2015/03/27

1073【未来が明るかった頃(2)】郊外開発住宅地に広がる戦後モダンリビング建売住宅

 【未来が明るかった頃(1)】からつづく:(「楽しい生活と住宅博覧会」(1956年 朝日新聞社)を読んでレポート

 奈良あやめ池遊園で住宅博覧会があった1956年、その頃はようやく戦後を脱出しつつあった。
 この年の経済白書に「もはや戦後ではない」との、後に有名になる言葉があった。
 それは朝鮮戦争の特需景気で、なんとか経済回復してきたことを意味はしたが、まだ高度成長期には夜が明けていない。

 戦争による都市の焼失と戦後の急激な人口増加で、衣食住のうち衣と食はなんとか回復が見えたが、住宅不足は深刻極まるものだった。もっとも、住宅問題は、その後に形を変えているが、未だに解消しないでいる。戦後復興で最も遅れた政策が住宅であった。
 1955年に、政府系金融機関として住宅金融公庫が設立され、金づまり時代の庶民の住宅建設に低利融資をはじめた。

 あやめ池の住宅博覧会の第1会場には、住宅博覧会らしく、生活文化館、住みよい街と住宅館、そして住宅設計館があった。
 生活文化館は、住宅関連製品メーカーの商品展示場があり、新生活の場となる住宅のモデルルームがあった。
 このモデルルームのデザインは、RIA建築綜合研究所の担当であった。このRIAとは、建築家・山口文象が戦中・戦後の逼塞の時を終えて出直すべく、1953年に創立した建築共同設計組織である。
生活文化館のRIAデザインのモデルルーム
モデルルームの想定は、24坪、夫婦と子供2人の4人家族と記述があるが、どんな平面かわからないが、戦後ブーム生れの子どもがいる若夫婦が対象であり、それは戦後の新しい主流の家族形態である核家族である。
 この世代がその頃は希望に燃えて、新しい住宅を求めていたのであり、博覧会はそれに応えるイベントだった。
 そしていま、そこにいた子どもが団塊の世代と言われて、もうすぐ大量のリアタイア世代となる。希望の時代は終わり、高齢社会問題に突入している。
 
 この住宅博覧会は、そのような戦後核家族対象の住宅の現物を、建売住宅として建設して、販売したことに特徴がある。それが第2会場である。
 あやめ池駅の南西にある第2会場に行ってみよう。松林の丘陵を切り開いた新開発住宅地に、26戸の建売住宅が建っていた。そのまわりには分譲宅地が広がる。
住宅博覧会第2会場の分譲住宅展示場
「C」のあたりが分譲住宅展示場

 展示の建売住宅の区画坪数75~180坪、売出し価格は土地建物合わせて一戸当たり95万円だった。
この価格を現在のそれと比べるべく、モデル分譲住宅展示場が建っていた土地の相続税路線価格をみると、67000円/㎡前後である。75坪としても今や土地だけで1700万円ほどにもなる。こうなってしまった未来の今は、明るいのか暗いのか。

 26戸のモデル住宅の事業主体は近鉄で、木造平屋で住宅金融公庫融資に適合し、販売価格は土地建物共で95万とする条件で、建設業者を選んで設計施工を請け負わせた。
 購入申し込み最多あるいは現地人気投票で上位の建設業者を表彰して賞金をだして、インセンティブをつけているのが面白い。この26戸は抽選となる人気で、期間中に全戸販売した。
 ここに戦後モダンリビングの様相の例としてあげるが、臭突(汲み取り便所の便槽臭気排気筒)が懐かしい。
人気投票上位の分譲住宅(右下は方位が逆のような気がする)
戦後モダンリビングいろいろ
この26戸の分譲住宅のほかに、あやめ池駅の隣りの学園前駅の近くで、耐火構造の住宅11戸が建売に出された。これは博覧会会期中には間に合わず、年末売出しだった。
興味深いのは、この耐火構造分譲住宅の設計案は、公開コンペで募集し、その入選案を建設したことである。
 そのコンペの審査員の顔ぶれがすごいし、審査員もモデル住宅の設計していて、興味深い。
(【未来が明るかった頃③】住宅博覧会の建築家によるモデル住宅へ、つづく)

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