2011/08/09

468不景気と戦争

 中国黒龍江省方正県政府が建てた、日本の旧満蒙開拓団員の慰霊碑が、建てて10日程で撤去されたというニュースが新聞に出ている。
 侵略者の慰霊碑とはケシカランというネット批判にさらされた結果だそうだ。先日の高速列車事故の証拠破壊と復旧作業みたいに、なんだかすばやすぎる対応である。

 それで思い出したのは、1933年3月のことだ。
 その3日に起きた昭和三陸大津波のことを調べようと、3月の新聞を読んでいたら、こんな記事があった(3月20日 東京朝日新聞 夕刊)。
「第2回自衛移民団 関東、東北で募集  その人選、移住地等については、陸軍と関東軍と打ち合わせ中であるが、陸軍では第2回自衛移民は中国ならびに九州地方より選定する意向であったが、その後種々の事情から第2回自衛移民は大体第1回同様、青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島、新潟、石川、富山、茨城、栃木、群馬、長野、山梨各県の在郷軍人から五百名を選定することに決定した」

 この「自衛移民団」とはなんだろうかとネットで調べたら、「試験移民団」とも「武装移民団」とも言われたらしいが、1932年にできた日本の傀儡政権「満州国」の、辺境の地に送り込んだ農業移民「満蒙開拓団」の初期の名称である。
 第1次移民団は1932年に送り出しているが、その名前のようにまさに武装しての移民であった。関東軍の庇護の下にあった。
 なぜ「自衛」とか「武装」の移民団であったかは、現地で地元民のゲリラに襲われるからだった。
 その移植地が、もともとその地を開墾して耕していた現地の農民たちの土地を、日本政府が武力で以って安価に無理矢理に取り上げたために、当然のことながら抵抗がありトラブルが発生するのだった。

 この武装開拓団が試験的に第4次まで入植し、1937年から本格的に集団移民が始まった。
 1945年には30万人前後となり、ソ連参戦後の大混乱で悲劇となり、帰国できたのは11万人であったそうだ。
 満蒙開拓団は、敗戦での被害者である前に実は加害者であったのだから、慰霊碑への中国人の非難は当然だろう。戦争の被害と加害はあざなえる縄か。

 1933年の三陸大津波の頃は、日本は昭和恐慌が続いていて労働争議は頻発し、特に農村は疲弊していたので、王道楽土・五族協和の美名の下に、植民で棄民をしたのであった。
 今の日本はどうだろうか。リーマンショック以来の不況は深刻になり、そのようなところに東北地方を中心に大津波、その上に核物質が拡散するありさまで、先行きが見えない閉塞感が色濃く立ち込める。
 この大不景気打開のためにイッパツ戦争を、なんてことにならないように、祈るしかない。
 なにしろ日本が昭和恐慌から立ち直ったのは、1931年勃発の満州事変に対応する1932年からの高橋積極財政策があったし、1945年の敗戦疲弊から立ち直ったのは、1950年の朝鮮戦争特需だったのだから。

●参照→津波と戦争そして原発

2011/08/07

467原爆忌の原発発言

 今年の広島の原爆忌でのエライ人たちの挨拶などで、福島原発に触れたところを読んでみた。
 まずは原発地元の松井一實広島市長の平和宣言の原発関係部分です
「また、東京電力福島第一原子力発電所の事故も起こり、今なお続いている放射線の脅威は、被災者をはじめ多くの人々を不安に陥れ、原子力発電に対する国民の信頼を根底から崩してしまいました。
 そして、「核と人類は共存できない」との思いから脱原発を主張する人々、あるいは、原子力管理の一層の厳格化とともに、再生可能エネルギーの活用を訴える人々がいます。
 日本政府は、このような現状を真摯に受け止め、国民の理解と信頼を得られるよう早急にエネルギー政策を見直し、具体的な対応策を講じていくべきです」

 なんだかしゃんとしない曖昧きわまる言い方ですね。「……の人々がいます」って、余所事で言うんじゃなくて、市長ご本人はどうなんだいッ。
 広島市の人でさえ、こういうものなんでしょうか、それとも福島と広島は遠すぎるんでしょうか?

