2021/08/30

1585【名人能役者野村四郎師逝く】素人弟子として師匠へのオマージュに名を借りて個人趣味記録

 能役者野村四郎(幻雪)が逝った。8月21日午前11時6分、多発性血管炎性肉芽腫症によるという。名人能役者の急逝を惜しむばかりである。

 8月24日には「能を知ろう会(第6回)」で「隅田川」レクチャー案内が来ていて、行きたいなあ、久しぶりに会いたいなあ、でもこんな時だからなあと悩んでいた。その前の会に行っておけばよかったと後悔しているが、もはや遅い。
 この歳になると、何かやりたいと思うときは即実行あるのみ、またいつかと思っていると人生に間に合わない、こう思っているのだが、そうか、それは自分の人生ばかりではなくて、他人でも同じであると気が付いた。

 個人的には野村四郎先生と言うべきである。20年にわたって能謡の稽古をしていただいた素人弟子だから、野村四郎師といってもよいだろう。わたしより1歳年上である。
 わたしが師と呼びたい人は、学業時代には2名、社会に出て仕事関係で5名をかぞえるが、習い事の師はこの野村四郎先生のみである。もともと習い事が嫌いなので、これが唯一である。ちょっと思い出を記録して、野村先生へのオマージュがわりとする。

 能謡を習うことになったのは1992年のこと、大学の先輩から強引に誘われて仕方なく義理で始めたのだった。だが、すぐにこれは面白いと思い、中断しつつも20年ほどもつづけた。稽古場は渋谷の桜ケ丘の坂下の谷間にある共同住宅ビル1階にある貸稽古場だった。

 素人弟子十数人がここで謡と舞の稽古を受けていたが、四郎先生は他にも何カ所か稽古場をお持ちだったようだ。鎌倉の小町通でばったり出会ったこともあるが、稽古の帰りだった。稀に先生の都合が急に悪くなり、玄人弟子が代稽古にやって来た。
 わたしのような素人弟子は100人以上いたのだろう。観世能楽堂での年に一回の素人弟子による恒例の発表会「観生会」出演者が、朝から晩までつづいたものだ。

 稽古日は月に2回で、1回が30~40分の1対1のさしによる伝授であるから、人間国宝(その当時は未だだったが)のこの人を独占する贅沢なものだ。
 もっとも、束脩(入門料)と月謝は安くない。年に一度の「観生会」(おさらい発表会)も結構な額だった。他の稽古事を知らないから、比較しようがないが、当時の手帳を見ると、入門料4万円、月謝1.5万円、会場費月2500円、中元歳暮各1.5万円とある。その後に値上げされた記憶がある。

 書棚にある「観世流初心謡本・上」を出してみる。最初にわたしの書き込み「1992年2月7日より」とあるから、その日から20年ほどの稽古になったのだ。
 この本の最初の「鶴亀」からが始まり、その初めの4ページにもわたって四郎先生による赤ボールペンの書き込みがある。謡本にある記号の謡い方についての最も基礎的解説である。口で説明だけでは忘れるからと、口伝えと筆伝えである。

「鶴亀」謡本への野村先生による赤字書き込み

謡本

 稽古はとにもかくにも口伝えで、師の謡を一生懸命真似するだけである。ヒマな時は半日も稽古場に居て、他の人の稽古もずっと見聞きしている。仕舞の稽古も見ていて、先生の教え方の上手いのに素人ながら感服する。全部終ると近く居酒屋に先生と数人で行くのを数年は続けていたものだ。そんなお稽古だったこともある。

 そうやってつぎつぎと「橋弁慶」「吉野天人」「土蜘蛛」「竹生島」「経正」ときて、秋11月「観生会」がきたのだ。未だろくに謡えないわたしが出演発表するはずがないと思っていたら、「経正」のシテで出演するようにと先生から指示を受けた。
 実のところなにがなんだか分からないまま、先輩方の言われるままになんとか舞台を務めた。相手ワキをやってくださったのは、同じ稽古場のベテラン女性であった。観世会のプロが大勢一緒に出演して素人をひきたてる演出の舞台に驚いた。
 そのとき、わたしは意外に舞台度胸があるのだと気が付いた。間違っても動じないのである。仕事で大勢相手に講演やら大学講義していたから当然かもしれない。

