2014/11/28

1032クルマのデザイナーってのは世界中に一人しか居ないんだね


ヒマだから新聞広告までも読む。今日はクルマの広告が多い。
どいつもこいつも、まあ、ほんとに、まったくもって御面相が悪いよなあ、
吊目に鰐口、大きな面、凶相の典型である。
オラオラ、ジャマだっ、ドケドケ~ッ、、、コワ~イッ、
クルマのデザイナーってのは、世界中に一人しか居ないんだね。だからこんな同じデザインになるんだな。






あ、そうなんだあ、昔の車は愛嬌があったので、
ついつい歩行者が油断して逃げない、
だから襲われて死ぬって事故が多かったんだ、
近ごろ昔より死者が減ったと聞いたけど、
それはクルマの御面相が狂暴化したからであったか、、
よかったね、、え、???

ガ~オ~ッ!



2014/11/23

1031山口文象90年前の橋の設計図:新宿地下広場で土木学会百年記念展覧会

 
久しぶりに山口文象が描いた設計図を見た。しかも1925年という大昔のものであるから、山口文象がまだ岡村蚊象と名乗っている、駆け出しの頃の作である。
 その駆け出し時代の図面とは、帝都復興局土木部橋梁課の嘱託技師をしていた頃に作成した「八重洲橋」の手すりや橋塔の詳細図である。どっしりとした石張りで、表現は風の刻み込みを指示している。
八重洲橋は右上方に見える八重洲通りが外堀を渡る位置にかかっていた
土木学会100周年記念事業の土木エンジニアドロウイング展として、土木学会の土木コレクションアーカイブのなかから、他の関東大震災復興橋梁の図面と共に出品されていた。
 ガラスケース入りで大事に、しかもこの図面だけ、山口文象デザインであるとの顔写真つきの解説がある。山口文象もこうなるとは夢にも思わなかったろう。

 その八重州橋の詳細図の右下を見れば、山口文象のサインが設計と製図の欄に「岡村」とあり、その上に技師と照査欄に「成瀬」のサインがある。成瀬勝武であろう。
右上には「親柱詳細」と、山口文象の筆跡でタイトルがある。
 この図面の描き方は、線がコーナーでクロスしていていかにも建築図面である。他の人の手による八重洲橋の几帳面な図面とくらべて、筆致が分って味がある。



 なお、八重洲橋は木下杢太郎のデザインという説があるらしいが、本当だろうか。杢太郎の兄の太田円三が復興橋梁建設の指揮をしたから、詩人の杢太郎は兄からその風景のあり方を相談されたかもしれない。実際はどうなのだろうか。 
 八重洲橋は1948年に外堀の埋立てで、地の中に埋もれて消えた。
 
 たくさんのパネル展示を見ていて、その土木建造物の設計者やデザイナーが記されているものが結構多くあることに気が付いた。かつては土木の世界では、特定の設計者の名前を出さないのが約束のようであったが、どうやら変わったらしい。
 土木系の設計者名の他に、建築系の設計者あるいはデザインに係った者の名もちらほらある。その建築家のひとりとして、駆け出し時代の山口文象の名が顔写真と共に登場するのが嬉しい。

 山口文象がかかわった土木構築物の内、上記の八重洲橋のほかに、清洲橋、数寄屋橋、そして富山県の庄川にある小牧ダムが展示されて、山口の名が記されていた。
 ちょっと残念だったのは、山口が世に出てから設計した黒部発電所の目黒橋と小屋平ダムがなかったことだ。土木界では高く評価していないのだろうか。

 山口文象の他に登場する建築家は、「聖橋」デザインの山田守と「東京駅」設計の辰野金吾のほかには、見当たらなかった。それだけ山口文象は特異な存在であるらしい。
 しかし、実のところ、山口文象が土木デザインに実務として、どの程度かかわったのかは、よく分らない。そのあたりのことも知りたいのだが、小牧ダムの解説に同じようなことが書いてあるから、土木界でもよく分らないらしい。
山田守デザインの聖橋のパース(岡村蚊象画)
その頃、山口は創宇社建築会を結成して、若い仲間たちと大井瀧王子の自宅を梁山泊のようにして、建築運動の拠点にするとともに、橋の設計の仕事をしていたらしい。
 創宇社建築会仲間の竹村新太郎にわたしが直接聞いた話では、山口の担当する橋の欄干や親柱あるいは照明器具などのデザインは、創宇社建築会仲間でアルバイトでやっていたとのことだった。

 わたしが山口文象に、現物の橋のそばで直接に聞いた話(1976年12月11日)は、清洲橋では川の中の船から橋を横に見るとき、橋桁とそこからはねだす歩道の鉄骨の見付が、いかにスレンダーに見えるようにするか腐心したということだった。
 浜離宮南門橋は、その様式デザインを求められてやったけれど、これは好きではないとのこと。数寄屋橋については、稲田御影の手すりの天端からサイドへと角を丸くしていくのだが、その丸みのカーブに腐心したといっていた。
 戦後の貧乏で無骨一点張り、あるいはデザイン下手の見本みたいだった土木構築物にも最近は、今回の展示に見るような戦前に倣う良いデザインが、ようやく登場するようになった。

