2025/03/13

1872【鎌倉徘徊】久しぶりに第二の故郷鎌倉を早春の徘徊ミニミニセンチメンタルジャーニー

 初春ながら青空が広がっているを見て、突然に思いついて鎌倉に徘徊に行くことにした。動機はどうでも良いが、まあ、第2の故郷を久し振りに見るか。調べたら5年ぶりだ。今日は平日だから、鎌倉もあまり混雑していないだろう。

 鎌倉駅東口に降り立ったのは11時、駅前の様子は変わったかな。おや、真ん前の銀行が「御代川」という和食屋さんの店舗に変わったな。その右隣の書店(「松林堂書店」と言ったような)が閉店している、あの鎌倉でも書店が成り立たないご時世か。


 若宮大路に出るまえに右の路地に入り、あの市場があるかどうか確かめによれば、あった、小さな店が集るミニ市場の「丸七商店街」はまだ健在だった。ここで何かを買った記憶があるのだが何だったかしら。


 そして若宮大路に出て、向かい側の「農連市場」も健在である。でもまだ時間が早いのかしら、店の数が少なすぎるのが寂しい、

 さて八幡宮に向かって大路を歩こう。未だ桜には早いが段葛あたりを見れば(参照:桜咲く段葛風景)、なんだか大路の真ン中に、凱旋門のような真っ白な建物が立っている。なんだ、これは、。どうやら、「二の鳥居」のあの真っ赤なペンキの塗り替えか、それとも建て替えかの工事用囲いらしい、なかなか堂々たる姿で、ちょっと見栄えがする。


 その二鳥居の横には、奇妙な形のビルが建っている。はて、ここにはこれまた奇妙な形の鰻屋のビルが建っていたはずだがと、しげしげと見れば、どうやら元の鰻ビルの構造体を残して、全面的に改装したしたらしい。面白いけど別によくなったとは言えないよなあ。


そうそう、こんな「浅羽屋」という鰻屋ビルが建っていたのだ。妙なデザインであった。2010年撮影

 このあたりの若宮大路に向いての店舗群には、けっこう昔の物があったが、次第になくなて行く。木造の民家や町家建築が結構あって、擬洋風の建築のもあるし、昔を想起させる。





 若宮大路で一番の意匠の建物と思っているのが、この「三河屋本店」である。和風の堂々たる構えで実にプロポーションもよい。だが、お酒屋さんもやってゆけないのだろうか、閉店している。


 店先にはこんな表示が出ているから、建て直すのであろうか、保全策を講じてあるのだろうか、気になる。

 この数寄屋風に凝った建築の表具屋さんは健在だった。

 この2軒並び木造も健在だ。左の蕎麦屋の「峰川」はそれほど古い建築ではない(建築時の姿を知っている)が、町屋の和風の良さを見せている。右隣は店先に妙な庇のようなものを付加しているのが気になるが、まあよいか。

 では三の鳥居をくぐって八幡宮境内に入る。正面の赤い随神門の裏山は、今は冬も緑が繁る常緑樹の森だが、戦争直後までは松の疎林だった(参照:大昔の八幡宮裏山)。山林は燃料の補給源だったから、人が定期的に山に入って木を伐り出していたからだ。今では誰も山に入らないから、植生の自然遷移が進んで常緑の森に変わってしまった。

 上の写真では随神門が全部見えているが、15年前までは左半分は大イチョウの葉張りの陰に隠れて見えなかった(参照)。銀杏が倒れてしまった今では全容が見えるが、そう遠くないうちにまた銀杏が戻ってくるだろう。倒れた銀杏の木の後継の木が今ようやく育ちつつあるのだ。石段のそばの白い枝張りの木が後継銀杏である。

 さてこのあたりで昼飯時なので、駅前東急で買ってきたパンの弁当を、源平池のそばで水鳥を眺めながらのんびりと食べたが、昔ここはよく来たところで懐かしい。
 昼飯を食って、今度は小町通を駅に向かって戻ろうかと思っていたのだが、まだ足が元気な様子なので、では金沢街道を東へ歩こうか、そうだ、できたらわたしの旧居がある十二所まで行こうかと思いつき、よろよろと歩き出した。途中でダウンしたらバスに乗ればよい。

 街道の表道をできるだけ避けて細い裏道を行く。昔に住んでいたころしょっちゅう歩いていたからよく知っている懐かしい道だ。
 若宮大路の桜はまだだが、荏柄天神参道の梅並木は赤白の花が満開である。このあたりは住宅街で、じわじわと変わっているような、変わらないような。

 報国寺へ登る道の滑川とそのほとりの桜は、花の季節には実に美しいのだが、まだ早い。
あ、そうだ、報国寺まで街道の南側にある小道「田楽辻子の道」を来ればよかったなあ、懐かしい路だ、まあ、いいや、帰りはそちらを歩こう。

 浄明寺あたりからは街道の北の住宅街の細い路を東へ東へと歩く。住宅の生け垣が続いていて美しい。

 このあたりに建築家・武基雄先生の旧宅があったと思い出して見回すと、記憶が不確かだがこれがそうだったような気がする。武先生はここに住んで後に極楽寺に移転された。もうここが武先生の自邸であったことは忘れられているだろう、

 住宅の向こうに衣張山が見える。ここの20世紀の風景は田んぼが広がっていた。今のように住宅が立ち並んだのは、21世紀の初めころから宅地開発されてからのことだ。衣張山はそのままだ。
 わたしはここを「浄妙寺田んぼ」と勝手に名付けて、四季の変化を楽しんでいた。散歩道の田園風景がなくなるのを惜しんだものだ。そしてその風景の変遷をまとめてネットサイトに載せている。参照:鎌倉浄妙寺田んぼの四季

 昔よくこのあたりをうろうろしたから、観光客は絶対に通らない道も知っている。そのひとつ、この幅50センチほどの裏道が今もあるだろうかと行ってみると、あった。住宅と住宅のはざまを抜けて金沢街道に抜け出る。住宅は建ち替わっていたが、超細道は健在だった。

 そうやって懐かしい十二所にやってきた。23年前までほぼ四半世紀住んだところだ。谷戸の奥深くに自分で設計した小さな木造住宅には、今は写真家の夫妻が住んでいる。谷戸道をだらだらと奥に歩けば、あの家が真っ白い姿で立つのが見えた。うん、よしよし。

 さてこれでもういい、ここからまた裏道を駅に戻ろうかとの考えは、もう足が疲れて無理だ。バスに乗って金沢街道をさらに東へと、朝比奈峠を越えて金沢八景へ。 
 結構なミニミニセンチメンタルジャーニーだった。
(2025/03/12記)
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