2025/06/23

1895【六本木美術徘徊その2】タヌキに化かされながら国立新美術館に行き着いたが・・・

六本木美術館徘徊その1】からの続き


●新美へのでタヌキに化かされた

  篠原一男展のギャラリー間(下図の①、以下同様)のあとは、国立新美術館に行こうと、受付の人に道を聞く。地下鉄乃木坂駅に沿う地下通路を行けば、直線で近いし日も照らないから熱くない近道だと教えてもらった。礼を言ってまた階段を地下の通路に降りたが、地下自由通路はない。

 では地下鉄ホームを通り抜けようとチケットを買おうとして傍らに張り紙に気づいた。地下鉄では同じ駅で入ってまた出るのは禁止とある。ケチな地下鉄だ。しょうがないから地上にまたえっちらおっちら昇って、地下鉄の上になる道路上をてくてく歩く。

 だがこの広い道はバタッと行き止まりになった。左横にある細道に入った。左の金網の中のすぐそばに新美の建物が見えている。これを行けば何とかなるだろう。細道はいつの間にか歩道橋になっている。右下に見える道に並行している。変な道だ。

 歩けどもすぐそばにある新美の敷地に降りる階段がない。だんだんと離れるようだ。おお、なんだか白昼夢になってきたぞ。空には夏の日が輝く。歩けど歩けど人2人がやっとすれ違えるほどの狭い歩道橋から降りる階段がない。

 熱中症で頭がおかしくなってきたか。そうだ、昔このあたりの森に棲んでいて開発で追い出されタヌキが、歩くやつを化かしに来たのか、なんて思う。え~い、それならそれで面白い、とことん化かされてみよう。

 どんどん歩く。何の案内標識もない、だれも通らない。おかしいなあ、地下鉄乃木坂駅から直結する入り口があると聞いたから、このあたりに新美に導く階段があってもよさそうなものを・・・。新美が遠ざかる。

 ようやく左に細い階段を見つけた。階段の向こうに車が通る広い路が見える。ここでタヌキと別れることにして階段を下りれば、目の前に左矢印の先に新美術館との標識がある。やれ嬉しやと広い歩道を歩けどまだ新美は見えない。スガさんが大嫌いな学術会議ってこんなところにあるんだ④。

ギャラリー間から国立新美術館への”遠い近道”

 大回りしてやっと新美西門、入ってさらに正面入口へ坂道をよろよろと登れば、ようやく新美玄関に着いた。いやはや近道と聞いていたから余計に遠かった。だっての出入り口そばまで真っ直ぐに来たのに全くつながっていない。ぐるりと正面迄も大回りさせられたのは、どういう計画で作った道だろうか。タヌキに化かされたみたいだ。暑かった、でもまあよいリハビリ運動になった、ありがたや。歳取ると心も広くなる。

左に新美術館に西門がようやく現れた 正面には六本木ヒルズのドデブビル

●久しぶりの国立新美術館で見たのは、

 久し振りの新美だ。今、このブログを検索したら2016年3月に、大学同期仲間5人とともにここを訪れた記録がある。倉敷の大原美術館の出張展示を見に来たのだ。思えば、その時の5人の内の2人はもういない。(そのブログ記事

 まずはかつての東大生産技術研究所の建築の残骸を眺める。美術館別館となっているが今日は土曜日は閉館中、ここだけ見て帰ってもよい気もしていたが残念。この生研には何度か訪ねてきた記憶がある。思い出せば訪問先は池辺陽、村松貞次郎などだった。新美設計者の黒川がほんの少しだけ残してくれた歴史建築だが、今では誰も覚えていないだろう。


 新美術館に入り、昼なのでロビーでサンドイッチと紅茶を買って昼食。そばのTV画面にこれから見ようと思う「リビングモダ二ティ展」の映像が流れている。見ても興味が湧かない。でもせっかく来たのだから見ようと展示ホール入り口に行くと長い行列、さすがに篠原展とは大違いだ。

 わたしはなんでも行列して待つという行為を大嫌い。2階の出口に行って会場内をのぞき込むと、モダンデザインらしい家具や照明器具などが並んでいるのが見える。とたんに、なんだまた例のモダンリビングかと、もう展示を見るのが嫌になった。菊竹も藤井もミースも土浦もカーンももういいやという気になった。早く言えばもう建築はいいやという気分だ。