 この展示は土木構築物をテーマにしているのに、辰野金吾の東京駅がはたして土木構築物であろうかという疑問がわいた。
 そしてこの東京駅を最近の復元による改築をテーマにしてとりあげているのだが、その解説に辰野金吾は登場しても、肝心の復元設計の建築家の名が登場しないのは、どうしてだろうか。かつての土木の無記名性がよみがえったのか。
 東京駅の復元をとりあげているように、展示を戦前に絞ったのでもないようだ。とすれば、最近は建築家によるデザインの土木構造物もあ多いだろうに、数が多くなりすぎるので限界があったのだろう。

 今回の展示は、このような誰もがアクセスできる会場にて行うとは、土木学会はずいぶん開けていると思う。
 しかしそれでもひとこと言いたいのは、内容がやはり普通の眼で見るとマニアックであることだ。わたしはマニアだから面白かったが、これでは一般には興味の湧きにくいプレゼンテイションであった。
 土木は一般に身近にある日常世界のものである。日常の世界でこんなにも素晴らしい役目をしているのだと、普通の人たちの眼にももっと面白い展示を次は期待している。

 そういえば、わたしの生まれ故郷の高梁盆地の高梁川にかかる「方谷橋」が展示にあった。この橋は、わたしが少年の頃に何度も行き来し、毎夏には橋の下で泳いだ日常の思い出が深い橋である。わたしが生れた年にできた橋だから、同年同期である。
 パネルの写真には、わたしの生家の神社の森も写っている。こうやって見ると、ああ、これも記念すべき土木遺産なのだと気がついた。わたしはそんな事情でこの橋に感情移入できるが、ふつうなら解説を読んだだけでは特にどうってことはない。
竣工時の方谷橋。現在はこの親柱は失われている

参照→「ふるさとの川と橋」(伊達美徳)
参照→「山口文象アーカイブス」(伊達美徳)

参照→「土木コレクションアーカイブ」(土木学会)
http://dobokore.jsce.or.jp/archive/

2014/11/20

1030【横浜都計審】事業が先にあって計画が後から追いかけていく横浜市の都市整備

 先日の横浜市都市計画審議会で、わたしにはどうも分らないおかしな議題があったので、疑問を書いておく。ピントハズレなら、どなたか指摘していただきたい。
 もちろん、市の担当に聞きに行けばすぐわかるだろうが、超ヒマ老人が超多忙役人の仕事の邪魔をしたくない。

 寝た子を起すかもしれないので、ちょっと場所をぼかして書く。
 ある都市計画道路がとっくにできているのだが、じつは都市計画で決めた範囲を外れて作ってしまったので、都市計画をやり直すというのだ。
 計画があって事業があるのではなくて、事業の後を計画が追いかけるのだ。

 図で見る通り、黄色の線形で1957年に都市計画決定したのだが、どういうわけか1981年に赤色の線形で整備してしまったのだそうだ。ズレの大きいところでは9mくらいもあるらしい。
 今回、それにつながる道路の変更をしなければならなくなって、このできてしまった都市計画道路の位置に合わせて、後追い計画変更をするらしい。
 そういう議題が出て、都計審は原案通りに承認した。


 ところで、なぜそのように計画と実施とにズレが出たのか。30年以上前の工事だとて、そんなずさんなことが通ったものか。
 今回都市計画の縦覧をしたら、さすがに地元の人から公聴会でその理由を問う公述が出たし、意見書でも疑問が出された。
 市当局のそれに対する回答は、「不整合が生じた経緯については、現在保有している資料では確認できませんでした」とある。要するに「わからない」ってことである。
 都計審でもこの件について委員から指摘があり、道路のような恒久施設についての資料は、廃棄しないで保存するようにとの意見が出された。

 現実には道路は既にできて車も人も通っているのだから、それに合わせて変更しても問題はないだろう。ここでわたしの疑問をあえて指摘しておく。
 
疑問①:都市計画審議会をないがしろか
 そのように事業をするのが適切ならば、都市計画変更をすぐにすればよいのに、なぜそうしなかったのか。30年以上もほったらかしとは、都市計画審議会は軽んじられていることになる。
 現実の後追いと言えば、生産緑地がまさにそうである。これから農地としての都市計画を解除するのに、現地は既に住宅地になっているのであるから、これも都計審は軽んじらている。
 わたしが都計審委員をしているとき、市営地下鉄が都市計画決定の範囲からはみ出て整備して何十年も都市計画法違反のまま営業してきたのを、現実に合わせて都市計画変更する事案があった。これも事業後追い都市計画である。

疑問②:都市計画法違反になるかも
 市の資料によると都市計画道路として整備済みと書いてあるので、事業決定をしてその予算措置をして工事をしたのであろう。とすれば、都市計画決定の範囲外に都市計画事業をしたことになり、その事業決定は都市計画法違反になるのような気がする。
 都市計画事業費を都市計画決定の範囲外に投入したことは、よく知らないが財政上の違反行為になるのかもしれない。特に、都市計画事業として国庫補助金を投入しているとしたら、会計検査にひっかかるような気がする。もう時効かもしれないが。
 もしも、国庫補助を入れないで事業したとしたら、それはそれで市に入るべき歳入を逃したことになる。