 では、菅直人総理大臣の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式あいさつの原発部分です。
「本年3月11日に発生した東日本大震災は、東京電力福島原子力発電所に極めて深刻な打撃を与えました。これにより発生した大規模かつ長期にわたる原発事故は、放射性物質の放出を引き起こし、わが国はもとより世界各国に大きな不安を与えました。
 政府は、この未曽有の事態を重く受け止め、事故の早期収束と健康被害の防止に向け、あらゆる方策を講じてまいりました。
 ここ広島からも、広島県や広島市、広島大学の関係者による放射線の測定や被ばく医療チームの派遣などの支援をいただきました。
 そうした結果、事態は着実に安定してきています。しかし、今なお多くの課題が残されており、今後とも全力を挙げて取り組んでまいります。
 そして、わが国のエネルギー政策についても、白紙からの見直しを進めています。
 私は、原子力については、これまでの安全神話」を深く反省し、事故原因の徹底的な検証と安全性確保のための抜本対策を講じるとともに、原発への依存度を引き下げ、「原発に依存しない社会を目指していきます。
 今回の事故を、人類にとっての新たな教訓と受け止め、そこから学んだことを世界の人々や将来の世代に伝えていくこと、それがわれわれの責務であると考えています」

 うん、まあ、広島市長よりよほどはっきりしていますね。
「原発に依存しない社会」とは、脱原発ってことかしら。
 それとも薬物依存なんていうように、原発に麻薬のような依存をしないってことで、やっぱり原発は容認だってことでしょうか。ウン、こっちのほうがニュアンスが近いなあ。
 それにしても個人発言なら「脱原発」、首相発言なら「原発に依存しない社会」か、そのうちに「脱原発に依存しない社会」なんて言い出さないでよね。

 こうしてみると、市民に近い市長が曖昧模糊、市民から遠い総理大臣のほうがちょっとは踏み込むてのが妙だが、これは政治家の資質の違いか。
 次の長崎ではどうでてくるか期待している。
 なお、国連事務総長の挨拶には、原発には一言もふれていなかった。

 ではちょっと新聞を見よう。「原発推進派」の読売と産経はどうなんだろうかと、8月7日の両社説を見た。
 読売は「「脱原発依存」はそもそも個人的な見解だったはずだ」と、こんなところで言うなって噛み付いている。
 産経も「脱原発にこだわる首相の言動は無責任としかいいようがない」と、これも噛み付いている。
 あげあしを取るが、ここで「こだわる」って言葉を使ったのは、菅さんの言葉をわざと矮小化する意図なのか、それともうっかり用語を間違ったのか、どっちだろうか。
 注:広辞苑の「こだわる」の意味には「気にしなくてもよいような些細なことにとらわれる」とある。

(追記0809) 
 8月9日の田上富久長崎市長の平和宣言は、いきなり冒頭から原発問題に触れて、「原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進める」必要性を言った。
 しかも、かなり長文である。


「平成23年長崎平和宣言」の冒頭部分 
「今年3月、東日本大震災に続く東京電力福島第一原子力発電所の事故に、私たちは愕然としました。爆発によりむきだしになった原子炉。周辺の町に住民の姿はありません。放射線を逃れて避難した人々が、いつになったら帰ることができるのかもわかりません。
「ノーモア・ヒバクシャ」を訴えてきた被爆国の私たちが、どうして再び放射線の恐怖に脅えることになってしまったのでしょうか
 自然への畏れを忘れていなかったか、人間の制御力を過信していなかったか、未来への責任から目をそらしていなかったか……、私たちはこれからどんな社会をつくろうとしているのか、根底から議論をし、選択をする時がきています。
  たとえ長期間を要するとしても、より安全なエネルギーを基盤にする社会への転換を図るために、原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進めることが必要です。
 福島の原発事故が起きるまで、多くの人たちが原子力発電所の安全神話をいつのまにか信じていました」


