2014/09/27

1003【福島東電核毒地帯徘徊5】浪江町ゴーストタウン中心街は震災と核災の2重苦の風景

 福島東電核毒ベルト地帯の北西の端に飯舘村があり、その南隣は浪江町である。その浪江町の南隣は双葉町で、核毒発祥の東電福島第1原発があり、そこが核毒ベルトの原点である。
 浪江町は原発立地自治体ではないが、隣接して少しは原発ご利益のおこぼれにあずかっていたかもしれないが、2011年3月におこぼれどころか町全体に核毒降下という、巨大なトバッチリを蒙った。
 全町が避難指示区域指定になり、いまだに東電核毒に占拠されたままで、町民は町外のあちこちで避難生活中であり、町役場は二本松市内にある有様だ。

 浪江の中心街に入ると、街の姿はそれなりにあるのだが、人間も自動車も通らない。だから静かであるが、それは不気味な静寂である。
 1時間足らずの街なか徘徊中に出会った人は、訪ねたらしい自宅であろう家から出てきて車で去っていった女性一人だけであった。
 民主党政権下である大臣が「死の町」と印象の述べて、マスメディからコテンパンにたたかれて辞任した事件があったが、まさのその浪江町は人がいない死の町、ゴーストタウンであった。あの大臣がなぜ叩かれ辞めるはめになったのか、あの頃のヒステックな世の空気を思い出す。
こんな立派な街だが誰も住んでいない

 ひび割れた道路に草が生え、建物は建ち並んでいるが、地震で傾いたり、平屋かと見れば実は1階がつぶれて2階が道に面しているとか、歪んだ光景である。
 名物浪江焼きそばの看板、役に立たない自販機、縛られた郵便ポストなどなど、むなしい。
 1995年の阪神淡路震災の神戸三宮で見た風景を思い出した。だが、あの風景とこの風景の大きな違いは、目には見えないがここは核毒にまみれていることだ。復興の手を付けられない
 そう意識しながらこの風景を観ると、ため息しか出てこないのであった。







 小学校の校庭は草原である。どこの屋敷内も草ぼうぼうかと見れば、必ずしもそうではないのは、持ち主が草刈りをしているのだろうか、だが、核毒汚染地帯内だからそれも危ないことだろう。
 家の家に住めないし、修理もままならない。だからここは環境省という国家管理の地となっている。チェルノブイリもこうなのだろうか。

 あの日から動いていない常磐線は、駅ホームも線路も夏草が繁茂している。閉じられた浪江駅舎の中を覗くと、まるで始発前の朝のように乗客を待っている雰囲気のままである。
 駅前付属の駐輪場には、何台もの自転車が整然と並んでいて、乗り手が戻ってくるのを待っている。あの日、大急ぎで避難した人たちが、通勤通学で乗ってきたままにままになっているのだ。
 駅前広場の中には、2台のマイクロバスが放棄されていた。これらも核毒汚染ゴミになるのだろうか。 


駅前に地元紙の福島民報と看板に書いた新聞販売店がある。表のガラス戸から覗くと、店内はつい先ほどもまで配達の準備で忙しくしていた様子そのままである。配達前の新聞が山積みになっている。慌てて逃げ出したらしい。
 「M8.8 国内史上最大、、、 死者16人、、、」などの大見出しが見えるから、3月12日の新聞だろうか。今や死者行方不明者は2万人にもなったのに、この段階では16人であった。
 まるで地震ミュージアムの展示かと思わせるが、現実であることに震撼する。時間航行者になった自分が居るサイエンスフィクション映画を見ているようであった。
 余所者の勝手な言い方であるが、この姿を復興後も保存して、震災と核災を後の世に伝えてほしいと思う。だが、この新聞紙なども核毒まみれなのだろう。



 そのうちにこの街でも、除染という核毒除去作業が始まるのだろう。
建物を壊したり改修すると出てくる核毒ゴミの量は大変な量になるだろう。黒い袋がこの町を占領するのだろうか。
 建物を雑巾で拭うのだろうか。中高層のビルもあるから、いやはや大変な作業である。

 だが、浪江町の復興計画は、核毒が濃い西部の7割くらいの町域を残して(捨てて?)、東部の3割くらいのところに街を再建するらしい。そのとき、やはりこのあたりが元の中心街として再生する計画であるようだ。
 この事故があろうとなかろうと、地方都市の中心街の衰えは浪江町も例外ではあるまいから、もしかして10年も先になると、はたして町民は戻ってくるのだろうか。
 人間はその間にもどこかで、生まれ、育ち、生き、死なねばならない。避難先を第2の故郷とする人たちを、だれも非難できない。

