2024/10/10

1839【年金生活】提出必要とも不要とも両方を指示する書類が来て困惑し年金事務所に訊きに行ってきた

 年金生活者である。毎年今頃になると日本年金機構なる役所(?)から「扶養親族等申告書なる書類に書きこんで提出せよと、たくさん紙を送って来る。提出は一枚だけだが書き込み方についての解説書類が多い。年金受給者全部に送っているのだろう。

 最初に読むようにと、大きな字の紙がある。フローチャートが書いてあり、順番に質問にしてがってYES or NOの回答を選んで進むのだ。それで提出の必要不要を判断する。

 先に結論を書いておくが、わたしの場合は本当は書類提出が必要だが、解説フローチャートの間違いで不要となっているだった。 

 フローチャートをたどると、途中で「所得控除の対象となる配偶者または扶養親族がいますか?」の質問があった。わたしはこの夏に配偶者を亡くしたので、去年までとは違って「いない」を選んで進む。ここが重大な間違いのところだ。

 そうやって最後までくると提出が不要にたどりつた。しかも最後の桝には「前年に申告書を提出している場合でも提出は不要です」と念入りに書いてある。
 
 あれっ、毎年提出しているし去年も提出しているのに今年は不要なのか。
 それは今年は配偶者が死んだから、もう提出の必要がなくなったのだろうか。でも、扶養親族がいなくなったことを申告しなくてよいのかしら、この書類はそのためのものだろうに、変だなあ。

 すでに市に死亡届を出しているから、それを日本年金機構はすでに知っいて、この申告しくなてもよいのだろうか。でもそうやっていち早く家族情報を手に入れているのなら、毎年申告させているのは、わかっていることを念入りに申告させているのかしら、なんだか変である。

 でもまあ提出しなくていいのなら、このやってきた書類を見もしないで捨てようと思ったが、待てよ、念のために提出不要という「扶養親族等申告書」用紙を出して眺めた。その作成の手引きも見た。

 そこには、変更があればその人物を記述を訂正・追記・抹消をせよとの指示が書いてある。抹消とは即ち死亡をも意味するのであろう。
 ということは変更があれば提出が必要と考えるのが普通だろう。

 ではフローチャートによれば提出不要とはなぜだろうか、どこかに配偶者死亡の場合は提出すべしと例外規定の注意書きがあるかと克明にさがしたが、見つからない。
 そこで年金事務所が近所にあるから、閑老人として出かけて直接に訊くことにした。それに、ボケ防止活動にもなるし、。

 横濱中年金事務所を訪ねて係にそういうと、しばらくフローチャートを眺めて言った。
 「配偶者死亡の場合は提出が必要ですが、なるほどこれだと提出不要となりますねえ、でも、もしかして提出しないでもよいかもかもしれません、調べますのでお待ちください」
 そして30分くらい待たされた結果は、
フローチャートにはそうなっていますが、申告書を提出してください
 要するにフローチャートの誤りというが不備である。

 このままでは今年配偶者に死なれたものは、みんなこの書類を提出しなくてもよいと判断するだろう。それで年金事務は問題がないのだろうか。
 わたしのようにこの一年で配偶者に死なれた人は、日本全国に何人いるのか知らぬが、特に珍しいこととも思われない。

 その場で書いて提出した。もっとも、これを提出しないと国が税金の取りそびれになる可能性があるのだから、納税する庶民にとっては都合がよいことかもしれれない。でもいまさらフローチャート印刷やり直しはしないだろうから、自己満足にすぎない。

(20241010記)


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


2024/10/08

1838【横浜MM21浦島太郎】ぴかぴか整然超高層新都市ビジネス街には浦島太郎気分が湧きにくい

  この5年ほどコロナと介護で出歩けなかったが、8月から独り身になったのっで独り街歩きを少しづつ再開している。ついでに言えば、同時にやめていた酒飲みも少しづつ再開練習中である。
 街歩きはコロナ前にはしょっちゅうやっていて、何時間でも歩いていたものだが、介護で逼塞している間に、老いが進むとともに脚力が衰えた。老いてもまだ歩けるうちに、せっせと都市歩きをやっておきたい、転ばぬように杖を突いて。。