疑問③:建築基準法違反になるかも
 都市計画道路予定地では建築制限がかかる。審議会資料にある図面を見ると、黄色線にひっかかるビルがあるらしい。現地を見ると、まさに建築制限を超えた5階建ての共同住宅建物が、ずれて整備された道路に接して建っている。
 ここはまだ都市計画道路の黄色線の中なのだから、建築基準法違反になるはずだが、どういうことなのだろうか。
 結論としてはこれでよいのだが、ここに至る経緯では建築行政と道路行政の当局間でのなにか申し合わせがあったとしても、法的には違反になるように思うが、どうなのだろうか。

 というわけで、現実はこれでまあよろしいのであるが、審議会での事務局の説明を聞きながら、なんだか疑問になったことを書いたのである。
 なんにしても、事業の後追い都市計画とは、都市計画審議会は軽んじられているように思えてならない。

参照→都市計画審議会を改革せよ

2014/11/18

1029【横浜都計審】76か所もある都市計画案を審議会2時間に発言10分で承認する超能力委員たち

 横浜市都市計画審議の委員さんたちはスーパーマンとスーパーウーマンだと思う。
 だって、今日の審議会での都市計画決定箇所数は合計で76か所もあり、更に横浜市全体に関する総合的な都市計画に関する議案が2件、更に加えて緑区全体に関するマスタープランもあるのに、これらをたったの2時間(発言10分)で審議を終えて、全て原案通りに可決したのである。神業であるとしか言いようがない。
横浜市都市計画審議会資料
横浜市全体の整備開発保全の方針の見直しと、線引き見直しの方針というような、高度にして多様な内容を持ち、広く多様な性格の地域にわたり、しかも都市計画の根幹にかかわる考え方の答申案についても、これに対する質問も意見も全くなくて、原案通りに可決である。 
 こういうのは素人委員には難しいだろうが、だからこそ専門家たちの学識委員がいるのだろうに、分かっているからとて何も発言されないと、一般市民には何もわからないんだけどなあ。

 たぶん、委員の方々には、事前に答申案が配布されていて、これをしっかり読み込んで全てお分かりになっておられたのであろう。
 わたしは当日はじめて観るのだから、分からないことだらけだった。

 だからこそ私は思うのだが、審議会は市民の代わりにやっているのだから、市民にこれだけは知らせておきたいと思うような意見を、ぜひとも聞かせてほしいものだ。
 その議案の持っている問題点や優れている点についての意見をいい、それらを審議会議事録に載せて、傍聴に来なかった市民も審議内容が分るようにしてほしい。
 なにも発言なさらないと、まさかそんなことはないだろうが、委員の方々は本当に分って審議しているのだろうかと、不安になる。

 緑区のマスタープラン(60ページもある計画書)は、緑区全体に係る都市計画の基本的なことだが、これについては議員の委員3名から発言があった。
 発言を聞くと、どうもみなさま読み込んでおられないようであった。些細なことは事前に事務局に聞けば、当日の審議時間を消費しないで済むだろうに。
 マスタープランだから、もっと基本的な内容のツッコミがほしい。こういうのは学識委員が得意のはずだが、まったく無発言とは、どういうことか。

 毎年11月の都計審に、生産緑地の変更に関する議案が出てくる。
 生産緑地の変更の数は、今年も議題に66か所もあるように数多いのに、都計審の各回に分けて出さないで1年分まとめて議案にするのは、どういうわけか。

 横浜市内のあちこちに散らばっている別々の場所の都市計画決定なのに、説明は3か所のみだし、議決も一括してしまうのは、どういうわけか。
 これだけたくさんあるのに、委員から質疑も意見も全くでないままであった。
 要するに、この議案は馬鹿らしくて審議に値しないということか。

 ま、そりゃそうでしょう、わたしが委員だった頃、解除する場所に事前視察に行ったら、既にミニ開発住宅地になっているのが珍しくない、しかも違法ではないのだから、都市計画法は生産緑地法にバカにされているのである。
 ところで、委員さんたちは事前に66か所の現地を視察なさったのでしょうね、だから意見無しなんですよね。
 わたしの経験では、現地を見るとけっこうおかしな個所もあったものだけどね。
  参照「◆都市計画では農地のはずが現地は住宅地とは
     あるいは「都計審初出演と生産緑地の不思議

 特別緑地保全地区の決定の議案についても、8カ所に散らばっているのに、一括して議決であった。
 これらについても、委員さんたちは事前に調査が行き届いているらしく、即地的な質問や意見はなにも無くて、制度についての初歩的な質問だけがでた。
 そんな事務的なことなら、事前に事務局担当者に聞けば、当日の時間浪費にならないものなのにと思ったが、まあ、議事録を読む一般市民には役に立つかもしれないとも思った。
 
 とにかく今日の議題は76か所という数多くの場所について、あるいは横浜市全体や緑区全部という広大なる地域について、13時から15時までの2時間で都市計画決定の審議を終えるとは、神業である。
 その2時間のうちで、委員が発言した時間は10分もない。ほとんど事務当局による議案説明ばかりであった。

 17時までも18時までもやればよいし、今日中に決めなければならない理由はないはずだろうに、2時間の所定時間では時間がないとて、ぜんぜん場所が違う案件を一括して議決するってのは、それでよいのだろうか。場所場所で特徴あるはずだから、ひとつひとつ審議するべきであると、わたしは思うのだ。
 多分、委員さんたちは事前に現地を見て、事前に資料を読み込んで審議会に臨まれているから、こう言う荒業でも通るのだろう。
 今日初めて議案に出くわした、わたしのような傍聴者は、ただ唖然とするばかりである。
 これで審議をしたと言えるのだろうか。委員さんたちは、本当に現地を見たのだろうか
 