 「ただいま午後3時です。街への立ち入りは、午後4時までです。退去の準備をしてください
 サイエンスフィクションの世界に迷いこみ、無人で無音の街を徘徊していると、突然、頭の上からスピーカーが鳴り響いた。 

 そうか、ここは「居住制限区域」内であり、誰もが立ち入りは午前9時から午後4時までに制限されていて、原子工学サイエンスリアルの世界であった。
 なお、「帰還困難区域」への立ち入りは、月に2回程度を上限、年間15回までに制限されている。わたしたち視察隊は、そこはバスで通過したが降りることはしなかった。
つづく、次は震災と津波と核災の3重苦の地を徘徊する

参照→地震津波核毒おろろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2014/09/25

1002【福島東電核毒地帯徘徊4】除染でつるつるに剥ぎ取られる村は本当に昔に戻るのだろうか


実に立派な建物だが、誰も来ない村役場

村役場前の広場にある放射線量計は0.43マイクロシーベルト

 参考のために、震災前の全国の放射線量を載せておく。


 福島県飯館村は、全村民がどこかよその町に避難して誰も居ないはずなのに、村の田畑や村落は今、かつてないほどの賑やかさである。
 どこもかしこもお祭りのように黄色の幟旗がはためき、田畑にはせっせと働く人たちが見え、土木重機やトラックが動き回り、どこもかしこも大量の黒袋や青テントが置かれている。
 降り積もった放射性物質の除染作業、つまり核毒除去工事が真っ盛りの風景である。
手前には核毒詰め黒袋、向こうには核毒土鋤取り中の重機

田畑を漉き取った土を積んでシートをかけておく

 「除染」とは妙な言葉である。今回の事件で初めて知った。それまで聞いたこともなかったが、昔からある言葉だろうか。汚染した汚物を取り除くのだから、除染じゃなくて「除汚」でしょ。
 放射性物質というのも科学用語かもしれないが、庶民には分かりにくい曖昧な言葉である。はっきり「核毒」といいなさいよ。
 昔、足尾の古河鉱山から垂れ流した有名な公害事件では、「足尾鉱毒事件」と言った。
 今、福島の東電原発から垂れ流したのは、「核毒」というべきである。そう、これは「福島核毒事件」なのである。

 さて、飯館村中での核毒除去作業だが、なにしろ農村だから田畑がひろがる。そこを草刈りして、土木重機で表土を漉き取る。地球の皮をはいでいるようなものだ。
 屋敷では、家屋の屋根や壁を雑巾で拭き、庭は草を取り、庭木は伐り倒し、畑は表土をすき取る。
 屋敷や道路の側の林は、その林縁から20m奥まで、低い枝を落し、下刈りし、落ち葉を掻く。その林内は、まるで都会の公園の中のように、足元はすっぽんぽんの中高木ばかりになっている。
 植生学者の宮脇昭さんが見たら、ソデもマントも林床草本も低木も無いなんてと、真っ赤になって怒りそうだが、そうも言っていられないのが現実だろう。
森の林縁も林床もつるつるに掃除されている

 そうやって伐ったり採ったりした枝葉、落ち葉、畑土などは、核毒まみれだから川に流したり、燃やしたりしてはいけない。集めて真っ黒なプラスチック製の袋に詰め込む。
 作業するひとたちも核毒に触れないように重装備である。暑そうだ。
 山林に降り積もった核毒は、ほったらかしにするそうだ。山林面積の方が田畑や宅地よりもはるかに広いのだが、、。

 それでも膨大な黒袋になる。濃縮核毒袋である。村中のどこもかしこも黒袋だらけである。
 さて、そうやってつくったたくさんの黒袋を、最終的には核毒処理場に運んで行くはずだが、それがまだ決まらないから、持っていけない。
 しょうがないから、最終が決まるまでは中間貯蔵場に集めることになっているが、その中間も決まっていないから、村の中に仮貯蔵場を何カ所か決めて、そこに集めている。
 濃縮核毒袋を集めて積み重ねているから、そのあたりはますます核毒が強まる。
真っ黒核毒袋に線量計を載せて見たら、なんとまあ8.220マイクロシーベルト