 復活してから訪ね歩く街は、5年もあれば大変化に十分な時間であり、まるで浦島太郎の気分になることもできて、それはそれで楽しいものだ。品川駅東地区新宿駅周辺地区についで、新横浜駅周辺地区に行ってみたが、駅そのものと新幹線には浦島気分だったが、町はそうでもなかったので、ここに書くほどのことはない。
 昨日は、横浜「みなとみらい21」地区(MM21)に浦島太郎気分を味わいに行ってきた。まあまあ太郎気分もなくはなかったが、新宿と比べるともの足りなかった。

 みなとみらい地区に入るのはたぶん5年ぶりだろう。わざわざ紅葉丘から掃部山に登り、山を下っていく昔のルートから、久しぶりのMM21である。
 国道16号を横断し、頭上を走るJR線路の高架をくぐり、すぐまた地上を走るJR貨物線の踏切を渡るという、せせこましいMM地区入口を過ぎると、途端に超高層街が現れるのが面白い。実はこの踏切あたりは、かつて巨大造船所時代には工場の門があったそうだから、伝統的には正し入り方である。

街からMM地区に入るには国道をわたり鉄道高架をくぐりぬける
 
鉄道高架をくぐり貨物線の狭い踏切を渡ってMMへ、昔このあたりが造船所の門だった

 もちろんもっと北や南の広い道から入るのが普通のルートだが、今日は久しぶりにこのルートにしたのは、浦島太郎気分のためである。踏切を過ぎると高速道路の高架をくぐるという、まことに念入りに現代風のゲートが仕組まれている。ここは昔のままの風景である。
 はいってしまうと広い広い道路に高い高いビルが立ち並んでいて、昔はこのあたりが原っぱだったことが不思議な世界になっていた。さすがに海だったころを知らない。

 ここにあった大きな広い平屋のDIY屋は、黒くて高いホテルのビルに変わっていた。ごちゃごちゃした住宅展示場も白いオフィスの超高層になっている。巨大なイベント会場もできている。汚らしい幟りやら小旗がはためいていた野天の自動車屋はどうしたのかしら。子供でにぎわっっていたアンパンマンなんとかってのはどこに行ったのだろうか。


 浦島太郎気分であたりを見まわしつつ歩けば、広い道路に沿って一様に白っぽい壁と黒っぽいガラスの似たような超高層ビルばかりが並び立ち、歩道がにぎわうことはなさそうだ。ちょっと寄ってみようかなと思った建物は、神奈川大学が新キャンパスの白い超高層であった。ここだけは広場に学生たちがいて、3階あたりまで一般開放しているらしいから、人影があるのがよろしい。広い芝生がないキャンパスは寂しい。

 アトランダムに風景を載せる。






 モールの樹木は高くなり緑が繁って、景観がよくなっている。でもビルの姿は空き地に大きなものが建っても基本的には変わりがないというか、別に面白くもないものだ。


  PCの中を探したら上の写真と同じアングルの10年前の写真を見つけた(下図)。遠くの正面にビルが建ち、左の空き地にもビルが建ったところが変化だろうか。
10年前のモールは緑が貧弱で街に潤いがなかった
 
 ふらふらとあてどもなく歩く。用がなくて動くのだから、変化がないと疲れてくる。似たようなオフィス然としたファサード構えばかりではなくて、店舗の賑わいにも出会いたいのだが、それがなんだか難しい。任意に撮ったどの写真を見てもわかるように、全体に広告や看板類の規制が実によく働いていて、それらが一つも見えない。だから歩いていてもビルの前まで来てはじめて、あ、ここは食べ物屋か、食品量販店か(スーパーマーケットともいう)、お茶飲めるな、ここでは酒飲めるかもしれないな、なんてことをようやくわかる。
 
