9月13日に名古屋大学で、戦後復興期の都市・建築に関するパネルディスカッション(PD)があり、参加することはすでに書いた。
●全現代都市・建築遺産パネルディスカッション案内
http://datey.blogspot.jp/2012/08/657.html
ここに載せたのは、そのPDでにわたしの話のレジュメである。
●前現代期都市建築の遺産価値について
―その設計者として―
伊達 美徳(フリーランス 都市計画家)
はじめに
若くもなく研究者でもなく建築家でもない、ひとりの建築史ディレンタントである筆者が、このPDでのスタンスは、筆者自身の前現代期(1961以後だが)の都市建築らしきものの「設計者として」の体験と、後に1970年代中頃から都市計画家として生きた経験をもとに、若い研究者・建築家に問題提起をしたいと考えている。
「前現代」とは聞きなれないが、簡単には1945年8月15日から1970年頃までらしい。出だしは戦機の空爆による都市炎上から都市復興への時期で分りやすい。筆者の体験から言えば、不燃建築による都市づくりから都市再開発が本格化する直前頃までとしておこう。
その頃、筆者は当時20人ほどのRIA建築綜合研究所(現・アール・アイ・エー、以下「RIA」という)に所属していたので、その組織で筆者が担当した「都市建築」を中心に記すことにする。
「都市建築遺産」がテーマであるが、建築界での建築遺産と言えば、「名」のつく建築や建築家による「作品」をもってするらしい。ここで筆者がとりあげるのは、前現代期に日本各地の都市で同時多発的に起きた市井の人々の活動でつくられた、「名」がつかないが、時代を象徴する都市建築遺産である。
1.失われた前現代黎明期建築遺産
最近、前現代記の都市建築遺産が消えたふたつの身近な事件があった。ひとつは東京駅丸の内駅舎、通称赤レンガ駅である。復原したのだから消えていないと反論があるだろうが、筆者は消えたといわざるを得ない。
1914年に創建、1945年に空襲焼夷弾で炎上、1947年に修復再登場したが、その姿はまさに前現代の始まりを象徴する姿であり、 1914年から31年間の創建時の姿よりもはるかに長く丸の内のシンボル景観であった。
そしてまた第一第二次両大戦と戦後復興という西の原爆ドームにも匹敵する貴重な前現代の都市建築遺であったが、前現代の建築遺産としての価値を評価した様子はないまま、現代の人々は復原と称して消してしまった。
これほど名のある戦後都市建築遺産でも消えるのである。
●これ以降と全文は
https://sites.google.com/site/dandysworldg/zengendai-tosikentiku
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