2018/03/26

1326・2018年4月に開く茶席「北鎌倉 宝庵」は山口文象作品では「黒部川第2発電所」と並ぶ幸せ建築だ


初代オーナー関口泰氏自筆の夢窓庵の図(色紙)
●春の谷戸に茶席「宝庵」を開く

 北鎌倉の浄智寺谷戸の奥に、「宝庵」(ほうあん)と名付けた茶席が、このたび公開された。1934年に山口文象設計で建った茶室建築2棟、一般公開して茶会等の催しに貸し出すことになった。
 2018年4月1日からの正式オープンに先駆けて、3月25日プレオープンに招かれて行ってきた。
 昨年12月に40年ぶりに訪れた時は、紅葉が美しかったが、今は若葉が芽吹き時、椿の花が美しいから、「椿茶会」と名付けてのプレオープンイベント、天候も絶好の春日和、もてなしが行き届き、招いてくださった島津克代子さんに感謝。

2018年3月の宝庵
2017年12月の宝庵


 常安軒の四畳茶室で、久しぶりに抹茶の席に連なった。ところが、謡の稽古経験20数年だったから、普通にできていたはずの正座をしようとしたら無理無理、謡いを止して長いからなあ、しょうがないから椅子を使ったのであった。なさけない。
 この四畳間は、初代オーナーの関口泰氏が、書斎として使っていたようだ。広椽に出ると左向うに、梅の古木を透かせて吉野窓の夢窓庵を見る。
 あの丸窓から吉野太夫のような、美しい女性が顔を出すことを妄想したのは、その日のわたしではなくて、昔日の関口氏だった。この日は、多くの美しい女性がいたから、待っていれば関口氏に代って、その願望をかなえたかもしれない。
夢窓庵

●山口文象ファンという乙女に出会い喜ぶ

 午後には常安軒の8畳間で、煎茶のお点前を鑑賞し、味わったのであった。こちらは立礼だから脚の問題はないのがありがたい。
 煎茶の席は初めてだったが、このような茶道の流儀もあるのだと、歳のゆえに遠慮がないから、興味津々の質問を宗匠にしたのであった。同席の女性客たちに哂われた。
 それにしても、客も裏方も女性ばかり、男はわたしの連れが3人、他にチラホラ見えたが、圧倒的に和装アマゾネス軍団であった。茶会とは今やそういうものなのか。
 たしかに、歌舞伎も能楽文楽も見物やお稽古には、圧倒的に女性が多いから、日本伝統芸能文化は女性によって支えられていると言って過言ではない。

 その和装アマゾネスのひとりに、山口文象ファンがいたのには驚いた。デザイン系の学生という可愛い乙女は、久が原の山口邸を訪れる機会があって、それを契機に文象ファンになったという。
 建築家山口文象そのものが忘れられるときに、これはまた通の好みだねえ、良い趣味だねえと、一緒にいた山口文象高弟の小町和義さんと共に、老爺ふたりは嬉しくなり、大いに褒め讃えたのであった。ゴホウビにわたしが作った冊子「宝庵由来記」(まちもり叢書別冊)を差し上げた。

●実はこの茶室建築にも変転があった

 昨年暮に来たときと比べて、季節の変化は当然だが、庭師が入って谷戸がずいぶんさっぱりしていた。斜面に繁っていた蔦や潅木類が切り払われて、切り岸とよばれる岩壁も現われたら、俄然、鎌倉谷戸風情になった。
 関口氏のときの作庭らしい崖途中の横井戸、そこからの滝、そして庭に引き込む小川などの跡が現れた。でも、滝も小川も一日で枯れてしまったとの話だそうだ。

 庭師の松中さんからいろいろと聞いた話が面白い。松中さんは、2代目オーナーだった榛沢さんと少年時から親しく、この茶席の話をいろいろと聴いている。
 初代関口氏による配置は全体に東よりだったが、関口氏亡き後、今の別棟を関口夫人が建て、また敷地の南東の一部を他に分割のため、常安軒だけを西寄りの現在位置に移築したとのこと。
 1970年頃に2代目オーナーになった榛沢さんは、常安軒の南西の今の位置に夢窓庵を移築し、どちらも解体修理して、復元修復を1972年頃に完成したしたとのこと。
 つまり、二つは対の関係にあるのに、アサッテに向いた状態がしばらく続いたらしい。それを関口氏が常安軒から眺めたように夢窓庵を移して、配置関係を復元したとのことで、これには驚いた。
これは当初の2棟の配置(位置は変わっても配置は今も保たれている)
この茶席建築は当初のままにここに建っているとばかり思っていたが、この谷戸小宇宙の中で移動して、かなりの変転の運命を辿っていたのであった。
 だが、わたしが1976年に当初設計者の山口文象さんについてここに来たときに、彼はそのことにまったく気が付かなかったらしいのは、その訪問時に言わなかったし、後に雑誌に喋っている記事からもわかる。
 それは一方では、榛沢さんの渾身の復元手腕のものすごさを物語るものである。
 例えば、解体移築修理となれば、当初材料は傷んだものも多いから、あちこち似たような材を探して入れ替えるのが当たりまえ。
 山口が見つけた時の苦労話をしている四畳茶室の赤松の床柱は、榛沢さんの時には傷んでいて使えなかったので、実は同じようなものを苦労して見つけてきて替えたものだそうである。
 そうやって、山口作品は今に伝わっているのであった。
常安軒四畳茶室の赤松床柱

●山口文象作品では黒部と並ぶ幸せ建築だ

 プレオープンイベントで大勢の人たちが茶室に出入りする風景を観ていて、ここの建物のスケールが、実はかなり小さいことに気が付いた。
 人がいないときには、普通の大きさに見ていたのだが、人がいると普通の建物よりも軒が低く屋根もずいぶん低く見える。実際に建物の脇を歩くと、分っていながらも軒先やら雨どいやらに頭をしょっちゅうぶつける。
 別棟も入れて3棟とも、全体プロポーションとしては普通の大きさに見えるのだが、実際はかなり小さな建築であることを知った。大きいと思ってみていた夢窓庵の茅葺屋根も、実はプロポーションから見て大きいのであり、現物としては小さなものだ。
 わたしは常安軒四畳茶室に椽から入ったのだが、入る時はよかったが、出るときに吊り障子に頭をぶつける無作法をやってしまった。 

左:常安軒    右:夢窓庵
それにしても、これは幸せな茶室建築である。
 1932年にベルリンで関口泰氏がこの茶室づくり構想を山口文象氏に語り、1934年に完成してから84年、初代オーナー関口さんと2代オーナー榛沢さんに愛され、大切に維持され使われてきた。
 それが、このたび3代目のオーナーとなった浄智寺の朝比奈恵温さんもこれを愛し、日本の伝統文化の活動の場として、鎌倉古民家バンクの島津克代子さんの運営で一般に公開して活用される。
 山口文象の戦前木造作品で現在も当初の姿の建築は林芙美子邸があるが、今はその小説家の記念館となっている。もちろんそれは意義のあることだが、本来の使い方ではない。
 それに比べてこちらは、こちらは茶室本来の使い方が続くのだから、山口文象建築作品の中では、いちばんの幸せ建築と言えるだろう。木造ではないが当初の姿で本来用途が今も続く建築には、黒部川第2発電所もある。

参照関連ページ
宝庵由来記 https://sites.google.com/site/dateyg/houan
山口文象アーカイブス https://sites.google.com/site/dateyg/

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