●ようやく出会った前田青邨邸
山口文象設計の前田青邨邸(1936年)については、「建築家山口文象 人と作品」(1982年刊行)の年表に小さな写真を載せているが、それ以上のことを知らなかった。
鎌倉市内に現存すると鎌倉の知人建築家にずいぶん前に聞いていて、まだ現存するかなあと思いつつ、いつか出会いたいと思いながら今日まで来た。
そして昨日(2012年12月12日)、紅葉の鎌倉でついに出会う機会に恵まれた。
「建築家山口文象 人と作品」(1982年刊行)掲載の前田青邨邸 |
2021年に出会った旧前田青邨邸の健在姿 |
衛星写真による旧前田青邨邸 右から居住棟・アトリエ棟・茶室棟 |
簡単に近づくことも眺めることも難しい山中の寺院の奥深くにあり、今も住居として昔の姿で生きていた。一部に改変もあるようだが基本的には当初のままらしく、さすがに元の住人の画家・前田青邨に敬意を払った使われ方をしていた。
建築学的には、案内していただいた建築史家の小沢朝江さん(東海大学教授)の資料に下記の様にある。
・居住部、アトリエ、茶室の3棟で構成
・関与した大工・山田源市は、三渓園白雲亭、西郷邸(原三渓長女の住宅)、和辻哲郎邸などを手掛け、田舎家を得意とする
・切妻造・桟瓦葺で、妻側に梁組を見せる、ただし、柱や梁は細めで簡素。
・居住部:応接間は椅子座。長押や鴨居を略して壁で構成。作り付けの棚も幅が狭く瀟洒。
・アトリエ:面皮柱や大面取の長押、間隔が狭い竿縁天井、簡素な板欄間など、すっきりとした構成。床の間は高さの無い踏込床。落掛を間口いっぱいに掛け、床板を内側にずらす。
・茶室:古材を利用、古材や煤竹に合せて新材や障子も古色をつける。なぐりや丸太を多用。壁床・長炉・野郎畳も田舎風。山田源市の好みが強いか。茶室だが内椽を持つ点、点前座に付書院と仏壇を儲ける点が異例。
●前田邸・林芙美子邸・山口文象自邸
山口文象の1940年の作品に、小説家林芙美子邸と自邸がある。
林芙美子邸の居住棟とアトリエ棟の2棟を並べて建て渡り廊下でつないだ配置と姿は、前田青邨邸によく似ている。
前田邸には東から居住棟、アトリエ棟そして更にその西に茶室棟が付くのだが、この茶室は見えがかり材に古色を施し、一部に古材も使っていて田舎民家風であるのが興味深い。
実はその4年後につくった山口文象自邸が、全くの田舎民家風であった。もちろんプランは近代建築そのものだが、意匠は内外ともに見えがかり材には黒く古色を施し、連子格子窓や民芸風照明器具もあった。この民家風デザインが前田青邨邸にもあったことにちょっと驚いた。山口に民家風デザインはこのほかには無いはずだ。
岐阜県中津川出身の青邨が、故郷の田舎家風デザインをリクエストしたのだろうか。
山口の言によると、富山でダムや旅館の仕事をしていたころに現地で民家デザインに惹かれたとのことだが、前田邸も自邸も建築系の雑誌に発表することは無かった。
そもそも幾つも設計しているはずの和風住宅を、ほとんど発表をしなかった。大工棟梁の家に生まれて身にしみこんでいた和風建築は得意だったが、モダニズム建築家として売り出したからには裏芸としておきたかったのか。
●前田青邨と山口文象の縁
前田青邨と山口文象との関係は、たぶん、創宇社建築会建築会活動で、多くの美術家たちに出会ったことによるのだろう。安井曾太郎のアトリエの設計もしているから、そのあたりから前田につながったのかもしれない。
山口文象が帰国して日本歯科医専校舎でデビューして売り出したころに、前田の長女と結婚したという深い因縁にある。有名画家の娘と新進建築家の結婚として、今でいえば女性週刊誌で当時の女性月刊誌がインタビュー記事にしているのが面白い。
ブルーノ・タウトの日本日記に山口文象と前田青邨の名が何度も登場するが、山口から前田の長女との結婚式に招かれておおいに困惑する話がある。
山口建築事務所の最初の所員だった河裾逸美さん(創宇社建築会メンバー)から直接に聞いた話だが、結婚して芝白金に事務所と住まいを構えて、夫婦は日中はいつも遊びに出かけ、夜に戻る所長に仕事の指示を受ける生活であったとのこと。
3年半で破局するのだが、それは山口の才能を見込んだ青邨が跡取りにしようとして山口が反発したことが原因らしいと、これも河裾さんと山口の弟の山口栄一さんから聞いた話。
●山口文象作品木造住宅の現在
山口文象作品で今も存在する和風住宅建築は4件あるが、このほかに昔の姿のままの建物は、寺院の茶席になった「宝庵」(旧関口邸茶席)と、行政の博物館施設となった「林芙美子記念館」(旧林芙美子邸)の3件のみ。
もう1件は「山口勝敏邸」(旧山口文象邸)だが、これは山口自身によって大幅に改造されている。
数多くあった木造洋風住宅は今や一軒も存在していない(と思う)。軒出が無くて勾配の緩い屋根は雨の多い風土では無理だったらしい。
前田青邨邸の現状については、今も生活の場だから詳しくは書けないので、どうでもよい周辺のことを忘れないうちに書いておいた。
70年代から続けてきたわたしの山口文象追跡は、これで遂に終わりを迎えたらしい。
(2021/12/13記)
参照:・建築家山口文象+初期RIA
・前田青邨邸
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