 これは来訪者には不親切だが、ここで暮らし働く人たちだけがが、それらの場所を分かればよいのだろう。観光客を呼びたいとは思わないのだろう。街の賑わいなんてことよく言われるが、一方で街の景観なんてことも言われるようになり、これらは対立概念ではないが、ここのような新しい街を作るときにどちらに親切になるように傾くのか、興味がある。

 でも考えると、今どきは誰もがスマートフォンを持っており、その中にある町案内に頼って歩けば、どこに何があるかわかる。ビルの上やら前やらに看板広告を掲示する必要がないのだろう。なるほどネット時代は街の景観をすっきりさせるのか。今に中華街もすっきりするのだろうか?

デッキレベルの歩行者ネットワークも充実してきた

 かつては横浜駅からアクセスすると、広い空き地だらけで、草ぼうぼうの地を眺めながら歩いたものだが、それが懐かしくなって、PCの中を探してみた。アトランダムにそれらの原風景を載せておくが、今となっては私にはどこであったかわからない。まさに浦島だ。
2011年12月13日

2011年12月13日

2014年3月25日

2009年10月1日

2014年3月25日

でも、まだ空き地はあり、こんな風景がごうごうと音を立てていた。

 総じていかにもニュータウン的ビジネス街になってきたが、どこかで見てきたような新都市風景であって、どこかに計画の鬼が潜んでいるらしい。しばらく見ぬ間に自然に変わったのではないから、浦島太郎的気分がわかなかった。新しいものばかりだと記憶がないからだろう。

 みなとみらいプロジェクトはこのあたりメインの地域だろうが、私の好みとしては新港地区の方がはるかに面白い。もう20年もたてば、MM21のピカピカ地区もいろいろと崩れたところが出てきて、味が出てきて面白くなるかもしれない。その時に私が訪ねてくることはありえないが、もし来たらそのときは浦島太郎になれることであろう。

 最後に2014年と2022年のグーグルアース写真を載せておく。
2014年3月16日MM21空撮 google earth

2024年2月12日MM21空撮 google earth

 (2024/10/08記)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


2024/10/02

1837【東京科学大学】工業から科学へ母校の名が変わりなぜか肩身が広がる気分


 2024年10月1日から、東京工業大学と東京医科歯科大学が統合して、「東京科学大学」というのだそうだ。

 まさかと思うが、「千葉科学大学」というのがすでにあって、経営難で自治体に引き取ってくれと言っているそうだから、東京科学大学もその系列で経営難から統合して一つになった、なんてのではあるまいな。

 なんしろ統合したら国からの運営交付金の金額的ランキングが上昇したらしいから、つまり懐が豊かになったらしいので、統合は金銭的にメリットがあるんだろうなあ。

 わたしはその片割れのひとつの大学を卒業したけど、あまり昔過ぎて関係ないからどうでもよいのだ。あ、ちがうな、実は毎年の桜の季節にキャンパス花見に遊びに行っているから、無関係とはいいがたい。あの花咲くキャンパスを、増えた運営交付金投入して、これからも維持してくださいませ。参照:2024大岡山花見

 ところで、卒業生たちはこれまでは「工大」とテキトーに縮めて呼んでいたが、これからは「科大」というべきだろうか。なんだか合併でたくさん課題が出てきているのではあるまいな、いやまあ過大な期待をしないでおこう。

 あそうだ、英文の方はどうなるのだろうかとネットを見ると正式には「institute of science tokyo」、略して「science tokyo」というそうだ。これをさらに略して「IST」か「ST」かしら。

 私が学生だった頃は「tokyo institut of technology」を略して「TIT」といったものだが、これは英語の隠語ではイヒヒなので(かどうか知らぬが)、最近は「tokyo tech」と略称していたようだ。

 ところで旧名大学の卒業生はこれからは母校名をどう呼べばよいのかしら。今日の新聞に載っている石破内閣の大臣の中に、ここの卒業生が一人いるが、出身校名は東京科学大学ではなくて旧名のままだったが、そうするものなんだろうか?

