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2025/05/26

1888【大阪駅で浦島気分】大阪駅乗降プラットホーム上空大屋根の巨大架構による大空間が凄い

 ●西方旅行の途中で大阪駅へちょっと途中下車

 5月半ばに西への旅の帰りに途中下車して、1時間ほど大阪駅から街を眺めてきた。
 大阪へは、市内に住む伯母の家を、少年時からよく訪ねたものだ。
 長じて、社会に出てすぐの60年代に2年ばかり、70年代も2年ほどを大阪駅近くの勤務先に通ったことがある。

 その後はめったに大阪に用もなかったので長いご無沙汰である。だから今度の米寿記念ともいうべき旅で、大阪へも最後かもしれないと、大阪駅あたりだけでも見ることにした。何年振りだろうか、大きく変わっているに違いない、浦島太郎気分が高まる。

●全く見も知らぬ大阪駅表口風景

 大阪駅の表口とでもいう南側の駅前風景は、昔と全く違う見も知らぬ風景になっていた。超高層ビル林立で空を見るには首が痛くなるほどに風景は大きく変わっていた。

 昔はせいぜい30~40mくらいの高さのビルばかりだった。丸ビルと名付けた円筒状のホテルがちょっと高かったくらいのものだった。そういえば駅前でよく入った店は「旭屋書店」だったと思い出したが、どこにも見えない。

大阪駅南の駅前で西方面街並みを眺める

大阪駅南口前から東方を見る 左に阪急?、右に阪神?

大阪駅東口前の阪神百貨店はこんな形になっていた

 少年の頃に伯母の家を訪ねるためには、大阪駅南口から阪神電車に乗り替えた。それには阪神百貨店の地下に入った。阪神電車駅は今もその位置らしいが、百貨店ビルは超高層に建て替わっていた。そういえばその地下にあった全国名産品店街とか薄暗い飲み屋街はあるかしら、階段横の串カツ屋はどうだろう?
 とにかく駅前の広場や道は、昔の通りの位置や広さらしく見えるのだが、どこもかしこも超高層ビルが道路際までいっぱいに建っていて、緑や空が見えなくて実にうっとうしい風景になっていた。

 緑らしきものは御堂筋にある梅田吸気塔の周りの樹木群だけのようだ。この村野藤吾デザインの吸気塔が今もその形で立っているのが、なんだか不思議であった。まさかこれも超高層にはなるまい。

村野藤吾デザインの梅田吸気塔と樹木

 歴史的近代建築としてどうなったかちょっと気になっていた大阪中央郵便局も、超高層建築に建て替わっていた。東京駅前のそれと同じKITTEとネーミングだそうだから、同じように下半身には元のデザインを生かしているかとみれば、つまらぬビルになっていた。遠目で見て、近くに行く気にはならなかった。

大阪中央郵便局舎が建て替えられてKITTE大阪に

 そんな大阪駅前に建って左右を見渡していたら、東京のKITTEのように昔の姿を継承しているビルがひとつだけあった。かつての阪急百貨店が超高層ビルになっているが、その下半身にはかつてのビルのイメージをかなり上手に生かして継承している。その阪急百貨店うめだ本店だけは、そこに昔は何が建っていたか、わたしにも思いだすことができて、浦島太郎気分ひとしおであった。

阪急百貨店が建て替えられて阪急梅田本店ビル

●大阪駅北側の操車場跡地開発もチラリ眺めた

 そうやって懐かしい表口をながめ、かつては無かった裏口(北口か)も眺めてきた。こちらは広大な鉄道操車場があったこと、その一部が開発されて梅田スカイビル(原広司設計)だけが建っていたころの風景までは知っているが、その後は全く知らない。

 しかし最近その再開発ができ上ったらしく、ネットにその風景がちょくちょく登場する。それには巨大商業ビル群、超高層ビル群、広大公園緑地空間が見える。なんだかよくある開発風景で、もう実物を見なくても分かった気になってきている。

