2020/05/29

1466【コロナ用語爺典その1】アベノマスク、ソーシャルディスタンシング、三密、巣ごもり、突合、ロックダウン

 コロナ戦争になり、わたしが初めて知った新語、知っていたのに意味が変わった言葉など、たくさんある。ここに記録しておく。

【アベノマスク】

 これは世の中に今回のコロナ事件で、世の中に初登場の新語らしい。コロナで大変だとなった2020年4月初めに、首相が(たぶん突然に思いついて)日本列島在住世帯全部に、各2枚づつ無料配給することにした。もちろん原資は税金だから、わたしの金であり、ありがたがることではない。

 その数は1億枚以上というとんでもない量だし、かかる費用も予算額で466億円という巨額だそうだ。
 ところが配布の出だしに汚れマスクがあって回収、その後あれこれあって5月末になっても、まだ2割程度の配給率である。そのいっぽう、いまや世の中にマスクはもう有り余っている状況というオソマツ。

 だが、言い出しっぺの首相は、そのアベノマスクらしい(わたしのところには来ないから実物を知らない)着用姿で、国会に出没している。マスクの大きさがどうも小さいようで、その効用を疑う声もあるが、首相は頑としてアベノマスキストである。
 そこで世間のネットスズメは、その半端姿に思いつき政策の渋滞ぶりを重ねて、それに効果が不分明のアベノミクスをもじって揶揄、つけたあだ名が「アベノマスク」となった。
左:アベノマスク  右:普通のマスク
   さて、5月末のころ、ある公立中学校で「アベノマスク」を着用して登校せよとのプリントが生徒に配布された。この教師は政治社会教育のつもりだったか、それとも揶揄とは気が付かずマスクブランド名と勘違いしたのだろうか。とにかく教育委員会は謝ったそうだ。

 なお、アベとつくコロナ新語に「アベガン」がある。開発中のコロナ治療新薬の名「アビガン」のネットスズメによる命名である。征露丸とか毒掃丸にならぶ「安倍丸」とも書くが、はたしていつになったら登場するのか。

(追記2020/0602)
 わたしのところにもようやくアベノマスクがやってきた。見たところあまりに小さいので子供用と間違えたのかもしれない。いずれにしてもマスクは足りているので、他に寄付することにしよう。幸い、近くの商店街に「マスクボックス」なるものが設けられている。商店街では俄かマスク売りがあちこちにあり、1か月前は50枚ひと箱3500円もしたのに、今はその半額以下になっている。

【ソーシャルディスタンシング】
    social distancing

 ウィルスの最も有力な感染源となる人間の体液(唾、痰、鼻汁、涙、汗、大小便、精液、経血、血液、、、)の飛沫が、お互いにかからない物理的距離に、人間相互の間隔を保つことを言う。
 これがどうしてディスタンスじゃなくて、ディスタンシングという動名詞になっているのだろうか。ディスタンスは単に間隔とか距離のことであり、ここで必要なのは間隔を保つという行為を意味しているから、理屈っぽい英語ではそう言わせるらしい。

 それはそうだろうが、簡単なディスタンスでもいいだろうと日本人は思う。しかし、感染という命にかかわる重要な言葉だから、できるだけ厳密に使うほうがいいだろうし、分かり易い日本語にするべきだろうと思う。適切な日本語がないのだろうか。
 ネットで調べると社会的距離戦略とか社会距離確保とか訳されているようだ。でも、一般に聞かないのは、言葉が生硬すぎるからだろう。また社会という言葉も概念が広すぎて、間隔との取り合いが悪い。ここは社交距離というほうがよいだろう。

 ここで思いつくは「疎開」である。原意は開いて通じさせることだが、軍隊用語で戦場での戦況に応じて兵員相互の距離・間隔を、密な状況から疎らに開いて、敵の攻撃からの被害を軽減する意だそうだ。
 わたしの体験としては、第2次世界大戦下の日本で1945年に全国的戦時疎開がある。アメリカ軍の空爆空襲による被害を軽減するために、都市に集中する人口と家屋の分散(学童疎開、建物疎開)を行ったのである。

 つまり疎開とは、災害防止対策として、人と人の間隔をあけるのだから、コロナウィルス対策のソーシャルディスタンシング、つまり人口疎開そのものである。
 都道府県を越える移動の自粛要請が出た時、東京から地方に移動する動きが出て、これを「コロナ疎開」といったのは、戦災疎開を思い出させたからだろう。実は疎開の本質的な使い方を示唆しているのだ。
  この際、75年ぶりに疎開という言葉の復活はどうか。今や戦争なんだと緊張感も出る。

【三密】さんみつ

 コロナ感染で人間にとって最も危険な動物は人間だとわかって、互いに密に近接するなとの防疫対策が政策として出された。それをスローガンにして「三密」を避けよと言う。
 これも今回初登場の新語らしいのだが、実はわたしにはこの言葉は初めてではなくて、すでに知っていたから、ネットや新聞でこれを見つけたときに妙に違和感があった。

 いや、もちろんコロナ用語として知っていたのではなくて、古来の仏教用語として知っていたのだ。と言っても仏教に詳しいのではない。わたしの趣味は能楽鑑賞であり、一時は能楽師の野村四郎師に謡曲を習っていたこともある。その能の名曲「葵上」に「三密の月」というワキセリフがある。
左:コロナ三密 右:能「葵上」三密
  
