●東京駅開業から38年目にして八重洲口駅舎完成
東京駅の東側にあった外堀が戦後に埋め立てられた。東京駅は京橋、銀座胃、日本橋などの江戸以来の市街地と陸続きになった。外堀の埋立っで生れた新たな土地には、八重洲口駅前広場が開設され、八重洲口駅ビルがやいくつかのビルが建ち始めた。
1952年に本格的な駅ビルを着工し、1954年10月14日に6階建て(後に増築して11階建て)の東京駅八重洲口新駅舎・鉄道会館が使用を開始した。10月21日にはそこに大阪から進出してきた大丸百貨店が開店した。
わたしはその工事中に東京駅を初めて訪れて、足場の間を通り抜けた記憶がある。その後の地下街工事、新幹線工事、近年の建替え工事など、東京駅八重洲口はいつも工事中のイメージがある。
鉄道会館と国際観光会館 1958年撮影 |
東京駅は開業時には帝都東京の玄関として西のミカドに顔を向けても、東の商都東京の商人の町には固く閉じて出入りお断りだった。
それから15年目にして、震災復興でようやく小さな裏口を東に開けた。もう一度の災害の後、小さいながらもそれなりに駅舎を建てて、ようやく顔を向けた。だが、すぐに姿を消したのは、この地の霊魂が戦後になってもミカドの駅に固執したのか。
さらに時が経ち、東京駅開業以来38年目にして、ようやく東京本来の街に東京駅も顔を向けたのであった。
この後、1964年には東京駅に東海道新幹線が入ってきて、八重洲側がその乗降の場となって、東京駅はようやく帝都の玄関から商都の玄関となった。
八重洲口に入ってきた新幹線といえば、十河信二がその父と言われる。十河が戦後に国鉄総裁になって1964年に大阪まで開通させたのだ。
●十河信二の策略による八重洲橋架橋
東京駅に八重洲口の駅舎が、なぜこうも長い間仮のままであったのだろうか。その原因のひとつに、戦中の弾丸列車の東京駅乗入計画が絡んでいて、それが固まらないままに新駅舎をつくるのを躊躇していたのだろうと、勝手に推測してた。
ところが、弾丸列車計画が出る1938年頃よりも前の震災復興当時にも、国鉄は八重洲口開設に消極的であったことが、十河信二の言にあることが分かった。
八重洲口には十河が重要な役割を果たしている。それが奇妙に面白いので書いておく。
1923年の震災当時は、十河信二は鉄道省の経理課にいたが、関東大震災後にできた内務省復興局に移って、経理部長として震災復興事業に携わっていた。当初の理想的な復興計画は、当時の政争のなかで保守派によって、余りにも縮小されたことは有名である。
十河が復興局時代の思い出を語っている中に、東京駅八重洲口のことに触れている(『内務省外史』地方財務協会発行1975年)
復興局で財布を預かる経理部長の十河は、復興計画を都市計画委員会に諮ると、政争による反対論によって、事業規模がどんどん縮小されていくのを苦々しく思っていた。
そこで、都市計画法の抜け穴を考え出したというのである。
「それは都市計画法によると、委員会にかけるのは道路計画だけで、橋というのは指定していない。だから橋は計画外になっておるのだという解釈で、材料を買って、政府の原案に従って橋だけ先にかける。これ以外にはどうにも方法がありません。」
「……それでいたるところに橋ができた。そのいちばん顕著なのは……東京駅の八重洲口、今は堀をつぶされておるけれども、あそこには堀があって、八重洲橋という橋を架けた。今、八重洲口を出ると広い道路になっておるが、原案にあの道路は無かった。当時、国鉄も八重洲口をつくることには賛成をしなかった。都市計画委員会は盛んに反対をしている。それを復興局の原計画に従って先にやってしまった。」
八重洲橋を架けたというか、架ける策謀をやったのは十河であるというのだ。乱暴なことだが、橋を先にかけてしまって、後から八重洲通りの道路計画を委員会に諮ったのか。そういえば八重洲通りも、超過買収方式で沿道まちづくりを同時に進める計画だったが、委員会で潰されて道路だけになったことも有名である。
この十河の話のどこまでほんとうか、八重洲橋だけのことか八重洲通りも含むのかも分らない。本当ならば、復興橋梁がいまだに立派に評価されるのは、十河が橋梁だけは財布を絞らせなかったおかげということになる。
我田引水的には、建築家山口文象が橋のデザインに関ることができたのも、十河の策略のおかげとなる。特に八重洲橋の設計図には、山口の当時の姓である岡村のサインがある。
余談になるが、十河は震災復興局に後藤新平の要請で入る時に、土木部長として太田円三をひきいれて、財布担当と技術担当のコンビで復興事業に取り組んだ。だが復興局の用地買収贈収賄事件で太田は自死、十河は無罪になったが身を引き、復興事業を全うできなかった。
戦後に十河が国鉄総裁になった時に、新幹線事業のために技師長として島秀雄をひきいれて、また財布と技術のコンビで取り組んだ。だが開業時には二人とも政治的な事情等で国鉄を退いていた。
◆◆
東京駅のことは、昔々仕事としてわたしは調べていたのに、今を趣味で考えてみている。これから八重洲側が面白そうだが、こちらも保存と開発の問題が出て来るかしら。
そしてまた、帝都玄関丸の内と商都玄関八重洲とを比較すると、聖と俗とか、官と民とか、三菱対三井とか、面白い対立的構図で我田引水社会論ができそうだ。 終わり
それから15年目にして、震災復興でようやく小さな裏口を東に開けた。もう一度の災害の後、小さいながらもそれなりに駅舎を建てて、ようやく顔を向けた。だが、すぐに姿を消したのは、この地の霊魂が戦後になってもミカドの駅に固執したのか。
