そしてまた、その前の今年の21日は、鳥取の倉吉あたりで大地震、つい先般の4月には熊本大地震、あれから5年経ってもまだまだ大変な東日本大地震、さて、この日本地震列島はどうなるのか。
新米のが育った新潟県長岡市の法末集落の復興はおわって、いまやこの小さな集落のこれからの課題はその存続であろう。
わたしはこの集落に2005年秋から2014年まで、延べ100日くらいは訪ねたことになるだろうか。その豪雪に驚き、その緑の景観を愛で、その人々の情に癒され、わたしが知らなかった風土に親しんだ歳月だった。
その縁で、ずっとその集落の棚田で採れる美味いコシヒカリを、営農組合から毎年買って隔月に送ってもらっている。米をつくる村人も、それを食べるこちらも老いてきた。わたしはこれをいつまで食べ続けられるだろうか。
そこに行くルートはいろいろあるが、わたしのお気に入りは、小千谷駅からバスで30分ほどの小さな集落に降りて、そこから更に標高差300mほどを山道を1時間ほどかけて登って、ようやくたどり着くルートである。
もう消える寸前の集落を通り抜け、棚田のなかの道を曲がりくねって登り、峠の陰の法末集落にようやくたどり着けば、そのたしかな立地を風土の中で明確につかむことができるのだ。好きな道だった。
そして人間は、こんなにも奥深くにあって、まさに独立した地域でも、集まって生きることができるのだと知った。
かつて四国の奥祖谷の有名な平家落人集落を、川に沿ってさかのぼり2日がかりで歩いて訪ねたときにそう思ったことがある。あそこも奥深い山村であった。
この法末集落での四季を通じての長期にわたる体験で、人間が自然を飼い慣らす力量のほどを知って、なるほどそうなのかと身をもって知ったのだった。
それにしても、雪のないところで育ったわたしには、毎年2mは当たり前、ときには4mも積もる豪雪をも、強引に飼いならそうとするしたたかな生活には、ほとほと感服するばかりである。温暖な奥祖谷とは、そこが大きく違うところだ。
いったいどれほどこの集落に役立ったのか、実はわたしには分っていない。1年ほど全戸避難していた集落の人々が戻ってきて立ち直る時に、わたしたちのような余所者がほぼ棲みついて、ウロウロすることでなにかの励ましになったのであろうか。
あれから12年、法末集落は見たところは何事もななかったように、大昔からの山里の四季を繰り返しつつ、人々の暮らしが続いている。
だが、12年という歳月は確実に人を老いさせ、住民は減ってきている。老いは集落の人々とともに、訪れつづけたわたしたちも同じである。
わたしは熱心な支援者ではなかったが、この11年間に訪れた日数は100日くらいにはなったいるだろう。初めのころは月に3回は訪れていたが、次第に足が遠くなり、2014年に2回訪れてから、ついに昨年は1回も行かなかった。わたしも老いた。
おもえば、わたしがこの地に眼に見えるものとして残したものは、たったひとつ、それは仲間とともにつくりあげた小さな茅葺の小屋である。これからも豪雪に耐えていつまで棚田のなかに佇んでいるだろうか。
典型的な限界集落の継続は、大局的には大きな社会的課題だが、暮らしの現場は日々の積み重ねである。なにができるのだろうか。
そのひとつに支援仲間の女性たちがはじめた新しい年中行事の「お茶会」がある。キチンとお茶をたてて集落の人たちに振る舞うイベントである。
初めた頃は正月、春、秋にやったが、そのうちに小正月の地元伝統行事「賽の神」にあわせて開くようになり、継続している。絶えようとしていた賽の神行事が復活した。
復興支援仲間と集落住民の有志が出資して、彼を中心とする地元会社を設立し、高齢等で営農できなくなった住民たちの農地を引き受け、都市に米の販路を開拓し、古民家での民泊営業を目指している。これが集落継続のきめてになるかもしれない。
他から移住してきた人、住民の次世代で戻ってきた人、古民家を改修して別荘として住む人などの、少ないながらも震災後に新たな住民もある。
わたしも老いた。あの山道を1時間も登って、法末集落にたどりつく脚力はもうない。豪雪の雪の中を歩いて転ぶのが怖い。現に2014年の小正月の日、雪道で転んで捻挫して仲間に迷惑をかけた。
わたしがもう訪ねることはないであろう法末集落、あの地震の後もしなやかに生きつづける村人たち、この間の歳月の中に静かに逝った村人たち、いっしょに訪ねた仲間たち(その中には逝った人もいる)、そして美しい四季の風景、いまはそれらの想い出にオマージュをささげよう。
わたしと法末とのつながりは今や、地元営農組合から毎月来る米と、仲間が興した会社への出資だけとなってしまった。
これまで書き連ねてきた「法末の四季物語」を、このあたりで締めくくることにする。その中の一部を、わたしが法末集落で学んだ成果として、自家製出版DTP「まちもり叢書」のなかの一巻にまとめてオマージュとした。
(まちもり叢書第17号)『法末四季賦』
‐中越震災復興から次なる課題へ‐
・わたしのサイト関連ページ
●伊達の眼鏡ブログ「中越山村・法末集落の四季」
http://datey.blogspot.jp/p/2004-2005-2014623966-httpdatey.html
●まちもり通信サイト「中山間地の今とこれから」
https://matchmori.blogspot.com/p/chusankanchi.html
・外部ウェブサイト
●法末集落へようこそー法末集落の案内、歴史、名物など
https://sites.google.com/site/hossuey/
●法末天神囃子ー復興支援仲間が法末に住みついて続ける活動
http://www.hossue.jp/clubhossue.html
●越後の棚田集落/新潟県長岡市小国町法末(ほうすえ)集落
http://localnippon.muji.com/news/1391/
2 件のコメント:
法末集落の藁葺小屋と周辺の山々の写真を眺めていて、突然スイスの山を思い出しました。
ツエルマットからマッターホルンを仰ぎながら山道を歩いていると、日本の風景とよく似た
集落が点々とあったのです。 ロープウエイに近い集落は観光客用に花で飾られていますが
登山客があまり歩かない山村の集落は法末集落と同じ雰囲気でした。
とても興味深く読ませていただいています。
matusita haruyo様 20161031伊達美徳より
ご愛読ありがとうございます。
わたしもマッタホルンを眺めながら山道をチェルマットまであるいて
くだったことがあり、途中の集落の風景を楽しみました。
多分、あなたと同じ風景を見たのでしょう。
そのヨーロッパアルプスの感想をここに書いております。
https://sites.google.com/site/machimorig0/alps-tanada
おひまなときにでもお読みいただくとありがたく存じます。
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