 ところが、黒袋はあとからあとから生まれて来て、村内仮貯蔵場も満杯になるから、仮仮貯蔵場を設ける。ところがそこも満杯になって、しょうがないから仮仮仮貯蔵場を設けて、だが、そこも満杯になって、、ああ、きりがない。
 そうやって村中に核毒濃縮黒袋が蔓延している風景は、異様である。だが、見慣れてくるとそれが普通に見えてくるから、困る。
 この黒袋蔓延現象は、これから除染という核毒除去をする地域でも、同じことが起きるのだろうか。何時になったら毒は消えるのだろうか。消えたら、人々は戻ってくるのか。
仮置き場では積み上げた黒袋に鉛入り布をかけていても線量0.654マイクロシーベルト

 この核毒除去作業を人間の顔に例えると、顔面の産毛も眉毛も睫毛も剃って、皮をはぎ取ってから、尻か腿のあたりの皮を移植するようなものだ。
 頭の毛の生え際あたり剃りを入れるが、頭髪には何もしないということだ。

 とにかく、村の田畑は皮をはがされている。田畑の表土は作物を育てるための栄養豊かな土壌だから、そこをはがされては田畑でなくなる。田んぼのあちこちにはがされた表土が積んであり、青テントで覆われて黒袋に詰められるのを待っている。
 そのはがされた表土の代わりに、どこかの山を崩して土を取り、それを覆土するのだそうである。飯館村内の鳥獣保護区と看板がある山を、大規模に崩していた。ここから赤い土を取って、田畑に持って行くのだそうだ。

 だが、この山砂で田畑に覆土しても、作物の出来る田畑にはなるまい。かといって、山から落ち葉を拾って田畑に撒くわけにもいかない。稲藁はもちろん無い。
 化学肥料の出番なのか、それともこれから何年か毎年に生えてくる雑草を刈り倒しておけば、腐って栄養になるのか。どこかから稲わらや腐葉土を買ってきて入れるのか。
 幸いにして日本列島の気候は湿潤だから、山砂の田畑にも草が生え、低木が育ち、中高木が繁って、自然の風景になるには10年ほどだろう。でも人間は10年の間に、生れ、育ち、老い、死ぬ。元には戻らない。

 まったくの余所者の慨嘆だが、いったいこの作業はどれほど金がかかり、どれほど実効あることなのか、わたしはため息ついて眺めるばかりだった。
 でも、そのようななかでも、村は未来を描いているのだ。題して「いいたて までいな復興計画」。ほんとにその健気さに頭が下がる。
「いいたて までいな復興計画2014」にある村の拠点整備計画イメージ図

上の拠点整備計画地区はただいま核毒除去作業真っ最中

飯舘村において核毒除去作業(除染という)を実施する面積は、5600ヘクタールもの広さである。しかし、村全体は23000ヘクタールもあるから、除染面積は24.3パーセントに過ぎない
 核毒まみれのままの山林地帯から、これからも雨風に乗って核毒は降り流れ下るのだろうか。


つづく、さて次は南相馬から浪江町へ

参照→地震津波核毒おろろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html


2014/09/24

1001【福島東電核毒地帯徘徊3】核毒に明け渡した飯館村を核毒除去産業が占拠している

飯館村は福島原発事故による核毒被災地の中でも、特異なというか、典型的というか、悲劇のメイン舞台であったらしい。
 核毒発射地の福島第1原発に近い地域の南相馬市や浪江町の人たちが、少しでも遠くへと逃げ出して、とりあえず30km圏のここまでくれば安心と避難の場を求めた。
 飯館の村民たちは、原発のことは何も情報がないままに、避難民たちをとにかく援けようと、せっせと働いた。

 そのころ、東電の核毒は北西風に乗ってやってきて、この村の空から雪と雨になって濃厚に降り注いでいたのだが、そんなことはだれも教えてくれない。目にも見えない臭いもしない。
 村民たちは、雪の村中を駆け回って避難民の受け入れをしていた。だから村民たちは、避難民たちよりももっと深く被曝したのであった。
 東や南からやってきた避難民たちは、よりによって核毒の降り積もる村に逃げこんで、また更に被曝を重ねたのであった。(その頃の核毒状況地図