 だからコロナで三密が登場したとき、どうしてここに?、と怪訝な感があったものだ。なんだか妙にペダンチックな物言いになったなあ。このところ能楽公演も自粛になってしまっているが、いつの日かコロナをテーマの能や狂言の新作が登場するかもしれない。

 そしてこれにも、「いや、三密は密造・密輸・密売だろ」とか、「やっぱり餡蜜・蜂蜜・壇蜜の三密を好き」とか、わたしひとりで揶揄しているのである。

【巣ごもり】

 この言葉については、もちろん知っていた。新語ではないが、使い方が新語になったようだ。「巣ごもり」の本来の意味は、鳥が巣に籠っていて、有精卵を産み、抱いて温め、
雛に孵化させ、巣立ちさせることで、その間に巣に籠っている親子の鳥の状況をいう。

 巣ごもりを一言でいえば、鳥の子づくりである。人間が家に居続けることを鳥の巣ごもりになぞらえるとすると、男女二密の濃厚接触(体液飛沫が飛び交う)をして子づくり作業をすることになる。
 人口減時代に子づくりに励むのはそれなりによろしいことだが、「政府の要請に応えて毎日巣ごもりしています」なんて大きな声で言うのもどんなもんだろうね。

 コロナ後の来年になったら、あちこちの産院がにぎわうに違いない。外出自粛で家で子づくりの結果、2021はコロナベビーラッシュになるだろうと、わたしは予想している。さてどうかなあ、楽しみである。
 もしかして産院崩壊が来るかもしれない、今から政策的に対応しておくほうがよいだろうに、そんな声が全然出てこないのはどうしたことだろうか。

 いっぽう、子供や高齢者とか同性同士では子づくりは無理だから、やっぱりコロナで巣ごもりっていうのは、どこか差別用語だなあと、超高齢者のわたしは僻むのである。

【突合】とつごう

 コロナ戦争時代になって、初めて国会ネット中継をときどき観ている。わからない言葉がしょっちゅう出て来るが、なんとか頭を働かせて判断する。
 厚生大臣の答弁になんのことだったか忘れたが、「とつごう」という言葉が出たのを聞いたことがある。最近になって例の10万円給付関係の新聞記事に「突合」が出てきてこういう字であるか、角突き合いかと知った。
 
 記事によると、個人番号カードを使ってその給付申請を提出すると、機械は間違い記入でも受け付けるので、それらをいちいち人手によって住民登録内容との「突合」を行う必要があるという。
 前後から判断すると、あるデータと別のデータを照合することを突合というらしいが、初めて聞く。

 広辞苑を調べると「とつごう」は存在しない。そこで貧者の百科事典ネット検索、PCキーボードを「とつごう」と打つと、あった「嫁ごう」、これ違うよな、。
 「突合」と書いて音読み「とつごう」とは、経理事務の専門用語だそうで、要するに文字通りに突き合わせること。そうか、「データを突き合わせて」というよりも「データを突合して」というと、いかに厳正な気分になるのかも。これはわたしが知らなかっただけで、コロナ新語ではなかった。
 
 ところで上記の新聞記事によると、その突合がとても手間がかかるので、カードつかってネットによる機械申請じゃなくて、郵便で配る紙に手書きした申請用紙を郵送してくれるほうが早い、とのアナログ極まる状況だそうある。
 これまた絶好の揶揄の対象になってしまった。
 
【ロックダウン】lockdown

 英語の辞書によると、もともとはどこかの場所や施設に人々を、緊急避難的に閉じ込めることを言うらしい。手元にあるジーニアス英和辞典には、アメリカ語として「独房への監禁」と書いてあるだけ。
 コロナの防疫用語に使うのは、新語なのだろうか、それとも医学界の専門用語かしら。
 ようするにコロナ感染者の往来を遮断して防疫することを言うようである。

 メディアでは「都市封鎖」と翻訳する。都市内に監禁か。用語としては都市レベルだけじゃなくて、病院封鎖とか、クルーズ船封鎖とかもロックダウンと言ってよいように思うが、現実には使わないのはどうしてだろうか。
 それにしても、コロナで最初の都市封鎖が中国の武漢だったが、人口数百万の巨大都市を丸ごと封鎖するなんて、本当に起きたのだからすごいことが現実になったものだ。
 
 中国のような都市封鎖を日本でも行うことが、法的あるいは社会的に可能だろうか。
 現実に病魔の脅威が猛威を振るったら、法的に可能かなど言っていられないだろうが、病魔を怖いにしても、人間によるそのことを恐怖に思う。
 それは1945年の戦争という病魔の脅威下の日本のことを思い起こさせる。

 そもそも都市封鎖とは、単にカギをかけるのではないし、封鎖すれば患者が治るのでもない。人間という感染源を閉じ込めて、都市外にださないのだから、都市内人間をしっかり管理する必要がある。そこは一人一人を行政が把握する監視社会が当たり前になる。

 このようなことを教訓に、次の都市計画や国土計画は、どのようなものになるのだろうか。おりしも「スーパーシティ法案」とか言って、街も人もそっくりネットに組み込んで一元管理する都市計画構想がでてきた。多分、ロックダウンの容易な都市を作るのだろう。ふ~む、怪しいなあ。

参照:コロナ大戦争おろおろ日録

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