 本日の第135回横浜市都市計画審議会の案件は次の通りだった。
1.都市計画区域の整備、開発及び保全方針等の見直しの基本的考え方について答申
2.第7回線引き全市見直しの基本的考え方について答申
3.横浜市都市計画マスタープラン緑区プランの改定の決定
4.3・3・11号環状3号線道路の変更の決定
5.3・5・6号瀬谷地内線道路の変更の決定
6.3・4・14号三ツ境下草柳線道路の変更の決定
7.生産緑地地区66か所の変更の決定
8.鉄町冨士塚台特別緑地保全地区の決定
9.恩田町特別緑地保全地区の決定
10.恩田町九郎治谷特別緑地保全地区の決定
11.恩田町番匠谷特別緑地保全地区の決定
12.東寺尾六丁目特別緑地保全地区の決定
13.片倉三丁目特別緑地保全地区の決定
14.阿久和南一丁目特別緑地保全地区

参照⇒
あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている
https://sites.google.com/site/matimorig2x/essay-cityplanning
都市計画審議会を改革せよ
https://sites.google.com/site/machimorig0/#tokeisin

2014/11/17

1028沖縄県知事選挙結果について各新聞社の態度は原発と集団自衛問題へと同じ

左:辺野古の海             右:普天間基地 (同スケール)


沖縄県で知事選挙があり、選挙のテーマが普天間基地移設問題という明確な対立軸をめぐり、辺野古移転反対を標榜する人が当選した。
 これに対する新聞社の反応を比べてみた。

 本土の主要な新聞社の今日(2014年11月17日)の各社説の見出しを並べる。
・産経新聞「沖縄県知事選 政府は粛々と移設前進を
・読売新聞「沖縄県知事選 辺野古移設を停滞させるな
・毎日新聞「辺野古移設に審判 白紙に戻して再交渉を
・朝日新聞「沖縄県知事選 辺野古移設は白紙に戻せ
・日経新聞「いまこそ政府と沖縄は話し合うときだ
 
 この各社の意見のスタンスが、何かに似ているよなあと思ったら、原発問題で再稼働に賛成か反対へのスタンスと全く同一の反応である。そしてまた、集団的自衛権の容認か否かに関する態度とも、同じなのである。面白いものである。
 要するに、現在の安部政権の政府の施策への距離感が、そっくりなのである。
 まあ、それなりに新聞社として右顧左眄していないということではある。

 そして地元の沖縄の新聞である。なお、沖縄タイムスには今日の社説はない。
・琉球新報「新知事に翁長氏 辺野古移設阻止を 尊厳回復に歴史的意義
 そして本文には、「翁長氏には、政府の強硬姿勢を突き崩して移設問題など基地問題に終止符を打つことに全力で取り組むことを期待したい」とある。
 
 実は、今年の1月にあった名護市長選挙の時にも、新聞社の社説を比較したのである。その時の態度と同じであることも分かった。
http://datey.blogspot.jp/2014/01/886.html
 つまり、2回も選挙で地元住民たちがNOと言っても、本土の産経と読売は、なにもそこから汲み取ろうとはしないらしい。日経も同じようにじっくり交渉せよと言うだけである。

2014/11/15

1027またもや起きるか付和雷同選挙を眺める非投票日和見主義者の繰り言

 なんだかまた国政選挙があるらしいような話が、新聞を賑わわせている。
政治の向きのことはよく分らないのだが、たしか、この前の選挙は昨年の夏だったような気がする。そしてその前はその前の年の末だったような気がする。
 なんだかしょっちゅう国政選挙をしている感じだ。そんなに国会議員の任期は短いのだろうか。

 その上、たしか、国政選挙は憲法違反であると、裁判所が決めたような気がする。
 今の選挙ルールだと、選挙民に不公平が起こる仕掛けなので憲法違反だ、ちゃんとルールを正しくしてからやれって、国会が裁判所から叱られたような覚えがある。

 さて、また国政選挙をするとは、その選挙ルールが憲法に違反しないように改正されたにちがいない。
 まさか前の憲法違反ルールのままでまた選挙するほど、いまの国会は馬鹿じゃあるまいと思う。
 
 もしも改正してないなら、せめて、オトクイの解釈改憲でこれでもルール違反じゃないとの閣議決定とかをやってからになさってはいかがなもんでしょうか。

 ところで、今の国会議員は憲法違反で選ばれた人たちだから、この人たちが決めたことは、もしかしたらすべて無効なのかもしれないと思う。どうなんだろう。
 だって、この国家という枠組みを定めるルールのなかで最高規範である憲法に違反しているなら、なにをやっても違反だろうと思うのだが、どうなんだろう。

 ということは、憲法違反国会が決めた選挙のルール改正も、じつは無効になるような気がする。
 つまりこの2,3年のうちに決めた法律は、なっでもかんでも無効のような気がする。
 わたしたちは無法なる国家に暮らしているんだなあ、あのクリミヤを横盗りしたロシヤとか、あの「イスラム国」のこととか、とやかく言えないのかもなあ。

