うちの近くの劇場でやるので、歌舞伎「車引き」と「棒しばり」を観に行った。歌舞伎には詳しくないが、「棒しばり」は松羽目物なので、能狂言と狂言舞踊はどう違うかなあと、ちょっとは勉強心もあるヒマツブシであった。
そういえば、この前に新橋演舞場で観た歌舞伎舞踊「紅葉狩り」も、松羽目物だった。能との違いを面白がりながら観たものだった。
紅葉ヶ丘ホール |
「車引き」は能楽に関係ないし、特に面白くもなかったので、ここでは能狂言「棒縛」をアレンジした歌舞伎「棒しばり」について感想などを書いておく。
歌舞伎の「棒しばり」は長唄による舞踊劇だが、ストーリーはほぼ能楽狂言そのままである。違いは、歌舞伎では踊りや囃子や唄に主眼を置いているのに対して、能狂言の方も小舞はあるもの演劇に主眼を置くことだろう。勝負どころが異なる。
演出上では舞台装置は似ているが、歌舞伎では舞台上に総勢20人以上の歌、囃子方の楽団が登場して賑やかに唄い演奏するのが大いに異なる。
わたしの耳には、聞きなれている能狂言役者のセリフのメリハリと間の具合が、歌舞伎役者のそれはまるで素人芝居のように聞こえた。
能楽を真似たと初めから広言している松羽目物だから、もう少しは狂言師を真似た方がよさそうに思った。それともこの役者が下手なのか、歌舞伎舞踊ではセリフよりも踊りが主だから、これで良いのだろうか。
さて、舞台では酒に酔った太郎冠者と次郎冠者が気持ちよく踊るのだが、そのなかの次郎冠者の長唄に、聞いたことのある文句が出てきた。
「あずまからげのしおごろも、、、、しおぐもりにかきまぎれて あともみえずなりにけり」
え~っと、エート、なんだっけ、あ、そうだ、これは能「融」(とおる)の一節だぞ、でも、どうしてそれがここに出てくるのだろうか、あ、そうか、次郎冠者の格好が「融」の汐汲み老人そっくりだから、何の関係もないけど、ちょっとしゃれてパロディにしたのか、なるほど、なるほど。
左は公演パンフから採った「棒しばり」の汐汲み姿の次郎冠者(松緑) 右は観世能謡本から採った「融」の前シテ(汐汲み姿の融の大臣の幽霊) |
「持つや田子の浦 東からげの汐衣 汲めば月をも袖に望汐の 汀に帰る波の夜の 老人(長唄では「翁」)と見えつるが 汐曇りにかき紛れて 跡も見えずなりにけり 跡も見えずなりにけり」
この汐汲み踊りが歌舞伎での「棒しばり」の一番の見せどころらしい。しかし、そのもとになったという能狂言での「棒縛」にも狂言小舞はあるが、能「融」パロディは無いのである。
まあ、違いがないと歌舞伎にした意味がないだろうが、両者の見せ所の違いが面白い。
なお、狂言「棒縛」には、能「松風」のもじりパロディ場面もあるのだが、長唄舞踊「棒しばり」ではそれがないのも、面白い。
●能楽と歌舞伎の「汐汲み」について
ネットでいろいろ見ていたら、この「融」のパロディを「松風」のパロディと書いている歌舞伎解説がある(参照「歌舞伎見物のお供」)。そうか、汐汲みを扱う能は融のほかに「松風」があったな。
もしかして日本舞踊の流派によっては「松風」パロ版もあるのだろうか。でも、それではちょっとおかしいと思うのは、松風の汐汲み道具は天秤棒に桶ではなくて、桶に車が付いた(大八車に桶を載せているのかもしれないが)汐汲み車を、紐で引いて出てくるのである。「棒しばり」の格好をしていないのである。
左は舞踊汐汲みの人形 右は能「松風」の汐汲み車(観世流謡本より) |
そしてこれに登場する汐汲み女は、能「松風」の汐汲み車ではなくて、能「融」の天秤棒タイプの汐汲み道具を担いでいる。
はて、オカシイな、松風に天秤棒バージョンがあるとは聞いたことがない。でも、この長唄と舞踊「汐汲み」を創作(1811年初演)した人たちは、汐汲みの格好は「融」から、ストーリーは「松風」から採ってきたのであろう。
それは汐汲み車を曳くよりも、天秤棒で桶をかつぐ格好の方が、動的な絵になるからだろう。融の汐汲み演技と松風のそれを比較すれば納得できよう。
長唄「棒しばり」は1916年初演だそうだから、「汐汲み」より100年ほどの後だが、このときなぜ「汐汲み」ではなくて「融」のパロディにしたのだろうか。
狂言「棒縛」には最後のあたりに「松風」のパロディが登場する。これは汐汲みの格好とは関係がないのだが、長唄ではこの松風を削除している。どうせならこれも生かして、その前の踊りも舞踊「汐汲み」パロディにすれば、松風パロディが続いて面白かっただろうに、とも思うのである。