 広島市長の曖昧模糊と比べると、ずいぶん踏み込みに差があるが、同じ被爆都市としてなぜこうも違うのだろうか。市民はどう考えるのだろうか。
 そういえば、長崎は市民参加の委員会で平和宣言原案をつくり、広島は市長が考えるとか。

466森まゆみさんと立ち話

 こんなこともあろうかと、自作まちもり叢書『丸の内貼り混ぜ屏風-見世物としての建築景観』を数冊もって、鎌倉西御門サローネの会合に行った。
 増田彰久、森まゆみ、菅孝能の3氏による「まちの文脈」というテーマの鼎談会であった。

 おわってさてまた暑いところに出るかとベランダで躊躇していたら、森さんから「どちらから?」と声をかけられた。
「これ、名刺代わりです」と持参の冊子をさし上げたら、気軽く受け取ってくださった。
「森さんたちの赤レンガ東京駅保存復原運動には、わたしは復原反対なので、そのひとりキャンペーンをネットでしていましたが、これは惨敗しました。次は、福島第1原発世界文化遺産登録ひとりキャンペーンに転進します」
「あら、ネットで読んだような。水俣も世界遺産登録っていってるようですよ」
 なんて4、5分立ち話、他にも話したい人が居てわたしは別れた。

 もう四半世紀ほども昔になってしまったが、森さんたちが「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」を立ち上げて、保存と復原運動をやりだした頃、わたしは建設省と国土庁関係の都市計画コンサルタントして、「東京駅周辺地区再開発調査委員会」(八十島委員長)の作業班をやっていた。
 愛する会の側からは「赤レンガの東京駅を壊す委員会」に見えていたらしいから、わたしは森さんたちの敵側であった。
 八十島委員会の動き必ずしもそうではなかったし、わたしも出自が建築史だから、裏方としての委員会資料は客観的につくらなければならないにしても、ついつい保全の方向の資料作りに熱が入ったものだ。
 建設省の担当者は建築職だから、表向きは言わないにしても保全に理解があった。

 愛する会の活動が赤レンガ駅舎の保全に、委員会外部からのおおきな影響をもたらしたことは間違いない。
 できれば保全したい建設省側、できれば建て替えたい運輸省側(国鉄)との間での委員会の結論が、玉虫色ながらも「現在地で形態保全(このフレーズ原案はわたしがつくった)となったことに、わたしはほっとしたものだ。

 書いた当人としては、移築などせず今の場所で、内部は鉄道駅としての使いやすいように変更しても、外部の形態は今の姿で保全(保存といわないのがミソ)する、というココロだった。
 さっそくに愛する方たちから「これは復原しないということらしい、ケシカラン」のような声が聞こえてきた。御推察のとおりである。
 わたしは復原することで、わたしたちの世代の原点としての風景であるあの台形大ドーム屋根や大ドーム天井が消えて、戦後の歴史が消滅することを肯んずることができない。

 しかし今、戦後の歴史を消滅させた姿の東京駅舎が、丸の内に現れつつある。
 原風景保全を訴える、たったひとりキャンペーン「赤レンガ東京駅復原反対論」は、完敗した。
 復原、非復原と関係なく、その保全によって今生み出された東京駅とその周辺の景観は、マンハッタンの谷間の赤煉瓦駅舎である。駅舎からの容積移転の結果である
 これを保全後遺症というべきか、再開発後遺症というべきか、保全と再開発の幸福な結婚の結果というべきか。

 わたしは森さんの熱心な読者ではないが、「谷根千」の初期の頃からのプチファンではあるから、はじめて話をしてちょっと嬉しかった。
 東京で仕事していた頃は、地域雑誌の「谷中・根津・千駄木」はよく買ったものだ。
 そしてまた、あのあたりは若い頃から徘徊好きのわたしのお得意先であった。
 特に春になると、出かけたついでに上野の山辺りで花見、そして谷中墓地から山下の町の名を忘れたが古い民家を改装した飲み屋へと足が向ったものだ。
 森さんがお持ちになった「谷根千」バックナンバーの終刊号と戦災特集号を買った。気がつかないうちに終刊となっていたのだった。
 そして森さんは地域雑誌の編集発行人から、まりづくり運動と文筆の人へと興味深い展開が続いているようだ。

