2013/08/13

819【横浜ご近所探検】横浜・吉田町で炎天下の道路ビアホールってやっぱり暑くて退散

 今年の夏は特に暑いのだろうか。まあ、暑くない夏が来るようでは地球がおかしいか、暑くてよいのだ。
 街の中は熱を蓄積して発散する塊ばかりだから、天からも地からもビルからも熱戦が突き刺さる。
 そんな炎天下のアスファルトの道の上で、露天ビヤホールをやっているのが、横浜・吉田町である。
 防火建築帯の街がどう生き返っているかと、野次馬で見に行ってみたが、やっぱりこんな暑いところで飲むのはごめんである。早々に逃げ出した。

 ふらふらと日ノ出町に来れば、日ノ出町の駅前再開発が、ついに着工。吉田町とおなじの防火建築帯などの中層低層建物群は撤去されて、再開発ビルの工事中である。
 まだ地上に姿を現さないが、いずれこの交差点の正面に、超高層共同住宅ビルが姿を現せば、この街の雰囲気も変わるだろうか。
  
 日ノ出町交差点のそばでは、ストリップ劇場「浜劇」は今日も興行中である。
 見れば、その隣に大きな建設工事中、劇場増築か、、、なになに、おお、マンション、いや、マンションてのは大邸宅のことだから、これは単なる共同住宅ビルである。
    野毛山公園のすぐ下だし、交通は便利なのに、どうも街のイメージがちょっと低くて、開発の動きが少なかった日ノ出町界隈だが、駅前再開発によるポテンシャルが顕在化して、この共同住宅ビルを誘発したか。
 まあ、場所を案内するときに、ストリップ劇場の隣です、と言えば、分りやすいよなあ。
 

2013/08/10

818東京青山のJIA建築家会館で8月22日(木)午後3時から建築家山口文象について講演します

この8月22日(木)午後3時から東京青山のJIA建築家会館で、
建築家・山口文象のことを逓信建築に絡めて話する機会をいただきました。
スコラセミナー主宰の郵政建築出身の建築家・野崎英彦様からのお誘いです。
超高層下駄ばき姿となった東京中央郵便局KITTEのデザインも話題にします。

この猛暑の中の夏休み中にもかかわらず、
お出かけいただき話を聞いてくださいというのも、
まことに申し訳けなくて気がとがめますが、
ご都合つくならばおいでくだるとありがたく存じます。

――――――――案内状――――――――

「第16回スコラセミナー」を下記のごとく開催致します。

どなたでも、ご参加くださいませ。
事前申し込みの必要はありませんので、会場に直接おいでください。

■日時:2013年8月22日(木)15:00~18:00(講演、意見交換、懇親会)

■場所:日本建築家協会 JIA会館 1階建築家倶楽部会議室(案内図を参照)
  (社)日本建築家協会・関東甲信越支部
   〒150-0001 渋谷区神宮前2-3-18  
   TEL: 03-3408-8291  FAX: 03-3408-8294

■講演(15:00~16:30) テーマ「建築家 山口文象 人と作品」
・山口文象とはなにものか
・山口文象が語った逓信建築における山田守と岩本録
・東京中央郵便局をめぐる山口文象の言説及び近代建築保存の諸問題

■講師:伊達美徳(山口文象ストーカー、アーバンプランナー)
「建築家山口文象+初期RIA 」https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html
「まちもり通信」https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
「伊達の眼鏡」http://datey.blogspot.com/

■質疑応答、意見交換、懇親会(16:30~18:00)
  講演会場にて、暑気払いの飲み物をいただきながら、気軽にやりましょう。

■参加費:1500円
  当日会場でいただきます。資料代、お茶代、懇親会飲み物代等ですが、懇親会参加・不参加とも同額です。

 
■お問合せ先 
  野崎英彦(事務局代表)mobil:080-5380-3800 
       Email:nova_einozaki@mac.com

●もっと詳しくは下記ご案内をご覧くださいませ。
http://goo.gl/r6ddCB
 出てきたら左上の下向き矢印をクリックして取り込んでください。

■建築家会館 会場案内(右図参照)
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2013/08/07

817【貧乏避暑術】日本は超特大借金国と知って貧乏人は心底から涼しくなり猛暑をしのぐのだ

 ええ~っ、日本政府って、よその国の政府と比べて、こんなにも大借金を抱えてるのかよ~!!??(参照:今朝の新聞に載っている各国借金比べグラフ)

