自動車のタイヤ屋のミシュランが、日本の料理屋のランク付けをしたガイド本を発行したとかで、そんな店に縁の無いコチトラはどうでもいいけど、文化論としては面白い話になるようだ。
京都での店のランキングづけ作業では、取材お断りの店がずいぶん多かったそうだ。
毛唐はんに京の味はお口にいあいまへんやろ、一見さんはおことわりどすえ、ヘン、イチゲンでわるかったねえ、なんて喧嘩になったかならなかったか。
でもまあ、あれは観光客むけ、つまり一見さん用のガイドブックだから、それはそれで観光産業で食っている京都人が目くじら立てるものではあるまい。
食い物の味は、地域文化のそのものである。
わたしは西の饂飩文化圏育ちだから、関東に移り住んでから饂飩を食って驚いた。真っ黒の塩辛い汁にグジャグジャの緬が入っていて、あまりの不味さにこれって饂飩という食い物かいって言ったものだ。
その後、半世紀ほどの月日がたって、今の関東では讃岐饂飩がはばを利かせているのは、さすがに関東人もあの真っ黒グチャグチャ関東饂飩は不味いと気がついたのだろう。
蕎麦も、関東に来てはじめて食ったわけではないが、美味いとは思ったことがなかった。
あるとき信州の大学生になった同郷の同期生を訪ねて遊びに行った。信州は蕎麦どころと聞いていたから、ここの蕎麦は美味いのだろうと思って、上田駅前の店に入ってくったものだ。
これがまあ、真っ黒で、ボキボキ折れるやつで、口に入れてもぼそぼそして、ちっとも美味くない。
こんな不味いものを喜んで食うやつの気が知れないと思ったものだ。
わたしの人生ではいまだに蕎麦は不味いものである。
気に入らないのは、うまい蕎麦だといわれる店のそれは、どういうわけか蒸籠の上に半禿げ男の頭みたいに薄くまばらに並ぶ蕎麦を出してきて、その一枚を千円以上も取ることである。それがうまいかといえば、わたしには全然美味くないのである。
蕎麦好きは周りに結構いて、蕎麦屋に誘われることも多いのだが、行かないとは言わないが、蕎麦でない品物があればそれを頼み、蕎麦しかないと蕎麦掻きを食うのだ。この蕎麦掻きは好きなのである。
そうやって抵抗してきたが、あるとき畏友が家で蕎麦をうつから食べにおいでと招いてくれた。蕎麦打ちが趣味だそうである。
蕎麦は嫌いだから行かないというわけにおかず、これには困ったのだが、実はこのとき初めて蕎麦を美味いと発見したのであった。
それはその年にできた蕎麦の新しい粉で、目の前で打ち、切り、茹でてくれたのである。
蕎麦ってものは味よりも香りと喉越し感覚であることを、このときはじめて知った。これは大人の味である。60歳越えて始めて知ったのだ。
ではその後は蕎麦食いになったかといえば、ならないのである。蕎麦はその畏友に手になるものに限る。
相変わらず、蕎麦食いにたいして悪口を言う、蕎麦なんてそれしかできない荒地のビンボウ草だろ、ありゃビンボウ人の食いもんだよ、なんて。
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