●8月15日を祝日にせよ
ふと思う、8月15日敗戦の日をなぜ国民の祝日にしないのか、あの超悲惨な十五年間もの戦争が終ったのだから、後世まで記憶して祝ってしかるべきと思うにだ。
これを書いている今日は、その日から77年目の敗戦記念日である。人間なら長寿を祝うことだろう。
8月10日山の日なんて、どうでもよい祝日をつくるのではなくて15日を敗戦記念日にするべきだ。
何だか近頃はやたらと祝日や休日が増えて、しか毎年その日が移動するらしいから、毎日が休日を送る暇老人は、役所に出かけてその日が休日と突然に知って怒るばかりである。
8月15日を祝日としようと、法制定の時に話題になったのか、あるいは山の日制定の時に国会は何も考えなかったのか。なんとも不思議である。
●靖国神社野次馬観察
靖国神社風景 |
高齢者は次第に少なくなってきて、最近は若者が増えている。まるで真夏の初詣のような気分のカップルが多い。もちろんウヨクらしい青年たちもいるし、軍服コスプレのマニアもいる。それは夏祭りの幻想的な風景の一つとも見えてくるのが面白い。
参照:2005年+2013年 2014年 2018年 2019年 2020年
一昨年は行ったのだが、去年はさすがにコロナに負けていかなかった。今年はプーチン戦争の影が、どう靖国神社に及んでいるか、そこのところを観察に行きたかったのだが、コロナにも年齢にも負けるようになってしまった。
●父の十五年戦争にプーチン戦争を投影
一昨日のこと、大学同期ネット仲間十数人とZOOMで話をしたときに、わたしは父の戦争の話をした。『父の十五年戦争』というネットページを作っているので、それを見せながらかいつまんで、父の3度の兵役の話をした。
話しながら、父の大陸に渡っての戦争は、今のプーチン戦争のロシアが日本で、チャイナがウクライナだなと気が付いた。父は日本の十五年戦争中に、満州事変、支那事変、太平洋戦争の3回の兵役で7年半も過ごしたのだった。
父の兵役の最初は1933年2月から1年間弱、旧満州に侵略軍として入って戦った。いわばロシアによる2014年のウクライナのクリミヤ半島侵略である。
2度めは1938年から41年まで北支(ノースチャイナ)の侵略地で戦った。いわば2022年からのロシア軍のウクライナ侵略である。3度目は1943年から45年までの太平洋戦争兵役だが、この時は国内にいたから侵略地には出かけていない。
食料略奪宴会写真 1938年熱河作戦 |
一般人から巻き上げた紙幣だとして手記の手帳にはさんである。戦場で農家から貯蔵してある芋などの食料を略奪して、うまかったと写真付きの手記もある。
さすがに殺した手記はないが、身近で砲火に死んだ戦友の話が詳しいから、当然にこちらからも砲撃して敵チャイニーズを殺しただろう。
●父を戦場に送り出して号泣する母
わたしは日本の15年戦争の真っただ中に生れ、敗戦の時は国民学校3年生だった。中国地方山地の盆地の街だったが、都市のような戦争の直接的な衝撃はなかった。だが、子供には父がいないのは大きな被害だったし、直接的には戦争後の貧窮で腹ペコの日々こそが戦争被害だった。
1943年11月に父に3度目の召集令状が来た。これについて強烈な記憶がある。
父が兵役に出かけるのを、鉄道駅まで母と共に送った。家に帰りついて玄関を上がり、畳の間に入ったとたんに母は前に倒れこんだ。両手で顔を覆って畳に押し付けて、突然大声で号泣し始めたのだ。
幼児のわたしが泣くのは当たり前だが、大きな大人に目の前で泣かれているわたしは、なんのなすすべもなく、号泣に合わせて母の背にある帯の結び目が大きく上下するのを、呆然と見つめているばかりだった。
やがて誰かが玄関にやってきて案内を乞う声が聞こえた。母は急に泣き止み、今泣いていたことを誰にも言ってはいけないと、わたしに厳しく言い渡して玄関へ出て行った。
もう戻らないであろう戦場に行く父も大変だが、送り出し母も大変なこと、しかも嘆いてはならないタブーも世間にあった。その時母の胎内には半年後に生まれる第三
幸いにして父は南方戦線に送られるのを姫路で待っていたが、制海権を失った日本は輸送船がなくなり、父は小田原で湘南海岸に上陸するであろう連合軍を迎え撃つ本土決戦の準備をしていた。その地で敗戦の日を迎えて、月末にはわたしたち家族のもとに戻ってきた。家族が一人増えていた。
母は父を無事に取り戻すことができたが、実弟をフィリピン山中のジャングルで失い、その若妻と乳児が母の実家に残された。
●77年前の8月15日のこと
その8月15日は、いかにも夏らしい晴天だった。わたしの生家は神社である。その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から兵庫県芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて滞在していた。盆地内のほかの寺社などに児童51名が疎開して来ていた。 そのころはラジオのある家は限られていたが、その疎開学級が持っていた。社務所の玄関口に近所の人々が集まって、ヒロヒトさんの分かりにくい敗戦の詔勅を聴いていた。
放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、列になって黙々とぼとぼ参道の長い石段を下って行くのを、わたしは社務所縁側から見ていた。緑濃い社叢林の上はあくまで晴れわたり、蝉の声が滝のように降る暑い日であった。
もちろん8歳のわたしには内容を分らない。その場の情景の記憶のみである。ラジオを聞いていた人たちがこれを敗戦と分かったのは、たぶん、疎開学級の教員がそれを伝えたのであろう。それから数日の後に疎開児童たちは芦屋に戻っていった。
芦屋はその数日前に空襲を受けて大被災、中には親を亡くした子もいたという。あの子たちはその後どのように日々を送ったであろうか。
沈黙の湖になりたる盆の地よ昭和二十年八月真昼
(まちもり散人2014年詠)
その半月後に、父が長い参道の石段を登ってくるのを見つけて、私は飛びついた。
●戦争の記憶を書き記す
77年前にようやく平和が来たことを忘れそうになるので、毎年この日に同じようなことを書いている。
だが、戦争はあの敗戦の日から地球上から消え去ったのではない。ちょっと思いつくだけでも、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争、フォークランド戦争、湾岸戦争、ウクライナ戦争など、地球上は戦争に埋め尽くされている。人間がいるから戦争がある。
ことしはプーチン戦争とでもいうべきウクライナへのロシア侵攻がはじまった。それはどこかなつかしい戦いぶり、つまり20世紀前半時代の戦争の感がある。
そこで、わたしのブログのいくつかのテーマのひとつに「戦争の記憶」を立てて、これまでの記事などをまとめておくことにした。わたしの記憶にある過去と現在の戦争記録である。
その中にはわたしの記憶だけではなくて、大学同期生たちの『昭和二十年それぞれの夏』、中越震災の村の長老『大橋正平戦場物語』という知人たちの戦争記憶もある。
戦争記憶を書かなくてよい日が、いつか来るだろうか。それは私が地球上からいなくなった日であり、戦争がなくなった時ではないことは確かだ。(2022/08/15記)
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