2023/06/10

1690【横浜寿町の変化・1】横浜都心部の関外にある貧困ビジネス街はどう変わりつつあるか

【横浜寿町・地域活動の社会史2】からつづく

横浜都心部の変化を楽しむ

 今日(2023年6月8日)の朝刊新聞記事に、厚労省の統計で2022年度の生活保護申請が約24万5千件で、2021年度から7%も像か、そして今年3月の生活保護受給申請は24500件、去年同月と比べて24%も増えて、今の受給全数は約165万世帯とある。

 防衛費とか少子化対策費とか巨額国費投入とか、コロナ対策費削減で余裕ある国費予算とか、あるいは好景気らしく納税が空前になりそうとか、なんだか景気がよさそうな雰囲気があるようだ。ところがどっこい、この列島には実際はこれほども多くの貧困世帯がいて、しかも増えているのだから、一体どうなってるのだろうか、どうにもわからない世の中だ。

 日本全体でこれほども生活保護世帯が増えれば、その世帯が集中して住む横浜寿町とか東京の山谷とか大阪の釜ヶ崎などの、いわゆるドヤ街はどんな様子だろうかと考えてしまう。そこでは簡易宿泊所という安宿が増えてきているだろうか。
 ということで、その生活保護受給者約6000人も住む横浜寿町地区(横浜市中区寿町・松陰町・扇町あたり約6haの地区の代表として寿町地区と称する)に徘徊に出かけて、街を見てこようと思いついた。(参照→寿町地区俯瞰概念図


 人口が5000人以上6000人以下の自治体は日本に141もあるから、これは立派すぎる規模の街だ。そしてまた人口密度が1000人/haという極端さでありながら、超高層ビルは一つもないし戸建て住宅も無くて、超狭い住戸(1戸がネット5㎡が珍しくない)が中高層ビルに押し込まれている現実である。

 わたしはこの20年ほどの間、横浜の関内と関外あたりの古くからの都心部を日常的に徘徊をして、街の変化を眺めるのを趣味としている。
 その対象とする主な街としては、商業街として伊勢佐木町・馬車道・元町など、観光街として新港地区・中華街など、住宅街は山手や野毛山あたりの斜面住宅地寿町地区がある。

 商業や観光街の世の景気、特にコロナ禍に左右される激変が面白く、特に横浜一番の繁華街「伊勢佐木モール」の質的低落がものすごい。
 住宅街の世代交代に対応して徐々に変わりゆく姿の継続的観察も面白いものだ。都心部の住宅街は一般に中高層共同住宅街で特に面白くもないのだが、斜面地や崖地住宅街と寿町地区は都心部住宅街の特殊な事例として実に興味深いものがある。
 この20年分の変化を、この辺でまとめて書いておきたいと考えている(ボケると書けなくなるから)。今日からまず寿町地区を書くことにする。

寿町地区でゼントリフィケイションは起きているか

 寿町地区へのわたしの興味の中心は、その変化の動向である。この20年ほどその動きを好奇心で観てきた。この横浜都心の開発ポテンシャルが非常の高い地区が、低所得者層が集中しながらも、その景観は大都市のありふれた姿である。

 だがその居住者層は時代とともに変化も著しい。その内部的な変化に対して、都市の開発ポテンシャルの顕在化がどう影響を及ぼすのか、興味はそこにある。いわば寿町的ゼントリフィケイションはどのようにして起きるか、いや起きないのか、そこに興味がある。

 実のところ、この街の変化は普通に見る分にはほとんど見えない。それどころか知らない人がこの街を通り過ぎても、よくある都市の共同住宅街(いわゆるマンション街)にしか見えない。
 だがこの街は戦争被災地から1950年代半ばに復活して以来、じわじわと変化し続けているのだ。それは目に見えるハードな面もあるが、その住民たちの時代による変化がこの街の中身に及ぼす変化である。特に初期の若くて働く者たちの街から、今は高齢化率が5割を大きくこえる超高齢者の街に変化している。それが街の姿にどう表れてきたか興味深いのである。


 では今日の徘徊は、寿町地区に向かうとして、その西角の長者町1丁目交差点から入る。

寿町地区の西角の長者町1丁目交差点から寿町方面
角地に建っていた1950年代に建った防火建築帯が事務所ビルに建て替わった

 この地区を取りまく幹線道路つまり寿町地区の外殻にあたる道沿いには、原則として簡易宿泊所は建っていない。ドヤ街としての外向きの顔は、地区の外殻にはオフィスビルや共同住宅ビルが建っていて、本物の顔は顔は地区の内部にある。

