2019/02/10

1385【能楽鑑賞】怖くも哀しい女ストーカー物語の琉球組踊「執心鐘入」と能「道成寺」の公演を合せて観て面白かった

 横浜能楽堂にて琉球組踊「執心鐘入」と能「道成寺」を観た。2019年2月9日午後。
めったに見られないこの組合せ公演、ところが前日から大雪になるとの天気予報、楽しみしてたのだから絶対に見に行くぞと思いつつも、年寄りは雪道ですってんころりが怖い。いくら昔は山岳部だったとて、もうダメだ。
 出かけるときは未だ曇空、でも、帰りには予報通りに大雪が積もってるんだろうなと、そこは昔山岳部だから、ヤッケ着てストック持って雪靴履いて、しかも万一に備えて易アイゼンも持参した。半分は心配だけど半分は期待している。
 能楽堂の中はもう別世界、外の世界のことなどまったく忘れて、3時間ほど酔っていた。終ってたちあがりハッと思い出して、期待と覚悟を秘めて外に出ると、な~んだ、ぜんぜん雪など積もってなくて小雪がホロホロ舞うばかり。
 
 琉球の組踊(くみおどり、クミゥドゥイ)を観るのは、何度目だろうか、これまでに「萬歳敵討」「執心鐘入」「花売りの縁」「女物狂」、ほかに題名を忘れたが沖縄の「国立組踊劇場おきなわ」でももうひとつ観ている。
 「執心鐘入」を観るのは今回が2度目で、このまえはもう20年ほども前に、国立劇場の小ホールで見て、大いに驚いた記憶がある。
「女物狂」http://datey.blogspot.com/2015/01/1049.html
「花売りの縁」http://datey.blogspot.jp/2011/06/434.html

 能が貴族や武士階級の芸能であったと同じように、組踊も琉球貴族のものだった。
 組踊「執心鐘入」は、琉球王朝の踊り奉行であった玉城朝薫が、17世紀初めに江戸で見た能「道成寺」から想を得て創作したとされる古典芸能である。
 当時は琉球は九州の薩摩藩と中国清朝の2重支配下にあり、組踊は清朝の冊封使を歓待するために作ったとされる。
 
 組踊「執心鐘入」と能「道成寺」とは、どちらも同じ中世仏教説話にある事件を題材にしているのだが、先にできた能のほうは、その事件がすでに昔のことになった後年に再発した事件であるのに対して、あとからできた組踊の方は元の事件を扱っている。二重の時間差があるのがおもしろい。
 今回の公演は、この二つの演劇を、組踊、能の順番で演じたので、それなりに筋が通っていることになる。だが、二つの演劇は、登場人物や場所の設定が違うし、一方では男が殺されるが、もう一方では男は無事に逃げると言うことで、筋書としては必ずしもつながらない。
 しかし、だからと言って関係ない演劇ではなく、むしろ合せて観ることで奥深い鑑賞をすることができた。
「執心鐘入」の女が男を口説く場面 (能舞台ではない資料映像)
  実は、釣鐘における鬼女の演出が、組踊と能とどう違うかが興味あるところだった。
 以前に国立劇場で「執心鐘入」を観た時に驚いたのは、釣鐘の中に入った女の再登場の場面だった。釣鐘が上ると、なんと舞台上には誰もいない、つまり鐘の中で女が消えていた。マジックショーかと思った。
 すると、上った釣鐘の下から鬼女の顔が逆さに登場し、やが上半身が逆さにぶら下がってでてきた。ケレンそのものである。
「執心鐘入」の鬼女が鐘からぶら下がる場面 (能舞台ではない資料映像)
http://www.ent-mabui.jp/news/4725
国立劇場の舞台は能舞台ではなくて、横に広がる歌舞伎形の舞台である。そこでの「執心鐘入」の鐘は、能の様に鐘の下から中に入るのではなく、鐘の後にある(らしい)穴から入るのであった。
 今回の横浜能楽堂の舞台では、「執心鐘入」を始める前から、いつもの能「道成寺」に使う鐘が吊り下げてあった。はて、この鐘の中から逆さまにぶら下がる仕掛けを施したのだろうか。