  わたしは政治にも経済にもオンチだから、どうしてこうなったの分らないが、あのごたごたギリシャよりも借金が多いのかよ~。
 分るのは、こんなに借金しても、どんどん金を使っているらしいことだ。まだまだ借金が積みあがっているのかしら。

 あのねえ~、日銀にじゃんじゃん札束を印刷させて市場に流しこみ、国土強靭化とか震災復興とかで使いきれないほどの予算をつけてるんだけど、それって手持ちのおカネなの? それともそれも借金なの?
 その一方で福祉政策の予算は削減するって、みみっちいのはどういうことなの?

 とにかく、こうやってよその国と比較して、大大大借金してるってことは、日本にはなにか打ち出の小槌があって、将来のある日ひょいと借金返済ができるんだろうなあ。

 わたしはどうせもうすぐボケてしまうし(すでにそうかな)、あの世に行くのも遠くないから知ったことではないが、これから生き続けるお方は、どうなんですか?

 あ、そうか、いいのですよね、それで、だって、そういう政府をつくる政党を、つい先日の選挙で大勝させたのが、投票に行かれた「国民の皆様」ですもんね。わたしゃ投票ボイコット組でしたがね。
 こちとら根が貧乏人だから、借金の文字を見るだけで心底から涼しくなる性分は夏向きで、それはそれで今日のところは助かっているのである。

2013/08/06

816【横浜ご近所探検】都会のセミはコンクリートの液を吸って生きていくのか

 くもり空で涼風がはいる真夏の昼寝、その耳のそばから「ジージージー」なるアブラゼミの声が聞こえる。
 ここは7階の空中陋屋、セミなどいる筈がないと起き上がりバルコニーを見れば、天井に張り付いた一匹、けなげに鳴き続ける。風に乗ってやってきたか。
 樹木にはりついてこそ樹液を吸って生るのだろうに、都会のセミはこんな無機質なコンクリ板にも樹液を求めるのか。

 
 ここで昔の思い出になるのが歳よりの常、わたしの生家は神社の森の中にあった。初夏から初秋まで、いろいろなセミが順番に登場して鳴き続けていた。
 それはもう、蝉時雨どころか蝉梅雨のごとくに降りしきり、森の空気をも染めてしまう。生れてからずっとその中で育った私は平気だったが、訪れる友人たちはそのうるささに閉口した。
 降りしきる蝉の声の涼風の森、縁台の上で昼寝をする夏休み、遠くなりすぎた少年の日々。

 
 鎌倉の緑の森の中から横浜都心のビルの森へ、地べたの小屋から空中の陋屋に越して11年目、バルコニーからの眺めは緩やかに変化していく。
 遠景の山手の丘の緑の柔らかな稜線が、少しづつ建物の固い線に変わっていく。
 中景にあったビル屋上の真っ赤な日産自動車の広告がまことに目障りであったが、去年それがビルごと消えたので喜んでいた。
 その消えた期間も短く、今やそのあとに高層共同住宅ビルが建ちあがりつつある。こいつがどこまで上に伸びるのやら。完成したらまた日産自動車が、真っ赤な広告塔をその上に載せるのだろうか。
2003年

2013年1月

2013年8月
近景の駐車場に高層ビルが建たないことを願う日々である。

(追記 2016/08/07)   2016年8月


2013/08/04

815【東京開発徘徊】品川の森の中で絶滅危機種族スー族たちの聖なる儀式の場を発見

 横浜を出て東京に行くことも少なくなった。久しぶりに品川駅に東口に下りた。
 元国鉄操車場跡地のビル群とその間の緑の広場が迎えてくれる。
 ここの樹木はずいぶん育ったなあ、でも、樹木の配置があまりに規則的で、高木のみの単純植物相であり、土がほとんど見えないタイル貼りの床であるので、なんとも不自然なる風景である。
 まあ、名前がセントラルガーデンだから、自然の森ではなくて人口の庭のつくりであるのは当然か。