 そうだ、鼎談のことも書いておかなければなるまい。
近代洋風建築写真を専門とされている増田さんは、もう日本では撮り尽くして、ちかごろは中国だそうである。
 ちかごろ洋風建築がもてはやされるのはなぜかとの問いに答えて、誰が見てもこれはすごいなあ、変わっているなあと、一般市民に分りやすい意匠だからだろう、とのこと。
 そう、だからその後のモダニズム建築の保存が、一般市民からの応援を得にくくて、難しいことになっているのだろう。東京駅は応援の声が高かったが、東京中央郵便局はそれがどうも盛り上がらなかったように。

 ひょいと思いついたのは、日本の洋風建築は歌舞伎であり、モダニズム建築は能であるってことだった。能は庶民にはとっつきにくい。
 で、やっぱり庶民には歌舞伎建築に限るって、丸の内では東京駅と三菱1号美術館では、無くなっていた昔の洋風姿をまたコピーで再現した。
 今や建築は見世物になったのである。無駄な金があるもんだが(東京駅は復原に500億円とか)、見世物なら御代をちょうだいして元が取れるんだろう。

 超高層建築もつまらないガラスのペロペロビルばかりではいかんと思ったか、ガラスで巨大な折り紙ヒコーキの形を作ってビルに貼り付けたのが、東京中央郵便局の通称JPタワーである。
 ほう、超高層に舞い降りる航空機!、9.11のパロディってか、なかなかの技あり見世物建築ですね。
 あ、また鼎談から話が逸れた。

2011/08/05

465言葉の酔時記:子ども、円、臭い

「子ども手当」がなくなって「児童手当」になるんだとさ、なんのことか分らん。
 分ることは、「子ども」は複数名詞だから、2人以上いないと手当て無し、「児童」は単数も複数も含むから1人以上いれば手当て有りってことでしょうな、多分。
「子ども園」なる保育園と幼稚園の合体ってのも「児童園」て変わるんでしょうな、ウン。
 ところで「子どもたち」という言い方があるが、複数名詞を更に複数にしてどうするんだよ。昔は「子達」という複数言葉があったが、最近は聞かないなあ。
   
 温度でも物価でも山でも数字の多い方を高いというのが世の常識だろうに、円が高くなったというので、見ると昨日より低い値である、おかしい。
 何事にも例外があってよいけれど、こう毎日毎日、低い数字がでるたびに高い高いと言われるんじゃなあ。
 こどもの算数や理科の教育によくないような気がするし、わたしの頭の中で計算がややこしくて情緒不安定になる。これはやっぱり円安というべきであろう、え、違う?
   
 今日の新聞に、紡績屋が香料屋と共同して、ウンチの臭いを「森林の中にいるような清涼感のある香りに変える」繊維を開発し、オムツを作るんだという。
 いやなのは臭い、気持ちいいのが香りってことで、臭いを香りに変換するのか。ウンチ爆弾エネルギーを、平和利用に転換するのだな。
 むかしのことだが(今もあるかな)、汲み取り便所の臭いをごまかすために、便所に置く瓶に入れたジンチョウゲの香料が普及した。今でもジンチョウゲを嗅ぐと、ウンチと消毒液との3種混合香臭を思い出す。香りが臭いに自動変換するのだ。
 ネットで検索すると「沈丁花」なる香水があるらしい、う~む、知らぬってことは恐ろしいもんだ。
   
 最近でたアインシュタインに関する翻訳本で、ある章が珍妙な文で埋め尽くされていると評判になっている。
 どうもコンピューターの自動翻訳のままで、校正が出版期日までに間に合わずに、そのまま出しちゃったという、お粗末らしい。
 インタネットのあるサイトに、その変なページの一部のコピーが載っている。ふ~ん、コンピューターのバカさがわかるような、いや、賢さが分るというべきか。
 マニアコレクターは定価の10倍の2万円でも買いたいとか。そうか、今度は1冊まるまる機械翻訳のまま出せば、大もうけだな、、?
●参照→言葉の酔時記