 わたしはこれまで「工業」と着く大学名がどうもダサすぎると思っていたから、「科学」に換わってちょっと嬉しい、ちょっとは賢くなるような気がする。だって、科学というなら社会科学もお勉強するんでしょ、わたしのころはがちがちの製造屋ばかりだったもんなあ。

 実はわたしは「遺構による近世公家住宅の研究」(その一部はこちら参照)というまことに工業的でない建築史の卒論を書いて出たものだから、「オレは理工学部卒じゃなくて文学部卒だ」と勝手に言っているので、これでようやく肩身が広くなるかも?、狂歌を、、。

工業から科学へ母校の名が変わりなぜか肩身が広がる気分

(2024/10/02記)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



2024/09/29

1836【新宿浦島太郎気分】大変化の新宿駅前東西あたりの街に昔と変わらぬ風景を探す

 コロナに重ねて老々介護で5年間もの逼塞から解放されて、少しづつふらふらと都市遠足徘徊をやり始めている。この前は品川駅東の港南地区、先週は戸塚駅あたり徘徊、今回は新宿の駅東西徘徊である。予想していたけれど、東京の都市変化は著しい。浦島太郎気分を楽しむには、じつに楽しいところだ。

 新宿の街に降りたったのは、この前はいつだったろうか。PCに保存する写真の日付で最も新しいのは2007年だから、もう17年も前のことであったか、東京の姿ががらりと変わるには十分すぎる長さだ。構造的な骨格は変わらないが、景観の変化が著しいから都市徘徊を楽しむのだ。なお、2008年に新宿を訪れて、こんなことを書いている。

 地下鉄で新宿3丁目駅に降りた。この前はまだなかったはずの副都心線であるから、駅の中でも外に出てからも、しばらくは方向感覚が戻らなかった。昔と風景がまるで違う感じだ。地上の街並み風景の基本は、道路がつけかわらなければ変わらないはずだ。だが、昔よりは小ぎれいな建築に建て替わっている感があって、頭の中の新宿イメージが異なる。

 こうなると浦島太郎気分になってくる。そして浦島太郎として街を楽しむには、昔と同じ風景を探しつつあるくのだ。新宿3丁目交差点でしばらく立ち止まって方向感覚を取り戻そうとした。そのよすがは伊勢丹という建物のであった。これは昔通りの姿で立っていた。

赤の丸に伊のマークは伊勢丹だ、昔のままの位置に昔の建物だ

 伊勢丹がここならば、次に知っている建物は紀伊国屋書店であるが、果たしてまだあるだろうか。あったあった、昔の姿で立っているぞ。うん、わたしはこれが建つ前の、木造だった建物に入った記憶もある。

紀伊国屋書店は昔のまま

 こうしているうちにようやくオリエンテーションの勘が戻ってきて、新宿駅方面へと歩き始めたのであった。沿道の建物がこぎれいな感じだが、昔よりも幅も高さも増えているようだ。昔よりもずいぶん幅を利かせているのが、ビックカメラだ。2007年にはまだなかったユニクロなんてのが、ビックカメラと肩を組んで、赤い字をきらめかせているのが、新宿の近頃の大型店なのかしら。

 ではこのあたりで北に曲がって、歌舞伎町を覗いて来よう。まあ、ごちゃごちゃぶりは変わらない。あれ、あの空色の高層ビルは記憶にあるぞ、なんてたっけか、そうそう都立大久保病院だ。検査か何かで入ったことがあったなあ、浦島太郎の記憶のひとつである。

歌舞伎町の飲み屋街で正面に見えるビルは都立大久保病院
 

 では、歌舞伎町の神髄であるコマ劇場あたりに行ってみよう。噴水のある広場があったよな気がする。あったあった、広場だけはあったが、噴水はなくて殺風景なタイル張り、しかも四周に柵がめぐらせたあって入れない。つまらない。道と広場の境目あたりに、女が一人、男が一人、別々に床に寝転んでぐっすりと眠っているのが、新宿歌舞伎町らしい風景だ。 

