2017/03/01

1254【横浜水上徘徊(1)】寒の船で川巡りして見上げる関東大震災復興橋梁から想う水の都だった横浜

 天気の良い冬の日、川風も穏やかな船遊び、横浜の関内と関外をとりまく川を、船に乗って巡るまち歩きイベント(2017年2月25日、JIA建築祭)に参加した。
 狙いは関東大震災復興時に架けた橋梁群を、川面から見上げようというのである。いつもの陸上徘徊とは全く異なる視点でみる橋と街は、建築家の笠井三義さんの該博知識によるガイドで実に面白かった。

●横浜の復興橋梁

 関東大震災復興事業の時に架けた橋は「復興橋」と称しているが、東京と横浜に今もたくさん存在する。東京で有名なものは、隅田川の清洲橋や御茶ノ水の聖橋などである。
 横浜の復興橋は178か所を架け、今も横浜駅あたりや関内と関外を囲むあたりの川には、補修・改修されながら健在である。
 橋の見どころは、基本的には建築と同じで、その構造と意匠の構成である。わたしは構造的なことはよく分らないから、ここでは意匠的なことだけ観よう。その意匠の中でも、渡る時にいちばん目につく親柱に眼を付けよう。

 一般に、橋には「親柱」というものがある。橋の渡りはじめの両側に建つ柱状のもので、橋の名前や作った年月が書いてあるのが普通である。
 名前の通りに柱の形の場合が多いが、高いのや低いのや、板状とか団子状とか、彫刻だったり、その形はさまざまである。
 中には凝った形もあって、橋を渡るときに親柱のデザインがちょっと気になったりする。もっとも、親柱が全くない橋もあるから、機能的に必要なものではない。
 橋ごとにどれもこれも異なっており、しかもモダンデザイン風の姿であるのが面白い。ここに横浜復興橋の親柱の姿を載せておこう(『横浜復興史』1932年)。

これらの親柱は、いったい誰がデザインをしたのだろうか。橋梁設計の土木技師ではないだろうから、建築家あるいは画家彫刻家によるのだろう。
 横浜の復興橋は、内務省復興局によるものと、横浜市によるものがあるが、復興局のものならば建築家の山口文象が担当しているものがあるかもしれない。山口文象が戦後に主宰したRIAの山口文象アーカイブスには、横浜の復興橋梁の工事写真が何枚かある。

 山口文象は復興局橋梁課の嘱託技師であり、土木技師のための橋梁設計代替案検討資料として、全体完成予想透視図を何枚も描く作業をしていた。また親柱、高欄、照明などの附属物の設計をしていたが、これにはその頃に主宰していた創宇社建築会の仲間がアルバイトで加わっていたという。

●橋を見上げる
 船で廻ったのは、右の図の濃い水色の川である。V字型に関内と関外を囲っている。ようするに、この範囲が入江であったのを埋め立てたのである。薄い水色は今は埋立てられた水路。
 さて、船から見上げる橋は、いつもと違う視点である。解説の笠井さんが、親柱を見るときに、いつものように橋の上だけではなくて、そこから下に続けて水面までを観よと言う。
 観ればなるほど、親柱は橋の上で終わるのではなくて、実は水面まで続いているのだった。いや、親柱は水底から水面を突き破って、塔のごとくにすっくと地上を超えて立ち上がり、まるでこれで橋を支えている姿である。
 それは橋台と(ときには橋脚と)一体になって立ち上がるから、それでこそ親柱という名に値する。