 ここは再開発といっても事実上は新開発だから、昔の姿を思い出して、浦島太郎気分を楽しむことができなくて、つまらないのである。そこが表口とは大きく違うのだ。駅裏(北)に建った駅ビルから、チラリと眺めて見て引き返した。

大阪駅北の操車場跡地開発をちらりと遠望

●大阪駅プラットホーム空間再開発が素晴らしい

 実を言えば裏口の操車場跡地開発を見る前に、大阪駅そのものの再開発に大いに惹かれてしまったのだ。結論を先に言えば、大阪駅あたりの再開発で、もっとも感銘を受けたのが、大阪駅そのものの再開発であった。表も裏もホンのちょっとだけ見てそう言うも気が引けるが、いや、まったく大阪駅こそ物凄い再開発だった。

 大阪駅の沢山の列車乗降プラットホーム全部を、はるか上空に大屋根をかけて覆ってしまうとは、じつに大胆である。京都駅のコンコース大屋根もすごいと思っていたが、こちらはプラットホーム全部だからすごい。

鉄骨の架構がダイナミックに上空をよぎる コンコースのしつらえがチャチに見える


コンコースが中間にあるためにプラットホーム迄全体を見下ろせないのが残念


 外国の鉄道駅では、大きな鉄骨ドームをかけた駅は、ハンブルグ駅やミラノ駅などいくつか利用した経験はあるが、日本では初めてだろう。なんと2011年完成だそうだから、14年もわたしはそれを知らなかったのだ。浦島太郎である。

 上記の例のような外国のそれと違うのは、こちらはホームと大屋根の間に広いコンコースが架かっていることだ。だから鉄道の出入りや乗降客の動きが、大屋根の下に一目で見渡せないのが惜しい。あの大空間であの頻繁な鉄道列車の動きがあると素晴らしいダイナミックな風景になると思う。ヨーロッパで見たあのおおらかな空間ではないのが惜しい。

 それでもホームとコンコースを全部まとめて上空に架かる大屋根の架構のもたらす空間のダイナミックさにほれぼれした。文章でも写真でもとても表せない。体験するしかない。
 ともかくもこ こに途中下車して眺めた大阪駅とその周囲の景観ベスト3ランキングをしよう。もちろん駅とその周りでわたしが1時間ほど眺め体感した範囲の偏見と独断である。

 第1位:JR大阪駅プラットホーム上の大屋根空間(設計:JR西日本)
 第2位:阪急うめだ本店ビル(設計:日建設計)
 第3位:御堂筋の中に建つ梅田吸気塔(設計:村野藤吾)

(2025/05/26記)

このブログ掲載の西への旅日記

・2025/05/20・1887【故郷の浦島気分】もう30年も唱える「高梁盆地≒アルトハイデルベルク説」は故郷に通じなかった https://datey.blogspot.com/2025/05/1887.html

・2025/05/18・1886【わが設計の父母旧宅】築60年モダンリビング木造小住宅が今は古民家民泊施設として生き残るとは! https://datey.blogspot.com/2025/05/1886.html

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2025/05/18

1886【わが設計の父母旧宅】築60年木造モダン小住宅が今は古民家民泊施設として生き残るとは!

 久し振りに旅先に宿泊する長距離の旅に出てきた。本当はそんな気はないのだが、歳相応にこれが故郷見納めの旅というと、いかにも格好がよろしい。
 横浜ー三原ー備中高梁(2泊)ー岡山・庭瀬ー大阪駅ー横浜だった。予定通りに円滑に終えたのは、介護役の息子がいっしょに行ってくれたからだ。もう、一人旅は無理かもしれないと、浦島太郎気分でもあった。

 ちょっと面白かったのは、岡山市内のかつて父母が住んでいた家が、なんとまあ古民家民泊として今も生きていることだ。今回の旅のためにホテルをネット検索していて発見した。
 あの1966年にわたしが設計して建てたのだから、いまや古民家と言っても嘘ではない年代物だが、イメージとしては古民家ではない。その当時のモダン小住宅として設計したものを、幾分かの増築と改装がなされている。