 まあ、わたしは主義として選挙投票に行かないのだから、どうでもいいけどね。
 また起きるであろう付和雷同体制翼賛選挙を、はたから眺めて楽しませていただきましょう。

参照⇒【非投票独りキャンペーン運動日録
http://datey.blogspot.com/p/blog-page_4.html





2014/11/13

1026美しくも懐かしい故郷・高梁盆地の秋の風景を友人が送ってくれた

 秋の美しい風景画像が、わたしの故郷の高梁盆地に住む友人からやってきた。
 高梁盆地は高梁川から発生する霧で、真っ白な海の底のようになる朝がたびたびある。
 そのような日は、深い霧は午前中に消えて、必ず快晴となる。霧が深いほど空は青い。

 その霧の盆地を、霧の上にでた山上から見下ろすと、盆地は真っ白な湖であり雲海である。
 高梁盆地は城下町であった。盆地の街の北にそびえる臥牛山の麓には城主の館があり、山上には天守のある城郭があった。
 城主の館は、今は高等学校の敷地に変っているが、山上には城郭跡と天守がいまもある。

 その山上の天守が、雲の海の中に島々を従えて浮かび上がる。まさに天空の城、幻想的な景観である。
高梁盆地の雲海に浮かぶ備中松山城  撮影:川上正男
 故郷の有名な景観だが、実はわたしはこの目で見たことがない。
 この景観を撮影するには、朝、まだ暗いうちから、山上にカメラを構えて待ち続けるらしい。しかも、その朝にそれが現れるかどうか、その予想もできないらしい。
 友人はそれをうまく撮ったと送ってきた。なるほど、なるほど。

 なお、この雲海の城のことは、以前にもこのブログに書いたことがある。
 空の城と言えば、竹田城が有名らしいが、これもわたしは見たことがない。
ついでながら、スイスのシャモニーに行ったとき、見上げたエギ-ユドミディの小屋が、天空の城のようだった。
夕陽に輝くシャモニーの天空の城  撮影:伊達美徳
 友人が送ってくれた高梁盆地の風景の中に、わたしの生家の神社もあった。おお、こんなに美しい紅葉であるか。
 少年時代を過ごした生家だが、こどもの眼には紅葉は映らなかった。四季の景色をめでるのは、大人のすることであった。
 これを見ると、わたしがいたころはもっと樹木が多くて、境内は暗かったような気がする。
高梁盆地の御前神社の紅葉   撮影:川上正男
(追記)送ってくれた友人からの知らせでは、雲海の古城を見るのは、時期的には11月~12月半ばまでで、雨上がりで天気の良い冷え込んだ朝の8時~9時30分頃だそうである。

2014/11/12

1025・越後の山里の有機棚田新米コシヒカリお歳暮キャンペーン

<この記事は、わたしも関わってきた中越震災復興支援の延長で仲間が起こした地域振興会社「法末天神囃子」の宣伝です。今年の美味いお米を買ってくださいませ>

 越後の山村の棚田で作った「天日干し有機棚田米」と「地元産野菜」のお得なセットを、お歳暮にいかがですか。
 新潟県長岡市小国町の山間地にある法末集落は、森に囲まれた棚田の中の小さな集落です。
標高300mの高地の気候と豪雪による湧き水を活かして、棚田に有機農法によってコシヒカリを育てました。
 そうやって豊かに実ったコシヒカリを、陽光の下で天然乾燥してから精米したので、香りと甘味のある美味しいお米に仕上がりました。
 越後の名山の黒姫山と米山を望む棚田で育ったコシヒカリを、お世話になった方への暮れのご挨拶にいかがでしょうか。

<お歳暮セット価格>
【商品タイプ1】
プレミアム棚田米(天日干し)5kg+地元産の野菜(千円相当)セット  5,000円(送料込)
【商品タイプ2】
プレミアム棚田米(天日干し)3kg+地元産の野菜(500円相当)セット 3,000円(送料込)
【商品タイプ3】
美味棚田米(機械乾燥)5kg+地元産の野菜(500円相当)お手頃セット 3,000円(送料込)

<ご注文方法>
 必要事項を記入して、下記宛ファックスまたはEメールでご注文ください。
株式会社 法末天神囃子
販売担当 宮田裕介
電話&Fax:0258-95-3125
メールアドレス:miyata@h-tenjin.com

<ご記入事項>
【ご注文主】お名前、ご住所、郵便番号、電話番号、(メールアドレス)
【お届け先】商品タイプの番号、お名前、ご住所、郵便番号、電話番号
 複数あれば続けて同じように記入してください。

<お支払方法>下記の口座にお振り込みください。
柏崎農業協同組合 小国支店
普通口座 0022726
株式会社法末天神囃子
代表取締役 宮田裕介

案内ちらし(これをダウンロードして記入、メールかファクスしてくださっても結構です)


参照⇒「法末集落へようこそ

2014/11/11

1024いま日本中で起きている空き家問題にわが身が直面するとは、、

 父母が住んでいた岡山市内にある空き家を、最近になって売りに出したが、売れない。この20年も空き家にしていた。
 建物が古いとか道路が狭いとかいろいろあるにしても、駅近くのけっこう便利な立地なのに売れない。

