【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド8】のつづき
東京駅丸の内独断偏見ガイドは、明治生命館の跡は日比谷通りを南に歩いて、DNタワーに参りましょう。
明治生命館の前の馬場先門から南に日比谷通りを見る
白い超高層ビルがDNタワー(2007)
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この新聞記事をごらんください。1945年の日本人たちをビックリ仰天させた写真が載っています。そう、もうすぐ敗戦記念日ですね。
1945年9月29日朝日新聞より |
●戦争の中枢機構に巻き込まれた第一生命館
でも明治生命館はギリシャ風の柱が並んで優美な感もあるのに対して、こちらはごつい石張りの太い四角柱が立ち並んだ回廊なんて、どうにも厳めしいですね。
第一生命館というと、なんと言っても、ここにダグラス・マッカーサーという超有名アメリカ人がいたことです。そう、1945年、戦争に負けた日本を統治するためにやってきた連合国軍の最高司令官です。
DNタワーになる前のこの西半分の第一生命館が、その総司令部GHQのオフィスになったからです。だからここは、その頃の日本で最高権力者の館だったのです。その執務室を「マッカーサー記念室」として、6階に当時のままの姿で保存してあるそうです。
最初に見せた新聞は、そのマッカーサーとならんで撮られたものです。
1945年9月27日、神様の天皇がアメリカ大使館をわざわざ訪問し、直立不動の姿勢であるのに対して、マッカーサーは腰に手を当てて楽に並んで立つなんて、「日本は負けたんだ」とだれもが芯から思わされたのでした。
ついでに、こんな写真もあります。これは新聞に載った写真を撮ったGHQ専属の写真家が後に本に載せたものですが、3枚撮った残り2枚がこれだそうです。マッカーサーが目をつぶっていたり、天皇が口を開けていたりしていて、没にしたそうです。でも、この左の写真の方がよかったような気もしますねえ。
「マッカーサーの見た焼跡」(ジェターノ・フェーレイス著)より |
第一生命館は、1938年に完成したのですが、日中戦争が泥沼になり、戦争が日常にも及びつつある時ですね。その工事中の現場に日本陸軍関係者がやってきて、非常事態に備えて特に鉄筋やコンクリートを増やして頑丈にするようにとの、事実上の命令が来たのだそうです。
非常事態とは空爆のことで、爆弾が落ちても耐えるようにしろとの意味です。そこで各階の床スラブ厚さ合計が4.5mにもなるように設計し直して施工したのだそうです。DNタワーにするときに改装のために調べたら、屋根スラブ厚40センチ、1階床スラブ厚60センチ、外壁は型枠として打ち込んだ石を除いても厚さ45センチもあったそうですから、頑丈な上にも頑丈で、横にしても立っていそうです。
だから、1943年からは東部軍管区司令部の本拠となり6階以上を占拠、地下には内閣情報局や内務省防空総本部をはじめ6省の分室が陣取り、NHKの第二放送所および新聞社の電送写真の設備などもされたそうです。
更に屋上には、高射機関砲4基が据えられました。これは特に皇居を空襲から守るためでしょうが、5月25日の大規模空襲で皇居も東京駅も燃えたので、役に立たなかったのですね。
第一生命は自社ビルから半分以上追い出されました。軍の命令ですから否応なしです。頑丈に作ったために、このビルは戦争に駆り出されたのでした。
1945年8月に敗戦を迎えました。ここにあった東部軍管区司令部の司令官は、その司令官室でピストル自殺したそうです。
戦争が終わって、日本陸軍は引き揚げていき、これで本来の本社ビルになると思ったら、こんどは連合国軍がやってきて、その総司令部として地下を除いて、1945年9月15日から接収されました。これも敗戦国として否応なしです。
第一生命は京橋の第一相互館に本社を移し、また戻ってきたのは接収解除された1952年7月のことでした。第一生命にとってはここまで長く続いた戦争でした。
ここの他の丸の内のビルもたくさん接収されました。隣りの農林中央金庫ビルも接収されたのでした。先ほど見た明治生命館もでしたね。なにしろと日本統治機構がそっくりやってくるのですから、間接統治とはいえ、その事務所や宿泊、住宅など、膨大な施設が必要だったのです。