父母の旧宅が民泊の広告としてフェイスブック登場

 この小住宅の顛末をこのブログに書いているから、ここに簡単に書く。
・1966年 高梁盆地内の神社宮司で高校職員だった父が退職、岡山市西郊に小住宅を建てて移り住んだ。その設計は駆け出し建築家の私だった。父は岡山市内の神社の権禰宜となった。
・1993年 老齢のために権禰宜を退職し、息子がいる大阪市内の共同住宅に移転、岡山の家は空き家となった。日本の高齢化と空き家問題の典型的事例となった。
・2015年 岡山の空き家を不動産業者に売却した。業者は取り壊さずに改装して賃貸住宅にしているようであった。
 
 今度の旅でこれを訪れる予定はなかったが、ネットで発見して急に興味が湧いて途中下車して、外観だけ見てきた。岡山西郊の駅から徒歩十分ほどの住宅地は、それなりに整備されてきており、大学もあって若い者たちも多く住む街の雰囲気だった。

 父母の旧宅は、細い路地を入ったところにある。路地手前の右側の家は建て替えられていたが、左側のアパートと住宅は昔のままだった。父母の旧宅は板張り外壁を黒く窓枠を白く塗った程度、庭の植栽がなくなった程度の変化で、その他は特に変わりはない。家の西側の水路もそのままである。

 こうすれば民泊としてネット宣伝になるものかと、ちょっと奇妙な気もする。路地に立って眺めていると玄関引き戸が開いて、幼い少女が出てきた。金髪の外国人のようだ。つづいて男児らしい赤んぼが這いながら出てきた。これは泊り客かしらとみていると、その子らの母親と思しき女性が出てきて這う子を抱き上げて、こちらにちょっと会釈して3人ともに中に入った。

 わたしたちも親子だが、その親子をあっけにとられてみていた。空いたままの玄関戸の向こうの板の間で、大きなおもちゃで幼女が遊んでいたし、庭には子供の洗濯物がたくさん干してあり、雰囲気としては旅行者ではなくて長期滞在者のようだった。もともと住宅だから、一戸貸しの民泊は長期滞在者には向いているだろう。なるほどそのような使われ方もあるのかと、何となく納得して引き返した。

 あの当時のモダン小住宅が、こうして今も使われているとは、それなりにわが設計が良かったからだと勝手に思うのである。わたしは当時の住宅金融公庫の木造住宅設計仕様に忠実に、基礎や木組みを設計しておいたのだ。
 建築当時に父が工事業者から、「高梁の方は基礎をこんなにも頑丈に作るんですね」と言われたという言葉を思い出す。更に、建って50年後にわたしが不動産業者に売った時にも、「この家は珍しくこんなに古くても傾いていませんねえ」と言われたことも思い出す。

 これがいまだに取り壊しも建て直しもされずに未だに建っている理由を、実はわたしは知っている。それはこの土地が狭い路地の奥の旗竿敷地だから、破却ゴミや建設資材を運ぶ自動車が直接に入れないため、人力運搬を余儀なくされるから、一般よりも余計に多くの費用がかかるからだ。壊さずに修理して使えるならその方が有利なのだ。

 それにしても外観の変わらなさと比べて、内部のプランの変わりようが興味深い。民泊にするにはこのような妙なプランが好まれるものなのかしら、面白い。

  現在の民泊の平面図(ネット広告から)    父母が住んでいた当時の平面図

1966年の建設当初の姿
2025年5月父母の旧宅は改装されて民泊に。玄関前に泊り客らしい幼児二人

路地入り口から見る

水路から眺める 両隣はどちらも建て替え済、左は戸建て住宅、右は2連戸2階建て住宅

 この地は近世の庭瀬城がすぐそばにある歴史的には古い町らしい。さすがに岡山駅まで2駅の山陽本線の駅前で便利な地だからだろうか、住宅地の整備が進んでいるようだ。特に何○○メゾンと名付ける低層共同住宅がたくさん建つ傾向だ。○○マンションと名付ける高層共同住宅ではないところが、こちらの流行だろうか。他にも古民家民泊があるのだろうか。
(20250418記)