 ドヤ街入り口の左右にパチンコ屋が構え、上層に駐車場を載せる9階建てのビル、高い広告塔を立てている、近づいてみると1回の壁に張り紙があり、「6月18日をもちまして閉店することになりました」とある。「1998年5月から約20年の営業、、」とも書いてある。おやおや、こんな貧乏人向のギャンブル場でさえも成り立たなくなったのか。

 このビルと道を挟んで向かいにもうひとつパチンコビルがあり、同経営のようだから、これらはドヤ住人相手の商売として、四半世紀前に営業開始したのだろう。だが今やドヤ住人たちはパチンコもできないほどに貧困になったか、それとも超高齢化でドヤから出て遊ばなくなったのか。何しろ高齢化率が6割を越えようとする地区である。

 寿地区でのギャンブル場といえばこれらパチンコ2店のほかに、ボートレース場外舟券売り場があり、2軒の違法「ノミや」がある。これらが同列の商売かどうか全く知らないが、約6000人の地区内居住者がいて、しかもこのような交通便利な都心部でも成り立たないものなのか。

 この近くにあるパチンコ屋は、伊勢佐木町と横浜橋の商店街にもあるが、それらと比べるとここは繁華街でもなく郊外でもない、むしろ住宅街であるから、狙いはドヤ街住人だったのだろうが、貧困介護老人が増えては成り立たなくなったのだろう。
 さてこの跡には何が建つのか、最も考えられるのは高層共同住宅ビル(いわゆるマンション=名ばかりマンション)である。実は現在このパチンコ屋の前後左右のあたりは、共同住宅の建設ラッシュの感もあるのだ。

 このパチンコやビルの斜め向いの街区にいま建設工事中のビルがある。そこの工事看板には「賃貸住宅」と書いてある。以前ここには、1階に店舗の入る3階建て共同住宅ビルが建っていて、これは1950年代後半に戦後復興事業として建った防火建築帯であった。次いでの書けば、、この長者町通りの両側には戦後復興期に多くの防火建築帯が軒を連ねて建設されたが、いまやほとんどが建て替えられて共同住宅ビルになり、残るは数棟である。

寿町地区南西入り口左のパチンコ店は閉店お知らせ中
右手前の工事囲いは1950年代の防火建築帯を賃貸住宅に建て替え中

 この工事中の賃貸共同住宅の立地は、幹線道路を挟んで寿町地区に隣接する街区で、ここのまわりには寿町地区からはみ出したドヤビルが5棟が軒を並べて建っている。
 この敷地南東側に面して首都高速道路の高架があり騒音と排ガスを24時間振り撒いているから生活環境が良くない。一般住宅よりは簡易宿泊所の立地に適する感もある。
 立地環境から販売リスクがあると考えて、分譲ではなくて賃貸共同住宅としたのであろうか。その隣には大きな平地の駐車場があるので、次はここに何が建つか楽しみである。 

寿町地区南西入り口から振り返ってみる。右に閉店予定のパチンコ店、
その道路向かいの高層ビルは今年4月竣工の分譲共同住宅、
正面に見える5階建ては簡易宿泊所(寿町外)、左の工事中は賃貸共同住宅

現在工事中の賃貸共同住宅敷地に建っていた1950年代戦後復興期の防火建築帯

 さきほどのパチンコ屋から長者町通り沿いに南東に歩けば高層ビルが建つが、これは寿町地区の外殻に建つ例外的な簡易宿泊所で5年ほど前に建て替えた(下図中央)。

長者町通りから寿町地区に入るメインゲイト両脇にパチンコ店、その右に高層ドヤ

 この高層ドヤビルの南東隣が長らく空き地(下図中央部)であったが、いま見ると工事用の塀ができて建築工事看板がある。その用途は共同住宅79戸11階建て高層ビルである。パチンコ屋跡とここに新ビルが建つと、この寿町地区の南西側幹線道路沿い、つまり南西側の外殻には一応高層ビルが立ち並ぶことになる。それは3~4年後のことだろう。
長者町1丁目の幹線道路に面して左に高層簡易宿泊所、右は共同住宅
その間にあった空地に共同住宅建設の看板が登場

 ではこれから寿町地区の中に入っていって街の変化を探ろう。(20230610記 つづく)

参  照

1687【横浜寿町・地域活動の社会史】(2)横浜市の都市政策における寿町の位置づけは?  https://datey.blogspot.com/2023/05/1687.html

1686【横浜寿町・地域活動の社会史】都市下層集住社会の課題解決に活動する人々に敬服するばかり https://datey.blogspot.com/2023/05/1686.html

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