたりに家が立ち並んでいますが、まぶたの中の風景は昔のままに、畑の向うの林には若葉が萌え、いや、燃え立つのです。
このことはこれまでも、ときどき思い出したように人に話したことがありますが、書くのは初めてです。
いかがですか、あなたにはこのような経験はありましたか、教えてください。ひとりだけ友人が高校生になってそのような経験があったと教えてくれました。
これに関連して、気になっていることがあります。ヘルマン・ヘッセが書いた小説だったと思うのですが、その主人公がこれと同じ経験をする場面があったのを、高校生の頃に読んだような気がするのです。
それがどこにあるのか探しているのですが、どうして見つかりません。どなたかご存知でしょうか。
春が来るたびに、老い行く身にもみずみずしい少年の日があったと、ちょっとロマンチック(センチメンタルか)な気分になります。(030309)
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