2018/03/14

1323丹下健三勘違い設計の横須賀芸術劇場で観た宮本亜門演出「魔笛」は能と狂言の連続出し物と覚る

 ひさしぶりに横須賀訪問、京急汐入駅前にある横須賀芸術劇場で、オペラ「魔笛」を観てきた。宮本亜門演出である。
 去年も「魔笛」を県民ホールで観たが、それは勅使河原宏演出ミュージカル魔笛であった。宮本は演劇的に、勅使河原は舞踊的にと、それぞれ特徴があって面白い。


 今回の宮本演出の特徴は、舞台の上に立方体を斜めにおいて、客席から見える方の2面と天井を取り去った形をしていることだ。
 要するに、能舞台の目付柱の方から、つまり中正面を正面に持ってきたのである。能では目付柱が邪魔なので、中正面席が安いのだが、ここではそこが一等席である。
わたしの席はそれを右寄りから見たから、能で言えば正面席にあたっていて、よい席であった。ただし、5階(建築としては8階)から見下ろすので、正面上空席と言おうか。
 困るのは3階から上には、自力で登るしかないことだ。客席内にも階段があるから、登ってきたのにまた下りて、出るときは登ってまた下りると、年寄りには大変だ。
 いや、足腰の運動のためにオペラ劇場に行くと思えばよろしい。

 そんな天井桟敷から見下ろす舞台は、当然小さすぎるのだが、魔笛は細かい演技があるのではないし、モーツアルトのあの名曲群を聴くには、音響的にはまことに結構なホールので、一向にかまわない。
 そしてまた、その能舞台の2壁面と床面に、プロジェクション・マッピング(PM)で大柄な映像を投射するのだから、十分に見ることができた。

 役者が2面の壁に設けたいくつかの穴やドアから舞台に出入りするのは、能舞台の切戸口や橋掛かりから出入りするのと同じようなものである。
 これだったら、ほぼそのままに能楽堂で魔笛公演をできるだろう。地謡席のバックに幕を張って、そこと松羽目にPMをやればよい。

 演劇の宮本らしいというか、序曲からいきなり舞台は始まるのだが、それは現代の平凡な勤め人の家庭の居間風景である。三代家族6人がごちゃごちゃと諍いらしい様子が、突然に暗転してオペラ魔笛が始まる。
 その現代のままにオペラに突っ込むのかと心配していたら、ちゃんと(?)わけのわからない支離滅裂オペラになって、おなじみ大蛇(映像)が登場して、安心した。
 一番ヘンだなあと楽しんだのは、3人の侍女の衣装鬘であった、ヘンナノ~。

 最後にまたその現代家庭になってフィナーレになのだが、この始めと終わりの風景にどんな意味があるのだろうか。平凡な日常世界から、あの支離滅裂お伽話オペラ世界に、観客を引きずり込むための策なのだろうか。
 でもなあ、この劇場にやってくるときから非日常世界を期待しているし、このホール空間デザインはかなりレベルの高い非日常空間だから、開幕前に心はかなり非日常化しているのである。
 だから、開園と同時にこれを見せられると、もういいよお~、と、気分がしらけるのだった。フィナーレだって、せっかくの非日常感を劇場を去るまで持っていたいのに、直ぐに覚めさせられてしまった。あ、そうか、それが宮本の狙いか。

 オペラ魔笛は、モーツアルトの曲は素晴らしいが、シカネーダーの台本は支離滅裂、これをひとつのストーリーだと思わずに、モーツアルトの曲が変るごとに楽しむしかない。
 そうだ、これって能と狂言を交互に連続して見ていると思えばよいのだ。パミーノやザラストロのときは能であり、パパゲーノやモノスタトスのときは狂言である。

 支離滅裂だから、演出もさまざまにできるという、他のオペラにはない利点があるのだろう。YouTubeに多くの魔笛が登場するが、どれもこれも舞台デザインにそれぞれに工夫を凝らしているのが面白い。出だしの大蛇からして、珍妙ぞろいである。
 それにしても、なんと美しい曲ばかりのオペラであることよ。


 外に出ると、この建築が丹下健三設計であることを思い出した。たしかにホールのインテリアデザインは素晴らしいし、外観も石膏模型の様に白く冷たく端正である。
 だが、この街に対して全く閉鎖的であることは、どうだろう。
 わたしはこの街とこの建築の基本構想と基本計画を策定した。それまで何年もかかわってきた街だから、周辺の条件を見極めて、将来の街づくりに対応する配置を提案しておいたのだった。
 だが、丹下にスッカリ勘違いされて、独善的な配置に変更されてできあがった。

 完成時に「日経アーキテクチャ」に紹介されたのをみて、それって間違ってるよと、異議申し立て投稿をしたら載せてくれ、丹下側の反論も載って、面白いことがあった。
 今、この建築と周りの街の様子を見ると、わたしが異議を唱えて危惧したことが起きている。それはまた別に書こう。

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