「748震災核災3年目(15)」からのつづき
(現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)
南三陸町の復興計画の図面を観て、その拡散型の理由を知りたいと、face bookに書いたら、知人がこんなことを教えてくれた。
それは南三陸町の各地にある「契約講」が、地域社会を結ぶ強い絆があることによるのだろうというのである。
そこでまた貧者の百科事典のウェブサイト情報をひっくり返して調べたら、芋づる式にいろいろとわかった。契約講は江戸時代から東北地方にはあるらしい。
南三陸町の復興計画の土地利用計画図にある黄色い円の数だけ、津々浦々の大小の入り江の奥には、漁業を生業とする集落があり、それぞれに昔からの「契約講」あるいは「契約会」と称する、いまでいえば自治会組織があるそうだ。(黄色の円と一致するのでもないようだが)
時代による変遷もあるが、今もれっきとした力をもっている。
契約講は集落を運営する組織であり、前浜ではかつては漁業権も持っており、裏山には大きな共有林をもっている。横つながりになって地域を育てている。
なるほど、そうであるか、そのような生業を支える地域社会が強力ならば、これほども分散するのは当然のことかもしれない。
その小さな漁業集落の一種漁港は19カ所あり、その背後地の集落戸数は平均57戸、高齢化率は28.9%である(南三陸町復興計画委員会議事録より)。
意外といってはおかしいが、それなりの戸数があり、高齢化率も高くない。地域社会が成り立つはずである。
それが成り立つのは、前にある豊かな海と背後の豊かな森がそれを維持しているからであろう。生業をもっている生活圏は持続するということである。しかも漁業は農業よりも協同する作業も多いから共同体が成り立つのであろう。
都市を見る目だけでは、わからないことを教えられたのであった。
問題があるとすれば、海に近い暮らしから、裏山の台地に登っても、海に出て漁をするという生業はうまくいくのだろうか、ということである。
これまで明治三陸、昭和三陸、チリ地震と各津波で被災して、高台に居を移しても、いつの間にかまた平地に下りて被災する繰り返しであった。被災した土地の範囲を利用禁止にしてもそうなった。
それは経験者も忘れるということと共に、知らない新入り住民が浜近くに暮らしだして漁で先駆けするのをみて、高台移転者も我慢できなくなる、ということだったらしい。
これからも、それはありうることだろう。どうすればよいか、わたしにはわからない。いっそのこと被災地を海に戻して港を広げると、だれも住まないだろうから名案に思うが、どうかしら。
そしてまた心配することは、これから工事をして戻るまでには2、3年はかかるだろうが、その間に海を離れる人たちもあるだろう。
戻ってこないかもしれない。台地の上の街は空き家だらけになるかもしれない。
だが、長い長い目で観ると、豊かな森と海がこれまで人をはぐくんできたように、人間が災害をも受け入れつつ自然の一員として暮らしてきたこの理想的な風土を、これからも末永く継承していくような気がしてきた。
地球史的な時間間隔で起こる大津波で、人間が築いた海と山の小宇宙とでもいうべき生活文化圏がご破算になる、そしてまた人間は営々と小宇宙を築き上げる、そしてまた、、、、これは超長編一大叙事詩である。
小さな入り江、中くらいな入り江、大きな志津川湾、それらにはそれぞれに川がそそぎ人々の暮らしがあり、背後に森を持つ。それらはまるで入れ子である。
南三陸町という人間が自然とともに生きてきた小宇宙に、悠久の時間と空間の輪廻を観るのである。
復興計画は大叙事詩のなかのひとつのページにすぎないのであった。その表からも裏からも、それを読み取る必要があると教えられたのであった。
3月になって、「震災核災3年目」と題するシリーズをだらだらと書いてきたが、3月も終わったので、ここらで区切りをつけることにする。
ここまでの16回分のコラムを再編して「まちもり通信」に「震災核災3年目」として載せた。
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme
●参照⇒地震津波原発コラム一覧
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