 なんとなく足元が寒いような、、セントラルガーデン風景

 3階レベルの回廊を歩きつつ見下ろすと、暑い夏の日の木立の陰にも人影はほとんどない。
 ところが、緑の木々の間に柵の囲いがあり、囲いの中だけえらく混んでいる。中に男どもが集まって所在無げに立っている様子、なんだろうかと目を凝らすと、なんと、タバコ喫煙所であった。
 そうか、今や絶滅危機に瀕しているスー族たちが、あちこちから三々五々に集まって来て、持ち寄った小さな白い紙に巻いた草の束に火をつけて、静かにその煙を吸い合って生き延びようとする聖なる儀式を行っているのであるか。儀式は炎天下でも行われるのだ。
 なるほど、現代の森には、そういう聖なる文化装置もいるのだなあ。
 少ないが女もいる。あれは男女共用でよいのかしら。煙で燻される樹木は大丈夫かしら。

 絶滅危機種族スー族が生き延びるための聖なる儀式を進めている

 ここのあたり風景は、この20年ほどで極端に変わった。
 四半世紀ほど前、ここの近くにわたしの勤め先があった。その頃は品川駅の改札口は、駅の西側にしかなかった。東側に行くには、いったん西口改札を出て、地下道を通っていく。
 品川駅には、京浜急行、山手、京浜東北、東海道、横須賀などの各線が乗り入れているから列車ホームの数が多い。地下道はそれを横切るのだから、たぶん100m以上あっただろう。狭くて天井が低く、途中で曲がる、コンクリートの四角な筒だった。

 駅の東には東京都中央卸売市場食肉市場(牛のと場)と東京新聞社があるくらいで、こちら側に通勤する人は少なかった。
 
 わたしの勤め先は東京駅の北隣の大手町にあったが、80年代の初めの品川駅の東に建った新築ビルに引っ越してきた。それは、このあたりの工場や倉庫街の再開発の仕事にとりかかっていたことと、その後のこちら側の発展を見越したからだった。
 この駅裏の工場・倉庫街にも、次第に共同住宅ビルやオフィスビルが建ってきたのは、やがてやってきたバブル景気のせいであっただろう。
 次第に東へ向かう通勤者が多くなってきた。地下トンネルの幅は5mくらいだったろうか、朝の通勤ラッシュ時には、通路いっぱいの人でノロノロ歩行となった。

 1984年、旧国鉄操車場跡地が不動産市場に売られたことで、巨大開発が始まった。
 そこは現在、品川インターシティと品川グランドコモンズという名前の高層事務所や住宅のビル群と樹木が茂る広場となっている。新橋の旧汐留操車場跡シオサイトの品川版である。
 当然のとことに、その開発に絡めてインフラ整備もされて、今は新幹線さえ停まるようになったのだから、狭い地下道の代わりに駅の上空に広い東西デッキがかかり、駅改札もそのデッキに出るようになった。東側にも大きな駅前広場ができた。
 品川駅の風景は一変した。もっとも、駅と、駅東の風景は一変したが、旧来のに西側の風景はあまり変わらない。

 わたしは90年からフリーランスになって、この駅から通勤することをやめた。時どき東口にその後の変化を観察に行っていた。みるみる変わる風景は、ダイナミックであった。
 工場に働く人たちがメインのお客だった駅裏の汚い飲み屋街は、堂々たる駅前飲み屋商店街となった。
 食肉市場は、建物をかなり建替えたらしく、なんだかこぎれいに見える。昔は工場の雰囲気で、牛の運搬車から獣の臭いとともにモーッと鳴き声が聞こえ、時には危機を察した牛が逃げ出す騒ぎがあり、肉の切れ端を盗もうとするカラスが何羽も上空を舞い、裏の門扉の間から覗くと大きな牛の脚の肉がぶら下がるのが見えて、それらは独特の面白い風景だった。

 操車場跡地だけでなく、工場や倉庫の跡地にオフィスビルや共同住宅ビルが高く立ち上がる。それはもう、東京のありふれた都市開発風景になってしまって、かつての駅裏らしい独特の産業衰退の侘しさと、転換しようとする活気とが交差する風景は消えた。

1984年の品川駅とその東側空撮(国土地理院)
 
 1997年の品川駅東の旧国鉄操車場跡地開発開始(google earth)

 2010年の品川駅東の旧国鉄操車場跡地開発後(google earth)
 
 