さらに時が経ち、東京駅開業以来38年目にして、ようやく東京本来の街に東京駅も顔を向けたのであった。
この後、1964年には東京駅に東海道新幹線が入ってきて、八重洲側がその乗降の場となって、東京駅はようやく帝都の玄関から商都の玄関となった。
八重洲口に入ってきた新幹線といえば、十河信二がその父と言われる。十河が戦後に国鉄総裁になって1964年に大阪まで開通させたのだ。
1988年製作「駅からマップ」東京駅とその周辺 この絵の建物のいくつが今も建っているか数えると面白い |
●十河信二の策略による八重洲橋架橋
東京駅に八重洲口の駅舎が、なぜこうも長い間仮のままであったのだろうか。その原因のひとつに、戦中の弾丸列車の東京駅乗入計画が絡んでいて、それが固まらないままに新駅舎をつくるのを躊躇していたのだろうと、勝手に推測してた。
ところが、弾丸列車計画が出る1938年頃よりも前の震災復興当時にも、国鉄は八重洲口開設に消極的であったことが、十河信二の言にあることが分かった。
八重洲口には十河が重要な役割を果たしている。それが奇妙に面白いので書いておく。
1923年の震災当時は、十河信二は鉄道省の経理課にいたが、関東大震災後にできた内務省復興局に移って、経理部長として震災復興事業に携わっていた。当初の理想的な復興計画は、当時の政争のなかで保守派によって、余りにも縮小されたことは有名である。
十河が復興局時代の思い出を語っている中に、東京駅八重洲口のことに触れている(『内務省外史』地方財務協会発行1975年)
復興局で財布を預かる経理部長の十河は、復興計画を都市計画委員会に諮ると、政争による反対論によって、事業規模がどんどん縮小されていくのを苦々しく思っていた。
そこで、都市計画法の抜け穴を考え出したというのである。
「それは都市計画法によると、委員会にかけるのは道路計画だけで、橋というのは指定していない。だから橋は計画外になっておるのだという解釈で、材料を買って、政府の原案に従って橋だけ先にかける。これ以外にはどうにも方法がありません。」
「……それでいたるところに橋ができた。そのいちばん顕著なのは……東京駅の八重洲口、今は堀をつぶされておるけれども、あそこには堀があって、八重洲橋という橋を架けた。今、八重洲口を出ると広い道路になっておるが、原案にあの道路は無かった。当時、国鉄も八重洲口をつくることには賛成をしなかった。都市計画委員会は盛んに反対をしている。それを復興局の原計画に従って先にやってしまった。」
八重洲橋を架けたというか、架ける策謀をやったのは十河であるというのだ。乱暴なことだが、橋を先にかけてしまって、後から八重洲通りの道路計画を委員会に諮ったのか。そういえば八重洲通りも、超過買収方式で沿道まちづくりを同時に進める計画だったが、委員会で潰されて道路だけになったことも有名である。
この十河の話のどこまでほんとうか、八重洲橋だけのことか八重洲通りも含むのかも分らない。本当ならば、復興橋梁がいまだに立派に評価されるのは、十河が橋梁だけは財布を絞らせなかったおかげということになる。
我田引水的には、建築家山口文象が橋のデザインに関ることができたのも、十河の策略のおかげとなる。特に八重洲橋の設計図には、山口の当時の姓である岡村のサインがある。
八重洲橋設計図 岡村(山口文象)のサイン |
●30余年にもわたる十河信二の機略による八重洲口
鉄道省出身の十河のことだから、東京駅八重洲口の開設を前提にして(あるいは画策して)八重洲橋を架けたことは想像に難くない。
震災復興後の1930年の東京駅、外堀、八重洲橋 |
復興事業では外堀に八重洲橋が架かり、 立派な駅舎はできなかったが駅裏に電車専用乗降口が開設した |
国鉄が八重洲口開設を嫌がったのに、東京駅の八重洲口にしか用がない八重洲橋を架けて八重洲口を開設させたのが十河信二であり、後に国鉄総裁となって新幹線を入れて本格的八重洲口駅舎につくったのもこの十河であった。もしかして30数年を隔てても、十河には一連のことであったのだろうか。
余談になるが、十河は震災復興局に後藤新平の要請で入る時に、土木部長として太田円三をひきいれて、財布担当と技術担当のコンビで復興事業に取り組んだ。だが復興局の用地買収贈収賄事件で太田は自死、十河は無罪になったが身を引き、復興事業を全うできなかった。
戦後に十河が国鉄総裁になった時に、新幹線事業のために技師長として島秀雄をひきいれて、また財布と技術のコンビで取り組んだ。だが開業時には二人とも政治的な事情等で国鉄を退いていた。
◆◆
東京駅のことは、昔々仕事としてわたしは調べていたのに、今を趣味で考えてみている。これから八重洲側が面白そうだが、こちらも保存と開発の問題が出て来るかしら。
そしてまた、帝都玄関丸の内と商都玄関八重洲とを比較すると、聖と俗とか、官と民とか、三菱対三井とか、面白い対立的構図で我田引水社会論ができそうだ。 終わり
●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
・【東京駅周辺徘徊その6】控えめ過ぎる初代八重洲駅舎
http://datey.blogspot.jp/2017/01/1247.html
http://datey.blogspot.jp/2017/01/1247.html
・【東京駅周辺徘徊その5】復興記念館にあった東京駅八重洲口駅舎らしい絵は幻か
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・
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