 でもせっかくここまで久しぶりに来たのだから何か見ようと探す。書の展覧会が二つもあるが、同じようなものがいっぱいぶら下がる。マンガアニメゲーム展という私には最も縁が薄い展示がある。これでも見ようと入った。興味がわかぬままに一応見て出てきた。

●六本木徘徊目的は、、

 さあ、これであとは六本木の街を見て帰ろうとしたら、美術館から地下鉄乃木坂駅に直結している出口を発見、なんだ最初からこちらに来れば、階段の昇り降りしなくてよかったのだ。とたんに疲れがどっと出てきて、地下鉄駅にエレベーターでスムースに入って帰宅した。

 久しぶりの六本木行きは街を全く見なかったが残念だ。この街には夜の遊びには行かなかったが、六本木駅につながる共同ビル計画で1年くらい通ったところだ。あのビルはまだ建っているだろうか。アークヒルズにも社会人相手のまちづくり塾講師として毎週通った。あの辺りも建て替えが進んでいるだろうな。

 無事に帰りついたが、かつてあの辺りを何度もうろうろしているから、そのころの自分を思い出して比較すると、わが身体の衰えを知るのだ。
 街歩きは街の変化を楽しむのだが、同時にわが身体の衰えを自覚して悲しむことにもなる。いやいや、これもリハビリになった運動だったと慰める。

(2025/06/22記)

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2025/06/22

1894【六本木美術徘徊その1】久しぶりに六本木徘徊しようとまず建築家篠原一男展に行った


  昨日(8月21日)、急に思い立って久しぶりに六本木に出かけた。六本木あたりの美術館巡りと街の変化も見てこようと思う。4年ぶりくらいだろうか。

 まず「ギャラリー間」の「篠原一男展」を訪問。ここは初めて来る美術館だが、TOTOという陶器製品屋のショールームがあるビルの3階である。その前に地下鉄乃木坂駅からのアプローチでひどい目にあった。このあたりは坂だらけの地形だから、階段だらけである。今や杖付き老人のわたしはエレベータやエスカレータのお世話になっている。だが、ここではヨタヨタと急な階段を昇るしか行きようがないのであった。

 ビル3階の展示場に入ると、大勢の外国人らしい人たちがいる。おお、こんなにも人が来るのかと見まわす。この篠原一男という建築家は、建築系の人たちには知られていても、一般にはほとんど知られていないだろう。大勢を前に男が2人英語でしゃべっている。解説のようだ。どうやら団体客らしいが普通の観光客ではあるまい。このひとたちは何者だろうか。

 小さな展示場で住宅模型と原図そして写真類が展示してある。寡作の篠原にふさわしい規模だ。展示が「から傘の家」から始まる。今ではドイツのどこかに移設保存してあるらしい。先日死んだ詩人谷川俊太郎の家もある。傾いた土間で暮らすのは面白そうだと記憶がある。

 「から傘の家」で思い出したが、篠原の先輩にあたる人で「番匠谷暁二」という都市計画家がいた。この人は主にヨーロッパを拠点として中東やアフリカの都市計画の仕事をした。その若い時に日本での建築作品に「正方形の家」があり、まさに「から傘構造」そのものであった。この家のことは松原康介氏の論文に詳しい。

 わたしは東工大1年生(1957年)の時に、篠原に図学を教わった。その内容は忘れたが、図学演習にはけっこう面白く取り組んだことは記憶の底にある。在学中はそれ以上のことは無いのだが、その後に建築の雑誌に発表する作品には興味を持ったものだ。

 だが、わたしが直接に接したことがある篠原の作品は一つだけ、東京工大百年記念館である。今は東京科学大学博物館というらしい。そういえば、この建築は図学の演習課題の実物のようである。東科大正門横にワニ口頭を振りかざすメカゴジラ姿は、かたわらに隈研吾設計の草叢建築を従えて好一対になっている。

篠原一男設計・東工大百年記念館(東京科学大博物館)

 80年代初めに、東工大の研究室に篠原に会いに、近藤正一と一緒に訪ねた記憶がある。わたしは当時はRIAに在籍しており、建築家山口文象の作品と評伝(「建築家山口文象 人と作品」)を制作編集作業中だった。