2013/07/28

814【東京路地徘徊:麻布我善坊谷・7】我善坊谷の未来を勝手に想像する

【麻布我善坊谷・1】http://datey.blogspot.jp/2013/07/806.html
【麻布我善坊谷・2】http://datey.blogspot.jp/2013/07/807.html
【麻布我善坊谷・3】http://datey.blogspot.jp/2013/07/809.html
【麻布我善坊谷・4】http://datey.blogspot.jp/2013/07/810.html
【麻布我善坊谷・5】http://datey.blogspot.jp/2013/07/812.html
【麻布我善坊谷・6】http://datey.blogspot.jp/2013/07/813.html


7.我善坊谷の未来を勝手に想像する

 我善坊谷の北の丘上の六本木から赤坂にかけては、巨大開発でどんどんと地形も風景も変化が激しい。しかも、東京都心に近いほうからだんだんと南に開発が進んで来る。その最前線の真正面にあるのが、今や我善坊谷である。

 いったいどうなるのだろうか、都市計画はどうなっているんだろうかと、ネットをうろうろと徘徊して探す。現場がどうなのか全く知らない。インタネットだけが頼りである。

 というか、よほど面白いことでもないと(永井荷風の女のような)、それ以上の努力はしないのである。
 港区の公式サイトに、2012年策定の「六本木・虎ノ門地区まちづくりガイドライン」なる計画が乗っていて、ここに我善坊谷も含まれているので、これがまずは基本であろうと読んでみた。

  と言っても、こういう類のものは、わたしも作った経験があるから知っているが、初めのほうのあれこれと書いているお題目はどうでもよくて(よくはないのだが、面白くない)ので、我善坊谷あたりの図を拾うことにした。
 まず、この六本木・虎ノ門あたりの開発状況図である。

 まったくすごいものである。このうちどれが森蛭森虎兄弟の事業かわからないが、半分以上はそうだろう。
 この図の南のほうの「虎ノ門・麻布台地区」のピンクゾーンの開発検討地区が、我善坊谷である。
 これで見ると谷の西のほうは除外されていることがわかる。東のほうは桜田通りまで入れているのに、この除外にはどんな事情があるのだろうか。

 ====この続きと全文はこちらあるいはこちらからどうぞ====
 これまで麻布我善坊谷の連載をして来たが、一段落して一部追加訂正もして再編集、「我善坊谷今昔未来譚」と改題して「まちもり通信」2013年8月号「まちもり瓢論」として掲載した。

【東京路地徘徊】
麻布我善坊谷風景今昔未来譚

<徘徊人> まちもり散人

全目次
麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その1)
1.徘徊老人が“発見”した東京の谷底街
2.我善坊谷底の落合坂を西から東へ歩く


麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その2)
3.我善坊谷の北側の風景を鑑賞しながら行く
4.我善坊谷の南側の風景を鑑賞しながら行く

麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その3)
5.我善坊の谷底と丘上の昔
6.我善坊谷の住人たち
 
 ◆麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その4)
7.我善坊谷の未来を勝手に想像する

 

2013/07/26

813【東京路地徘徊:麻布我善坊谷・6】我善坊谷の住人たちー永井荷風を手玉に取った女

麻布我善坊谷・5】のつづき

6、我善坊谷の住人たち-永井荷風を手玉に取った女

 江戸時代は下級武士の住まいと分かったが、特定の人名までは分からない。もしかしたらなにかの捕り物の時代小説に、ここの街と人が登場しているかもしれないが、わたしは知らない。
 昭和のはじめ、我善坊谷の東の端に住んでいた、ひとりの女のことがわかる。あのスケベで徘徊好きな小説家の永井荷風(1879-1959年)が身受けして囲った、若い芸者上がりの女である。
 前に谷の上と下とは交わらないと書いたが、もう80年ほども前のことだが、この谷間の街と丘の上の街とを、ちょっとだけ交わらせたのが荷風散人であった。

 永井荷風は1920年5月から1945年3月の空襲まで、北の台地の西のほうの麻布市兵衛町に、「偏奇館」と名付けた家を建て住んでいた。偏奇のいわれは、木造洋風下見板の洋館風の建物で、外壁がペンキ塗りだったことによるという。
 1927年、丘の下の我善坊町を東に抜けたところある西久保八幡神社のふもとの裏路地に小さな家を借りて別宅を持った。「壺中庵」と名付けて、身請けした芸者だった女を囲って、本宅とここを頻繁に行き来していた。荷風48歳、女は22歳であった。

