2019/09/27

1421都市プランナー田村明の呪い…いつだれが解くだろうか

都市プランナー田村明の呪い
いつだれが解くだろうか
伊達 美徳

●横浜B級都心生活街暮らし

 都心隠居と称して横浜都心部に住み、地上20m空中陋屋借家から地上に降り下って街を徘徊する日常である。
   三方を丘に囲まれて一方が港のこの街は、19世紀半ばの開港後に形成されたから、歴史的にはたいして古くはないが、わたしは出自は建築史で、建築設計の後に都市計画に転向して飯を食っていたから その眼で見ると実に多彩で興味が尽きない。
 近ごろは横浜都心に観光来街者がものすごく多いのだが、それは港の辺りや中華街の関内エリアばかりであり、わたしの隠居する関外エリアはごく普通の商住混合の生活街である。アジア系外国人住人が多いのが、いかにも港町横浜らしい。

 徘徊には、そのA級観光街の関内にも行くけれども、むしろ人間臭いB級生活街の関外である。興味深い場所の例を挙げると、現役ドヤ街の寿町、元娼婦街の黄金町、昔の永真遊郭街、下町日韓エスニック横浜橋商店街、現役風俗店街の曙町、高架道路下の石川町三角街と堀川・中村川、あちこちの戦後復興の防火建築帯を辿るのも面白い。
 高層共同住宅が多い普通の都心生活街だが、なんとも奇妙な個性的な味があちこちに埋め込んであるので、歩き飽きず見飽きないのである。
横浜都心部

●石川町三角街

 さてその中で石川町三角街(わたしが勝手に名づけた)をここで紹介する。そこは関内と関外の境目で、堀川・中村川に接するあたり、JR石川町駅前で、1970年代以降に都市計画で造った街である。空から見ると3角形の街であるが、三角が大きすぎて地上ではそうとわからない。

 ある日の徘徊中に広い駐車場に四方を囲まれた中に、金網で囲った小さな児童遊園を発見した。こんな悪環境で子供を遊ばせるのかと不思議に思い、ちょうど出てきた子連れの母親に聞いたら、近くに建っている大きな高層共同住宅(通称マンション)と駅の下にある保育園の専用の遊び場だと言う。開発関連の提供公園らしい。

 見まわせばぐるりと高速道路の高架でとり囲まれていて、ここは首都高速道路石川町ジャンクション真っ只中である。どちらを向いても自動車走行の騒音と振動がひっきりなしに降ってくるし、目に見えないが排ガスもすごいに違いない。高速道路だから昼も夜もそうだろう。
   それに加えて鉄道高架もある。こんな悪環境の中の高層共同住宅に子供と共に住む人がいるのだと驚いたが、その母親には言わなかった。

山手のイタリア公園から俯瞰する横浜都心部

首都高羽横線と狩場線の石川町ジャンクション三角街

首都高と鉄道高架の中の街

都市計画がつくった街

 ここは首都高速道路の横羽線と狩場線の2ルートが出会って、三角形のジャンクションを構成している。地下から出てくる路線と、空中を走る路線とが高架でTの字に出会うとともに、地上からの出入りランプウェイもあるから、道路は平面的には3角形だが立体的には地下地上空中で重層交差する複雑な形状で、数十匹のトグロ巻く蛇のスパゲッティである。

 その三角地を首都高の高架道路の城壁が囲み、中には都市機能がそろっている。JR根岸線高架鉄道と石川町駅、商業施設つき超高層共同住宅ビル、中小共同住宅ビル、学校、保育園、小店舗、葬儀場、児童遊園、大駐車場、一般道路、河川等が、どうみても都市計画的とは見えない配置で建っている。この街には城壁をくぐって入る。
 この高速道路が都市計画事業であることから、そのなかの土地利用も都市計画によるだろうから、つまりこの三角街は横浜の都市計画の産物であるはずだ。
駐車場と高速道路高架の中に建つ高層高額共同住宅ビル
トグロの中の高層高額共同住宅

四百戸の超高層オクション

 これ等の中で高層住宅と学校が、主な大規模な施設である。生活と教育の場という都市の重要な機能を持っている街であることがわかる。
 それらがこのジャンクション(1990年開通)ができる前からあったのかと調べたら、どちらも後から建ったのだった。高層住宅ビル(2001年完成、23階建て、395戸)は高速道路の蛇にトグロ巻かれて建ち上っているが、実はトグロの中に自分から入り込んだのであった。そのような中の住宅での暮らしは、どのようなものだろうか。

 最近の中古販売広告に、この高層住宅が通称オクションで売り出されているのを見つけた。この騒音・振動・排ガスの中にあっても、駅前の便利さを買うのだろうか、元町や山手に近いのがイメージ誤解をよぶのか。
 実は横浜都心の中でこの場所は、この劣悪環境もさることながら、すぐ隣は寿町ドヤ街であって、決してイメージは高くないから、なんとも不思議きわまることである。
鉄道高架と高速道路高架の谷間に建つ小・中学校