 山口は晩年に東工大非常勤講師をしていたので、山口と篠原に接点があったかと聞きに行った。篠原の口から一般的な話は出たが、山口との接点は特になかった。

 篠原直筆の原図の展示がある。その木造住宅は小屋組みなんてものはなくて、どれも垂木構造のようだ。あの詳細圧縮表現とでも言うのだろうか、木造住宅の1/20の詳細平面図を懐かしく見た。わたしも昔々にこんな図面を真似して描いた覚えがある。

 混んでいる3階を避けて4階に行き、見終わって3階に戻ると、もう誰ひとりいない。土曜日でも、篠原展を見に来る人はまれなのだ。ゆっくりと鑑賞して、辞したのであった。
 この後に行こうする国立新美術館の「リビングモダニティ展」もそうだろうか。

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2025/06/14

1893【歌集をつくる】今年は友人の歌集を毎月発行しているが多分これが最後の本づくり趣味遊びだろうな

 家庭用プリンターのインクが高価なのにイヤになる。購入して5年になるが、もうプリンターを何機も買えるほどにもインク代を費やしている。プリンタメーカーの商売策策略だろうが、その手に乗らざるを得ないのがしゃくだ。

2014年からの発行歌集と最近のプリンターインク残骸

 わたしの趣味は、本の手作りである。基本的にはPCを使って自分で原稿を書き、編集し、本のデザインをして、家庭用プリンタで印刷し、机上の紙工作で本を製作するのだ。
 できあがった本の具合を眺めて満足し、知り合いに読め読めと押し付けるのである。これが趣味である。たぶん、陶磁器つくり趣味と同じだろう。

 今年は、歌人である幼馴染の友人が詠む歌を、毎月選歌して、個人歌集として、わたしが制作発行している。これには更に共通の友人二人が加わって、それぞれの趣味の花と絵の写真を添えるのである。こうして歌詠み、花づくり、絵描き、本づくりそれぞれ趣味の4人の仲間による共同制作である。なんと典雅な遊びであろうと、密かに自負している。

 毎月の発行部数は、原則として10部である。今年3月に第1回目を発行して、4,5,6月と毎月発行して、現在のところ56冊まで来ている。
 歌人が毎月に詠む歌は数十首あるが、そのうちから数種を選歌して、毎月発行の歌集に載せる。第五歌集最初の3月発行分は90ページだったが、毎月の歌の追加により、来月分は100ページを超え、このぶんでは年末にはどうなるだろうか。

 本づくり趣味のわたしは、毎月の歌集を制作することを楽しむ。同じ歌人の歌集だから、毎月の歌集の基本的なデザインは変えないが、変えないままだと趣味としては面白くないから、ところどころ手を入れて楽しむ。これって盆栽趣味に似ているだろうか。

 実はこの歌人の歌集つくりをわたしが始めたのは、最初は2014年であった。この人の第一歌集発刊は2007年で、この時は歌集出版のプロによる商業出版だったから、広くゆきわたり、わたしも近所の市立中央図書館でこれを手に取った。

 次の2014年第二歌集からは、わたしの本づくり趣味で発行してきて、今年は第五歌集である。これまでは一度に100冊くらいを制作発行していたが、この第五歌集は毎月10部発行10カ月続けるという、長期プロジェクトにした。

 そうしたのには、それなりの理由がある。これまでの第二から第四歌集まではソフトカバー本であった。だが、今回はハードカバー本にした。歌人の希望でもある。
 それは4人の仲間はみんな米寿を迎えて、たぶん、これが最後の歌集になるだろう、だから手間がかかろうとも、見栄えのするハードカバーにすることにした。中身は同じでも、手に取ればそれがよく分る。

 ハードカバー本の制作は費用はたいして増えないが、手間が10倍くらいはかかる。本の製作はあくまで趣味だから、数冊ならともかく、100冊以上もとなると、制作には時間がかかって、趣味を超える。そこで今回の歌集づくりは、1年がかり長期プロジェクトとしたのである。製本を外注外注しようかとも思ったのだが、それでは趣味にならなくなってしまう。

 一年がかりならば、わたしのハードカバー本つくりもマイペースでやることができるし、歌人の歌詠みもいつものペースで進めつつ、歌集に採録できるのである。途中で老いが行く手をふさぐかもしれないが、少なくともそこまでの歌集はできあがる。