昔の噴水広場は殺風景なことになっている
 そういえば、今日はここに来る前の道端で若い女性がが寝転んでいたし、その前の電車の中で寝込んで、しかも床に吐いた若い女がいた。土曜日だから夕べ徹夜で飲んだのだろうが、昔は男にしか見なかったが、近ごろは女性もその風景を作るらしい。

 ついでに2008年の上と同じ角度の写真(下図)を見よう。この時もすでに噴水は消えている。向こうのビルが上の写真とは違うから、こののちに建て直されたらしい。

2008年の噴水のない噴水広場風景
 
 この広場の写真の背中の側には、新宿コマ劇場があった。ついでにその2008年の写真を見よう(下図)。
広場に面して新宿コマ劇場があった2008年
 
 これとおなじアングルの今回2024年の写真は下図のようである。白湯のビルは今も変わらないようだが、コマ劇場があったところには超高層ビルが建っている。下層は商業施設、上層に共同住宅のように見える。ネットで調べたら「新宿東宝ビル」といい、1000室近い巨大ホテルであるらしい。

コマ劇場の跡のビルにはTOHO CINEMAS IMAXと書いてあった

 広場が今もあったから、浦島の記憶のよすがにはなったが、意外につまらない風景だ。この広場を種に大きな都市再開発があったかと期待したが、2面は超高層ビルに建て替えしただけで、その他の2面は昔のままだ。そういえばここには歌舞伎座を誘致するつもりで、町名もそうつけて戦後復興の大事業をやったのだが、歌舞伎座は未だにやってきていない。

 若者たちが群れ遊ぶ飲み屋街を抜けて、JR新宿駅の東口に行く。ここに建つ東口駅ビル「ルミネ」は、昔の姿と変わらずに今も建っている。駅前広場もごちゃごちゃ狭いままだ。ところが何となくすかすかして見える。あ、そうだ、右の方の背景に壁になって見えていた西口駅前の小田急デパートが消えて、その向こうが見えているらしい。

JR新宿駅東口駅前風景 西口駅ビルの小田急デパートが消えている

 ではここから駅西口へ行こうと、昔あった狭いトンネル通路を抜けようとさがした。あの暗い狭い道が今もあるかと危惧したが、健在だったので浦島太郎は安心した。なんと「旧青梅街道」という標識もたち、その歴史をの説明版さえもあるのだった。

暗い地下道は明るく蘇っていた

 この道を始めて通ったのは1950年代の末だったと思うが、そのころは戦後新宿の暗さがある感じだった。この日はひっきりなしに人が通っているのだが、座りこんでオモライさんをやっている中年男がいたのは、さすが新宿地下道であった。ここでは60年以上も前の記憶の浦島太郎であった。ふと、傷痍軍人がいたかもしれないと思った。

おもらいさんが座っている地下道

 地下道を抜ければ、そこは思い出横丁、ここはほぼ昔と変わらぬ姿であった。久しぶり通り抜けたのだが、昔と変わったのは外国人らしい客が多いことだ。日本そばのカウンターで箸で啜りあげているのが、アフリカ系の顔の観光客たちであるのが奇妙だし、その後ろに立って並んで記念撮影などしているのは、どうも大陸系あるは半島系の人たちらしいのである。こんあところの何が面白いのかしら、ガイドブックに名所と書いてあるのかしら。
思い出横丁

 ここはハード面はほぼ変化がないのに、利用者というソフト面での大きな変化に、浦島太郎気分であった。この印旛饂飩、いやインバウンドだらけは新宿ばかりではないが、こんなところが観光になるとは変われば変わったものだ。浦島気分が高まる。