ーこの住宅に関するこのブログの記事ー
・2025/04/263【西方への旅に】久しぶりにホテル宿泊を電話予約https://datey.blogspot.com/2025/04/1883.html
・2014/11/11いま日本中で起きている空き家問題にわが身が直面
・2015/05/01【父の家を売る】日本の空き家問題がひとつ解決かも https://datey.blogspot.com/2015/05/1083.html

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2025/04/26

1883【西方への旅に】久しぶりにホテル宿泊を電話予約すればなんだかひっかかる言葉遣い

●西方への旅に 

 久し振りに泊りがけの旅に出かけることにして、ホテルに予約電話を入れた。今どきはネットで予約するのが普通だろう。それをわざと電話にしたのは、近ごろネット予約業者にトラブルがあるとニュースを読んだからだ。

 生まれ故郷の街にある国際ホテルと銘打った宿である。代表電話に出てきた女性が予約を受け付けるという。

「宿泊予約お願いします。5月14日と15日の連泊で、大人二人ツインをお願いします」

「はい、ありがとうございます。その両日とも空き室がございます。おとなお二人さま、ツインですね」

「はい、お願いします」

「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」

(え、名前を言わなくて予約できるのか?)え、伺ってもよろしいかどうかと、わたしにお聞きになるということは、よろしくないと申し上げてもよいのでしょうか」

(へんな客だなあ)お名前をおしゃらないと、ご宿泊を受けることができません」

「それならば、お名前を教えてくださいと、普通におっしゃいよ、はい、ダテヨシノリと申します」

(なんだか面倒な客らしい)はい、ダテヨシノリ様ですね。なお、ツインのお部屋は禁煙ですが、よろしかったでしょうか」

(おお、懐かしき過去形会話だ)えー、まだ禁煙希望とも何とも何も言ってませんが、はい、禁煙でお願いします」

「はい、では禁煙でよろしいですね」

「いやいや、禁煙でよいのではなくて、禁煙のほうよろしいのです(意味が通じたかしら)

「は、(ヘンな客だなあ)、ハイ分かりました」

 この後、朝食付きとか、料金とか、キャンセル条件とか教えてもらって、ようやく予約完了、ほっとした。さて当日はちゃんと泊めてくれるのだろうなあ。
 ネット予約手続きも、あちこち飛ばされたり余計なこと書かされたりして面倒くさいけど、電話会話予約も、言葉にひっ掛かってけっこうめんどくさい。こういうのを年寄りというのだろうなあと、近ごろつくづく思う。

●私の設計の古民家が宿泊施設に

 その地域あたりのホテルをネットサーフィンしていたら、意外な宿泊施設のサイトを発見した。古民家一棟貸しの民宿と言うのか民泊と言うのか、岡山市内にあるそれは、なんとまあ、昔々1966年にわたしが設計した今は亡き父母たちが住んでいた木造の小さな家である。まさに築60年の古民家であるが、あれが宿屋になるものかしら。

 父母が出て行ってから20数年もの空き家のままだったのを、10年前に地元の不動産業者に売却した。それを修復して貸家にしていたらしいのは知っていた。その小さな古家が壊されるのではなく、内外共にきれいに改修されて今は宿泊施設になっているを発見して、驚いた。

 あの住宅地の周りの家々は建て替えられているのに、これだけは改修されながら生き続けているのは、元の設計がよかったので、傾いたりしていないからだな、えへん。
 今度の西への旅では数少なくなった幼馴染に会うのが目的だが、旅目的をもうひとつ加えて、泊ろうとは思わないが見てみたいので途中下車しようかな。
 そのことは現地訪問できまたここに書きたいが、とりあえずそれが建った当時の写真(右)と、現在の写真(左、宿泊施設のネットページから引用)をのせておく。