20世紀初めの創作の長唄「棒しばり」の話から始めたら、15世紀前半に作られた狂言「棒縛」、能「松風」そして「融」へとさかのぼり、更に19世紀初めの長唄「汐汲み」に飛び火した。
ところが観世流能謡本の解説によれば、能「松風」は15世紀前半に世阿弥による作とされるが、これは実は14世紀後半の亀阿弥作「汐汲み」の改作であり、その改作には世阿弥の父の観阿弥の手が入っているとある。
●600年もさかのぼる伝統芸であったか
ここまで登場した芸能演目を成立順に時間を遡って書くと、歌舞伎「棒しばり」→長唄「汐汲み」→狂言「棒縛」→能「融」→能「松風」→能「汐汲み」の順になるらしい。
21世紀の「棒しばり」の話が、14世紀まで6百年もさかのぼってしまった。
歌舞伎の松羽目物は、どれでもこうなるのだろうか。研究者ならさらに追っかけるのだろうが、ヒマツブシ趣味としてはこれで十分である。
う~む、なんだかすごい様な、どうでもよい様な、、、いや、まあ、全くどうでもよいことを書いているのだ。
要するに歌舞伎の楽しみ方のひとつに、そのパロディの元を思い出させて、ちょっと老人的教養人的趣味人的境地にに浸ってみて、それをひけらかす場にブログを使ったのが今風である。
パロディを面白がるには、そのもとを知っている必要がある。どうも歌舞伎はパロディだらけらしいのだが、観てもさっぱり分からないから面白くない。今回一つだけようやく分かって面白がったのであった。
能については長らくたくさん見てきたから(→趣味の能楽鑑賞)、半分くらいは何とか分るのだが、歌舞伎もそうなるには20年かかるだろうから、いまや無理と言うもの。
今回の公演には、本番開演前に解説番組はあっても、こんな話は無かったのだが、マニアックすぎるのだろうか。
●歌舞伎に普及について
まあ、どうでも良いことを言っているのだが、研究者でもないわたしとしては、そうやって歌舞伎を楽しんでいるのである。
ところで今の観客のどれほどが、松羽目物の元になった能や狂言を観ているのだろうか。それを観ていて覚えていればこそパロディであると分って、楽しみがぐんと増えるのだが、既に能狂言の棒縛り見ていたわたしでも、ようやくそれと分っただけだった。
能狂言から歌舞伎に移植されて、歌舞音曲主体になって面白くアレンジされても、今やもう元の面白さは忘れられただろう。古典芸能がそのまま生きるのは難しそうだ。
今回観たのは、国立劇場の地方公演の歌舞伎鑑賞教室であり、本番の前にしっかりと解説番組もあって、若い世代向けの伝統芸能普及公演であるらしい。
開演前の解説番組 中村玉太郎 ここだけ舞台撮影OK |
観客は年寄りも多かったけど、若い人たちも多かった。地下に階段で降りる便所って、年寄りにはつらいな。
まあ、歌舞伎の観巧者や評判大物役者びいきには物足りないだろうが、こういう公演は東京の外の観客に、そして出演する若い役者たちはよいことと思う。
それにしても歌舞伎とはストーリーの前後をカットして一部だけ見せるのだから、しょっちゅう見るとか特別事前勉強しないと、なんとも不可解で次も見ようと思わない。
ストーリーが不可解でも、評判役者が出てきて、華やかな舞台を眼で楽けめば良いのだろうが、それで長続きするだろうか。
その心配があるから、こうやって地方まわりの鑑賞教室だろうが、でもなあ、これをみて歌舞伎好きになるもんだろうか。歌舞伎ってのはその荒唐無稽さを楽しむのだろうが、これではそれが足りないような、もっと無茶な場面を見せてくれといいのになあ、お得意の血みどろ殺人の場とかケレンとか、、ね、。
国立劇場の次の26日が紅葉坂ホールだった |
2019年7月26日1430~1650 紅葉ヶ丘ホール
解説 歌舞伎のみかた 坂 東 新 悟
菅原伝授手習鑑ー車引ー
舎人松王丸 尾上 松緑
舎人梅王丸 坂東 亀蔵
舎人桜丸 坂東 新悟
舎人杉王丸 中村 玉太郎
藤原時平 中村 松江
棒しばり
次郎冠者 尾上 松緑
太郎冠者 坂東 亀蔵
曽根松兵衛 中村 松江
なお、劇評家の渡辺保が、このシリーズの浅草公演について、松緑の棒しばりを褒めている。
・渡辺保の歌舞伎劇評 2019年7月国立劇場 松緑の「棒しばり」
http://watanabetamotu.la.coocan.jp/REVIEW/BACK%20NO/2019.7-1.htm
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