●生徒六百人の小中学校
 
 学校(2010年、幼稚園、小・中学校、生徒592人)は、山手の静かな環境にあったのを、わざわざこの悪環境に移転してきたのだそうだ。変形三角敷地にある校舎と校庭は、2辺を高速道高架に、もう1辺を鉄道高架に囲まれている。教育環境としてこれがよいのだろうかと思う。
 JR駅前だから生徒集めの学校経営上で好ましい立地として選んだのかもしれないが、このような悪環境で学ぶ子供は、もしかしたら都市計画に目を向けてくれるかもしれないと期待するしかない。

 その学校敷地の一辺の高速道路を隔てた外側には大きな公園があり、これはジャンクションと合せて作った都市計画公園だろう。土地利用の常識からは、この公園を学校用地に、今の学校用地を駅前広場と公園にするべきだったろうと思う。
 この公害溢れる三角街の中に、六百人余の幼児児童生徒が毎日やって来るし、五百戸ほどの大小共同住宅に千人以上が住んでいることになる。都市計画で高速道路はつくったが、土地利用には計画性がない悪例だろう。

●上空を覆われた河川

 ジャンクションの高速道路は高架だけではなくて、地下から高架に登ってくるルートとのとりあいになっているから、地上部にもかなり高速道路があり、半端な残地もおおい。せめて高架下や残地を緑地や公園にすればよいのだが、どこもかしこも空いているところは裸の駐車場ばかりで、なんとも殺風景きわまりない街である。石川町駅前にはせっかく広い公開空地を設けてあるのだが、その上空は高速道路で覆われている有様である。

 ジャンクション高架の三角形の1辺は、堀川・中村川の上空を覆いつつ、港方面と内陸方面の2方に延びる。川の上の高架は水辺の環境保全にも景観上でも邪魔なばかりか、川沿いの住宅地に騒音排ガス振動を振りまいている。川の両岸に高架を支える柱を建てて上空に高架道路をべったりとあるいは2段構えに通しているから、まるで大きなムカデが川の上を跨いで居座っている感じである。川に架かるいくつかの歴史的意義のある震災復興橋梁などの特色あるデザインも、これでは台無しである。

首都高が股を広げて上空を覆った堀川(元町付近)

首都高が上空を2段構えに覆う中村川(中村町付近)

参考:首都高に覆われていない大岡川の春

●都市プランナー田村明の仕事だった

 さて、なぜこのような奇妙な街が横浜都心に、都市計画によってできたのだろうか。それはたぶん、街を作ることは二の次にして、高速道路をつくることを主目的にしたからだろう。ジャンクションの土地の大部分は国有地と河川敷きだったから、まわりの少ない民有地も含めて街区再編成による適正な土地利用策があったろうにと思う。

 高速道路は都市計画事業でありながら、その土地利用はこんな奇妙な状況であるのは、まさに都市プランナーが不在であったのだろう。その横浜で都市プランナーと言えば、田村明である。横浜市在職中(1968~81年)に飛鳥田市政の下で横浜の街づくりに腕を振るった人である。
 田村が、都市プランナーとして采配を振ったいわゆる6大事業のひとつに、この高速道路計画があった。このジャンクションはその一部である。田村はこの石川町ジャンクションづくりに大いに関わったのである。

 このジャンクション開通は、田村が横浜市を去って9年後だが、その計画段階で石川町にジャンクションを決め、堀川・中村川の上空に高速道路を通すことにしたのも、まさに田村明が深くかかわった仕事だった。
 田村がこの計画に取りかった時にすでにルートは都市計画決定されていた。横浜駅・桜木町方面から大岡川を越えて、関内関外の境の派大岡川上空をJR根岸線に並行して石川町に至り、堀川の上空を港方面へ抜ける高架のルートだった。そのルート上の関内駅前の上空位置にジャンクションを設けて分岐し、大通公園の上空を内陸部へ南に伸びるルートをつくる計画であった。

 この都心部上空をTの字に横切って走る高架構造物が、関内関外の都心市街地空間を3つに分割し、しかも都心部の真ん中に三角のジャンクションができるのである。これには地元商店街はもちろんだが、当時の飛鳥田市長が「眉間の傷」になると言って大反対、田村がその解決にあたったのであった。
高速道路都市計画既決定ルート 中心部の三角が眉間の傷
(『都市プランナー田村明の闘い』田村明2006年より)

●田村明の闘い

 田村はこの都市計画決定していた派大岡川上空のルートの、分岐ジャンクションの位置を関内駅前から隣の石川町駅周辺に、そして分岐ルートを大通公園上空から堀川・中村川上空のルートに、それぞれ変更したのである(1970年都市計画変更決定)。同時に、派大岡川上空の高架としていた高速道路を、高架ではなく川を空堀にしてその底に通すことにした。
  その頃の都市計画決定権限は横浜市にはなくて県にあったが、事実上は国の建設省にあったから、横浜市長の意思による変更は難しいことだったが、田村の大仕事だった。

  こうして高速道路を都心周縁部に追いやって都心心臓部の景観の保全をしたのであると、この変更の目的を田村の自著にしっかりと書いている。詳しくはそちらに譲るが、飛鳥田市長に外から迎えられた都市プランナーが、市庁内の抵抗を納め、建設省テクノクラートの圧力を乗り越え、対案を検討して実現計画に至るのだ。もちろんこれは市長の強い意向のもとにインハウス都市プランナーとして田村が動いたのである。