 荷風は30歳代に2度の結婚と離婚をしたあとは身を固めるのをやめたから、今風でいうところの不倫相手ではない。愛人というところか。「独り我善坊の細道づたい」(『断腸亭日乗』1927/10/21)に通う、平安時代の貴族の男のようであった。
 「此のあたりの地勢高低常なく、岨崖の眺望恰も初冬の暮靄に包まれ意外なる佳景を示したり。西の久保八幡祠前に出でし時満月の昇るを見る」(『断腸亭日乗』1927/11/08)

 荷風は有名小説家だし、女遊びも盛んで、硬軟いろいろな来客が本宅にやってくる。会いたくない人がくると裏から逃げ出して、丘から下って別宅に隠れた。
 多分、我善坊坂をトコトコ下ったのだろう。別宅は憩いの隠れ家であり執筆の場でもある。そこからまた女を連れて繁華街に遊びに出るのであった。

 もっとも、4か月ほどで女が店を持ちたいというので、三番町にあった待合を買って経営させるようになったので、壺中庵は引き払って荷風も我善坊谷には用が無くなった。

偏奇館と壺中庵の位置

旧偏奇館近くにある集合住宅ビル前にある銘板

   ここで話がちょっと逸れる。
 玄人女性遍歴の多い荷風だったが、この26歳も違う女とはうまくいっていて、死に水を取ってもらおうかと思っていたほどだが、4年あまりで突然に奇妙な別れ方をする。
 ある日のこと、壺中庵を訪ねた荷風とともに遊びに出ようと女が、タクシーで気絶して、病院に運んでしばらく入院したのである。ところが医者は不治の精神障害だと診断し、戻った女の日常挙動もおかしいので、荷風は仕方なく別れたのである。

 別れるにあたって、荷風は未練がましい思いを何度も綴っている。金銭的なごたごたもあったらしいが、とにかくきれいさっぱりと別れた。
 荷風はこの女のほかにも玄人女たちとごたごたしているが、別れるときはいつもお抱え弁護士を間に入れて処理している。親の遺産の利子で暮らしている金持ちなのに、いや、だからこそか、金銭にはきちんとしたひとだったらしい。

 これで我善坊谷あたりと荷風の物語は終わるのだが、面白い後日譚があるので書く。
 それから半世紀あまり後の1959年、雑誌「婦人公論」にこんなインタビュー記事が載った。語るのは関根歌、つまり荷風が別れたその人である。わたしは物好きにも県立図書館にこれを読みに行った。 
 「……。そんなことがあってから、私は仮病を使って日本橋中洲の病院に二ヶ月ほど入院しました。……私が気ちがいになってしまったと先生はほんとうに信じこんでいたようです。私自身としては、そうでもしなければどうしようもなかったのです」(関根歌『婦人公論』昭和34年7月号「日陰の女の五年間」)
 女が書いている「そんなこと」とは、荷風の女癖の悪さとか性的変態趣味のことである。本当の理由はともかく、別れたくなって仮病を使って荷風をだまして、別れに持ち込んで成功したというのである。

 ところが、まだ続きがある。
 わたしの本棚に『荷風全集第20巻』(岩波書店、1972年)「断腸亭日乗2」があり、上記の事件がこの巻に当たるので取り出したら、「月報」がはさまっていて、その記事に「丁字の花」という一文があり、筆者は関根歌とある。
 昔を思い出して懐かしがっているし、戦後にも荷風に会ったと書いている。そしてここにも別れた事情を書いている。
 「あの日記に書かれていることは、わたしが知っている限りみんな本当のことだと思いますが、ただひとつ、わたしにとって心外なのは、わたくしを気狂い扱いにしている件りです。産婦人科のお医者様の診断を鵜呑みにされていたことを知って、戦後お目にかかりました時に、その旨お恨み申しましたら、「どんな立派なお医者さんにも誤診はあるよ。それより今元気なのが何よりです」と言って、笑われました」

 ここで彼女が言うには、精神障害だったとは医者の誤診であり(仮病ならばそのとおりだが)、気を失ったのは、その日に大森に遊び(浮気をほのめかしている)に行って昼酒を飲んで帰ってきて、荷風にばれないように息をつめているうちに、酔いが回りすぎて倒れたのが発端だったという。
 仮病ではないというのだ。まあ、どちらにしても女が別れたくなってひと芝居を打ったらしい。女は本当に医者に誤診させるほどの名演技だったのか、あるいは医者とグルであったのか。