 その時の手帳を見ると先生から指示された当日の費用メモがあり、役料8万円、会費5万円、引き出物5万円、貸衣裳1.1万円、2次会1万円、録音テープ2千円とある。これから毎年の会ではこれ以上がかかった。
 でもこれは初心者だから短時間出演で安い方だろうと思うのは、中には能を丸々やって出演する素人弟子がいて、100万円以上の金額になるらしいのだ。装束もすごいが、プロがあれだけ大勢で支えてくれたら、それはかかるだろう。これもプロの生計の種だろう。野村先生は弟子たちの出演のすべてに一緒に登場だから、その体力に驚くばかりだった。
 月々のお稽古にかかる出費とともに、年に数回の先生公演チケット購入もあるから、その頃の私は何とかこの程度はできたが、20年後には無理になった。

初舞「経正」 1992年11月観生会 観世能楽堂

 わたしは何とか基礎的な謡はできる気がしてきたのは、2年たったころだったろうか。大学先輩たちの謡を趣味とする会に誘われたが、どうも私には向かないと分った。謡そのもののテクニックに凝る人がおおいのだ。
 だが、謡よりも能楽そのものに興味が湧いて来て、わたしは謡テクニックに興味を失い、はじめの頃のように予習復習をしなくなった。能見物に松濤の観世能楽堂や青山の銕仙会能楽堂、あるいは水道橋の宝生能楽堂に通い、一時は毎週のように観ていた。

 そして稽古場での野村先生の能楽に関する雑談を愉しむようになったのだ。その教え上手に喜びながら、話し上手に能楽界のいろいろなことを聞いて楽しみ、自分が習うよりも教える先生の美声を聞くことが、わたし稽古ごとになった。
 これが私が能を観るときのバックボーンとなったのである。自分が謡うためではなくて、能楽鑑賞のための稽古になった。

 教わったのは観世流現行約200曲中の62曲であった。「鶴亀」がもっとも初心の5級(観世流ランキング)であり、結局もっとも上級の重習には至らず、その一つ下の9番習いの「藤戸」がわが謡い稽古の最高級であり、その下の準9番習は「西行桜」で、この2つは観生会出演のために稽古したのであった。

「藤戸」2006年9月観生会 観世能楽堂

 先生の稽古は口移しに真似させることであり、こちらはとにかく先生についていくのが精いっぱいであった。曲の内容とか曲趣に関する教授はほとんど無かった。
 先生は話し上手の話好きであり、わたしもそれを聞くのが楽しみだったが、稽古としてのその謡の場面の謡い方を教えても、謡曲の内容について話されることはなかった。それはこちらは結構な大人だから、必要ないとされたのだろう。

 とにかく、これほどに多くの謡曲を習うばかりか、能楽を200番くらいは見てきたから、日本古典文学や和歌への基礎的素養ができていることに、今となってわかるのである。野村先生のおかげである。短歌を遊びで作るとき、古語の言い回しもそれなりにできる。
 なるほど、昔の年寄りが何やら古めかしい言い回しができるのは、こういうことがあったのか、自分がそうなって気が付く。

 能楽舞台として鑑賞に、稽古での多様なお話が鑑賞の大きな助けになったことは言うまでもない。能楽界の裏話的な話題もあったし、自分の舞台での失敗話、観世家にある能楽資料のことなど、話は尽きないのだった。芸談として公然と録音していたこともあった。
 稽古時の先生の美声のテープがたくさんあったが、ずいぶん前に廃棄した。今いくつかの野村四郎能公演録音テープがあるが、そのころ能楽堂で密かに録音したものである。もうあの美声を聞くことはできないから、貴重かもしれない。
 あの美声の裏に潜む何かが微妙に聞こえてきてそれが美しいのだが、稽古の時のそれを真似しようとしても不可能だった。

