電車の轟音が響く高架下の展示小屋の壁にぶら下がるのは宇佐美雅博「秋葉原」 |
●「チョンの間」アート巡り
宇佐美の広島と福島の写真に政治的メッセージを感じながらも、鉄道高架にぶら下がる宇佐美の「秋葉原」の分らなさに頭をかしげつつ、次へ行こう。
黄金町バザールのアート展示は、特定の美術館建築の中でやっているのではない。寂れた横浜下町の街そのものが展覧会場であるところに特徴がある。
宇佐美の写真は、京急電車の高架下の小屋で展示している。
そのウラ寂れさを隠しようもない鉄道高架下という空間に、横浜市が作ったアート活動スタジオとギャラリーが、アート展示の特定施設と言えなくもないが、これとても横浜トリエンナーレメイン会場となっている横浜美術館と比べると、御殿とバラック小屋ほどの差がある。
そして更にバラック度が高い展示場は、鉄道高架に沿う狭い裏路地にある狭い2階建て木造民家群である。それら狭い家の狭い部屋に展示されたアートを訪ねて、狭い裏路地をうろうろする。
それらの高架下や家々の出自を知っていれば、巡る愉しみは倍加する。これらの民家は、つい10年ほど前までは「チョンの間」と呼ばれるお手軽売買春の超下級淫売宿だったのだ。美術館とはおこがましすぎる。
そしてまた、実は鉄道高架下空間こそが、ここに自然発生繁殖していたチョンの間発祥と発展の場だったのだ。
1995年の阪神淡路大震災で高速道路高架が倒れて、こちらの高架も耐震補強工事のためにチョンの間が追い出されて、その周りに滲み出した結果がチョンの間の街になったのだ。
右の高架下にあったチョンの間が追い出されて左の街に滲み出た |
時代の変わり目となった関西での大震災が、黄金町にも変革をもたらしたのだ。
そして今や淫売宿群跡となった高架下と路地裏の街がバザール美術館街なのだが、その出自の故により、現代美術のなにやらアヤシイ表現の場にふさわしい気もする。
チョンの間アート巡り、とでも言おうか。
この路地の奥にもアートあり |
●Chim↑Pom:境界からのメッセージ
宇佐美の高架下小屋をでて、また別の高架下小屋のガラス戸をひいて暗幕をくぐり暗室に入る。
大きな映像映写画面が殺伐とした異境の人々と風景を延々と映している 作者はChim↑Pom、表題は『LIBERTAD』2016とある。
我慢してしばらく見ていて分かったのは、これはUSA国境のメキシコの村である。そう、あのトランプ大統領の目玉政策?の国境の壁である。
Chim↑Pom『LIBERTAD』2016 |
既存の集落の中を切り裂いて侵入してきた国境の壁とそこの人々の姿を、Chim↑Pomチームが延々と撮影するドキュメンタリー映画らしい。
分断する壁とそれを越えようとする人々の日常の姿の映像は、政治的メッセージそのものである。
メキシコらしい景観の集落と荒れ地の中に、人工的な境界が割り込む理不尽さを淡々と映していて、この政治的メッセージは分りやすい。
だが、これはアートなんだろうか、いや、アートとはなんだろうか。まあ、なんでもありがアートなんだろう。
そういえば、黄金町あたりも境界領域であると思い付く。背後の野毛山と大岡川の間の細長く狭い土地は、伊勢佐木町という中心から見れば周縁部そのものである。かつて都市は、河原や高架下がアジール的な様相を持っていたことを思いおこす。
時間的に見ても、淫売宿の街からアートの活動の街へ、そして普通の街へと移行する境界期にあたる街だ。
この展覧会のディレクターやキュレイターは、そんな黄金町であることに対応するアーティストたちを引っぱってきたのだろう。
●毒山凡太郎:直截すぎるメッセージはアートか
さて次は高架下小屋を出て路地を行く。元淫売宿の貧相な木造2階屋のガラス引き戸を開けて、毒山凡太郎の作品を観る。真っ暗な狭いふたつの部屋で映像が動いている。
作者の解説が掲げてある。『「お国のために」「天皇万歳」というような謳い文句で、大切な自らの命をも捧げてしまうような人々が生きた時代の記録を辿る。……』とて、直截なる政治的メッセージを声高に謳う。
ふたつの作品展示があり、ひとつは次々と変るシーンに同じ男(毒山か)が画面を背に登場し、「みなさ~ん、戦争はおわりましたよ~」と向うに叫ぶ。
それはいずれも沖縄の戦争に係る場所であり、今は平和な風景である。そこが戦蹟であることを忘れないようにと、声高にアピールする映像はあまりに直截であり、分りやす過ぎるのがなんだか気に入らない。
現代アート事情をさっぱり知らないが、はたしてこれもアートだろうか。うん、なんでもありだな。
映像『戦争はおわりました』2017年 毒山凡太郎 |
もうひとつは、台湾で高齢者たちに次々とインタビューする映像が流れる。題名は『君の世』2017。
これもしばらく我慢して見ていたら、かつて日本の植民地で皇民化教育を受けた人々に、その頃のことを語らせ、覚えている日本の歌を歌わせるのだ。
童謡、君が代、軍歌、天長節の歌などが登場するのだが、君が代と童謡はともかくとしても、わたし自身がそれらの歌のどれもの歌詞とメロディーに聴き覚えがあるのに、われながら驚いた。
頭の中の自分の時間境界を越えた。
「♪今日のよき日は御光の射し出賜ひしよき日なり……♪」とか「♪月月火水木金金……♪」なんて、わたしの頭の奥底からわたしが知らない記憶が、のそのそ這い出してきた。そのあまりのカビ臭くささに辟易する。文字通りに毒山に中ったような。
画面登場者たちと同じように、わたしも幼年時にそれらを教え込まれていたらしい。
毒山は1984年生れだから、わたしがその歌を聴く気持ちとは大きくギャップがあるはずで、そこが気になる。
●山野真悟と窪田研二の意図は?
他の作品ももちろん見て歩いたが、なんだかわけのわからない作品もたくさんある。
わたしは現代アートのことはなんにも知らないのだから、知らない前提で分りやすい作品だけを観る。
分らない作品については、作品を観るのではなくて、そのチョンの間展示空間を観るのだ。それはそれで面白い。
このアート展と黄金町の街について、展覧会のディレクター山野信悟やキュレイター窪田研二の意図が、分らぬながらもなにやら見えるような気がする。
それにつられて、わたしのB級横浜論も補強できそうな気がしてきたから、ヒマにまかせてダラダラ書く自分を楽しむのだ。
黄金町バザールPASSPORTより |
(つづく)
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