2011/08/04

464戦後復興街並みをつくった市井の人々:書評「都市の戦後」初田香成著

戦後復興街並みをつくった市井の人々
書評:初田香成著「都市の戦後‐雑踏の中の都市計画と建築」

●戦後がようやく歴史に
 わたしは今は横浜都心に住んでいるが、徘徊老人の散歩で歩くこのあたりには、戦後復興の「防火建築帯」が今も現役で、街並みを構成している。
 それら地味な建築群は、何の評価も与えられずに、次第に建替えられていくのを見ていて、あの何もない時代にこれを建て続けたこの街の人々の努力を、なんらかの記録だけでもしようとは、誰も思わないのかと気にしていた。
*横浜都心戦災復興まちづくりをどう評価するか
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/yokohama-sensai-fukko
*参照→横浜B級観光ガイドブック
http://sites.google.com/site/dateyg/yokohama-bkyuu-kankou-gaidobukku

 そのようなところに、戦後都市復興を都市と建築を結びつけ、それを成した過程で現場に登場する人々、特に民側にも目を向けた立場から書いている本が出た。
 この類のものは、これまでは制度と事業の結果を書いたものがほとんどであるに比べて、私自身が現場で生きてきたので興味深く読んだ。まさに私自身の社会での成長史を読むような気分になったある。
 戦後66年、どうやら戦後も研究対象となる歴史になってきたらしい。ということはわたしも古老になったということでもある。やむをえない。
 表紙の新橋駅烏森口の広場前のごちゃごちゃ街並みが懐かしい。
 あの頃に現場に身を置いていたものにとっては、その後の若者が歴史としてこれを叙述するのを読むのは、これを読むいまの自分とあの頃の自分の間を時間航行する気分になった。

●うらやましい父子鷹
 序章の出だしに吉祥寺の街の図が出てくる。著者は、自然発生的に構成する雑踏の街、吉祥寺のような街の土地と建物のありようの成立を追いたいというのだ。
 実を言うと、わたしは1970年前後の30歳台前半を吉祥寺防火建築帯の現場に入れこんでいた。だから、どのような分析がでてくるかとひも解いたのだが、本文にはなくて期待が外れた。
 著者は吉祥寺が自然遷移的にメタモルフォーゼしているととらえているようだが、わたしがやっていた仕事はまさに街を人為的に街を動かすことであった。できはよくないが街の将来像マスタープランもあったのだ。
 結果が計画的に見えないのはよいのか悪いのか、これも含めて吉祥寺まちづくりの歴史的研究は既にあるのだろうか。著者には次はそれを書いてもらいたい。
 序章に著者の研究の視点が書いてあるのだが、先行研究者のひとりに初田亨氏の名がでてきて、そうか、父君の都市研究の戦後版であるか、それにしても幸せな研究者親子であると,羨ましく微笑した。(つづく)
●全文は→戦後復興街並みをつくった市井の人々:書評「都市の戦後」
http://homepage2.nifty.com/datey/tosinosengo-syohyo.htm

2011/08/02

463乗っ取られた言葉

 米は債務不履行を回避し、コメは2段階で検査するって、こんな夕刊の見出しが並んでいる。
 え~っとコメって米のことなのかい、カタカナで書くのは植物であるからかい、でもここは食物だよ。
 これって米のほうは当て字の借り物で、コメのほうが本来は米であるべきなのに、奇妙なことである。ヤヤコシイ。
 米(こめ)が米(ベイ)に乗っ取られてしまった。
  
 だれもベイとかベイコクって口では言わないよ、アメリカとかUSAと書けばいいだろうに。
 だってUAEって書いてるよ、たしかアラブ首長国連邦だよね。
 国名表記は長い間のいい加減な慣習でそうなのだろうけど、いい加減すぎると思う。
 米は米って一字でも書くのに、韓とか中とかいつも国がつくのはなぜ?
 ロシア国とかフィリピン国とか書かないね、なんで?

