2009/11/04

196【老い行く私】昔々山岳部員だった頃(その2)

 ちかごろは各種同期会が多いのは、お迎えが近いからであるに違いない。
 大学時代の山岳部の同期生8人が集まった。そのなかのひとりが、半世紀前の大学時代、雪の北アルプス剱岳での1か月近い合宿時の仲間の写真200枚を、デジタルデータ化してスライドショーで見せてくれた。みんな、半世紀たってはじめてみる自分たちの姿である。
 あの当時、同学年の山岳部員は12人、学生時代に遭難と数年前にガンの2人が他界した。

 1960年3月雪の剱岳で、そのころ流行のポーラーシステムなる登山方法で、総勢20名近い山岳部が、出発から1か月近くかかって剱岳頂上にアタック隊を送り込んだのであった。当時の山岳部憧れのヒマラヤ高峰を、そのうちに極めたいという国内での実験的登山方法である。
 プロジェクターから映写幕に映し出されるその懐かしくも遠い白銀の山岳風景、そしてその中の自分の半世紀前の姿を見て、おお、若~いよなあ、、、。
 あの画面の中の若くて貧しかった時代の自分と、こうやって都内の料理店の一室で但馬牛のすき焼きで一杯やりながら見ている今の自分をひき比べて、なんとも戸惑いを隠しきれず照れくさくなって、おお汚いカッコウだねえ、なんて仲間の姿をけなしあってしまう。

 今の登山の装備と比べると雲泥の差がある。着ているものもテントなども、なにしろU.S.armyの放出品だったのだから、どれもカーキ色である。
 あのころのU.S.armyは、朝鮮へベトナムへとアジアで戦い、不要になった大量の物資を市場に放出していた。寝袋は、これに戦死者を入れて日本に送ったときのものだと言われていたが、本当かどうか知らない。戦場と山岳とは、環境も装備も似ているのだろう。
 今はarmy姿は、ファッショナブルなオシャレになってしまって、実はわたしも3年前にヨーロッパアルプスツアーのときは、unicroで買った迷彩模様のズボンをはいていったものだ。

 それにしても、仲間が画像を見ながら、あれは何峰これは何尾根と言うのだが、よく覚えているものだと思う。
 当時の自分を思い出しても、そんなことを知っていたかどうかさえ思い出せないばかりか、自分の映っている画面を見ても、あれ、オレはあんなところに行ったっけ、なんて思うのだった。
 今思うに、かなりいい加減な気持ちで参加していたのだろう、反省。

 

山行きは大好きで、3年生だった1年間の記録を勘定してみたら、100日近く山に行っていたという昔の記憶がある。
 特に岩登りは好きだったので、高所恐怖症は全然ない。なにしろ大学本館の高い塔の上のパラペットをぐるりと歩いた経験がある。
 それなのに昨年のこと、越後の山村で茅葺屋根に登ったら足がすくんだのであった。高さに恐怖は無いのだが、ふらついたときにとっさの動作ができなくなっていることに気がついて退散、、、無念。

 それにしてもと又思うのだが、「これ誰?」「お前だよ」「え?」なんていってしまったがこの写真、え、あのころの自分はこんなに格好よかったのか??知らなかったなあウッヒッヒ!!、今頃になって出会ってびっくり、とてもとても我が姿に思えないので、ここに公開してしまうぞ。
それにひきかえ今のオレは、、なんて思わないように努力するしかないのである。
 参照→156昔山岳部

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