 西口駅前に来ると昔と違って妙に空が広い。そう、線路沿いに壁のように立っていた小田急百貨店ビルが消滅しているのだ。線路越しに東側にあるビル群が丸々見えるのが不思議な感じがする。あの高速道路ジャンクションのような広場も工事中だから作り直すらしい。
 建築家の東孝光が担当とはねえと、わたし妙に感心してきた頃は眺めたものだった。とにかく小田急百貨店が消えて、西口広場から東口のビルが見えている有様である。小田急と並んでいた京王デパートはまだ建っているが、こちらもたぶん今に建て直すのだろう。
西口駅前広場から東方面を見る 左端は小田急ハルク、小田急百貨店が消えて空が広い
駅東地区のビルが見える、右に京王デパートは健在


 参考までに小田急ビルが建っていたころの2022年の風景はこう(下図)だった。わたしが撮ったのではなくてネットで拾った。

 これまでの重厚な百貨店ビルが軒をそろえて建ち並ぶ20世紀型駅前風景から、たぶん超高層ビルが立ち並ぶ21世紀の都市風景になるのだろうなあ。

 小田急デパートの隣に建つ京王デパートの前に来て、お~っとびっくり感動、廃墟感に満ちたこの傾き具合と草ぼうぼうの排気?塔。これってタイルが貼ってあったはずだが、このように変更したのか、それとも本当に廃墟となっているだろうか、それとも廃墟新宿インスタレーションか。ついでに京王デパートも、近ごろ流行の壁面緑化なるものをやってくれるといいのに、。

京王デパート前の風景 この傾き具合と仮囲いが廃墟感満載

 そういえば、駅前広場に面してスバルビルといったか、大きなビルがあった記憶があるが、すっかり消えているのはこれも建て直しているのだろう。なんにしても新宿駅西口駅前広場とその周りは、巨大再開発の時代を迎えているらしい。壊される前の今の姿に大きく変わったのを同時代で見てきたが、この次の大変化の結果を見ることはないから、今の姿を見ておくのが浦島太郎の徘徊である。

(この写真はネットから拾って編集)
 西口のごちゃごちゃ飲食街は健在だったので、久しぶりに昼飯を食ってきた。食い物にほとんど執着の無いわたしとしては珍しく、ちょっとうまかったワンタンだった。

 ここを発祥地とする企業名のヨドバシカメラの店舗が、どんどん繁殖してきたらしい様子が、東口地区のビックカメラと対抗する戦いの場に見えてくる。あまり浦島太郎気分になるようなことでもない。それにしてもヨドバシの店の汚いことよ。


 西側の記憶の風景をようやく見つけたが、それは京王プラザホテルのビルである。わたしはこのあたりがまだ淀橋浄水場跡地の土の荒野であったころに、このホテルがポツンと一本だけ屹立していたのを見た記憶がある。いやその隣にもう一本の超高層オフィスビルが建っていたような気もする。そのころのこのあたりの写真も撮ったが、いま探しても見つからない。

 今ではごちゃごちゃビル群の中に、工学院大学・都庁と並んでいるのが、わたしの記憶の風景である。浦島島太郎はちょっと正気に戻る。
西口商店街から見える記憶の風景は工学院大学、京王プラザホテル、都庁

  さて、新宿で見残したところは、ゴールデン街あたりと超高層街だが、楽しみに残しておこう。次は渋谷駅あたりに行かなばならないな。来週だな。
 (20240929記)
ブログ内関連記事
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 

2024/09/07

1835【品川港南浦島太郎気分】品川駅東の港南地区から南の天王洲アイルあたり四半世紀の変貌を見る

●品川駅東にこの35年の変貌を見に

  ようやく秋の気配が来て、毎日、涼しい時を狙って外歩きに出ている。この5年ほどのコロナ禍回避と家人介護作業のために、ほとんどできなかった長時間外出と歩行運動を、再開し始めた。まるで社会復帰と身体能力復活ためのリハビリ運動である。徐々に活動範囲を広げて遠出していくようにしたい。