(20250426記)

(20250605追記)
 2025年5月16日に、この民泊となった父母の旧宅を外から眺めてきた。
・参照:2025/05/18・1886【わが設計の父母旧宅】築60年木造モダン小住宅が今は古民家民泊施設として生き残るとは!https://datey.blogspot.com/2025/05/1886.html

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2025/03/13

1872【鎌倉徘徊】久しぶりに第二の故郷鎌倉を早春の徘徊ミニミニセンチメンタルジャーニー

 


 初春ながら青空が広がっているを見て、突然に思いついて鎌倉へ徘徊に行くことにした。動機はどうでも良いが、まあ、第2の故郷を久し振りに見るか。調べたら5年ぶりだ。今日は平日だから、鎌倉もあまり混雑していないだろう。

 鎌倉駅東口に降り立ったのは11時、駅前の様子は変わったかな。おや、真ん前の銀行が「御代川」という和食屋さんの店舗に変わったな。その右隣の書店(「松林堂書店」と言ったような)が閉店している、あの鎌倉でも書店が成り立たないご時世か。


 若宮大路に出るまえに右の路地に入り、あの市場があるかどうか確かめによれば、あった、小さな店が集るミニ市場の「丸七商店街」はまだ健在だった。ここで何かを買った記憶があるのだが何だったかしら。


 そして若宮大路に出て、向かい側の「農連市場」も健在である。でもまだ時間が早いのかしら、店の数が少なすぎるのが寂しい、

 さて八幡宮に向かって大路を歩こう。未だ桜には早いが段葛あたりを見れば(参照:桜咲く段葛風景)、なんだか大路の真ン中に、凱旋門のような真っ白な建物が立っている。なんだ、これは、。どうやら、「二の鳥居」のあの真っ赤なペンキの塗り替えか、それとも建て替えかの工事用囲いらしい、なかなか堂々たる姿で、ちょっと見栄えがする。


 その二鳥居の横には、奇妙な形のビルが建っている。はて、ここにはこれまた奇妙な形の鰻屋のビルが建っていたはずだがと、しげしげと見れば、どうやら元の鰻ビルの構造体を残して、全面的に改装したしたらしい。面白いけど別によくなったとは言えないよなあ。


そうそう、こんな「浅羽屋」という鰻屋ビルが建っていたのだ。妙なデザインであった。2010年撮影

 このあたりの若宮大路に向いての店舗群には、けっこう昔の物があったが、次第になくなて行く。木造の民家や町家建築が結構あって、擬洋風の建築のもあるし、昔を想起させる。





 若宮大路で一番の意匠の建物と思っているのが、この「三河屋本店」である。和風の堂々たる構えで実にプロポーションもよい。だが、お酒屋さんもやってゆけないのだろうか、閉店している。


 店先にはこんな表示が出ているから、建て直すのであろうか、保全策を講じてあるのだろうか、気になる。

 この数寄屋風に凝った建築の表具屋さんは健在だった。

 この2軒並び木造も健在だ。左の蕎麦屋の「峰川」はそれほど古い建築ではない(建築時の姿を知っている)が、町屋の和風の良さを見せている。右隣は店先に妙な庇のようなものを付加しているのが気になるが、まあよいか。

 では三の鳥居をくぐって八幡宮境内に入る。正面の赤い随神門の裏山は、今は冬も緑が繁る常緑樹の森だが、戦争直後までは松の疎林だった(参照:大昔の八幡宮裏山)。山林は燃料の補給源だったから、人が定期的に山に入って木を伐り出していたからだ。今では誰も山に入らないから、植生の自然遷移が進んで常緑の森に変わってしまった。