 そして今、核毒まみれの村は避難指示区域に指定されてしまって、6000人余の村民は核毒に村を明け渡して、村外に追いやられている。
 それでも村内に住まなければならない人たちがいる。村の中心部にある老人介護施設の入居者60人ほどである。介護老人は動かせにくいという事情だろう。
誰も住まない訪れない飯館村なのに、こんなに駐車しているのは、向うに見える
立派な老人介護施設だけは入居者60人が住んでいるから、その見守りや介護人たちの車。

  それについて、わたしも老人だから思うのだが、わが身をこの地の核毒に侵されたとしても、それが命に係わる頃はこの世に身はないはずだ。だから、わたしはここに住んでもよいのだが、都会好きだから住めない。核毒被害については年齢差がありそうだ。

 夜はダメだが、昼間は居てもよいことになっているから、一部の工場等は操業しているいるらしいが、従業員の確保が困難らしい。だれだって核毒まみれの土地で働きたくないだろう。
 核毒に追い出されてしまった今、市役所も学校も図書館も、なにもかも空き家である。
立派な村役場や図書館、中学校、広場、エコハウスなどのある村のセンターは、
降り積む核毒の中の一時避難の場とはなったが、今は役場管理の一人だけの超閑散

  稔りの秋なのに田畑で核毒入り作物しかつくれないから、農業絶無である。
 でも、わたしのような高齢者は、少々の核毒入り米でも野菜でも、たいした問題はないと思うのだが、どうなんだろうか。

 では村の中は森閑としているかというと、実は人や機械やトラックの動きが実に活発である。たぶん、核毒村となる前よりも活気があるだろう。
 それは除染という核毒除去の作業が、村中でなされつつあるからだ。田畑の中にも民家の庭先にも森の縁辺にも、働く人影は多く、大きな重機が動き、トラックが走り回り、大きな真っ黒な袋がそこいらじゅうにおいてある。
 草を刈り取り、樹林を切り、落ち葉をかき集め、地表を鋤取り、村中が大掃除の真っ最中である。除染という核毒産業が村を支配している。
村のどこもかしこも黄色い幟がはためき、真っ黒な核毒袋があり、
大きな土木重機が身を振り回し、作業員が黙々と草刈りをしている
 おや、稲の穂が黄金色に輝いている、、、って、これは真っ赤な嘘風景!

 実際の風景はこうなのである↓


 村には今、核毒がもたらした活気が満ちている。いや、活気とか満ちているという言葉には、未来への明るさがあるのだが、はたして飯館村の活気にはそれがあるのだろうか。とりあえず今は、除染雇用もあるかもしれないから、村に金は落ちているかもしれない。
 降り積もった核毒をこうやって袋に詰めて、どこかに持ち出し、その跡にどこかの山を崩して取ってきたキレイな土を敷きつめると、毒のなかった昔に戻るのだろうか。

 あれからもう3年半、これから何年後に昔の村に戻るのだろうか。
 たとえ村は昔にもどっても、その間にも人間はどこかで生きなければならないし、成長するし、老いるし、死ぬから、決して核毒以前の村が戻ることはない。
 そう、日本の人口減社会のなかで各地の村落が次第に消滅していく過程を、核毒が早回しさせることになるかもしれない。

参照→地震津波核毒おろろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2014/09/23

1000【福島東電核毒地徘徊2】見えない核毒が創り出した見えるべきものが見えない風景に戦慄する

 東電福島原発核毒空爆地帯を行く旅の概略を、核毒地図で示しておく。わたしは実は、東北地方にほとんど土地勘がないので、自分の旅の行程がよく分っていない。
 福島駅から東に向かって、川俣、飯館、南相馬に入って一泊、2日目は南相馬市鹿島区から南に原町区、小高区、浪江、双葉、大熊、富岡、楢葉、広野を経て、いわき駅から戻ってきた。
 今、地図など見ると、まさに核毒銀座を通り抜けてきたのであった。
2011年3月の核毒による空間線量
2014年3月の核毒による空間線量



  
核毒地帯ツアーバスは、福島駅から東へ核毒の地に向かい、川俣、飯館へと入っていく。今はまさに秋の実りの真っ盛り、黄金色の稲穂の海の中を行くのが当たり前のはずなのに、窓からの風景は平地なのに雑草ばかりである。
このあたりは耕作放棄地が多いのだなあ、東北の農業はどうなっているのかなあ、と眺めていたが、はっと気が付いた。もしかしたら、これは核毒汚染で田畑の耕作ができないのかもしれない。
 しかし、それにしてはあれから3年半だから、日本の気候ではかなりの草の背丈になるし、湿性地を好む柳の木が低く生えてきてもよいはずだが、なんとなく草原の様子である。でも牧草地には見えない。

