2014/08/16

983終戦記念日の靖国神社の喧騒と千鳥ヶ淵戦没者墓苑の静寂に思うことども

 今年も8月15日に、靖国神社に行ってきた。参拝ではない。まあ、徘徊老人のヒマつぶし野次馬見物である。この暑い陽射しの中を物好きなことである。
 実は去年もこの日に行っているし、その前は2005年に行っている。
https://sites.google.com/site/dandysworldg/yasukuni20130815

 何を見物かと問われれば、あそこは日本社会のある断面の歴史が、ギュッと詰まっているところであり、それが8月15日になんとなくほどけて、なにやかやが露出してくるようなので、それを眺めに行くのだ。
 参拝しないのは、まったく宗教心はないし、霊なるものをまるで信じないからだ。ここに限らず神社仏閣教会いずれでも、拝礼しない。ちなみに、わたしは町の鎮守社の宮司の子に生まれ育った。

 去年は8年ぶりだったので、ちょっと面白かったが、今年は去年と同じ風景で、野次馬見物客としては、なんだか興が冷めた。
 九段坂には、あい変わらぬ右っぽい人たちが露店のごとくに構えていて、ビラを配り署名運動をしており、多くの人が署名している。
 境内でも、河野談話とか従軍運慰安婦とかに異議を唱える書物を積み上げて売り、戦没者慰霊施設設置反対やら、天皇参拝を望む署名活動をしている。

 広場の群集の中に軍服コスプレ男たちがいて、拝殿の前から参拝の長い行列、VIP参拝用の社務所玄関にテレビカメラが何台も国会議員を待ち受け、遊就館なる戦争賛美博物館も賑わい、群衆には男女の若者が多くいて、それは初詣の風景と見まがうのであった。
 この暑い日差しの杜の中の喧騒は、なにもかも去年と同じであった。 

 そこで今年は早めに切り上げて、靖国神社が目の敵にしている、千鳥ヶ淵戦没者慰墓苑に行ってみることにした。初めてである。
両岸の桜の杜の緑が濃い千鳥ヶ淵に沿って歩けば、ここは喧騒から逃れて、セミ時雨が降り続けている。ふとおもいついて、セミ採りならぬセミ撮りをしつつ行く。
 横浜都心のセミもそうだが、ここのセミも逃げないので、手を伸ばせばひょいと捕まえてしまうことができる。少年時に育った神社の境内のセミは、近寄ると素早く飛び去ったものだ。しかも小便をひっかけて。

 千鳥ヶ淵戦没者墓苑の静寂なることは、喧騒の靖国神社とは大違いである。こちらは十数名、あちらは数千人、今日が特別な日であるならば、なぜにこうも違うのか。
 こちらは36万人の無名の死者たち、あちらはA級戦犯など超有名人も含めて名を持つ246万人の死者たち、この差だろうか。
 もうひとつ大きな差があるのは、こちらは遺骨という実体があり、あちらは遺名だけで実体が無いことだ。
 死者は生者の心にしか生きられない。実体があろうがなかろうが、生者は名も知らぬ死者に礼を尽くすことはない、ということか。一般にそういうものなのか。
 もっとも、無神論者のわたしは、どちらにも礼を尽くさないのである。

 献花の名札を右から順に、フォーラム平和・人権・環境福山真劫、衆議院議員簗和生、民主党、公益社団法人日本会、内閣総理大臣安部晋三、天皇皇后両陛下、呉竹会頭山興助、社会民主党党首吉田忠智、う~む、この右から左までの取り合わせが、この墓苑の今の位置を示すのか。

墓苑の入り口の脇に大きな説明版がある。そこに東アジアの地図「先の大戦における海外主要戦域別戦没者数一覧図」があり、総数240万人とある。
 地図に記載されている主な地域の死者をあげると、中国本土465,700、旧満州245,400、フィリピン518,000、中部太平洋各地247,000、東武ニューギニア・ソロモン諸島246,300、ミャンマー・インド167,000などなど、ものすごい数である。
 そんな遠くまでそんなにも大勢が、わざわざ行って死んだのか、と眺めていて、ふと気が付いた。
 出かけて行った先は外国である。そこで戦争をして日本人が死んだということは、外国の戦争相手や巻き込まれ住民たちも戦没したはずだ。その数はいったいどれくらいか。

 日本軍はフィリピンのマニラで市街戦を行ったので、巻き込まれた住民が10万人以上も死んだという。ほかの地でも同様なことが起きただろう。わたしの叔父もマニラで戦ったが、追われて東部山地で戦死した。
 戦争をしに出かけて行ったこちらは死も覚悟だろうが、やって来られて戦争された住民はたまったものではない。その向うの立場の視点を忘れそうになる。
 生者に生きる死者は、生者に対して死者の側からのみ過去を見させるのだろう。

 この海外戦没者の地図を見ていてもう一つ気になったことは、国内戦没者もいたことを忘れてはいけないことだ。
 1942年から全国各都市が空から爆撃を受けた。それによる死者は33万人とある。45年3月の東京大空襲の一晩で10万人も死んだ。
 そしてこれこそが、上に述べた外国のその地の人々の戦没者と同じ立場に、日本人もあったのだ。攻撃が地上か空かの違いだけで、マニラの市街戦と同じである。
 戦争が終わってあしかけ70年、客観的に俯瞰することができるだけの時間は十分に経ったと思うのだが、靖国神社ではいまだに死者の戦争が続いている。

 墓苑は静寂だったが、納骨堂からふと振り返ると、その景観は靖国神社よりも喧騒であった。

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