わたしは橋の構造的なことは知らないが、もともと親柱とは、昔の木橋の桁や梁を支えて水底あるいは礎石の上に建つ柱のことを言ったのであろう。構造的には橋の上までなくてもよいが、いつしか地上にも突出させて欄干を支えるようになったのだろう。
 それが構造材料も形態も変っても、いまも親柱という名が形骸化しながら伝わっているのなら、水面からみる復興橋梁の親柱に、その原型の姿の継承を見たことになる。橋の上にちょこんと立つものではないのだ。
水上から見る谷戸橋は左右の親柱が橋を支える姿
谷戸橋は海と川の間にある門構えだった
地上から見る谷戸橋は左右の親柱はゲートの姿
 そうか、もともと橋というものは、陸上のものであると同時に、水上のものであったのだが、わたしはそれをすっかり忘れていた。
水上のものは水上からデザインされるべきだから、親柱が水の底から立ち上がる塔状であるのは当たり前、だから橋の設計者は水上からの視点に向けて設計をしていたのだ。
 昔の橋の写真を観ると、川から見るそのプロポーションが美しく、また橋桁側面や橋台など、川の方に向けて装飾がしてあるものが多い。それは橋を渡るものには見えない。橋は川から観てこそ生きるデザインだと、あらためて気が付いた。
この橋は横浜ではないが、親柱の基本的意味を表現する例として挙げる
東京の山手線の橋が外堀に架かっているが川に向けての姿を美しく装っている
 今はほとんどなくなったが、かつては水上からの視点が、陸上からの視点と同じように存在していたのだった。
横浜は港町であるから、関内と関外を取り囲む大岡川、中川、堀川にはもちろん、今は埋め立てられた派大岡川などの運河には、たくさんの艀が水上に浮かんでいた。
 そこには家族で住む水上生活者たちがいたし、水上ホテルという安宿もあった。水上の街があったのだった。
1940年、中川に停泊する多くの艀
●水の都だった横浜

 ここで思い出したのは、東京の日本橋の妻木頼黄によるデザインについて、建築評論家の長谷川堯がその名著『都市回廊』(1975年)のなかで書いていたことだった。
「妻木はこの橋の総合的なデザインを、人や電車が快活に通り抜ける橋の表面(道路面)から構想したのではなく、実はひそかに日本橋川の河面からイメージし、その視覚的基盤から橋を一つの巨大な空間的構築物として発想して、それに関するすべての「意匠」を決定しようとしていたのではないか、という点に思いあたるのだ。」

 それはつまり、旗本の末裔の妻木にとっては、江戸の町がいくつもの運河がめぐらされていた「水の都」であったのに、明治維新でやってきた薩長などの田舎者たちによって「陸の東京」に変えられつつあることに悲憤慷慨し、日本橋のデザインに水上からの視点を据えること抵抗者の立場を表現したと、長谷川は言うのである。
東京・日本橋 1911年竣工
 さて、横浜の関内関外という都心部も、まさに水であったことを思いだす。もともと海の入江を埋め立てたのだから、水はけのために水路が網の目にめぐらされていた。それは埋立地の排水路であり、農地の灌漑用水路であり、港とつながり運輸交通路であり、水上生活者たちも多かった。関内関外は水の都であったのだ。
 関東大震災で破壊した多くの橋を、内務省復興局と横浜市と分担して架け替え、1930年頃にはほぼ完了した。

 その頃は、まだまだ水路には船が多く動き回り、水路の岸には荷上げの場が随所に設けられていた。橋の上の陸上を往来する車や人と、水上を往来するそれ等は同じくらい重要だった。
 橋というものは、陸上では単に川という暮らしの障害物を越えるための施設であるのに対して、水上ではそこで働き暮らす人々のためのランドマークであった。
 横浜都心の最も重要な位置に、1911年に2代目吉田橋が架かった。現在の吉田橋の先代にあたる。この橋は、まさに東京日本橋と同じ年に竣功したのだが、水の都の江戸に負けない水の都横浜のこの橋も、水に向かって華やかな装飾性を誇るデザインだった。
これは復興橋梁の以前の吉田橋の1911年竣功時の姿
横浜都心の最も重要な位置の橋として川に向けての過剰なる装飾意匠
1922年 関東大震災の時の横浜の水路
(つづく)

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