 そのうちに妙な風景が繰り返して出現してきた。広い草原の中に土木重機がいくつも働いているが、なにか建設している様子はない。あたりには真っ黒な袋が無数に置かれている。黄色い幟が建ち並んでいて、「除染作業中」と書いてある。
 あ、そうか、これがあの有名な除染であるか、う~む、こういう風景なんだ、、。田んぼから稲を刈るのではなくて、核毒を刈り取っているのである。

そうか、あの耕作放棄地に見えた草原は、除染なる核毒除去跡地であり、たぶん、毎年草刈りをしているのだろう。だから耕作放棄地ではないから、荒れ地になっていなのである。でも、それでも利用はできないから、ただただ草刈りするだけなのだろうか。
 山林は除染しないらしいから、この草地の背景の山には核毒がみなぎっているのであろう。ということは、キノコやワラビなどの採集はできない。
 立ち寄った神社境内にキノコが生えていた。もともと毒キノコかどうかわからないが、ここでは確実に毒キノコしか生えてこなくなったことになる。
飯館村の虎捕山津見神社境内で見つけた核毒キノコ

 この旅の間ではずっと、農業として最も当たり前の黄金の穂が波打つ風景を見ることはなく、旅の最後のいわき市内でようやく稲穂に出会えたのだった。
 例外的に見ることができたのは、核毒汚染田んぼで実験栽培しているところだけであった。
雑草群に囲まれて実験的に栽培している稲

  宮城、岩手の津波被災地でも潮をかぶった田畑で、耕作の再生が進められているようだが、こちらの核毒汚染地での田畑の再生はどうなるのだろうか。これからもかなり長い間、浜通りの農業は壊滅状態がつづくのだろうか。
核毒線量が高くない南相馬市内でも耕作されていない田園風景

 上の写真は南相馬市の田園の現状だが、もしも東電原発核毒空爆事件が無かったら、下のような風景であったはずだ。
もしも核毒事件無かったら、こんな稔りの秋の田園風景になっているはずだ

 とにかく、黄金色の収穫に季節の真っただ中にいながら、それがまったく見えない風景は、実に気持ちが悪いものであった。
 もしも、この状態は続くと、そのうちに草取するのがむなしい作業となり、下のようなあれから3年も放棄したままの荒れた田園風景になるかもしれない。日本の自然の回復力はスゴイものだ。
浪江町で全く放置されたままの田んぼは3年でこうなっている

 人も街も田畑も山谷も、普通なら見えているものが見えない風景の旅、見えていないものを観る旅は、なかなかに興奮させられたのであった。
 それは核毒という見えないものが創り出した風景である。これには戦慄して、疲れた。
           (つづく、次は除染つまり核毒除去作業の風景の話

参照→地震津波核毒おろろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2014/09/22

999【福島核毒被災地徘徊1】当たり前の農家の風景にひそんでいる不気味さに戦慄する

 この一枚の写真は、日本の典型的な農家の風景である。
この何でもない風景に潜む不気味さを観よ
建っている一連の建物は、住居の母屋、車庫、作業場、倉庫などだろう。
 背後にある森は、かつては薪炭や肥料を得るための里山であり、もちろん防風林でもある。今は用材となるスギ林であるが、よく見れば近頃珍しく、下刈りや枝打ちの森林施業がされている。
裏山にズームアップしてみる
家の前には畑があり、作物をつくってはいないが、草取りはきちんとされているようだ。
 そのまた一段下には田んぼがある。今は黄金の穂が広がる実りの秋だから、ここは少し早いが既に稲刈りが終わったらしい。
 乗用車や軽トラックが見えないのは、家族は野良仕事や買い物に出かけているのだろう。

 だが、これは何も知らない人が見たらそう思うであろうと書いたのだが、実はとんでもない大間違い解釈なのである。

 裏山をよく見ると、地肌が見えるほどに下刈りをして、しかも落ち葉まで掻きとっている。いまどき林内低木や草本を伐って薪にするはずはないし、落ち葉を集めて肥料にするはずはない。枝打ちにしてはいい加減すぎる。
 実は、放射性物質を除去する作業の結果なのである。ここは福島県の飯館村の中、そう、あの福島第1原発事故で、東電から大量核毒空襲を受けた核毒被災地である。
 裏山の妙な手入れの姿は、林内の核毒を除去する除染(この言葉はおかしい)なる作業の結果である。造林地の森林施業ではないのであった。