●3つの相貌を見せるキメラ建築DNタワー
その第一生命館は1938年にできたのですが、今の姿はDNタワーの一部になっていて、Dは東側の日比谷通りに昔のままの姿を見せています。
元の第一生命館を保存したDNタワー |
ほらこの仲通りに面した姿は、東側とまったく違ってギリシャ風の柱が並ぶ様式建築ですよ。だから東の第一生命館とこちらの農中ビルとをくっつけて、その上に超高層ビルを乗せて建てたんだと思わせますよね、でも違うんです。
DNタワーの東側の姿 農林中央金庫の旧ビルの様式的な柱列を
そのまま再現ではなくてイメージを継承してデザインした
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DNタワー東側の農林中金玄関 これらの柱頭と柱脚だけは本物だがその他は元の建物に似せてつくった |
第一生命館と農中ビルとはもともとは別の敷地の別の建物として隣り合って建っていました。第一生命館の方が北と西にL型に建ち、その南東に農中ビルが建っていて、それらの敷地を合併して共同ビルに建てなおしたのがDNタワーですね。
その時に、L型の第一生命館の東ウィングを壊して西の方だけを残し、農中ビルのほうは全部を壊してしまいました。1933年にできた農中ビルは、東と南の道路に面してはギリシャ風の柱が並んで明治生命館のような姿の様式建築でした。今のDNタワーの東側にも様式建築の姿ですが、実はこれとは若干違う姿だったものを、似たような姿に再現したのだそうです。そのとき、石の柱の根元と頭のところの装飾だけを、もとの農中ビルから外してきて、ここに見る柱のくっつけたそうです。
完全なコピーではないので、イメージ保存というらしいです。見た目の印象は似ている様にしたってことでしょうね。
DNタワー低層部の外回りの東、南、北は第一生命館の意匠、東は農中ビルの意匠というハイブリッドデザインですね。
なお、北側の全部の壁は元の第一生命館の壁だけを保存していますが、南側の壁の西半分は元のまま、東半分はもともとは農中ビルがあったところに、北側と同じ姿に新しく作りました。
DNタワーの南側 壁面の左半分は元の第1生命館の壁保存 右半分は似せて新築の壁 北側も同じ姿だが全面保存 |
南壁面の色違いで保存部分と新築部分の境界が分る |
こうして各面を見ると、いずれも左右対称になっています。みかげ石張りの硬いテクスチャと共に、それがこの建物をいかめしく見せています。
これって、彫の深い四角な石柱を見せる第一生命館の立面の硬いイメージを超高層にも持ってきたのでしょうね。
DNタワーをどう作ったか見ましょう。
第一生命館と農林中金ビルはこのように立っていました
↓
二つのビルをこのように保存と解体
「DNタワー21 歴史的建築物の保存と再生」(清水建設著)より一部画像引用 |
ということで、DNタワーの建築の姿は、現物保存、コピー再現、イメージ再現、新規イメージ継承という4様の手段で造った造型、柔構造と剛構造という異なる建築技術、これらをひとつの建築に混合して統合するという、じつに複雑なる姿なのです。面白いですねえ。
まるで、キメラです。ギリシア神話に登場するライオンの頭と山羊の胴体、毒蛇の尻尾を持つ怪物のことです。生物学では体内に異なった遺伝情報を持つ個体のことです。
それにしても、相互の間に違和感がなくて、けっこう上手なデザインのキメラになっていると思います。見た目としては、明治生命のMYプラザや東京中央郵便局のJPタワーと比べると、保存・継承・再生の姿はよくできていますね。
(つづく)それにしても、相互の間に違和感がなくて、けっこう上手なデザインのキメラになっていると思います。見た目としては、明治生命のMYプラザや東京中央郵便局のJPタワーと比べると、保存・継承・再生の姿はよくできていますね。
◆東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
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