2018/09/23

1164【歌舞伎座で芝居見物】歌舞伎舞台は広く舞台装置も大きいが造りが余りにチャチ過ぎてオペラに負ける

 東京の歌舞伎座で芝居見物、建て直してから2度目の5年ぶり、旧知夫妻のご招待でありがたく参上。

●祇園祭礼信仰記 金閣寺
出し物はまずは「金閣寺」(梅玉、松緑、児太郎)、これはつまらない。
 話の筋がさっぱりわからないけど、それはちっとも構わない。歌舞伎も能もオペラも、話の筋は支離滅裂なものがほとんどで、目と耳に気持ちよければよいのだ。

 桜の花びらが積もるほど降り敷く舞台、そこでトンボをきる捕り手たちって、足が滑って大変だろうな、失敗するなよと、ヘンなことが気になって、舞台の演技の本筋を忘れる。それなりのトンボの切り方があるのだろうなあ。

 福助は重病で長期休業から復帰したばかりの出演とて、後遺症あるのか座ったままひとこと言うだけ、まあ、スター主義の歌舞伎だからファンはそれで感激なんだろうが、こちとらにはどうでもよい。

●鬼揃紅葉狩
 「鬼揃紅葉狩」(幸四郎、錦之助)は、能の「紅葉狩」を下敷きにした松羽目物で、わたしは能との違いを観察した。
 能のそぎ落とし演出、歌舞伎の付けたしだらけの演出、どちらもよろしい。能の「紅葉狩」は歌舞伎舞踊に翻案しやすい観世小次郎の作品である。

 歌舞伎舞台は横幅が広すぎて、鬼揃えが5人でも舞台が空きすぎる。10人くらい揃えればいいのに。5人でも髪振り回す連獅子になって、そこは歌舞伎らしく賑やかだった。
 どうせ能とは違うのだから、あの広い舞台全部に紅葉を配して、鬼女が10人も登場すればおおいに華やかになるのに、意外に能に忠実なのであった。

 前場と後場のあいだに、男山八幡の舞の後に間の抜けた空きがあったが、舞台は変わらないから、美女が鬼女に化粧直しする時間だったのだろうか。三階から見下ろす舞台に、ポカ~ンと黒い切穴がながいこと空いていた。

 能でのシテ鬼女は、ワキ武士に切られて、その直立姿勢のままばったり背後に仏倒しになる。歌舞伎もそうかと期待していたら、なんとみんなが揃って立ち並び、大見得をきったところで幕、はて、どっちが勝ったの?と、隣の席からの声。

●天衣紛上野初花 河内山
河内山」(吉右衛門、幸四郎)、これだけだと悪人河内山もあまり面白くないけど、吉衛門の硬軟両様の演技を見せる芝居。
 わたしは歌舞伎通では全然ないが、キリのあたりの河内山のセリフ、「とんだところに北村大膳」と「バ~カメエ~」は、どういうわけか聞き覚えがあり、あ、ここだったか。

 それにしても歌舞伎の舞台装置って、どうしてこうもチャチに作ってるのだろうか。文楽も同じだが、わざとチャチにしているとしか思えない。つまりこれが伝統なのかしら。
 外国人観光客が、日本のオペラだと聞いてやってきて、オペラ舞台とのあまりのギャップにビックリするだろうなあ。日本のものづくり能力を疑うだろうなあ。

「金閣寺」で、龍が瀧を昇るシーン、どう見ても龍に見えない、干物の魚を紐でぶら下げて上下させているのかと思った。 セリフで龍というから、しょうがないから龍の干物と見た。
 これも伝統なのかしら、もっと豪快な龍と瀧のプロジェクトマッピングをやればよいのになあ、。

 回り舞台による転換だって、もともと立体感のない造りの装置だから、プロジェクトマッピングにすれば、もっと豪華に見えて、もっと簡単に転換できるだろうに、そうしないのがデントーゲーノーなんだろうなあ。
 その点、能は舞台装置がないのだから、気楽である。能の舞台装置は、観る者の頭の中に描かれるのである。能舞台でプロジェクトマッピングは、やっぱり無いよなあ。

●芝居見物ってもっと気楽にやりたいよ
 客席は9割の入りで、女性が多いのは劇場どこでもそうだが、そのためか化粧の匂いが客席に満ちていて、それを嫌いなわたしは鼻つまんで芝居見るのも苦しくて、なんとも逃げようがない。良い対策はないものか、消臭薬(そんなものあるのか)を振りまくか、、。
 昼の部、11時から16時まで5時間、眼は面白かったが、鼻が面白くなかった。

 それにしても歌舞伎という芝居は、それが栄えた近世に於いては、こんなに狭っ苦しい席に座り込んで、静かに物も言わず、飲まず食わずで、じっと観るものじゃなかったろう。ストリップショーの様な猥雑なものだったはずだ。

 ところが今は、「芸術鑑賞」という教育の場のようになっているが、いつからそうなったのだろうか。
 そのくせ、役者への掛け声は許されているがオカシイ。うるさいのである。フン、なにが文句ある、歌舞伎知らずのシロートメッ、、そう言われるだろうなあ、いやだいやだ。

 歌舞伎に限らずオペラだって、今見ている舞台の面白さ、あるいはわからないことを訊くとか、あれこれと仲間と語り合いながら見たら、どんなにか楽しかろうと、いつも思う。
 芝居ばかりか、絵画等の展覧会でも同じように思う。作品を見つつ語り合ってると、監視人が忍者のように寄ってきてお静かにと諭される。いつだったか、挿し歯の調子がおかしくなって、口をもぐもぐさせていたら叱られた、チュインガム禁止です。

 その点、遊び仲間たちの絵や工芸の展覧会は、ガヤガヤと勝手に批評しながら見るので、はるかに楽しい。
 ゲージュツでもゲーノ―でもいいから、もっと気楽に見せてもらいものだ。
 芸術だ伝統だって気取ってないで、ゲージュツ・ゲーノー・カイガを庶民に開放せよ!!

参照:
●新歌舞伎座のタワーの頭に千鳥破風でも載せてちょっとはカブいてほしかった
 https://datey.blogspot.com/2013/10/839.html
●建て直し五代目歌舞伎座の姿に斬新さは全く無いのは歌舞伎はもう傾奇時代じゃないってことか
https://datey.blogspot.com/2013/04/750.html

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