 田村の自著だから当然のことに田村からの視点による計画評価であって、建設官僚側の考えはよく分らないが、官僚をヤッツケタという書きっぷりが痛快である。だが、どんな案がどのように検討されたか詳細が分からないから、どこか一方的な自慢話の感もある。
既決定都市計画を変更後の高速道路のルート(1970年変更決定)
(『都市プランナー田村明の闘い』田村明2006年より)
実現した都心部高層道路ルートを俯瞰  
左から地下を来て横浜球場右辺りから地上に出て中村川上空の高架となる
 しかしながら現実を見ると、それでうまくいったとは言えないのである。高速道路が地下のまま都心を抜けるのではなく、途中で地上に出てきて石川町駅と堀川・中村川あたりは、トグロ蛇と巨大ムカデが街の周りも上空も覆ってしまっている。関内関外の区間の半分以上は上空に高架が走るので、その周辺の環境と景観は大きく損傷したのである。

 そしてこの変更計画を選んだ田村もそれを予測しており、こう書いている。「中村川の上を通るのは景観的には問題だが、他の案よりはましだ(『都市プランナー田村明の闘い』田村明著2006年 学芸出版社 84ページ)
 さてこれをどう考えようか。

●変更前ルートのほうがましだった

 田村は気軽にこう書いたのではなかろうが、「ましな案」は都心部を鳥瞰したときにはその中枢部の傷(眉間の傷)にはならないが、こめかみと片頬の傷になっている。
 そのこめかみと頬の地の住民は、「ましな案」によって傷ついたのであるが、実はわたしも若干ながらもその傷を受けているひとりである。

 わたしの住む空中陋屋のバルコニーから眺めれば、200mほど向うに中村川上空の高速道路が山手の緑の景観を横断し、行き交う大型コンテナ―トラックの騒音が日夜聞こえるのだ。この10年ほどで高速道路の手前に建った高層共同住宅ビル数棟が、遮音壁となってくれて騒音は減った。だが、その騒音・振動・排ガスを受け止める共同住宅を、わざわざ買って住む人たちがいるのが不思議である。
わたしの住いから見る山手の緑を上下に分ける中村川上空の首都高高架
 
 わたしから言えば、あの高架が既決定ルートの大通り公園上空にあれば、わたしの家からそちら側は高層ビル群で視界が遮られているから、騒音は全く聞こえないはずだった。
 もしも今、わたしがここに住んでいて、この都市計画変更の騒ぎが初めて起こったとし、今現実になっている変更ルート案が出されたならば、わたしは地域エゴイズムとして反対運動にかかわっていただろう。

 これは鳥瞰的な行政計画に対して、虫の目的な住民の立場である、と書いて思い出した事件がある。飛鳥田時代の横浜で起きた「横浜貨物線反対運動」である。地域エゴイズム正当論を振りかざし、直接民主制を標榜する革新市政と真正面対立した市民運動が、1960年代中頃から15年間も続いた。田村がこれに関わったのかどうか知らないから、これ以上は書かない。(参照:『いま、「公共性」を撃つ : 「ドキュメント」横浜新貨物線反対運動』新泉社 1975年)

 ●田村明の呪い

 田村明が「他の案」という変更計画ルート案はいくつもあったことだろうが、詳しくはわからない。それらの中には、石川町ジャンクションも堀川・中村川上空ルートも、全部を地下にする理想案が、当然あったろうと思う。
 例えば、派大岡川の空堀から地下で石川町へそして中村川の下を抜けて、山手の丘の中にトンネルで高速道路を通す案があったかもしれない。だが残念にも、そこまでもの変更をできなかったのだろう(たぶん)。

 これで連想するのは、東京の眉間を傷つけた日本橋川上空の首都高を、いまになり地下に潜らせる計画である。この地下化計画は環境アセスメント手続き中と聞くから、実現に進んでいるのだろう。ならば、横浜の首都高だって地下に入れてほしいものだ。ついでに書くが、わたしは日本橋の上だけでも高架橋を保存して、高度成長時代の記念碑にすべきと思う。東京駅の悪例のように、善意のつもりの復元で、近現代史を忘却してはならない。

 誤解のないように附記しておくが、わたしは田村の計画が失敗したと非難しているのではない。田村でも頑張りきれなくて残った高速道路の高架がもたらした街の姿は、田村に言わせれば、都市デザインの分らぬやつらに任せておくと街はこうなるのだと、後世(現代)のためにワザと地獄絵を実現させたのであろう。これは田村が後世に向って「これを解いて見よ」と、かけた呪いなのだ。

 そして地獄絵の出現から30年もの今、その呪いを解いて極楽絵に変える力ある都市プランナーが、横浜市にはいるにちがいない。おりから東横線跡の高架活用プロジェクトが動き出したから、首都高跡高架活用も構想していることだろう。(2019/09/25)

(現代まちづくり塾『塾報』50号2019年9月号に掲載、一部補綴してここに掲載)

参考記事

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