 売れないのは個別の条件もあるが、今の日本の社会問題のひとつであることに、今さらながら気が付いた。日本全国が空き家だらけになっているらしい。
 マクロな空き家問題はあれこれと話題になっているらしいので、そちらに任せるとして、ここではわたしがただいま体験中のミクロの空き家問題を書いておく。でも、これが典型的な空き家問題らしい。

 1966年に父母が岡山市内に小さな家を建てて、郷里の高梁を離れた。この家はわたしの建築家としての処女作だった。
 ここに引っ越して、たぶん、一番喜んだのは母だろう。それまでは広大な神社境内と社殿や社務所の掃除に追いまくられていたから。父も気楽になっただろう。
1966年竣工時
当時流行のモダンリビング風のデザインと間取りだったが、父は数年のうちに増築改装した。
 一番の大きな改装は、鉄板瓦棒葺きの屋根の上に瓦屋根が乗ったことだった。暑いし雨音がうるさくてたまらなかったそうだ。縁側がついて深い軒の出がなくなった。
 エレベーションのプロポーションは悪くなったが、文句は言えなかった。だからわたしには未練のない建物だ。
 でもまあ、当時の金融公庫仕様で、基礎をきちんと設計していたから、今でも傾いていないのが、わたしの唯一の自慢である。

 父母が80歳を超えて高齢になったために、1993年に大阪の息子が住む近くに転居した。このときから岡山市内の家は空き家になったままである。
 わたしたち3人の子らが、ときどき行って管理をしていた。隣りの方がこちらの庭で野菜つくりをしがてら周りを掃除してくださっていて、これも助かっていた。
 だが、台風が中国地方にやってくと、心配だった。家は倒れても一向にかまわないが、近所迷惑は困る。

 わたしは1957年に大学に入るために関東に移り、弟たちも次々を故郷を出た。そののちに父母も故郷を離れた。父母がなくなっても空き家のままだった。
 わたしたちのような子の世代が、このようにして父の世代の空き家を持つことになった経緯は、じつは日本では珍しくもないことだろう。数多く日本にあるという空き家の大半は、このような事情だろうと思うが、どうだろうか。
 いまでは、わたしの子の世代が同じようなことに直面しつつある。

 その岡山の家は、売ろうという積極的な気もなくてズルズルきたが、3人の子たちも高齢化してきたから、このままでは孫世代が困ることになると思い出した。
 そんな最近、岡山市から来る固定資産税の請求書に同封して、「空き家情報バンク制度」なるものを始めたとのパンフが入っていた。
これを見て登録することにした。登録すると、不動産屋を決めて、そこと契約して売りに出すのである。それを始めたのが今年の8月だった。いまだに売れない。

山陽線の駅から300mほどのところ、山陽線で岡山駅へも倉敷駅へも8分である。近くに城跡もある古くからの集落の中で、新開地ではない。
 それでも売れないのは、ひとえにその道路条件にあるらしい。集落の中の一角をミニ開発した場所で、表の道から2m幅の市道が10mほど突っ込んだ場所にある。だから自動車を入れることは無理である。このことが障害らしい。
 
 買い物は近くでできるし、父の勤め先の岡山市中心部までは電車ですぐだったから、父母にとっては車がなくても一向に不便ではなかった。
 そんなところだから、そのうち売ればよいとのんきに思っていたら、なんとまあ、今や空き家だらけの時代、車があることが当たり前の時代、そして人口減少が当たり前の時代になり、住宅需要が減る時代になってしまった。タイミングを誤ったなあ。

 売れないままだと諦めて、そのうちに関東大震災でこちらを焼け出されたら、その岡山の家に避難してそのまま終の棲家にするかなあ。
 あのあたりは、瀬戸内海からは遠いから津波はないし、地震は少ないし(わたしは関東に移ってしばらくはなんと地震が多い土地だろうと思ったものだ)、一番近い島根原発からも遠いし、軍事基地も近くにあると聞いたこともないし、交通は便利だし、いいかもしれないなあ。
 いやいや、そういうことに遭遇したくない。


2014/11/09

1023【怪しいハイテク】自分のブログを自分で見ることができない故障中、修理の仕方教えてください

 このわたしのブログ「伊達の眼鏡」に、わたしがアクセスできなくなった。わたしのPCで、わたしが書きこんだページを見ることができないのだ。
 <伊達の眼鏡>http://datey.blogspot.com/にアクセスると、こんなお知らせが出てくる。

 で、その「詳細」をポチすると、こんなお知らせが出てくる。

 で、これを読んでも、まったくチンプンカンプンである。よくまあ。こういう文章を書けるもんだと思う。
 しょうがないから、DNSナントカカントカをネット検索したが、そこを読んでも何のことかわからない。
 グーグルってところは、日本語を知らん奴を雇っているらしい。あ、自動翻訳かな、うん、児童翻訳にちがいない。小学児童なみの翻訳だ。

 もう、わたしのブログを誰も読んでくれないことになっちまったか、、、。
 でも、もしかしてわたしのPCだけのことかもしれないと、息子にメールしてスマートフォンで見てもらったら、ちゃんと見えているという。
 う~ん、ってことは、わたしのPCのせいなのか、でも、どうしてそうなるのかなあ、あ、あの怪しいサイトを覗いたせいかなあ、、、、。