 畑にも田んぼにも作物が見えないのは、田畑で食料となるものをつくっても、食べられないから農作が不可能だからである。
 あれから3年、田畑の耕作を放棄すれば、今や草ぼうぼうの原野になっているはずが、見たところではきれいな草地であるのは、核毒除去のために農地の表土を漉き取ったあとを、草取りをしているからだろう。

 左の方に電柱が立ったあたりの下に、黒い袋が横に並んでおいてある。
たくさん並んでおいてある黒い袋と何も作物のない田畑にズームアップ
この袋の中にらは、裏山から集めた核毒まみれの落ち葉や樹木の切れ端、あるいは畑の草や土が入っているのだろう。いずれ、これは集められて、第1原発近くにできるであろう中間処理場に行くことになる。
 この日本農家の典型的な平和な風景は、実はそのような不気味さを湛えた惨状の風景なのである。

 だから、普通なら必ず庭先に見える乗用車や軽トラックが無いのは、ここには人が住んでいないからである。核毒の地を逃れてどこかで暮らしているのだろう。
 なにも生産できない、だれも居ることができない、東電核毒が創り出した風景である。
 そう思って眺めると、わたしが支払った電気料金で作りだした核毒が降り積もり、わたしが支払った税金でそれを除去する費用が降り積もり、わたしが支払った電気料金による東電補償金が降り積もっているこの風景は、戦慄すべき状況であることに気が付く。
 
 9月20日と21日に機会あって、福島県相双地区視察バスツアー(主催:日本都市計画家協会東日本大震災復興支援タスクフォース福島チーム)に行ってきた。
 この農家の不気味な風景は、その旅の中のほんの一部の不気味さであり、この先いくつもの不気味な風景を見てきた。
 そのうちのひとつ、典型的な不気味な風景を予告的に載せておく。
福島第1原発が見える東電核毒汚染+津波被災地の風景

 福島市から南相馬市へ入り、南へ南へと核毒地帯を縦断して、いわき市から抜け出てきたのであった。かなり放射線量が多いところも通った。
 新聞やインタネットで入ってくる情報で、ある程度は知っても隔靴掻痒の感は免れない。しかし、勝手に入ってみてくるわけにはいかないので、気になっていた。この度、日本都市計画家協会の支援タスクフォースチームが企画してくれたツアーに乗ったのである。

 昨年秋と今年の春に見てきた宮城と岩手の津波被災地の荒れ方はものすごいものだったが、案内がなくても目で見ることで、かなりのことがわかる。
 だが、福島の核毒被災地は、案内がなくて目で見ただけでは、ほとんど本質を理解できないだろう。被災以来現地に入りこんでいる家協会の支援チームメンバーと現地の人たちの案内で、今回は多くのことを知ることができた。核毒被災風景の観方が分った。
 東電原発核毒汚染地帯で観たこと、聴いたこと、考え込んだことを、このブログにしばらく連載する。つづく

家のそばの森はどうやって除染するの?(環境省)
https://josen.env.go.jp/material/pdf/shinrin_20140221.pdf

地震津波核毒オロオロ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html


2014/09/14

998【今日のお詫び新聞】またお詫び広告を記事にして購読料を取る朝日新聞かよ

 ご存じ朝日お詫び新聞は、今日は任天堂に対して謝っている。
 これも先日の吉田調書問題と同じで、自社の謝罪広告を記事にして購読料をとっている。けしからん。

 こうやって連日お詫び記事が掲載されて来ると、次はどんな大きなお詫び記事が出るのだろうかと、毎日楽しみである。
 そうやって自社広告を金払って読まされている定期購読者としては、朝日新聞社がその理不尽にいつか気付いて、お詫び広告を出すにちがいない。

 そして、それまでのお詫び関係記事に関する新聞ページ分に相当する購読料を返してくれるだろうと、楽しみにしている。
 もちろん利子をつけて、ついでにお詫び金とかも付加してくれるに違いない。だから朝日購読をやめない。待っているぞ。
 だって、不良欠陥商品を売ったら、返品交換とか返品交換不能なら賠償するのが、世の中の通例でしょ。