 荷風が本当に医者の誤診を信じたのかどうか、待合の女将になってカネのかかるようになった女と縁を切る仕掛けだったのかどうか、荷風日記に書いている愁嘆の言は本当なのかどうか。
 遊び人文士と芸者上がり女との男女虚虚実実の、まさに『腕くらべ』(1916~17年作)であったのかもしれないと、下世話などうでもよいことだが気になる。

 永井荷風のゴシップ話が長くなったが、我善坊の谷底街には、二人の文士が居たことがわかっている。岩野泡鳴(1873-1920年)と正宗白鳥(1879-1962年)である。
 わたしはこの二人の名前くらいは知っているし、うちの本棚の文学全集のなかにもあるのだが、全く読んだことがないので、ネットにひっかかったことだけ書いておく。

 白鳥と泡鳴とは同時代で文壇での親交があり、共に自然主義文学の系譜であった。永井荷風は文壇嫌いだったから、二人とはどうだったのだろうか。
 岩野泡鳴は、1916年(37歳)から1920年(41歳)まで麻布我善坊町10番地に住んだ。父親が取得した下宿屋兼住まいを相続したのであった。ただし、彼の書いた自伝的私小説を読むと、その期間中にどれくらい住んだのか分らない。無頼の文士は、何やらごたごたした家庭であったらしいが、その間に精力的に創作活動をしている。

 正宗白鳥は1916年から麻布我善坊町10番に住んだとあるが(『時事新報』大正5年9月8日号「文芸情報」)(注)、これは泡鳴と同じ番地である。泡鳴の下宿屋だったのだろうか。
 白鳥がいつまで我善坊に住んでいたかは、調べがついていないのだが、「我善坊より」、「我善坊にて」という作品がある。
 泡鳴と白鳥の我善坊における暮らしについて知るには、二人の作品を読まなければなるまいが、そこまでやるのはめんどくさい。
(注):この件は下記ネットページに記載がある孫引きである
http://libopa.fukuoka-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10780/416/1/uryu_41_1.pdf

つづく。再開発後の未来を想像する)

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伊達美徳=まちもり散人
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2013/07/25

812【東京路地徘徊:麻布我善坊谷・5】谷底と丘上の交わらない二つの街の歴史

麻布我善坊谷・4】からのつづき

5.谷底と丘上の交わらない二つの街の歴史

 我善坊谷の両側の丘は緑の稜線ではなく、北の崖上には仙石山テラスという森ビルの再開発事業による超高層住宅やら超高層オフィスビルやらが建って、この谷間を睥睨している。
 その姿は、丘の向こうにやってきたゴジラが、これからこちらの谷に足を踏み出そうとしているスケールである。そうか、ゴジラじゃなくて森蛭が巣食っているのだな。このあたりから北にかけて虎ノ門あたりまでの一帯は、森蛭・森虎兄弟がはびこるショバであった。この谷底もそうであって当然だろう。

 森ビルのサイトを見たら、やはりこの谷底地にも既に法定の市街地再開発準備組合を発足させているのだった。アークヒルズ以来連綿と続けている森ビル流の再開発事業をやるのだろう。

 空き家が多いが空き地が比較的少ないのは、それらの撤去や整地に市街地再開発事業による補助金をつぎ込むほうが、採算的に得だとみているからだろうか。
 その法定再開発事業がいつ認可になるのか知らないが、再開発を待っているらしい古ぼけた家屋が立ち並び、空き家には緑の蔦が生い茂る谷底の風景は、丘の上が現代風の巨大ビルになっていることと比べると、もしかしたら今や貴重な江戸東京風景であるかもしれない。
 ということは、この路地の風景も賞味期限は残り少ないのだろう。消える前の残照を、生きているうちに鑑賞できて良かった(それほどでもないか)。わたしは感傷的になるのではなく、今この姿をここに記録しておこうというだけである。

 それにしてもこの谷間の風景は、1945年の東京空爆で一度は燃えて消えたのだろうが、街の構造は江戸の街から続いているような気がしてきた。
 1947年9月撮影の空中写真を見ると、1945年3月の東京大空襲の焼け野原の中で、この谷底街の西3分の1くらいは焼け残ったように見える。

