2008/07/19

0208【老いゆく自分】不良老年の時代

 自分が古希を超えたことを、自分自身がどうしても信じられない。子供のころは、そんな人はものすごい年寄りに見え、もうすぐ死ぬ人だったものである。自分が今どうしてそうなのか、いまだ不審である。 ただし、周りの状況でいやおうなしにそれを知らされるのは、いろいろな会合でふと気がつくと、自分が一番年上であることが、ずいぶん増えたことだ。気がつくまでは気楽にいい加減なことをいつものようにしゃべっているのだが、それに気がつくと突然にシュリンクする。

 変なことをしゃべってもわたしはかまわないのだが、もしかしたら同じような歳の人に失礼になるかなと思うのである。あの人はいつものことだからいいけど、それにしても最近の年よりには困ったもんだと、一般論として思われては、やっぱりまずいかもなあと思うのである。

 自分が年寄りであることを少しづつそうやって自覚し始めると、周りの年寄りを観察するのが面白くなる。自分のボケと比較して勝ち負けを判定するひそかなゲームである。 もちろん自分のボケ度はわからないから、お互いに勝手にやればオアイコである。

 こっちの勝ちは、同年のあいつはなんでも口出しする癖が嵩じてきたなあ、2年上の先輩は人の話の途中で話し出す回数が増えたなあ、5歳上のあの先生は時代遅れの考えをいつも自慢げに言うなあ、とか、、。

 逆に負けは、喜寿なのに日本の都市計画の行方をいまだに現場でひねくり回すあの先生は疲れない人だなあ、限界集落の法末の老人たちはなんでも自力でやってしまうなあ、身軽に屋根に登るあの茅葺職人は80歳になるんだ、とか、。

  先月から今月にかけて、法末で屋根の茅葺作業を手伝ったのだが、学生時代は山岳部でロッククライミングやってたくらいだから高所は平気なのに、今や高い足場に立つのが怖くなっていた。足のばねが衰えていてなにかあっても瞬発的に動けそうにないのだ。持続力はあっても瞬発力は衰えた。

 内部から明確にわが身の老いがわかるのは、頭の中の固有名詞の引き出しが錆付いていることである。思い出せないと気になって一日中思い出そうと考えることもある。じれったい。
 老いにとって嬉しいのは、ボケる前に高度情報時代に間に合ったことである。インターネットは超高齢社会を生きるおおきな武器となった。いながらにして何とか世の中と通じるし、ボケ頭代わりの情報の引き出しともなる。
 これからは、老人犯罪が多くなるに違いない。暇と小金と悪知恵を持つ不良老年がはびこると、かなりやばいことやるやつが出そうな気がする。自分はその外だけど、。 

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