2015/03/28

1074【未来が明るかった頃(3】山の彼方の新興郊外住宅地は建築家デザインのモダンリビングで新ブランド化

【未来が明るかった頃(2)】のつづき:「楽しい生活と住宅博覧会」(1956年 朝日新聞社)を読んでレポート

 大阪から東に24km、生駒山を超えた奈良に、戦後1950年からの新開発住宅地は、近鉄の学園前駅を中心にひろがる。
 戦前から沿線開発に熱心だった関西私鉄では、近鉄の宅地開発は戦後からという後発である。しかも阪神圏の外の生駒山のかなたである。大阪人には遊びに行くところであっても、住むところではなかった。
 それだけに他とのイメージ的な差異を出して、新たなブランド化を図ろうとしたのだろう。わたしは関西のことはよく知らないが、この学園前や登美が丘の戦後新興住宅地は、ブランド化に成功したらしい。

 1956年のあやめ池と学園前での住宅博覧会に、その意気込みが現れている。
 建設業者による建売住宅群のほかに、有名建築家や全国コンペ公募した建築家による設計の建売住宅もとりいれ、しかも鉄筋コンクリートの建売住宅をならべたのだった。
 この住宅博覧会に先立って、会場の新開発住宅地に展示する建売住宅設計の、全国公開コンペを行った。
 その条件は、耐火構造、床面積18~23坪、家族4~6人、畳部屋を含むこと、工費は住宅金融公庫標準価格によるとしている。入選作は現実に建てられて、販売される。

 この審査員の顔ぶれがすごい。池辺陽、坂倉順三、滝沢真弓、西山卯三、村野藤吾、山口文象であり、東西から3人づつということになる。
 山口文象は戦後再出発をかけて1953年にRIAを創設し、精力的に庶民住宅に取り組んでいたから、適任であった。朝日新聞で住宅相談をやっていたからその縁によるのかもしれない。
 
 このコンペ入選者名の中に、高橋靗一、川島甲士、吉田桂二、小林盛太などの名があり、その頃は25~30歳の若者である。高橋はF4グループという名称で、郵政省仲間と共同で応募して入賞している。
 入賞作と佳作による設計の7戸と、審査員の池辺と山口による設計の2戸の鉄筋コンクリート住宅計9戸が学園前駅近くに建ったのは、博覧会が終わった後だった。
 これらはどのような売れ行きだっただろうか。

 まずは、コンペ入賞と佳作の建売住宅を見よう。わたしは住宅のプラニングを論評する能力はないが、コアプランのものがあるのが興味深い。ここだけは浄化槽を設置したのだろうか。
 意匠的には、とりたてて和風の皮をかぶることなく、素直にRC造の特徴を見せているところが、建築家好みだろうか。
 このあまりにも素直なモダニズムデザインを、博覧会に来た人たちはどうとらえたのだろうか。

 入選作の平面と外観(欄外記入は、「耐震不燃の新建築」(主婦の友社1957より)

工事費1,320,600円
土地とも1,965,900円、住宅金融公庫融資73万円を35年償還
住んでみての感想「融通性に富んでいて住みよい」


住んでみての感想「浴室のところに脱衣場がなくて困る」


 審査員としての山口文象によるコンペ評が載っている。
 応募作品364点中から入選作3点を得た。
 池田氏の作品は構造計画に無理がなく、低建設費でプランも良い。
 北原氏の作品は関西式住宅。現代的でしかも生活習慣を変えずにすめるのが特徴。
 F4グループ作品は鉄筋コンクリートではとかく大きくなりがちな構造を小さい柱で押さえたてんがよかった。
 応募作品全体を通じての印象は、鉄筋コンクリート構造と小住宅の関係についての研究と突込みが充分とは言えない。スケールの大きなものとの間には必然的に違った構想がなければならないと思う。したがってプランは構造とは違った発想からなり、木造的な考え方を出ない。
 鉄筋コンクリートにはそれなりのプラニングが有るはずだと思うが、そういうものがほとんど見当たらなかった。
 入選作品は優秀なものではあるが、上述の点でまだ十分安心できる元はいえない。主催者側と作家との間に詳細な検討が必要であると思う。
 いずれにしてもこの企画が若い有能な建築家の参加を得て、一応成功したことは喜んでよいことであり、この刺激が一般の人達の新しい住宅への関心を深める契機となるに違いない.

 では、そういう山口文象が設計したモデル住宅は、どんなものだったか。

【未来が明るかった頃(4)】ひときわ異形の山口文象設計のモデル住宅」につづく

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