2017/08/28

1282【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド.11】攻め寄せる超高層建築の大群に包囲されつつある江戸城西の丸下皇居外苑


 さて堀端の日比谷通りを南の端まで来ましたから、これから西に向かって日比谷堀に沿って歩きましょう。そして祝田橋を北に渡って皇居外苑に入り、これまで歩いてきた丸の内の風景を遠望しましょう。

今回のガイドマップ:黄色線はこれまでと今日の行程
橙色丸はこれまでのガイド施設、赤丸は今回の視点場

●江戸時代の堀端風景
 祝田橋から真東の日比谷堀の向こうに、先ほどのDNタワーが正面に見えます。左の樹林の中は皇居外苑で、そこは江戸時代には西の丸下とよばれていました。
祝田橋から日比谷堀越しに見るDNタワー21
 実はこのあたりから同じように風景を、江戸時代末期に描いた彩色絵「泥絵」がありますので、比較してみてください。いまは堀端の樹木が繁りすぎているようです。 
左の石垣の内側は西の丸下、正面奥は鳥取藩池田家上屋敷と古河藩土井家上屋敷、
右は日比谷門の高麗門と櫓門、桜田御用屋敷
(『泥絵で見る大名屋敷』平井聖、浅野伸子より)

上の泥絵を描いた時代の江戸切絵図1849年 
今の祝田橋の赤丸あたりから矢印方向を描いている
土井大炊頭と記入のある古河藩土井家上屋敷がDNタワーの位置

●二重橋前から見る超高層群の壁
 では皇居前広場に入り、二重橋のあたりから丸の内方面を眺めましょう。この場所は馬場先通りを西に延長した突き当りです。
 全く同じ位置から見て、2005年撮影と2017年撮影の写真を見比べてください。左の方、つまり大手町あたりが、すごく混み合ってきていますね。そして右の方へとだだんだんと混み具合が進んできているようです。いちばん右が先ほど見たDNタワーです。

同じ場所から、空中に舞いあがって眺めましょう。
江戸城上空から東を俯瞰 2016年 goolgle earth

●江戸城の住民を見下ろす超高層はケシカラン
 左の方に赤い色のあまり高くない超高層ビルが見えます。このあたりで最初の建った超高層建築の東京海上ビルです。
 これが建ったのは1974年でしたが、建つにあたっては建築界にかぎらず、世間も賑わわせた「美観論争」という事件がありました。
 高さ127mで建築確認申請を出したら、法的には問題ないのに、あれこれ政治的介入があって、ずいぶんすったもんだしました。すったもんだしたのは、表向きは「こんな高いものを建てては江戸城の美観を損ねる」でしたが、実は「江戸城内住民を見下ろすのはケシカラン」という世間の根強い信仰みたいなことでしたね。今の様に世の中に景観について喧しい時代ではありませんでした。

 その結果は、頭をちょん切って今に見る100m高さで建ったのでした。要するに、「丸の内あたりでは高さ100m迄は建ててもいいよ」と、どことどこか知りませんが、手打ち式があったらしいです。どうして100mなら良いのか誰も分りません。
 でもねえ、このあたりがから見ると、あの赤い東京海上ビルのまわりには、それよりもずいぶん高いビルだらけですねえ、ヘンですよね。
 都市計画として実に興味ある事件でした。論争の中身はもっと複雑なので、あとで東京海上ビルの近くに行って、眺めながらお話しましょう。

●戦前にもあった江戸城住民見下ろしケシカラン事件
 ところで、このあたりのビルの高さで揉めた事件は、戦前にもありました。その元凶となった建築は、ここから首をぐるっと南に回して見える警視庁のビルです。
 あ、いや、いまのあの建物じゃなくて、あれの先代の警視庁ビルです。
2重橋前から見る警視庁

 1933年に、皇居を取り囲む大手町、丸の内、有楽町、霞が関あたりに、当時の市街地建築物法による「美観地区」指定しました。その主な目的は建築の最高高さを、地区により31mから15mまでの6段階に分けて、制限することでした。

 その差の決め方は地形の高さに対応して、スカイラインを定めているので、いかにも美観を考えたようですが、じつは江戸城址住人との関係で決めたのでした。
 この美観地区を定めた動機は、当時建設中の警視庁の新庁舎に望楼タワーがついており、それが31mを越えるものだったからでした。それをみて都市美協会が異議を唱えるなどして、内務省がこの美観地区による規制を出してきたのです。当時の都市計画特別委員会での提案者側の説明に、「皇居の中を窺うことのできるような高さはなるべく避けたい」とあります。
 そして警視庁の庁舎は高さ28mとなり、タワーの鉄骨は組み上がっていたのを、10m程ちょん切りました。ただし、そのタワーの高さが不法だったのではなかったのですから、後追い法規制ですね。
 当時の建築規制行政は警察がやっていましたから、なんとも皮肉ですね。

 その約40年後に、東京海上ビルで同じような事件が起きたのですね。
 もちろん戦後は都市、建築の法律が変わっていて、超高層を建てるのは法的に問題ないのですが、またぞろ高さ制限制度をつくる動きもありました、今度は消えました。
 同じような事件が起きるとは、面白いですねえ。敗戦を境に日本人の意識は大変革したかと思ってたけど、そうじゃなかったのですね。
江戸城と超高層建築群

●スカイラインの変貌を追う
 さて、ここ二重橋前から見る丸の内方面のスカイラインは、次から次へと高さ100mを超えてきているのですが、いつからこんなになってきたのでしょうか。
 昔、日比谷通りのビル群を西から見て順に撮った、1951年と1974年の写真があります。比較して並べましょう。

 いちばん右が、1938年にできた第一生命館です。今はDNタワーになっています。
  いちばん左は、1916年にできた3階建の銀行協会です。この銀行協会は、このあと1993年に超高層ビルに建て替わり、その足元に当初の外観姿を張り付けて、保存したかのような形を取りました。そして今は、その超高層ビルも壊されてしまい、まわりも含めてさらに大きな超高層ビルへと建替え中です。いやまったく、25年ほどで超高層が建て替わるなんて、なかなか忙しい世の中ですねえ。
1951年と1974年の日比谷通りの建築(『都市住宅7405』から引用)

 1951年は建物の高さは31mの規制の範囲でまだ建ち揃わなくて、スカイラインが歯抜けの感があります。
 それが74年になると、31mのスカイラインがほぼ連続していますが、そのなかに突然に東京海上ビルが突き抜けました。つまり、このあたりから今のスカイライン不揃い超高層時代へと歩み出したのですね。
 この1974年のスカイラインを見ると、東京海上ビルの異端ぶりがよく分ります。

  では、いたずら戯造も含めて1951年から2017年までのスカイラインの変化をGIFアニメにしてみました。

 格好よく言えば、スタティックだった景観がダイナミックになってきた、とでも申しましょうか。でも、ここから眺める今のスカイラインには、なんの秩序感もないですねえ。それぞれの敷地ごとに、建てられるだけ容積率いっぱいに建てるだけみたいですねえ、なにか景観マスタープランによって、全体調整してるのでしょうか?
手前は江戸城内新宮殿、向うはバラバラ勝手に建ってくる超高層群

 それにしても、あの過密下町市街地が、そのままノッポビルになったような過密超高層市街地が、この狭い大手町丸ノ内で成り立つのは、江戸城という過去の巨大緑地遺産に全面的に助けられているんでしょうねえ。

 では、次に皇居前広場を北にんうけて、東京駅の真正面から来る行幸道路に参りましょう。(つづく

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

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