 今回の連続お詫び新聞事件は、ほかの新聞社にも伝染しているのだろうか。新聞業界がお詫び流行になっていると、おもしろいなあ、。
 ところで、このよううな誤報お詫びは、今回のような大きな組織からの抗議や批判があっから仕方なしにやってのではあるまいかと、気になる。

 どこの新聞でも、あんなたくさんの記事を書いていると、たぶん、誤報、捏造、コピーなどのしょっちゅうあるだろう。
 そして、それは庶民をとりあげた記事でも、しょっちゅう起きているだろう。
 そのとき庶民の抗議に対しても今回のようにきちんと検証して謝罪記事を載せているのだろうか

 でも、そんな記事を読んだ記憶がない。せいぜい名前を間違ったくらいのことについて、片隅に2、3行で「訂正します」とあるくらいなものだ。
 まさかとおもううが、おおきな勢力の抗議には屈するが、庶民の抗議は無視するって、そういう朝日新聞社になったのであるまいな。


(追記2014/09/18)【本日の新聞折込謝罪広告】
 今朝(2014/09/19)の朝日新聞に、こんな紙が挟まっている。例の「吉田証言事件」(戦場慰安婦誤報)、「吉田調書事件」(原発事故誤報)、「池上コラム事件」(掲載拒否)の3件について、お詫び広告である。朝日は吉田さんが鬼門だね。
 これまでの謝罪は一般記事として読者から購読料を取っている。欠陥商品を売りつけておいて、そのお詫びでまたもや金をとるって、あまりに因業なる仕業である。
 それに対して今日の折り込み広告は、新聞購読料外だろうから、無料で謝っている。これが当たり前のようにも思うが、欠陥商品を売りつけたら、普通なら購入者に補償するはずなのに、それには一言も触れていないから、これとても当たり前ではない。
 このことに朝日新聞は、気が付いているのだろうか。そのうちに朝日新聞の社名入りのタオルでも配ってくるんだろうなあ。

参照→997朝日新聞誤報連続謝罪広告、この次はアジア太平洋戦争中の誤報取り消し謝罪広告ですな


2014/09/12

997朝日新聞誤報連続謝罪広告、この次はアジア太平洋戦争中の誤報取り消し謝罪広告ですな

 今朝(2014年9月11日)の朝日新聞が、第1面トップに社長の顔まで載せて、自社の全面広告を載せている。社会面などほかのページもこれに充てている。
 福島原発核毒バラマキ事件に関する政府事故調報告のもとになる、東電現地の吉田所長の証言録について、解釈を誤って報道したことについて謝罪しているのだ。

 これはどう見ても、報道記事ではないよなあ。明らかに自社の広告である。もしも記事とするならば、マッチポンプの自作自演事件である。
 この前の慰安婦報道誤報取り消し謝罪も同じである。だから、それらを掲載した新聞代を返してほしい。
 この数日間、わたしは読みもしない高校野球やら全米テニス記事やら押し売りされてきたが、またこの自社広告の押し売りである。
 この広告は読むけど、広告に購読料を払うのは、いやだ、金返せ。

 その謝罪内容については別にして、わたしが思ったのは、ようやくに「お詫び」の仕方が分ったらしい。
 これまで記事が間違っていても、片隅に2~3行で「訂正します」とあって、「お詫びします」と書いてなかった。それが今回は「お詫びします」と書いている。

 新聞だけじゃなくて、世の中どうもお詫びの仕方を忘れている感じがする。
 電車が事故で止まると車掌が放送するが、「ご迷惑をお掛けしております」とまでは言うが、「お詫びします」と言ったのを聞いたことがない。迷惑をかけていることは分かっているらしいが、それを悪いことと分かっていない。
 あるいは、一般に謝ったつもりで「失礼しました」で済ませる人も多い。これじゃあ失礼しっぱなしのままだ。

 極め付きは、福島原発から核毒をばらまいて、大損害を市民にも土地にも海にも与えた東京電力の広告である。
 2011年3月には、東電は新聞にあれこれと広告を出したが、そこにも「お詫びいたします」の言葉はなかったので、わたしは腹が立って、こう書いている。
http://datey.blogspot.jp/2011/03/400.html

 これでまた読売、産経、新潮、文春など、「朝敵」の新聞雑誌屋さんは喜んで、同じような朝日タタキ記事を書くのだろうなあ、そしてそれを喜ぶ付和雷同「朝敵」が増えるんだろう。ま、面白いから、やれやれ~。
 そして次第に、誤報の基になった事件の問題の本質を忘れて、誤報事件の責任問題のみに焦点が絞られていくだろう。

 わたしは、次なる朝日新聞の謝罪記事というか謝罪広告に大いに期待している。
 それはアジア太平洋戦争中に、大本営の言いなりになって書いた記事である。これを訂正取り消し謝罪したら、さすがに「朝敵」メディアも追随せざるをえないだろう。
 がんばれ朝日、次はそれをやれ!