 この町の歴史をちょっと調べたら、江戸時代は「我善坊丁」と記してあり一般に「我善坊谷」とよんでいた。明治になって1872年に「麻布我善坊町」と町名をつけたが、この時の戸数は46、人口233、物産に皮鼻緒があった。戦後の1974年に町名変更で「麻布台1丁目」になった。(角川地名大辞典)

 江戸の切絵図を見ると、この谷底の地は「御先手組与力同心大縄地」と記されている。「御手先組与力同心」とは、今でいう警察官の役割を持つ下級武士で、奉行の下に与力がいて、与力の下に同心がつく。大縄地とは集団用地であり、その与力同心のグループは谷底の地を一括して与えられたようだ。
 ここの警官隊は「鉄砲(つつ)組」だったそうである。江戸時代にはこの谷底の街は、鉄砲隊の警官社宅群だったことになる。
 与力同心大縄手なる書き込みは処々にあるから、警察の管轄する機能とエリアごとの集団が、それぞれ軍団をつくって住んでいたらしい。


 1876年制作の明治東京全図を見ると、谷底は間口の狭い短冊形の敷地が並んでいる。江戸幕府の下級役人がそのまま住んでいる庶民の街のようだ。
つまり江戸時代の地割が近代東京へとそのまま移行して、庶民の住宅地に替わっていったのである。東京が過密になるにつれて、短冊形の敷地はさらに分割されて、小規模住宅地へと移っていく。

 ところが、この両側の台地の上は、谷底街とは極端に異なる大きな地割である。大きな地割だから、再開発をしやすかったので大規模な建物群が建つことになった結果が今の風景である。
 江戸切絵図を見ると、南の飯倉台地には出羽米沢藩上杉家が、北の千石山台地には陸奥八戸藩南部家と但馬出石藩仙石家が、それぞれ中屋敷や上屋敷を構えていた。
 いずれも谷底の下級武士の短冊土地とは比べ者にならない広大な敷地である。
 谷底街と台地街との間には、なんの関係も交流もなかったに違いない。いまも上下をつなぐ道が極端に少ないことに現れている。

 1876年制作の明治東京全図には、北の台地には大きな屋敷地があり、仙石正固と記されている。この人は但馬出石藩の最後の殿様だったから、明治になっても元の上屋敷に住んでいたのだろう。
 その隣には静寛院宮とあるは、将軍家茂の奥方だった人である。つまり皇女和宮で、公武合体の政治の渦に巻かれたひとで、若くして夫家茂に死に別れてから、この地の陸奥八戸藩南部家に住んでいた。
 反対の南の飯倉台地の、出羽米沢藩上杉家跡(今の郵政飯倉ビルのところの)は地番しか書いてないが、その東隣に伊東祐亨とあり、初代連合艦隊司令長官を務めた人である。

 丘の上には大きな屋敷に貴賓が住み、谷底には貧民だったかどうか知らないが、庶民が身を寄せる様にして暮らしている。
 これは人が変わっただけで、江戸時代と同じ社会構造であったろう。丘の上と下は社会的にあまりに格差があり、何の関係もなかったようだ。
 その姿はそのまま現代の都市景観となって引き継がれている。

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伊達美徳=まちもり散人
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2013/07/24

811うな丼の鰻が茄子に化けても面白がる時代になってよかった

 鰻の蒲焼きの鰻の代わりに、茄子の蒲焼ってのがあって、その茄子蒲焼丼がけっこう人気だと新聞報道にある。
 それで思い出したのが「代用食」って言葉。鰻の代用食の茄子。
 でも考えてみると、これは違うなあ、代用食ってのは1945年の敗戦直後あたりから、わたしもお世話になった食い物だ。

 戦争で食料生産力が衰えてしまったので、飢えから逃れようとの一生懸命さがこもった食い物だった。米の飯の代用として、麦の粥だったり、蒸かした薩摩芋だったり、芋の蔓だったり、かぼちゃだったり、すいとんだったりした。食卓にこれらが同時に3つ以上登場することはなかった。