 とにかく新聞の外国語への対応は場当たりであるな。
 コリアやチャイナの人名はカナを振ったり振らなかったり、日本風に読み下したり原語風にカナ振ったり、はじめっからカナで書いたり、いったいどう読めばいいんだよ~。

2011/08/01

462津波と戦争そして原発

●騒乱の1933年3月
 東日本大震災のもとになった2011年3月11日東北地方太平洋沖地震は、大津波による被害が甚大である。そしてこの津波の大被害ははじめてのことではなくて、特に東北地方の三陸沿岸部はこれまでに何度もあったという。
 1933年3月3日、昭和三陸地震がおきて大災害となっている。今の東日本大震災のほうが被害は大きいようだが、その頃の社会情勢と今とは大いに違うから、当時の社会ではどう受け止めたのだろうかと興味がわいた。

 1933年といえば、世界恐慌、昭和恐慌とされる時代の中心にあり、失業者は町にあふれ、労働争議は頻発し、農村部の疲弊は悲惨であった。その前の1932年には右翼や軍のテロリストが横行して政財界要人たちが次々と暗殺され、政党内閣が倒れて元海軍大将の斉藤実を首相とする「挙国一致内閣」となっている。
 満州では戦争、国内では大不況と政治不安という、どん底の時に東北地方で起きた大災害は、2011年の今の世情と大災害と、なにか似通っているかもしれない。

 1933年3月の新聞を読んでみたら、この月は、新聞号外が4回も出た騒乱の日々であった。
 戦争、大地震と津波、世界恐慌、外交問題などの事件が、その頃の日本を揺り動かして、更にその後の日本を下りの崖道に導いたのであった。
 1945年には崖下に転落する日本の悲劇の序曲を聴くようである。

 実はちょうどこの時期、わたしの父が一兵卒として中国で戦闘の最前線に出て、弾が身をかすめる日々を送っていたのである。わたし個人としても気になる年月である。
 父はその戦争日誌をのこしており、その1933年3月の一庶民の戦場での日々と新聞記事を合わせつつ読んでみた。

 その後の歴史的事実と今日の動きを思い合わせて、わたしは時間航行者の気分になってしまった。

この続き全文はこちら津波と戦争そして原発   http://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-senso-genpatu
●→縦書きPDF版はこちら

2011/07/31

461大災害に都市デザインは無力か

 7月30日午後、YCC(横浜創造都市センター)で「横浜の年デザイン活動の40年とこれから」シンポジウムに見物参加。
 有名な横浜の都市デザインの来し方を見つめ、これからどうするかということだった。
 ●参照→http://datey.blogspot.com/2011/06/439.html

 横浜都心の傍らに暮す身としては、その都心デザイン放射線が降り積っているところを、毎日のように徘徊老人をやっている。都市デザイン消費者である。
 近くの大通り公園、ちょっと歩いて日本大通から山下町へ、そしてみなとみらい地区へ、きれいで格好よい街でございますって、デザイン放射線がだんだんと濃厚に立ちこめてくる。
 その放射能の濃さに息が詰まって、ついつい中華街とか野毛、福富町あるいは寿町あたりの、それも横丁や裏道に入って、眼の深呼吸をするのである。
 
 シンポジウムは「横浜都市デザイン村」の同窓会であった。
 行政マンにしては珍しく都市デザイン室に居つづけた、国吉さんの退職送別会の感もあり。
 昨日の話しを早く言えば、国吉さんのような特別な能力ある人がいたから、横浜都市デザイン室は市長が替わっても替わっても40年も継続し、彼の周囲には研究者、計画者、設計者たちの専門家の人的村社会ができ上がって、プロの目から見ると一定の成果をあげたってことなのだろう。