 鐘入り直前に女が笠で顔を隠して素早く紅で隈取り化粧をして鬼女に化けた。能の場合は鐘の中で鬼女になるのだが、こちらは鐘入り前に鬼女になった。
 女が鐘に入る場面は、能と同じように女は下から入って、鐘が上から落ちてきた。
 やがて鐘が上がると、般若面蛇鱗装束の女が立っていた。逆さ吊り演出ではなかった、残念。後は能とほぼ同じだ。
「執心鐘入」鬼女と僧との闘い場面 (能舞台ではない資料映像)
組踊が終っても鐘は舞台中央にぶら下がったままだった。それは次の道成寺のためには当然と思って休憩時間の舞台を観ていたら、狂言方らしい数人が出てきて鐘を下ろすのであった。
 おや、どうせこのあと使うのに、と思ったが、以前に観たある「道成寺」で、鐘を吊るところから能が始まったことがあったと思いだした。それはアイが山本東次郎とその弟だった。和泉流のアイの時の「道成寺」では、その演技はないから、山本家あるいは大倉流の演出なのだろう。
 つまり山本家のアイの時は、鐘を釣ることも演技なのである。出演者リストを見ると、今日のアイは山本家である。なるほど。

 そして「道成寺」の始まりは、やはり、つい先ほど下ろしたばかりの鐘を、またもや元の様に吊ることから始まった。
 だが、狂言方の鐘後見が黙々と吊りあげ作業ばかりである。前に見た記憶では、アイの掛け合いの会話などがあったような気がするのだが、、。
 これなら初めから吊ってあってもよさそうなものだ。終わる時も、狂言方鐘後見4人が黙々と吊り降ろして、鐘を吊った棒を前後で持ち上げて橋掛かりをでていった。

 「執心鐘入」は前半はあまりにもゆったり、琉球の空気が舞台に充満、そして後半の急さとの対比のバランスがよろしい。そう思ったのは、その後の「道成寺」前半の全く別のゆったりさ、というか、乱拍子の長さと比較してのことであった。
 道成寺をもう10回くらい観たが、こんなに乱拍子が長かっただろうか。これまで観世流ばかり見てきたので、宝生流はこうなのだろうか。それともわたしが歳とって、せっかちになったのか。
 道成寺はこの乱拍子の緊張感がよいのだが、今回はこうも長いと緊張を保つのに飽きるというか疲れてくるのだ。
 
 もうひとつのゆったりし過ぎは、アイの演技である。これは前に東次郎家のアイを観た時もそうだったが、いらない演技があり過ぎる。鐘の吊り上げ下ろしそうだが、カネが落ちた時の騒ぎが冗長で、これは和泉流もそうである。
 鐘の中のシテの装束替えの時間稼ぎは、ワキの語りプラスアルファで十分にあるように思うのだがどうだろう。
 
 二つの道成寺物を並べて観て思ったのは、「執心鐘入」の前半と「道成寺」の後半を合わせた演出の能を誰かやってくれないかなあということである。
 追いかける女から逃げてくる男を、道成寺の僧が鐘の中に隠してやるのだが、見つけて追いかける女のすきを狙って鐘から更に逃してやり、反対に女を鐘の中に閉じ込めるところまでが前場、鐘の中の女を祈り殺して鐘を上げると、鬼女が出てきて丁々発止が後場、こんな順当な筋書はどうですか。わたしが思うくらいだから、もうやってるかもなあ。

 女ストーカーが想いを容れてくれない惚れた男を追いかけまわすだけの、実に単純なストーリーだけど、現代風な解釈ではいろいろな演出の「道成寺物」ができるらしい。
   女の美しさと怖さと共に、鬼女となったその哀しさ、悲しみを表現するところに、この演劇の面白さをがある。今回の能ではそれを確かに観た。

(データ)
横浜能楽堂・伝統組踊保存会提携公演
主催:横浜能楽堂主催
「能の五番 朝薫の五番」第5回「道成寺」と「執心鐘入」
2019年2月9日 14:00~17:00

組踊「執心鐘入」
宿の女:佐辺良和  中城若松:新垣悟  座主:玉城盛義
小僧(一):石川直也  小僧(二):嘉手苅林一  小僧(三):宮里光也
歌三線:西江喜春 仲嶺伸吾 花城英樹
箏  :名嘉ヨシ子  笛:宮城英夫  胡弓:又吉真也  太鼓:比嘉聰
立方指導:宮城能鳳 眞境名正憲
 
能「道成寺」(宝生流)
シテ(白拍子・蛇体)宝生和英  ワキ(道成寺住僧)福王和幸
ワキツレ(従僧)村瀬提  ワキツレ(従僧)矢野昌平
アイ(能力)山本泰太郎  アイ(能力)山本則孝
笛:松田弘之  小鼓:大倉源次郎  大鼓:亀井広忠  太鼓:小寺真佐人
後見:朝倉俊樹 當山淳司
鐘後見:野月聡 水上優 和久荘太郎 東川尚史 川瀬隆士
地謡:武田孝史 金井 雄資 大友順 小倉伸二郎 内藤飛能 佐野弘宜

参照●趣味の能楽等舞台鑑賞(まちもり通信サイト)
https://sites.google.com/site/machimorig0/#nogaku

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