 上の写真では随神門が全部見えているが、15年前までは左半分は大イチョウの葉張りの陰に隠れて見えなかった(参照)。銀杏が倒れてしまった今では全容が見えるが、そう遠くないうちにまた銀杏が戻ってくるだろう。倒れた銀杏の木の後継の木が今ようやく育ちつつあるのだ。石段のそばの白い枝張りの木が後継銀杏である。

 さてこのあたりで昼飯時なので、駅前東急で買ってきたパンの弁当を、源平池のそばで水鳥を眺めながらのんびりと食べたが、昔ここはよく来たところで懐かしい。
 昼飯を食って、今度は小町通を駅に向かって戻ろうかと思っていたのだが、まだ13時半、足が元気な様子なので、では金沢街道を東へ歩こうか、そうだ、できたらわたしの旧居がある十二所まで行こうかと思いつき、よろよろと歩き出した。途中でダウンしたらバスに乗ればよい。

 街道の表道をできるだけ避けて細い裏道を行く。昔に住んでいたころしょっちゅう歩いていたからよく知っている懐かしい道だ。
 若宮大路の桜はまだだが、荏柄天神参道の梅並木は赤白の花が満開である。このあたりは住宅街で、じわじわと変わっているような、変わらないような。

 報国寺へ登る道の滑川とそのほとりの桜は、花の季節には実に美しいのだが、まだ早い。
あ、そうだ、報国寺まで街道の南側にある小道「田楽辻子の道」を来ればよかったなあ、懐かしい路だ、まあ、いいや、帰りはそちらを歩こう。

 浄明寺あたりからは街道の北の住宅街の細い路を東へ東へと歩く。住宅の生け垣が続いていて美しい。

 このあたりに建築家・武基雄先生の旧宅があったと思い出して見回すと、記憶が不確かだがこれがそうだったような気がする。武先生はここに住んで後に極楽寺に移転された。もうここが武先生の自邸であったことは忘れられているだろう、

 住宅の向こうに衣張山が見える。ここの20世紀の風景は田んぼが広がっていた。今のように住宅が立ち並んだのは、21世紀の初めころから宅地開発されてからのことだ。衣張山はそのままだ。
 わたしはここを「浄妙寺田んぼ」と勝手に名付けて、四季の変化を楽しんでいた。散歩道の田園風景がなくなるのを惜しんだものだ。そしてその風景の変遷をまとめてネットサイトに載せている。参照:鎌倉浄妙寺田んぼの四季

 昔よくこのあたりをうろうろしたから、観光客は絶対に通らない道も知っている。そのひとつ、この幅50センチほどの裏道が今もあるだろうかと行ってみると、あった。住宅と住宅のはざまを抜けて金沢街道に抜け出る。住宅は建ち替わっていたが、超細道は健在だった。

 そうやって懐かしい十二所にやってきた。23年前までほぼ四半世紀住んだところだ。谷戸の奥深くに自分で設計した小さな木造住宅には、今は写真家の夫妻が住んでいる。明石谷戸道をだらだらと奥に歩けば、あの家が真っ白な姿で立つのが見えた。新築から46年も経つが健在らしい、よしよし。

 さてもう15時か、八幡宮から3キロほど、よろよろ歩いて3時間か、歩行速度時速1キロの老体になってしまった。駅まで返り道はここからまた懐かしい別の裏道をとの考えは、さすがにやめた。幸いなことに足腰が痛むことはない。でも年寄りにはもう無理かもれないと慎重を期して、バスに乗って金沢街道をさらに東へと、朝比奈峠を越えて金沢八景へ。 
 結構なミニミニセンチメンタルジャーニーだった。
(2025/03/12記)
このブログの関連記事<鎌倉フォトエッセイ集>
鎌倉十二所伊達自邸(現・大社邸)

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2025/01/18

1863【大地震記憶】阪神淡路・中越・東日本・奥能登の大震災現地そして幼少期の大震災記憶

 これまで88年もの長い人生でありながら、幸いにして南キャリフォニアのような大火災にも、能登のような大地震にも直接に被災したことは無く過ごしてきた。これからどれほど生きるかわからぬが、大災害に合わない保証はない。できればそんな体験の無いまま今のうちに、この世からおさらばしたいものだ。