 ラウンドテーブルを囲むパネラーが19人もいたが、都市デザインの供給者側ばかりで、その消費者側がひとりもいなかったのが、ちょっとそういうものなのって思ったのだった。
 横浜都心のかたわらに暮す一市民(新参者でまだ9年)として参加した立場から言うと、村民だけにはよく分る横都デ語があるらしく、高い笑いがあがるのだが、解せぬこちらは疎外されて黙然とするばかり。

 まあ、わたしは元プロだったから、ある程度はその頃の知識を錆付く頭の引き出しの中を総動員するのだが、横浜の仕事はしたことがないから、ごく普通の市民なみに半分くらいしか理解できない。
 横浜市の主催だから一般市民も相手かと思ったが、どうもそうではなかったらしい。

 東日本大震災で広大なるデコンストラクション世界が出現し、このことが都市デザインの今後になにをもたらすのか、そのあたりの話題に期待したが、パネラーの一人だけがわずかに問題提起しただけで、何も展開しなかった。
 これだけ村の顔役たちを集めたのだから、都市デザインの無力への絶望とか新たな展望とかが語られるかと思ったが、大学まちづくりコンソーシアム横浜が提案したインナーハーバー計画への批判の種に使われただけだったのが、提案者にはタイミングがちょうど悪くて、お気の毒であった。まあ、言われてもしょうがないか。

2011/07/30

460八百長原発・原子力不安院

 原子力安全不安院(え、保安院だっけ)ってのは、国民のみなさまの原子力の安全性についての不安を、取り除くためのお仕事をする役所でしょ。
 いろいろとご努力の様子には、おアリガトウゴザイマスル、ホント。

 これはヤラセだよ~って、にわかに新聞テレビが騒いでいる。
 原発発電所の設置や新機能についての説明会に、電力会社と経済産業省原子力安全不安院とがグルになって、電力会社員や参加者を動員し、原発側に都合の良い発言をしてほしいと、Eメールなどで依頼したとかである。

 え~っと、なんだか似たような事件が、この数年のうちにあったような、なんだっけか?
 年とってくると大昔のことは思い出しやすいが、この数年のことが霞の中に消える。
 いや、そうでもないか、人の名前なんてのは、大昔も昨日も同じようにわすれているなあ、でも、これってわたしだけじゃないから安心だ、いや、安心でもないか。

 いや、原発である。あ、そうそう、おもいだした、八百長相撲事件である。
 え~っと、国際プロ相撲協会というのかしら、外国人が大勢いて年に数回の全国巡回場所興業をやっている集団があるよね、NHKでも放送してる。
 あそこで、力士の間で勝負のつけ方をメールを使って談合してたって事件であった。

 原発推進派が勝つか、反対派が勝つか、この両派が相撲して決着しようとして、談合したってことではないんだな。
 まあ、原発推進説明会やシンポジウムに、政府機関が意図して推進派を動員したって、どうも八百長相撲、いや八百長原発くさいよなあ。

 ただ、どうもヘンである、ナンデ今ごろになって言うの?
 だって、説明会やらシンポジウムやら、ずいぶん前のことだよ。
 その八百長お願いは、秘密でもなんでもなくて、堂々とやってるんだろ。八百長ってみんな知ってたんだろ?
 もしかして、その頃に八百長だとかヤラセとか言うと、どこかから脅しがかかったのかしら?コワ~。
 今、ようやく言っても大丈夫な世の中になったのかしら? コワ~

2011/07/27

459義経千本桜を能の目で見る

 久しぶりに歌舞伎を見た。10年ぶりくらいだろうか。
「義経千本桜 渡海屋の場 大物浦の場」である。国立劇場の歌舞伎鑑賞教室が、近くのホールのやって来たのだ。
 歌舞伎の事はほとんど知らないが、この演題と碇をもったポスター写真を見て、ハハン、能の「船弁慶」と「碇潜」の歌舞伎アレンジ版だなとわかった。
 歌舞伎は能をベースに脚色したものがたくさんあるが、これもそのひとつである。能から歌舞伎でどう変わるのか、そこに興味があった。