 その第1歩とでもいうか、9月4日に品川駅の東の港南地区へ遠出して、初秋の午後をうろうろしてきた。ここは1985年から89年までわたしの仕事の本拠地があった。久しぶりに品川駅東口に降りて、その変貌ぶりにまさしく浦島太郎現象になったのだた。それは戸惑うのではなく、むしろ楽しいものであった。

 大きく変わった景観の主役はもちろん高層ビル群の林立である。もともとは倉庫や工場地帯だったのが、日本のバブル時代にがらりと土地利用転換が起きた。低層の倉庫や工場群は中高層のオフィスビルへと建て替わった。


 特に大きな変化は、品川駅天王洲である。この両地区は離れているのだが、この再開発が二つ目玉の起爆剤となり、いまの品川駅東地区つまり港南地区全体への再開発となった。JR品川駅はその名称と異なって実は港区内であり、その東地区も港区港南という地名である。地名で港区と品川区はかなりイメージが違うらしく、幾分かは地名が再開発を促進しているかもしれない。

 さらに東海道新幹線駅が開設されたことで東京での拠点的な立地の地位も得て、さらに今後は中央新幹線の拠点駅となることで、未来の東京の拠点としての地位も確保した。したがって、そこのはある種の未来都市的な感覚に包まれている。東京湾の水辺をすぐそばに控えていて、似たようなところといえば横浜の「みなとみらい地区」であろうか。

 1990年と2024年とを空中写真で比べてみよう。


 この四半世紀を隔てる空中写真をGIFで重ねてみると、あれこれと面白い。港南地区には、駅前にちまちました商店街もあるが、概してまとまった広い敷地をもつ施設が多い。例えば、品川駅関連用地、東京都下水処理場、都営住宅団地、都営食肉市場、国立東京海洋大学などである。それらがどのように再開発されたのか、されないのか、どうなっていくのかを見るのは面白い。

●JR品川駅の大変貌

 まずは品川駅であるが、ここの土地利用は鉄道機能だが、右下のあたりが大きく商業業務機能に変貌しているのが分かる。国鉄民営化で民間に処分し、再開発された土地である。広大な鉄道操車場を民間に売却して、「品川インターシティ」と称する超高層ビルが立ち並ぶオフィス街が1998年に登場し、品川駅東のイメージを一気に変えた。

 もっとも、品川駅そのものの機能は鉄道のままでで変わらぬとしても、大きく改造されているいる。それは駅東の港南地区の変貌への対応でもあるのが分かる。かつての品川駅は、西に顔を向けていて、東口(港南口)地区に出るには細く暗く長い地下道を延々と歩いたものだった。

 それが今は、あの地下道は線路上空にかかる明るく広いコンコースに代わり、今や東口には超高層駅ビルさえも建っているし、広い駅前広場もあるのだ。何しろ今は東海道新幹線の駅なんだから、当たり前か。あの木造駅舎を懐かしい。浦島太郎気分を楽しむ。


品川駅港南口の駅ビル 2024年9月撮影

1990年ころまでは地下道から出てくるとこんな姿だった品川駅港南口

●下水処理場の蓋の上に超高層ビル

 北の方から見ていこう。広大な「芝浦水再生センター」という東京都の汚水処理場がある。都市に欠かせない機能であり、他に移しようもないが、なんとその一角に巨大な超高層ビルが建っている。東京都下水道局は立体都市計画制度を使って、汚水槽の上に蓋をしてその上に超高層オフィスビルを建ててしまったのである。都市化圧力は下水道の汚水もものともしない。

 実は、わたしの今回の港南訪問の目的は、このビル内のホールで開催した昔の仕事仲間との同窓会に出席のためだった。久しぶりに会った人たちとの立食パーを楽しんだその会場は、実は都民のウンコ壺の蓋の上であったのだ。もちろん見た目には何もそんなことはわからない。目くらましの植栽でまるで公園のようだった。

