●『みなさ~ん、戦争はもう終りましたよ~』
おお、そうだ、ここ黄金町でもそう叫んでくれよ。いや、この映像作品が今ここにあるということは、毒山が黄金町でも叫んでるつもりかもしれない。
毒山凡太郎が、沖縄の各地で『戦争はもう終りました、War is over』と叫んでいる映像をしばらく眺めていて、そう気が付いた。
毒山が「戦争は終わりました」と叫ぶ沖縄各地 |
そう、実は黄金町もようやくつい最近になって、太平洋戦争から脱出したのだ。
あの戦争中に強制疎開から空爆大火により、横浜都心部は黄金町も含めて壊滅した。戦争が終われば復興するはずだったが、その都心部の大半を占領軍に接収されて軍事基地となった。その中心部に広大な空洞を呑みこまされたのだ。
それは今の沖縄の基地問題そのものである。横浜は10年ほどで基地返還されて復興に進んだが、沖縄では今も続く。毒山はそれを承知で戦争は終ったと叫ぶ。
ところが黄金町は接収からは免れたのだが、大岡川の川向こうの接収空洞化による歪みの大波をまともに被る。接収で追い出された横浜都心機能が、川を越えて押し寄せてきて混乱の街となったのだ。
野毛から黄金町、南太田にかけての、野毛山ふもとの狭い川沿い平地には、戦後闇市を中心とする混乱する土地利用が圧縮して押し込めこめられる。
都市は必要悪として悪所を要求する。ちなみに、横浜都心発祥の時にいまの横浜球場のところに横浜遊郭をつくったのだった。
大岡川のほとりの街には、都市の陰の部分を引き受ける土地利用が圧縮し、麻薬と売春の非合法の戦後黄金町が生れたのだ。その頃の姿が黒沢明の映画『天国と地獄』に描かれた。
黒沢明『天国と地獄』予告編の一部にある黄金町の文字が見える麻薬街の風景 |
やがて接収が終って川向こうの街は復興しても、こちら側では麻薬は退治したが、売春はチョンの間の街として生き延びてしまい、2005年の徹底的摘発で壊滅するまで事実上は延々と戦争をひきずってきたのだった。 黄金町では今ようやく、「戦争はおわりましたよ」と叫ぶことができるようだ。
壊滅直後のチョンの間街 2006年撮影 盛時にはミニスカ外来娼婦が昼も夜も立ち並んでいた |
●黄金町だから響くか政治性メッセージ
黄金町バザールのこれら国境映像、沖縄戦跡映像、植民地映像、広島や福島での写真など、いずれも政治性の強いメッセージを発している作品である。
そういえば、トリエンナーレで横浜美術館の表を飾っているアイ・ウェイウェイのインスタレーションは、海を渡る難民を表現する政治メッセージを持っている。
MM21トリエンナーレ会場の横浜美術館 アイウェイウェイの作品展示 |
これが現代のアートなんだろう。それはそれらの作家を選んだディレクターとキュレイターの意図なんだろう。
でも、MM21の造りこんだ都市デザインの街の豪華巨大な横浜美術館で、戦争のメッセージを読み取るのと、黄金町で読み取るのとは、おおきな落差がありそうだ。
それゆえにアイ・ウェイウェイのあの作品は、ああも大仕掛けにしないと、メッセージが響きにくいということか。
だから、黄金町という場所性と、これらのアートメッセージとを連動して、それらに通底する「戦争」への姿勢を深読み解きをしたくもなる。
そう、黄金町が淫売宿の街だったのは、まさしく太平洋戦争戦争の落し子だったのであり、その落し子はホンの10年ほど前まで生きていたのだ。
これら政治性のあるメッセージは、黄金町というついこの間まで戦争を引きづっていたこの場所だからこそ響くのだ。
どうやらそのあたり考えていかねばなるまい、と、思い始めた。
●現代アートチョンの間再来か
チョンの間淫売宿跡の家々部屋部屋にアートを訪ねる巡礼をやる。キレイになった高架下も、実は元はちょんの間センターであった。
街のあちこちに連なりながらも散在するアート展示を観るとしても、一見してはなんともわけのわからない作品ばかりで、これらを観て面白いと感じて長く鑑賞するには、かなりの観巧者でなければなるまいと、シロートのわたしは思う。
普通は5分か長くても10分も観ていれば、次に行きたくなる。映像が1ラウンドするまで見続けるのも、かなり物好きかもしれない。
狭い元淫売宿の狭い部屋には、それぞれに待ち受ける娼婦ならぬ作品があり、客の鑑賞者はそそくさと鑑賞という用事を済ませて出ていく。そうか、これはまさにチョン間の再現である。おお、これは面白い、面白い。
黄金町バザールの展示会場は元チョンの間 |
それにしても横浜美術館でも同じようなこと?をやっていて、こちらがチョンの間なら、大箱のアチラはさしづめ遊女を集めた横浜遊郭岩亀楼であるよなあ。
撮影OKだったから、わたしが撮ったアートのちょんの間巡りを少しだけ案内。
あまりに狭い部屋なので引いて撮れないから、縦長で無理やりに画面に入れる。
柱が何本も立つ部屋の画像は、元はこれらの柱を結んでいくつもの間仕切りがあって、その各小部屋に娼婦が居たのだ。
高架下の広いところだって、元はチョンの間がひしめいていたのだ
では時間をちょっと戻して、チョンの間が本来的機能を果たしていた頃の姿も撮ってあったので、そのホンモノ巡りもちょっとやろう。
布団を一枚敷けば、それで用が足りるのは寿町のドヤとまったく同じだが、なにやら部屋飾りが見えるのが、これも現代アートかと思わせて、哀しくも可笑しい。
念のために書き添えるが、これらはチョンの間営業中に上りこんで写したのではなくて、摘発後の2007年に見せてもらった姿である。
2002年頃、真昼間のチョンの間路地に、ミニスカ外来娼婦たちが立ち並び、横須賀基地から来たらしい外来若者男たちが歩く、なんともでき過ぎ国際交流風景を見たものだが、さすがにカメラを向ける勇気がなかった。
ある夕方に歩いたら、娼婦たちがあわてて店の中に隠れてカーテンを引いたのは、一緒にいた勤め帰りのネクタイダークスーツ物好き友人たちを、何かと間違えたらしい。
なお、黄金町が戦争の落し子の非合法飲食店街から普通の街へと変化していく過程、その間の地域住民と当局の努力、そしてそれを支援する大学生たちのまちづくり活動、そして黄金町バザールについては、『黄金町読本2014』(鈴木伸治)に要領よくまとめてある。
『黄金町読本2014』(2014鈴木伸治 横浜市立大学国際総合科学部 鈴木伸治ゼミ) |
(つづく)
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