2016/02/09

1171太平洋戦争で日本都市の空爆コンサルタントをした建築家アントニン・レイモンド展を見てきた

建築家アントニン・レイモンド展覧会を、銀座の教文館ビルで見てきた。
 わたしはレイモンドにさほど興味があるのでもないが、レイモンドに近い関係者たちが企画するこのような展覧会で、レイモンドの太平洋戦争中のアメリカでの仕事を、どう扱うのか気になったので見に行った。

 戦中のレイモンドは日本からアメリカに戻って、アメリカ軍の日本空爆のためのコンサルタントをやっていた。
 アメリカ軍は、砂漠の中に木造建築の実物模型を立ち並べて市街地をつくり、爆撃炎上実験を行って、効率的な空爆方策を検討した。
 このときに日本の都市と建築をよく知っている建築家として、レイモンドがその実物模型市街地の製作にあたったのだった。https://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_Village_(Dugway_Proving_Ground)
その結果で効率的な方法は、市街地の周辺部から焼夷弾をばらまいて行って、中心部へと燃え移らせる方法だったそうだ。
 そしてその全国各都市の無差別爆撃は、ついに原子爆弾にまで及んだ。

 さて展覧会では、そのことについて展示された年表に記述があり、自伝の中のそのことに触れた部分もパネルにして展示してあった。
 曰く「・・この戦争を最も早く終結させる方法は、ドイツと日本を限りなく早く、しかも効果的に敗北させることだという結論に達した」
 論がトートロジーになっているが、要するに日本の生活圏を徹底的に破壊することで、敗北させるということだろう。
展示してあった年表の一部

展示してあった自伝の一部

 そのレイモンドは戦後はまた日本にやってきて、平然と建築設計業を営み、その立場を利用して、占領軍のアメリカ軍とアメリカ関係の仕事をドンドンやったのであった。
 有名な建築がアメリカの出版社であるリーダーズダイジェスト社の日本支社の社屋である。

 戦後すぐのころは「リーダースダイジェスト」という雑誌が、日本中を席巻した。
 アメリカ文化の要約版とでもいういろいろな記事があった。わたしは中学校の図書室にあるのを読んでいた。いろいろな小説等のダイジェスト版が載っていたが、どれもどうもしっくりこなかった記憶がある。ただ、あちこちにある囲み記事の小噺が面白くて、そこだけ拾い読みした。
 今になった思えば、あんな雑誌が流行ったのは、占領軍の教化政策だったのだろう。本をつくろうにも用紙がないその頃、この雑誌社は優先的に紙を使えたのかもしれない。今はその社屋とおなじように消滅したようだ。

 その社屋が竹橋に建っていたが、2階建てガラス張りのスレンダーな建物であった。いまの毎日新聞社のあるパレスサイドビルがあるところである。
 そのパレスサイドビルは、日建設計による設計で、担当は林昌二であった。その林がレイモンドのことを、デザインや技術はすばらしいけれども日本空爆コンサルタントについては「人間としてはとんでもないやつだ」と語っている(『著者解題・内藤廣対談集2』2010)。
 戦中に燃える東京の街を逃げ回った体験のある林昌二は、リーダースダイジェクト社屋を壊した跡地にパレスサイドビルを設計するとき、レーモンドに対する敵討ちの気持ちだったのだろうか。

 わたしが見たことがあるレイモンド設計の建物は、横浜不二家(1938)、リーダースダイジェクト社屋(1951)、新発田カトリック教会(1965)、南山大学校舎(1964)、そして今回の展覧会場の銀座教文館(1933)である。
銀座・教文館

展示してあった教文館の当初の姿の写真
展示してあった新発田カトリック教会図面

新発田カトリック教会

横浜伊勢佐木町にある不二家ビル




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