 下水処理場はまだまだ広いからどんどんこれをやるつもりだろうか。汚水処理という都市には必要な機能だが、汚染とか臭気とかの問題があるので迷惑施設とされて、居住やビジネスの場からの隔離を要求されて、都市計画において土地利用分離を厳しくしてきた。それが今や共存併存しているのは、技術的な解決が可能になっただけではなくて、経済的な要求によるものだろう。まだまだ水面は広いからこれからもどんどん都市機能のビルが、ウンコの上に建つであろう。

●今も食肉市場にカラスが舞う

 港南地区での最も特色ある土地利用は、なんといっても東京都営の食肉市場である。駅を出るとすぐ近くに南へ広がる広大な施設である。ここは東京都唯一の食肉市場(屠殺場)であり、特別な産業土地利用は今や周りとは隔絶しているようだ。

 その周辺がビジネス街に変貌するのを尻目に、その機能は厳然として動かず、むしろ建物の整備がさらに進んでおり、機能寿充実のように見える。バブル期に移転の話もあったと仄聞したが、その機能の特殊性から諸般の事情で他に移せないものらしい。

 先日も前を通ったが35年前と同様に健在である。カラスの群れも健在で、上空を飛びかい場内に舞い降り、屠殺場から生肉をかすめ取ろうと狙っているのを見た。昔、路上にカラスがついばんだ肉片が落ちていることもよくあった。時には屠殺される牛の鳴き声も聞こえたものだし、屠殺直前の牛が外の道路に逃げ出す事件も時にあった。裏門が開いていると、大きな牛肉の塊がいくつもぶら下がっているのが見えていたこともある。

 ここも下水処理場と同じく東京都のものである。もしかして下水処理場のように、上空活用を考えているのだろうか。ここも動物の生ものを扱うので臭気がかなり発生するし、生産工場であり食品流通拠点だから騒音もかなり発生する。工学技術的には下水道施設のように上下に機能分離して立体的利用により、業務商業機能導入も可能だろうか。

 汚水だけが出入りの下水道と比べると、動物や人間やトラック等の出入りが激しい食肉市場との共存は、かなり難しそうである。もちろん私には実のところはよくわからないが、今後ともこの機能はここに存在するのであろうと思うのだ。ひょいと思いついたが、もしかしたら、下水処理場と食肉市場は共存するかもしれない、う~む、冗談が過ぎるか。

●駅前商店街飲み屋街は今

 品川駅前には、かつては飲み屋や商店など雑居ビルが立ち並び、その中を路地が抜ける怪しげな雰囲気の飲み屋街がある。それは昔も今もあるのだ。その昭和の景観は、他の広大な敷地に高層ビルが建ちならぶバブル景観ではない。

 35年前と今との空中写真を見よう。土地は細分化されて、小規模な雑居ビルが立ち並んでいる。それらは小規模なりに建て替わって来ているようだ。そしてここには、超高層ビルの足元の澄ました姿ではない、昔からの街の賑わいが表出している。

2023年の品川駅港南口の商店街


1990年の品川駅港南口の商店街
 二つを比べてわかるのは、まず駅前広場がJRの用地の側に大きく整備されたことである。そして駅ビルが建ち、品川インターシティができても、駅前商店街は相変わらぬことである。他の大規模な再開発高層ビルが林立する中にあって、なかなかにしぶとく細切れ土地の活用をそれなりに模索しているようだ。そのうちに市街地再開発事業が起きるだろうか?とにかく駅前は他とは異なる東京カオスの街である。

品川駅港南口駅ビルから見る駅前風景(ネットで拾った画像)

 駅前広場からその商店街を見れば、その入り口の両側に新築ビルの工事中であった(下の写真)。工事案内をよめば、そのビルのどちらも建築面積が120㎡にも満たないが、10階ての雑居ペンシルビルらしい。こうやって昭和の駅前商店街は、新開発超高層ビル街とは異なるミニ再開発で永続するらしい。

駅前広場を背にして駅前商店街入り口を見る、左右にペンシルビル工事中

品川駅港南口商店街の裏路地風景(ネットから拾った)

●天王洲アイルの不思議