 不思議なことに、ブログ書き込みするページは出てくるので、今、これを書きこんでいる。
 でも、暗闇で店先に看板を吊っているみたいで、ここに書いたページが、どんなふうにブログに見えているのかさっぱりわからない。まあ、なんとかなるでしょう。

 もしも、うまく読めたなら、どなたか修理の仕方を知っているお方が読んで、教えてくださるかもしれないと期待を込めている。
 よろしくお願いいします。

追記:アッ、出た、治った、どうしてかなあ、何もしないのに、でもよかった、お騒がせしました、ごめんなさい





2014/11/07

1022【言葉の酔時記】「徘徊」じゃなくて「ひとり歩き」と言えってまたもや「痴呆」につづく老人言葉狩り

 また言葉狩りが始まったらしい。こんどは「徘徊」だそうである。
 今日の新聞に『「徘徊」言い換えませんか」の見出しで、「ひとり歩き」と呼び替えようとある。
 なんでも、徘徊は差別用語なのだそうである。「徘徊」とは「意味もなく歩き回る問題行動」で、いけないのだそうである。

 へえ~、わたしは「徘徊老人」を自任しているのに、なんとまあ、驚いた、いけないのかあ、困るなあ、意味もなく歩くのが大好きなのになあ、。徘徊大好きで、しょっちゅうやっている。
 意味もなく歩く徘徊が、結果として意味を持つことはある。徘徊中になにか発見することもあれば、思い出して買い物したりもする。
 わたしは徘徊をしたいのだから、そういう時はいったん戻ってきて、あらためて買い物やら発見に出かけなければならない。でないと徘徊ではなくなってしまう。面倒なことである。

 ちょっと前に、ボケ老人とか痴呆症がいけないないとて、「認知症」なる言い換えになったことがある。
 これもなんともはや妙な用語である。認知することが病気の一種なのかしらねえ、認知できないことが病気でしょ、ならば「認知不全症」あるいは「認知病」というべきのように思う。

 例えば、懐胎した母の子を、自分の子であると認知した父は「認知症」なのかしら。あるいは向こうから歩いてくる人を、自分の知人であると認知したわたしは「認知症」なのかしら。

 言葉を言い換えるのは、いろいろ現場の事情で仕方ないことかもしれないが、間違いやすい言葉に言い換えないでほしいものだ。
 まあ、そのうちに「認知症は差別用語」だから、なにか別の言葉に言い換えようってことになる時が来るだろう。

 言葉を言いかえると、とりあえずは何かいいことしたような気分になる人もいるだろうが、それはどうぞその人が勝手におやりください。よそにまで言い換えを強要しないでほしい。
 つまり、わたしが自分のことをボケ老人とか徘徊老人とか言うのはケシカランなどと、糾弾しないでいただきたく、なにとぞよろしくお願い申し上げまする。


2014/11/03

1021【新聞広告イチャモン】いまどきデコン建築かとみれば歴史建築保存も絡むロンドン再開発

 なんだか奇妙な建物の絵が新聞広告に乗っている。新規開発不動産を売ろうとして、その完成予想図らしい。ひん曲がっていて、童画みたいである。
 3・11の記憶がまだ生々しいいまどき、もう建築界はデコンデザイン復活かと見れば、ロンドンのことだった。

 数日前にもこの広告を見たので、ちょっと気になって読んだら、バタシー・パワーステーションと書いてある。ロンドンの有名な歴史的建築物の発電所である。

 あの堂々たる発電所が壊されて、こんなへナチョコビルになるのか。いったい誰が設計なんだと観れば、さすがグレートブリテンの広告で、建築家の名前フォスターとゲーリーが書いてある。このひん曲がりはゲーリーのデザインだな。

 どうも気になるので、貧者の百科事典(ウェブサイト)でbuttersea power stasionを探したら、あった。この発電所跡地を再開発して、住宅とショッピングなどの街にするらしい。
 なんとそのデベロッパーがマレーシア資本だそうだ。アジアの旧植民地国が、ヨーロッパの旧宗主国に開発資金を投じる時代になったのだ。
 
 そしてゲーリーの描く絵も見つけた。ふ~ん、なんだかすごいね、ないなに、flower buildingだってさ、そうか花咲き乱れビルってのか。
 これって、普通のビルの形で模型を作って、その途中をギュッと握ったらこうなりそうだな。ゲーリーはそうやって設計するのかなあ。deconstructivismだな。
 デベロッパーの話が載っているが、アパートメント(あちら「マンション」とは言わないんだな)は、その住戸ひとつひとつが独立しているようにする、という。ふむ、それでゲーリーは立体的に街並みにしたのか。

 日本でもどこでも共同住宅ビルが、多様な中身を持ちながら、ひとつのビルとなって退屈なズンベラボーである。一戸建てが並べば街並みになるが、一棟にまとめるとつまらない風景になる。それが並ぶとますます退屈になる。
 そこでこれを縦方向に街並みにしたってことだろう。香港の九竜城を思い出した。あれには暮らしがにじみ出ていたから面白かった。

 そういえば、戦後に急増した日本の団地も、洗濯物がひるがえり、色とりどりの布団が出て、なかにはバルコニーに風呂場を増築したりして、ビルの表面に生活がにじみ出ていていたから、あれは立体街並みだった。
 近ごろの高層共同住宅ビルは、景観がドウタラコウタラうるさいから、つまらない退屈なノッペラポーになってしまった。