 もっとも、最初の歌集と最後のそれとは、収録する歌の数が異なるが、それもまたよろしい。ついでに毎月発行には、と称する小冊子を織り込み、そこには花と絵と本をつくる仲間の随想を載せる。

 そうやって現在は3月から6月発行号迄の毎月発行で4か月分で計56冊となり、予定よりは多く発行できている。実費支出は今のところで4万円余り、一番の支出はプリンターのインク代であることは冒頭で述べたとおりだ。

 暇な年寄りの遊びであり、歌人たちもわたしも楽しんでいる。もしかしてこれによって老人ボケ進行が遅延しているかもしれない。歌人も本つくり人も老いは待ってくれない。詠み人と本づくり人のどちらが衰えても歌集発行は止まるが、それはそれでよし、そう言う記録がっても面白い。

 だが、このところ1カ月ほど忙しくなって、本づくりペースをちょっと下げなくてはなるまい。これも締切がないも同然の長期プロジェクトだから調節できると分かっって良かった。じつはわたしは今、棲み家の引っ越しを目論んでいる。人生17度目にして最後から2番目になるはずだ。それはそれでぼけている暇がない。これについては別に書くことにする。

                         (2025/06/14記)

このブログ内で関連する記事
2024/03/06【歌集プロジェクト】歌詠む人花咲かす人絵描く人本作る人・・https://datey.blogspot.com/2024/03/1801.html

◆自家製ブックレット「まちもり叢書」シリーズhttps://datey.blogspot.com/p/machimorisosyo.html

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2025/06/04

1892【長嶋茂雄という人が死んだ】この報道ぶりから見ると安部さんなみの国葬になるに違いない

  昨夜(2015/06/03)、フェイスブックにこんなことを書いた。

ーーーーーー

【長嶋茂雄死す】今、たまたま聴いていた午後7時のNHKラジオニュースで、長嶋茂雄という人が死んだと言っている。わたしは見世物スポーツに全く興味がないが、それでもこの人の名を聞いた記憶があるから、有名なのだろう。

 それにしてもニュースが始まってから10分近くもこの人の死の話をしている。うちにはないから見ないがTVではもっと長いだろうなあ、そんなに重要なニュースなのか~、ふ~ん、そんなことより米騒動の方がよほど重要だろうに、珍妙な世の中である。

 あ、いま息子に長嶋の年齢を聴いたら89歳だそうだ、その年なら死んでも不思議ではないよなあ、でもニュースになるんだ、そうか、俺の1歳上かあ、ふ~ん。

ーーーーー

 ここまでは昨日の夜に書いたが、今朝の新聞は第1面トップ記事だよー、隣国プレジデント選挙がかすむし、米騒動がどうなろうが、ロシヤが戦争しようが、日本の今日はこんなにも平和なんだよ~、平和であることが不気味でさえある。

朝日と東京両新聞の第一面トップ

  6月4日朝の朝日新聞東京版は6つの面(全24面)に長嶋記事、東京新聞東京版も6面(全20面)というありさま。TVはたぶん長嶋特集番組ばかりで、庶民はかじりついて哀悼しているんだろうなあ。

 うちにはTV受像機がないし、あっても見ないだろうが、その番組は、もうとっくに用意万端整えてあり、彼の死をいまか今かと待っていたに違いない。新聞記事もそうだろうな。

 これはもう、安部さんなみに国葬になるに違いない。

 わたしとひとつしか違わない歳の人だからこの身にひいて思うのだが、死ぬことを世の中から待たれている人の老いの人生とは、いったいどんな気分だろうか?、なかなか死なない意地悪をやるとか、いつ死んだか皆目不明にしてしまう方法を考えるとか、なんだか面白そうだ。

 関連して思い出した言葉がある。巨人大鵬卵焼き」である。庶民の好きなものをオチョクルのだが、これが流行った60年代は長嶋茂雄が巨人チームで活躍していたのだろう。ついでオチョクリ言葉「阪神柏戸カレーライス」も思い出したが、これはわたしが作ったのであり、オチョクリ言葉をさらにオチョクったのだった。
(20250604記)
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2025/06/01