 茄子の蒲焼丼は代用食ではなくてコピー食品である。遊びの余裕がある。食わなくても飢えることはない。他の食い物がいっぱいある。そこが代用食とは大きく異なる。
 鰻と茄子の値段はどれくらい違うか知らないが、ビフテキとラーメンの差より大きいか。そうだ、ビフテキの牛肉の代わりに茄子ってのもあるかもよ。この材料の落差が大きいほど遊び感が大きい。

 まあ、平和な時代になったもんだ。
 
 

2013/07/21

810【東京路地徘徊:麻布我善坊谷・4】谷底の落合坂を行く(その3)南の路地とその上に見えるレトロ建築

麻布我善坊谷・3】のつづき

4.落合坂を行く(その3)我善坊谷底街の南の風景

 さて、こんどは落合坂の南側の風景を、またあらためて西側から東へ見ていこう。
 南側の路地そのものは、北側と大差はないのだ。奥に15mも行けば飯倉台の崖下に突き当たる。

 こちらの飯倉台の上にも工事中の超高層建築が見えるが、
尾根を越した狸穴あたりらしい。

路地の突き当りの崖の上に重厚なレトロっぽい建物が姿を見せた。
日本郵政飯倉ビルである。

郵政飯倉ビルは4階建てだがかなり横に長い。
北側と違ってこちらには超高層建築は姿を見せない。

路地の奥に入ってツタが絡まる廃屋の横の崖下から
崖上の日本郵政飯倉ビルを見上げる。

東京駅前の中央郵便局のように
この日本郵政飯倉ビルも建て替えるらしい。
たぶん、下半身に今の姿をコピーした超高層建築になるだろう。
これは以前に撮った日本郵政飯倉ビル。
もともとは1930年に建った逓信省貯金局庁舎。
逓信省建築にしてはちょっと古典的な風貌を持っているのは
設計が逓信省ではなくて大蔵省営繕管財局だからだろうか。

蔦の絡まる空家、崖地の緑、崖上の西洋館がなんとなく調和する風景
飯倉ビルはこちら側は完全に裏だが、全く手を抜いていないのは、
崖下からの眺めあるいは仙石山からの眺めを意識したのだろうか。


路地の奥にツタの絡まる木造アパート

 その奥まで入ってみると廃墟感に迫られる

空き家の玄関には森ビルの張り紙

三年坂までやってきたのでちょっと登る

差年坂から振り返って我善坊谷を西に望む。
左に飯倉台の上の日本郵政飯倉ビルが見え、
向こうの一番高いビルは東京ミッドタウンらしい。
右は仙石山の上野森ビルによる再開発ビル。
この民間を超高層ビルが埋める日がいつか来るらしい。

三年坂を戻って下り、右の二つの大きな建物は霊友会、
正面の森は飯倉台の尾根の東端部にある西久保八幡神社。

近づいてみて驚いた。霊友会の建物は飯倉台の上にあるのではなく、
この尾根をストンと谷底レベルまで断ち切ってしまって建っている。
西久保八幡神社の霊友会側の丘の下に大きな高い擁壁が建っていて、
神社は尾根の上ではなくて今や島の上に建っているのだ。
尾根先端部に神社が建つのは古代からの岬信仰の伝統を背負うもの。
ここでは岬をちょん切られて島になった神社はどうなっているのか。

このあたり地形図を探したら港区のサイトにあったが、
霊友会釈迦殿ができる前の地形のままなのでここで訂正しておいた


霊友会を過ぎるあたりに来ると空き家が目立ってくる

上の写真の建物の向こう側に回ってみた。

路地の奥に八幡神社に登る細い石段、そこから振り返ってみた風景
 
路地から振り返って北を見た風景

路地探検を終えて気になる西久保八幡宮に行ってみる。
桜田通りに面したビルとビルの間の参道から岬の上に石段を登る。

登ってこれが西久保八幡神社社殿、すごいことになっている。
黒服霊友会釈迦殿が手錠を振りかざして社殿に覆いかぶさる。
岬信仰の神社は社殿背後の山を拝むが、
ここは神仏混淆で釈迦を拝むのか。
新旧ふたつの信仰の場が競合して奇妙な景観を生んでいる。
釈迦殿設計の建築家(竹中工務店)はどう考えたのだろうか。
真っ黒異様巨大建築で我善坊谷の風景にひずみを生じさせ、
隣接する歴史的な背景を持つ神社の景観を破壊している。


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伊達美徳=まちもり散人
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