2014/09/09

996神仏頼みで戦争に勝つなら南海トラフ大地震消滅・巨大台風退散も祈願したら、、

 昭和天皇実録が公開されたと、新聞が報じている。

 記事の中で面白かったのは、太平洋戦争の最末期に、宇佐、香椎、氷川の3神社に敵国撃破の祈願をしていることだ。
 天皇が神社への祈願とは、その神社に敵国退散を祈らせることである。

 太平洋戦争よりも700年ほども前のこと、日本では元寇という戦争があった。
 この蒙古襲来の文永・弘安の役の時に、鎌倉幕府が武士を動員して実際の戦闘を受け持ち、京都朝廷は寺社を動員して神仏に元軍撃退を祈願することが役割だった。
 そして朝廷の祈りが通じて、神仏は暴風雨を起し、元・高麗連合軍指導者の仲間割れをさせたり、作戦間違いさせたりして、元寇撃退は成功した。
 というわけで、太平洋戦争末期もその成功に倣うことにして、天皇が神頼みしたのだろう。でも、700年後は神に見放されたのであった。

 ところで、元寇あるいは蒙古襲来と言われる文永・弘安の役の敵国軍は、元と高麗つまり今でいえば中韓連合軍であった。
 元とはフビライのモンゴル帝国であったから、今は縮小したがモンゴルである。
 モンゴルと日本とのその後の戦いは、1939年のノモンハン事件が有名である。このときは日本軍がモンゴル・ソ連連合軍に敗退したから、モンゴルから言えばリベンジになったのだろうが、文永・弘安の役のように日本領土侵攻ではなかった。

 それからさらに世紀が変った今、日本領土の中にモンゴル軍は、いつのまにか、しっかりと侵攻してしまった。大相撲である。
 いまや大相撲は、日本国技ではなくて国際競技というべきプロスポーツの世界となり、完璧にモンゴル軍に席巻された。
 モンゴルは文永弘安の役敗退のリベンジを、文化侵攻で見事に果たしたのだった。

 では高麗のその後、つまりコリアとはどうか。
 ゲリラの倭寇は別にして、文永・弘安の役と逆に豊臣秀吉が日本軍をもって朝鮮に侵攻したは、1394年と1397年であった。日本側のリベンジだった。その後は1910年の日韓併合になってしまう。これはリベンジが行き過ぎた。
 モンゴルが相撲で日本侵攻を果たしたように、コリアもいっときは韓流映画で日本侵攻成功かと見えたが、今は下火になったようだ。
 でも、いつかはコリアも文化リベンジを果たしそうだ。

 さて、神仏に頼る話に戻ると、アベさんやら大臣のお方たちは靖国神社へちょくちょく何事か祈願されているようだから、そろそろ文永・弘安の役時代の成功譚が復活するかもしれないなあ。
 なんとかミクスが失敗して大不況が来たら、伊勢や靖国に不況退散祈願かもなあ。
 そういえば、スポーツ競技会に出る選手が試合での勝利とか、政治家が選挙立後補して当選とか、神社で祈願するのが流行とか聞いたが、効き目はどうなんだろうか。

 では、この際、こういうのはいかがか。
 このところ大地震とか大型台風とか大雨とかが多いし、南海トラフ大地震とかが予想されているので、大災害撃退を神仏に祈願することを、天皇とか政府がやるのである。
 天皇には戦争末期の「御祭文」を、このようにお書き替え下さって、よろしく。
「日本国の荒廃につながる甚だ由々しき難局にしあれば、国内ことごとく一心に奮い立ち、あらん限りをかたむけつくして、災害をうちやぶりこと向けしめんとなも思し食す」
 うまくいけば、いいね。神様仏様キリスト様マホメット様、よろしく。