戦争からようやく立ち直った人々の心の中に、原爆を超えて原子力に代表される明るい夢と希望の未来が待ち受けている(と思っていた)1956年のことであった。
ウチの書棚の膨大な本の処分整理をぼつぼつ始めた。山口文象関係の書棚から、忘れていた珍しい本が出てきた。
「楽しい生活と住宅博覧会」(朝日新聞社1956年11月1日発行)とある。その年の3月から5月にかけて69日間、奈良の近鉄奈良線あやめ池遊園地で、朝日新聞社が主宰して開催した博覧会の記念アルバムである。
今日の眼から見ていると、その頃のいろいろな社会情勢が反映されていて、じつに興味深い。
これが建築家・山口文象資料のひとつであるのは、この博覧会でモデル住宅を設計して建てていることと、博覧会行事の住宅公開コンペの審査員をしているからである。
この本をはじめから見ていくことにしよう。
博覧会場は、近鉄あやめ池駅前のあやめ池遊園地の第1会場と、隣りの学園前駅近くの新開発住宅地の第2会場である。
あやめ池遊園地では、生活と住宅に関する諸情報の展示で、これは見世物小屋の立ち並ぶいわゆる博覧会形式である。
第2会場の学園駅の方では、新規造成地にモダンリビングの当時流行のモデル住宅を建てて、これを売りだしている。近鉄による郊外住宅地開発の先鞭であったようで、この建売住宅を売るのが博覧会の本当の目的だったらしい。
博覧会と言えば、万博は別格としても、あちこちで独自の博覧会が開かれる。
1956年と言えば、1945年の終戦のどん底から、1950年勃発の朝鮮戦争による特需景気で浮上し、日本全体が戦争の疲弊からやっと立ち直りつつある時期だった。
この年の政府が出した経済白書に、「もはや戦後ではない」とあった。未来への希望を無理やりにでも抱いて進んでいた頃だ。
そのころ全国各地で、地方主催の博覧会がめったやたらに開かれていて、岡山市での博覧会に行った記憶がある。ウィキをみると各地の博覧会が書いてるが、そこに「岡山産業観光大博覧会(岡山県、1954年)」とあるのがそうだろうか。
それら中でも特徴的なのは、「原子力平和利用博覧会(東京都・広島県広島市など全国11都市を巡回、1955年-1957年)」である。未来への明るい希望の火だった。
その未来への希望の火は、この住宅博覧会でもバッチリと展示されている。それは原子力飛行機という未来の旅行の姿としてである。
会場の中央に鎮座している原寸大の原子力飛行機の模型は、「前長200尺、翼長145尺、胴体最大直径18尺」とあるから、たぶんこれは原寸の模型であろう。内部に観客が入るようになっている。
その周りにはアメリカ軍の戦闘機とともに、旧日本軍の「零戦」や「飛燕」が展示してある。終戦から15年経つと、もう空襲のことを忘れるたのか、忘れたかったのか。
それから60年後の今、わたしは原子力飛行機なるものの実在を聞いたこともない。そんなものが墜落してきたらどうなるのか。ネットで見ると、原子力飛行機開発はとうの昔に放棄されたらしい。
そして日本で最初の原子力発電は、東海村で1963年10月26日だった。飛行機に乗ることさえも夢の夢の時代のこと、その飛行機さえも飛ばす夢のエネルギーだった。
原爆を超えて明るい希望のエネルギーは、今や3・11を経て不安なエネルギーになり果てた。
面白いのは、この飛行機と並ぶ見世物が、飛騨白川郷から移築してきた合掌造り民家だったことである。その頃に電源開発していた御母衣ダムで水没する庄川村の民家を持ってきたのだろう。これは水力発電というエネルギーの犠牲になった秘境から来たのだ。
原子力、飛行機という未来の最先端風景と、秘境、茅葺民家という過去の伝統風景があり、その間にモダンリビングというその時代における最先端生活風景があるのだった。
なお、この博覧会でのモダン建築として円形劇場が建った。その設計者は、円筒形建築で売り出していた坂本鹿名夫だった。その後、ここでOSK松竹歌劇団(日本歌劇団)が定期公演を行っていた。
この博覧会の目的は、新開発住宅地の土地と建物を売ることだったのだが、その客寄せに原子力飛行機も大きな役割を持ったのが、未来に希望をもつべき世相を表していて興味深い。
下に近鉄あやめ池駅と博覧会ゲート、右上に円形劇場、左上に原子力飛行機 |
1926年開園のあやめ池遊園地は、2004年に廃園となって、住宅地開発だそうだ。
そういえば、わたしには親しみがあった東急沿線の多摩川園遊園も二子玉川園遊園も、とっくになくなった。
その年、わたしはと言えば、大学受験に失敗して、小さな城下町盆地の森の中に逼塞して、この1年は人生には存在しなかったことにするべく受験勉強であり、明るい未来があると自分にムリヤリ信じさせるしかない日々だった。
(【未来が明るかった頃(2):郊外開発のモダンリビング】へつづく)
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