1891【戦後復興期都市建築研究】昔々担当した都市建築プロジェクトが研究対象になるほど古老になった

  先日のこと、K大学の旧知のN教授から、60年代後半に担当した某市駅前の防災建築街区造成事業について、当時のことを聞きたいとの連絡をいただいた。ではヒマツブシにキャンパスを久し振りに訪ねて、変わり様を見たいと思い出かけて行った。出歩くのがボケ遅延策でもあるのだ。

 久し振りに大学院生の若い男女たちと面と向かいながら、専門的なレクチャーのようなことをした。気持ちよく話をできたが、。院生の反応がもうひとつだったのはこちらのせいだろう。筑波大、東工大、慶応大、東京理科大と非常勤講師を渡り歩いていたから講義には慣れている。

 しかしもう歳が歳だから以前のようにレクチャーは無理だろうと思っていた。研究室で何か質問してくれればボチボチ話そうと思っていたら、意外にもゼミの場に連れていかれた。しかも十数人の若い男女の院生たちがいる。

 彼らは日本各地の戦後復興期の都市建築作りであった建築防火帯や防災建築街区の研究をしているという。実は数日前に別の大学の学生からも、全く同じ件について問い合わせメールもあったのだ。

 それはつまりわたしが現場でやっていたことが歴史的事実として研究対象になったということ、つまりそれほどもわたしが老いたということだ。別の言い方をすれば、いわゆるわたしは古老になったのだ。複雑な気分だが、聞かれて答えるのは気分よろしい。

 これまでも他の複数の大学の学生や院生から、同様な問い合わせは何回かあって、メールで答えたことはあった。それで済んでいたから今回もその程度のことだろうと思ったのだが、こんなにも大勢の若者たちが熱心に取り組んでいるのには、ちょっと驚いた。

 問われた防災建築街区プロジェクトについては、これまで何度か専門的出版物に書いているし、わたしのインタネットサイトにそれに関するページもある。またわたしのPCの中には、防火建築帯も含めて、それに関する雑多の資料が蓄積されている。

 今回の研究現場状況にちょっとわたしは反省した。これまでもっと真摯に対応するべきであったと。そこでわがPCの中のこの件に関する資料の発掘に取りかかった。ざくざくと出てきたので、ざっと見ていたらいろいろと忘れたことも思い出してきた。

 ゼミで話が足りなかったのを反省して、それらを重いフォルダーにまとめて教授にEメールで送ったのであった。もっとも、古い資料がどれほど役に立つのか分からぬし、わたしだけしか判読できないかもしれない。研究者たちの熱意で跳ね返ってくるかもしれない。

 わたしはPCの中に仕事関係や独自研究等の資料がかなり多く蓄積しているはずだし、整理の仕方は自分流だがまあまあ良いはずだ。紙資料は他に寄贈したり廃棄して全部処分した。 思い出せばほかの件でもネットを見たからと、いろいろな人から問われることもある。

 今回のことから考えると、けっこうな量の資料があり、有名なプロジェクトもある。例え

ば40年くらいも前にやった東京駅の再開発調査は、いまの赤煉瓦駅舎復元を決めるまでの紆余曲折の実に面白い仕事だった。

 これは世間的にも有名なプロジェクトで、わたしのネットサイトにも多くの駄文を載せているのだが、これに関して研究者から問い合わせを受けたことがない。それはまだ研究対象になるだけの時が経っていないということだろう。

 もっとも、わたしのスタンスが、都市計画中心だし、東京駅復元に反対の論、つまり敗北した主張だから、興味をひかないのはもっともである。個人的には出自の建築史から専門としていた都市計画にまたがる仕事だったので実に面白かった。

 問い合わせが比較的多いのは、建築家山口文象についてである。これについては、その主人公が日本近代建築史の特定の位置にいるから多くなるのは当然だろう。わたしがたまたまその人のそばにいる時期があったので、その評伝を出版物にまとめる仕事をする機会があり、それだけではなく独自研究も合わせて、わたしのネット掲載したのである。

 さて、わたしももうこの世から消える時期が近い。それで近頃思うのだが、わたしのサイトに載せる様々の公開駄文と、その裏にあるわたしのPCに蓄積の資料類を合わると、かなり重いデータ量であろう。それらがわたしが消えるとともに消える。同じ様なことは地球上のあちこちで多くの人々に日々起きているだろう。

 これをあれこれ考えると実に面白いので、次の論考にしよう。(つづく)

(2025/06/01記)

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