 ロンドンでは、それを超えて立体街並みをゲーリーがデザインするって、このフニャフニャデコン建築を好き嫌いは別として、それもありだろう。九竜城の超貧困層や団地の安月給取りじゃなくて、こちらは億ション階層向けだけどね。
 どうだろう、日本にこういうのを建てたら、大地震が来てあちこち傾いたりひびが入ったりしても、もともとそうなのだから分らない。阪神淡路でお目にかかった風景、3・11で悪夢の風景だから、そうなっても七難隠していいかもしれない、いや、よくないか。
本物のデコン風景 1995年阪神淡路震災の神戸三宮にて

 この歴史的建築のバタシー発電所の保全について、大論争が起きているらしい。結局は安全上の問題で取り壊すこちになったが、同じ外観デザインで、特にこの建物のシンボルである4本の大煙突も復元するのだそうだ。オフィスなどに使うらしい。
 この4本の角を持つゴツイ煉瓦造りの大発電所建築を核にして、まわりにフランクゲーリーとフォスターの超モダン建築が建つことについても、その対比を良しとするか、けしからんとみるか、論争があるようだ。
 それにしても、近代工業社会のシンボル的な機能の発電所が、現代消費社会のお化けヘナチョコ建築に蚕食される風景は、文化史的に興味深いものだ。
フランクゲーリーによる新デコン風景か 右が発電所
単なる広告から歴史的建築の保存の本質的な話にも行き着いて、面白い。ここにいろいろと絵が出てくるので、その中の3枚を引用した。
 なお、プランナーはラファエル・ヴィノリであることも分かったが、日本の都市再開発でプランナーがネット検索で分るなんてことは、ありえないよなあ。日本のプランナーはいつも陰の人。
 とにもかくにも、歴史的建築の発電所に敬意を表したらしく見えるプラニングが、なんともスゴイ。




2014/11/01

1020【横浜ご近所探検隊が行く】横浜山手ぶらぶら長屋門の名残らしき建物を見つけた

 横浜ご近所探検隊は、江戸時代の建物かもしれない長屋門を「発見」した。
 元町から山手に向かって、代官坂を登る途中の道沿いに、赤いトタン屋根の平屋が2棟並んで建っていて、その間に奥の住宅に入る黒い門がある。

 トタン屋根でしかも赤いから見過ごして通り過ぎようとしたら、縦格子つきの窓の寸法とその並び方、その上の小庇の反り具合、建物の長さが、なんだか長屋門に見えるのである。
 2棟のうちの一方は寸詰まりなのは、切ったのだろう。同じようなものが建っていたら、あるいは続いていたら、まさに長屋門である。

 そばに何やら案内版が建っている。代官坂のいわれで、このあたりに横浜村名主の石川特衛門が居たとある。門を見ると表札に「石川」と書いてある。
 ということは、ここが名主の家でその後裔の方が今も住んでおいでなのだろう。これは昔の長屋門が改造されて、今に続いている名残の建物なのだろう。


 そう推測して戻ってきて、ネット検索したらこんな絵が出てきた。

 まさにわたしが「発見」した長屋門の、昔の姿とみてよさそうだ。今は屋根がかなり変わっているし、右の建物はちょん切られているが、わたしが推測したとおりに、長屋門の面影は色濃い。
 ただ、絵と比べてよく分らないのは、今あるのは絵の道沿いにある3棟の内、左の2棟なのか、それとも右の2棟なのか判定しにくいことである。
 せめて赤トタンだけでも瓦屋根に葺き替えてくださると、このあたりの幕末史の歴史的雰囲気に深みがでだろう。
         ◆◆
 ちかごろ足が弱って来た感じである。昔山岳部としては足だけは大丈夫と思っていたが、歳には勝てない。3時間も歩き続けると、なんだかヨロヨロしてくる。いかん、いかん。
 で、ちょっと山手まで散歩の足を延ばした。中村川から尾根上の山手本通りまで標高差31m、坂道や階段を直登するのは、けっこう息が上がる。だらだら坂が嫌なので、ついつい細い階段道にはいるから、余計につかれる

 でも登りつつ見渡せば、その坂というか、むしろ崖にへばりついている住宅群が、このあたりでは普通の姿である。
 住んでいる人は、上り下りの毎日で脚が丈夫になっているだろう。

 それを見ていて思い出したのは、わたしの生家が丘の中腹にある神社だったから、参道の石段を上り下りするのが日常であったことだ。少年は歩いて上り下りは平気だったが、自転車の上げ下ろしにはさすがに閉口したものだ。
 横浜のこの辺は、埋立した関内と関外の周りに坂道崖にへばりつく住宅地が広がっている。景色はよいが、北下がりの住宅地も多い。年とると坂の家は住めなくなる。
 急な坂を登りつつあたりを見ると、そこここに空き家がある感じである。

 高級住宅地としての山手のイメージは、現実はかなり限られたエリアだけだろう。
 そこで山手のかぎられたエリアに、共同住宅ビルが建ち並びつつある。当然のことに緑濃い山手の屋敷町の雰囲気はビル街に変わり、遠望する山手の稜線も緑の樹幹に替わって建築物のごつごつした姿になってきた。
山手本通り
エリスマン邸に展示してあった山手の模型