 四郎先生は東京芸大の教授に就任されてからは、他の流派とか他の分野とのコラボ舞台を企画演出出演されるようになり、これは実に興味深かった。古典中の古典と言われる能楽でこのような冒険ができるのかと思った。私がまだ能楽に興味なかった頃、先生の師である観世寿夫たちがそのような活動したらしいが、観たことがなかった。
 例えば、村尚也の作・演出、豊竹咲大夫の義太夫によって、「謡かたり隅田川」を能舞台にあげたのは画期的意欲作だった。芸大では音楽学部の他分野も美術学部も入れて、新しい「熊野」公演の企画演出出演もあった。能の新作「実朝」も観た。モンテベルディのオペラ「オルフェオ」も、演出と出演で面白かった。

 私が観た最近の四郎先生の舞台は、去年の横浜能楽堂「善知鳥」だった。その前は2017年5月5日「野村四郎傘寿特別公演」であった。観世能楽堂が渋谷の松濤から銀座に移ったので、それも見たかったのだ。でも松濤の能楽堂のほうがはるかに良かった。こんどはせせこましく地下4階に閉じ込められて、閉所恐怖症のわたしは2度と行かない。
 特別記念だから大曲を出すのかと思ったら、それは息子の野村昌司「安宅」に任せて、野村四郎は「羽衣 彩色の伝」であった。そういう取り合わせの意味するところを知らないが、隠居への道かと思ってしまった。

  その前の2017年1月に国立能楽堂で「隅田川」を観て以来だった。そのときに、さすが年には勝てないのか、あの華麗なる謡にいくぶんかの錆と淀みを聴いたのが、ながくその美声ファンのわたしには寂しいと感じた。その前の2016年11月「横浜能楽堂で観た「六浦」ではそんなことを感じないでうっとり聞いたのだったが、、。
 能謡の稽古をやめてからも、能演を観に行くことはそれなりにやっている。近所の横浜能楽堂にちょくちょく行くのだが、5年前の「六浦」からこちら、おいでがないままに会うこと出来なくなった。

 1998年のこと、そのころ私はある商業出版雑誌の編集に関わっていて、能楽関係の特集号を企画した。そして野村四郎インタビュー原稿「名人能役者に能楽を聞く」を書いた。だが、雑誌の廃刊で日の目を見なかった。この時は稽古仲間の建築家に頼んで、佐渡島に能舞台を訪ねる紀行の企画もあった。要するに遊びを仕事に仕立てるのに失敗したのだった。

 わたしは野村四郎の舞台をかなり数多く観た。そのうちのごく一部についてブログにこんな素人鑑賞記録を書いた。
・【能楽】野村四郎「善知鳥」と25年前の友枝昭世を2020/10/11
・【能楽】
銀座移転の観世能楽堂移転は超便利だが苦手2017/05/06
・【能楽】傘寿人間国宝・野村四郎が演じる「隅田川」2017/01/27
・【能楽】野村四郎「六浦」楓の精に音と姿の構図美②016/11/28
・【能楽】野村四郎兄弟3人そろって人間国宝とは2016/07/16
・【能楽】「仲光」演技は素晴らしいがストーリーが2016/02/20
・【能楽】「檜垣」に演者にも観客にも老いを重ね観る2013/12
・【能楽】「盛久」の英語字幕を見てお経の意味理解2013/11
・【能楽】野村四郎の能「鵺」を観る2009/12
・【能楽】能「摂待」と「安宅」2008/10
*【能楽+義太夫】コラボ能「謡かたり隅田川」2005/12/03

 わたしは「能役者野村四郎」サイトを作っていたが、最近は怠惰になり公演情報も途切れがちだった。勝手に作ったのではなくて、始めるときに先生の了解を得ていた。どうやらこれでもうこのサイトも消えてもよいだろう。
 能楽界での重鎮として大きな貢献されたことは素人には分からないが、個人的にわたしに唯一の趣味を育てくださったことに感謝を申し上げて、ご冥福を祈る。

 能役者野村四郎、そちらの世界でも舞い続けよ、合掌。  (2021/08/30)

参照・能役者野村四郎サイト https://nomura-shiro.blogspot.com/p/at.html
  ・趣味の能楽等鑑賞記録 https://matchmori.blogspot.com/p/noh.html

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