大学の学生食堂のTVが、大相撲中継を映している。
相撲取りにしてはスマートでしかもイケメンの若い男が立ち上がった。ほ~、こんなのもいるんだ。
その若者は相手を押して押して土俵際、相手も徳俵で頑張る、その瞬間、相手の両脇にさしていた両腕をすっと抜いてその両手でどんと相手の胸を押した。途端に勝負あり。
へえ~、あんなきわどい瞬間にそんな芸当ができるんだ、すごい。
これがわたしがはじめて見た大鵬であった。
1958か9年あたり、大学食堂で遅い昼飯を食っていたのだから、大相撲もまだ番付が下位の取り組みである。
だから後の大横綱大鵬が、幕内に登場したての頃だろう。わたしは相撲好きでも何でもないのだが、その勝負のTV映像は奇妙に印象に残っている。
TV受像機の普及は、1964年の東京オリンピックまで待たなければならない。そのころは駅前に「街頭テレビ」なるものがあった。
東横線自由が丘駅の軒先にTVがぶら下がっていて、大鵬と柏戸が登場する時刻には、駅前広場に人があふれたものだった。
そのTV電波は1958年に建った東京タワーから発していた。
大鵬と東京タワーは日本がようやく戦後から脱しようとしていた時代の象徴であった。
そうだ、建設途中の東京タワーを見た記憶がある。
1956年、経済企画庁の経済白書は「もはや戦後ではない」と書いたが、大鵬をはじめて見たころの学生食堂での飯は、「外食券」(コメは政府による配給制だった)を出すと2円だったか安くなったものだ。定食が20~30円の頃である。
庶民はまだまだ戦後を引きずっていた。
「巨人・大鵬・卵焼き」とは、その頃に流行ったフレーズだが、だれが最初に言ったのだろうか。庶民の一番人気者を皮肉を込めて並べているから、大宅壮一あたりか。(追記、違っていた、言いだしっぺは堺屋太一だったとネット情報あり)
わたしはもっとひねくれていて、「阪神・柏戸・カレライス」と、自分で発明して言ってたものだった。要するに1番手に対する反感と、2番手に対するシンパシーである。
後に「江川・ピーマン・北の湖」とのフレーズがあったらしいが、それは知らなかった。ただ、この並べ方には見え見えの意地悪さがあって、上手ではない。
今の世ではなんというのか。TVを見ない都心隠居老人にはさっぱりわからない。
見え見えの底意地悪さを承知で言えば、ただ今のわがNOTORIOUS御三家は、「東電、橋下、ノロウィルス」
大鵬が逝き、2代目東京タワー(スカイツリーとかいうらしい)が建ち、軍隊を持とうという首相が出てきて、戦後復興東京駅は姿を消して戦前の姿に戻った。
もはや戦後ではないどころか、今や戦前である、かもしれない。戦前の次は、いうまでもなく戦中である。
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北の湖
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