 物語のベースにあるのは、鎌倉幕府の兄の源頼朝から追われる身となった義経一行の逃避行だが、能でも歌舞伎でも義経の役は重要ではなくて、主役は平家の大将知盛である。
 能「船弁慶」では、大物浦を船出した義経一行に、以前に檀の浦で義経と戦って、海に飛び込んで死んだ知盛の幽霊が襲いかかってくるのが見せ場である。
 能「碇潜」でも知盛は死んでいることになっている。これは史実である。

 ところが歌舞伎「義経千本桜」と来たら、知盛は檀の浦で実は逃げて生きているし、そればかりか安徳天皇や女官たちも生き延びていることになっている。
 そして大物浦の船宿の主の父と娘に身をやつして、義経の命を狙っているのである。
 能とは比べ物にならない飛躍する創意である。面白い。
 この最後に知盛は死に、安徳天皇は義経が助けて、その身を奉じて落ち延びるのだが、さて、この先で安徳天皇はどうなるんだろうか。

 安徳天皇が生きて、平家の落人と一緒に落ち延びたという伝説は、日本のあちこちにあるらしい。
 10年ほど前に四国の山奥に行ったとき、有名な平家落人集落があり、そこに安徳天皇の衣装を干したと伝える木があった。
 そこの旧家で平家の赤旗を見せてもらった。かなり古ぼけて赤というより垢に近い感じであった。
 本当に平家落人かもしれないが、急な山地の貧しい暮らしを支えるためには、貴種出自伝説は心の拠り所となったであろう。

 この歌舞伎をその元となった能を頭に置きながら観ると、かなり違ってほとんど別物を言ってよいが、ところどころでひょいと能が姿をあらわすのは、竹本の文句である。
 あれなんだか聞いたような言葉と思ったら、これはたしか能「田村」だよ、何でここで田村だよ、とか、ははんこれは元歌「船弁慶」ですねえ、とか。

 演技のほうは能と比べると過剰すぎて、目の中が満員になる。舞台装置のあれこれも過剰だ。
 ただ、刀剣などでの斬り合い演技が妙に様式化した動きで、いわゆるちゃんばらにならないのがおかしい。
 やはり義経が出る「正尊」で様式化した大立ち回りの斬り合いがあるが、歌舞伎はこれを継いでいるかもしれない。能にはトンボはないが、仏倒れのようなケレンはある。

 もうひとつ能の延長上にあると思ったのは、平家方の男も女もぞろぞろと長袴姿であることだ。
 実は能でも長袴の装束で登場する役は多いのだが、例えば「隅田川」の船頭までも長袴というのが、いつも解せない。アンなの穿いて舟がこげるものかよ。
 貧乏性のこちとらは、あの袴の足の下に踏まれて床にこすられてるところは、穴があいてるんじゃないの、って心配になるのだ。

 それにしても歌舞伎の舞台装置のチャチなことよ。
 芝居小屋という仮設性を引きずっているのだろうが、舞台の建物の柱も鴨居も壁も、まるで仮設住宅のように作りが悪い。わざと悪く見せるのだろうか。
 最後に知盛が登って飛び込む海岸の大きな岩のつくりが、おいおいそんなところで重い碇を振り回していると、岩ごと崩れ落ちるよって言いたくなるほどだ。

 いや、これはケチをつけているのではない。そう見てはいけないのだ。
 観客はその舞台での建物が御殿の役割ならそう見るし、その屋根だけがつけ替わると浜の苫屋に見なければならないのである。

 能舞台ではほとんど舞台装置はないし、あってもあまりにも簡素すぎて、つまりチャチの極限なので、抽象化されて象徴性が浮き出る。
 こうなると見るほうの頭の中で、それを豪華な御殿にでも乞食の小屋にでも、一生懸命に変換しなければならない。
 だから変換能力が無い初心者は能を見てもつまらない。何回も見ているうちに変換能力がついてくる。

 その点、歌舞伎は直ぐにとっつける。
 ただし、歌舞伎の舞台のチャチさは、能に比べると半端なのである。
 その半端さがチャチさを浮かび上がらせて、観客に変換能力を発揮させない。見立てのジャマをする。