●阪神淡路大震災の現場へ

 昨日、2025年1月17日は、あの1995年阪神淡路大震災からちょうど30年目の日であった。わたしはそのような時間と事件とを結びつけて記憶するのは良いとしても、それから10年目とか30年目とかに特別な意味があるとは思えない。身内の死を何年忌とか言って覚えるのと同じかもしれない。わたしはあまりその記念日に興味はないが、事のついでにこれまでに出会った直接間接の地震について、まとめて書きとめておこうおこう。

 1995年の阪神淡路大震災は、長い人生でも飛び切り記憶に刻まれれている。自身が体験したのではないが、幼いころから比較的よく知っている大阪神戸あたりがどうなったか、どうなるのか大いに気になったので、関東住まいであったが仕事で関西に出かける度に、都合つけて神戸を何度も見に行ったものだった。もちろんそれには都市計画家としての興味が一番大きな動機だった。

 1月17日からTV映像を見続けて、すぐに行きたかったが支援する勇気はなくて、見学にゆっくには交通機関が通じてからと思っていて、3月4日になってようやく三宮に入ることができた。

 そこから破壊しつくされた街々を歩き歩きめぐった。何回も何日も見にいった。西は明石、東は芦屋まで歩きに歩いたものだった。カラー写真を何本も使って写真を撮り、スライドに残していた。今や一部をデジタルデータにしてPCに入れたほかは、最近になりすべて終活破棄した。30年とはそういう時間である。

 この地震は、最大震度7、死者・行方不明者6,437人であった。このときは何も復興支援にかかわることは無かったが、とにかくこの目で見ないと災害についてはわからないことばかりであると、心底知ったのが収穫であったと言える。

 以下は初めて神戸に入った1995年3月4日から5日にかけての写真のほんの一部。



 



●中越大震災の現場へ
 
 その次の地震災害地に入った体験は、2004年10月の新潟県中越大震災であった。このころわたしはNPO日本都市計画家協会の事務局長をしており、協会としての震災復興支援活動を行うことになった。
 この中越震災復興現場のひとつである長岡市の法末(ほっせ)という山村集落に、わたしもNPO仲間たち十数人のメンバーと頻繁に通うことになる。10年ほども続く長い支援活動がはじまり、初めは毎週末には泊りがけで通ったものだった。

 私的には豪雪の地域の生活に大いに驚いたものだった。生まれ育った山陽の地はめったに積雪はないし、その後に住んだ関東も同じようなものだったから、全く知らなかった北国の暮らしを知って、本業の都市計画に大いに役立った。

 復興支援とはいったい何だろうかと迷いつついろいろなことをした。要はその小さな被災山村を持続するための多様な活動だったが、人口減少がどこでも起きている日本で、これが果たして成功したのだろうか。






 美しい集落は復興したが、定住人口は減っている。減るとこの山村を支える農業者が減ることになる。生活圏としての山村は、元の緑の自然にもそどっていくばかりである。
 ひとつだけ成功と思うことは復興支援活動仲間の一人が、その山村に住み着いて農民となり、耕作放棄される棚田を引き付けて、美味い米つくりをしていることだ。
 その間のことをわたしの「まちもり通信サイト」の「法末集落復興日録」に載せている。

●東日本大震災の現場へ

 次の大災害現場は、2011年東日本大震災の東北地方であった。地震動災害に加えて津波災害、さらに加えて原子力発電所事故による核毒災害という三重苦巨大災害である。わたしはもう支援に加わる体力はなく、NPO日本都市計画家協会の一員として、何回か災害現場視察企画に参加して訪れ、人間と自然との対応にあれこれと思いをいたすばかりであった。

 それらについては、「まちもり通信サイト」の「災害日本オロオロ日録」に載せている。

地震災害に加えて核毒でゴーストタウンになった富岡町


津波と核毒に襲われた浪江町の漁港の街の廃墟の陸上のあちこちに漁船が

除染という核毒集塵掃除作業の結果は膨大な核毒ゴミ黒袋の山

浪江の村のどこもかしこも核毒汚染された田畑の一番豊かな土をはぎ取る

 特に福島第1発電所の原子炉の事故による巨大災害には、心底驚き、あきれるばかりのことばかりである。広範囲に核毒を振り撒いて国土を取り戻しようがないほどの汚染するという大事件である。今それから14年がたつのに、もはや忘れたように核発電所が、列島おあちこちに生き返りつつある。その後の処理がいまだに完了しないのに、忘れたとはどういうことだろうか。

●かつて訪れた能登半島地震の現場の今は?

 さて現在の地震災害主役は2024年能登半島地震であるが、もうわたしは現地を訪ねる気力も体力もない。2004年に訪ね巡ったあの奥能登の地は、今どうなっているのだろうか。
 じつは個人的には2004年の中越地震による大きな揺れを、偶然にも比較的近くの奥能登で身をもって体験したのであった。その地は輪島であったが、そこはまさに昨年2024年元日の能登半島大地震の地である。

 この能登半島で中越地震に遭遇したときのことはこのブログに載せているので、一部引用する。 
ガタガタみしみしとゆれる、地震だ、大きい。余震もきた。
2004年の奥能登ウォーキングコース
能登半島の輪島市の郊外、漁村集落の民宿について、やれやれと一休みしていた。大きな木造2階家は、古くて客が歩くとみしみしがたがた足音がする。音だけではなくてゆれたので、これは地震だ。コンクリ長屋の上のほうでユルユル揺れるのとは違う、ナツカシイゆれ方だ 
囲炉裏部屋のテレビを見ていると、震源は新潟といいつつ、しだいに被害が広がるのが分かる。能登は震度4だった。外では防災無線放送が津波の心配はないと言っている。
2004年10月23日夕刻から始まった中越地震に、こうして旅先で出会ったのだった。この旅は、わが大学同期の翁12人が、能登空港を起終点にして奥能登をひとまわりする120キロの行程を、5日間かけて歩きとおす企画である。
           (全文は『奥能登100キロウォーク』参照のこと)

 わたしが今も所属だけしているNPO日本都市計画家協会は、この能登半島震災復興のために、門前町に入っているようだ。わたしの奥能登の旅ではその街の黒島で一泊した。あの伝建地区の街並みどうなっているのだろうか。

●幼少期の大地震記憶

 ところで私の震災に関する記憶で最も古いものは、1943年9月の鳥取地震であるらしい。幼少時に揺れた記憶は一つしかないからこれであろう。わたしは7歳の時である。
 鳥取県の南隣の岡山県の高梁盆地で少年時代を過ごした。家が揺れるばかりか、周りの巨木もゆさゆさと揺れて倒れ掛かるのかと、怖かった記憶がある。わたしの生家は丘の中腹にある神社の森の中であったから、境内には巨木が立ち並んでいたのだ。
 それ以後でも、台風の時などは、巨木が揺れて枝が折れて落ちてくることはしょっちゅうで、森の中に住むのは平素の見た様子とは大いに違って、けっこう怖いのであった。

 その次の地震の記憶は、1948年の福井地震であった。新聞に載った百貨店建物の被災写真に強い記憶がある。
 また別の記憶につよい地震に関する新聞写真は、コンクリート中層共同住宅建築が横倒しになった悲惨な光景であるがいつのことか思い出せない。ネットを探したらあった、意外に最近で1964年の新潟地震であった。

 1957年からわたしは関東に住むようになったのだが、こちらは生まれた西の地と違ってずいぶん地震が多い地域であると思ったものだ。しょっちゅう体感地震があり、2年くらい離れなくてその度に怖くて胸がドキドキしたものだった。そのうちに慣れた。


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